🟩女の器量を磨く
∥女性の理想は器量よし∥
●女性の美しさにも関係する人間の「気」量
男性に対して「器量人」という称賛の言葉がある一方、女性に対しては「器量よし」という褒め言葉がある。
広義には顔立ちがよいこと、また美人を意味するが、狭義の器量よし、真の器量よしが意味するところは、単なる顔立ちがよい、美形というだけではない。ただ容姿が優れている、容姿端麗というだけでもない。
愛嬌(あいきょう)があって、よく気がついて、明るくて、品があってなどの形容詞をいくつか重ねなければならない。人をうっとりと酔わせてくれる、雰囲気という名の含みのある芳香、香気を放っているともいえようか。
「気」量が人間の大きさばかりか、真の美しさにも、これほど関係してくるのだから、その重要性が理解できるであろう。人間の器の「気」量が大きく、しかも肉体に十分に循環しているなら、内面の輝きが顔という社会への窓や、全身の雰囲気に反映されるのである。
現代に生きる女性も、上辺のみを飾ることに腐心せずに、真の器量よしを目指してもらいたいと望むところだ。
単に「器量」というと、顔形のこと、つまり顔のことを指す。この「顔」という言葉は、通常二つの意味で使い分けられている。一つは一般的にいわれる形、顔付き、容貌(ようぼう)、いわゆる人相である。丸顔・角顔・面長といった顔形、目鼻立ち、顔を形作る目や鼻といった部分、色白・色黒、眼鏡など、容貌を左右する要素は多い。
もう一つ、顔という言葉が意味するのは表情である。どんな容貌であれ、それぞれに喜怒哀楽の感情を顔に出す。「顔色一つ変えないで」という表現をする。それもまた一種の表情といえる。
それぞれの人間の顔というものは、その人の氏や育ち、生きざま、性格、教養、職業を始め、すべてを表す。その人間を集約する個所だから、顔は体の中でも、その人を代表する大事なところ。「人の顔に泥を塗る」とか、「世間に顔が広い」とかいう。顔は、社会に向けられた、その人間の存在なのである。
顔形、骨相そのものは両親から受け継いだものだから、本人に責任はないかもしれないが、「年頃すぎたら顔は自分が作るもの」といわれるように、やはり顔に現れる品格や教養は本人の責任だろう。
よく「人品卑しからぬ」とか、「一癖ある顔」などという両極端の表現をする。どちらも顔に現れたその人間の生きざまだ。骨相が遺伝的なものなら、人相の場合、半分は後天的なものだろう。美人や美男は親譲りのものかもしれないが、これも顔の美しさ、すなわち美貌で決まる。
「妻をめとらば才たけて、みめ麗しく、情けある」と与謝野鉄幹が歌った「みめ」も、見た目、つまり容貌、器量のこと。それが麗しいということが、広義の器量よし、美人である。
●相手の容貌から正しく人柄を見抜く方法
器量よし、美人を始め、美女、美少女、べっぴん、ちょっと古めかしい言葉では佳人、麗人、優女、俗語っぽいところでは色女、シャンなど、美しい女性を指す日本語はけっこう多い。
「上品な顔立ち」という言葉もあるが、目鼻立ちの整い具合、要するに、表面的な器量のよしあしをいったものである。
一方、器量の落ちる語は数が少なく、「醜女」と書いて、しゅうじょ、ぶおんな、ぶす、しこめといったり、無器量などという。
美しい男性に対しては、美男、好男子、色男、眉目(びもく)秀麗、美少年など、女性に比べて用語が乏しい。昔から「男は気で持て」、「男は度胸、女は愛嬌」などというように、男は美貌で競うものではないとされるからであろう。
女性の顔の美しさについては、時代とともに違いがあるようだ。平安時代の美人は、各種の絵巻物に描かれているような下膨れの顔であるし、近世、浮世絵に登場する女性は、みな面長の顔をしている。
昔は美人の典型とされていた顔ではあっても、どう見ても現代人の感覚には調和しないといってよいだろう。
それにしても、あまり他人の器量を批評するのはいい趣味とはいえないが、私たちは相手に対する時、顔によって人物を見分け、顔によってその人となりや心の内側まで推し量るのだから、致し方ないところもあるだろう。
特に、人間は初対面の人に会った時、まず容貌から相手の人柄を判断しがちである。「怖そうな男」、「信頼できそうな男」、「心の優しそうな女」といった人物評価を、無意識のうちにやっているのである。
しかし、人間の性格や心というものは、人相見の名人や人間観察の専門家ならいざ知らず、えてして顔付きとは無縁なところにある場合もある。見掛けだけで人柄までを判別すると、間違うことも少なからずあるのも事実なのだ。
反対に、相手の容貌から感じ取った第一感が正しくて、鋭く人柄まで判別していたのに、二度、三度と見ているうちに、自己意識が「ああのこうの」と、へ理屈を加え、自己流の間違った人物解釈に陥る場合もある。
人間が初対面の相手の顔を見て、好悪の先入観を勝手に抱くのはなぜだろうか。最近の脳や心理学の研究によると、乳児期の母親の顔付きと感情表現が、その鋳型になるようだ。
では、大脳に刻まれたそういう先入観の鋳型に捕らわれないで、相手の人柄や心や考えを正しく理解するには、どうすればよいだろうか。大事なポイントは二つ。
第一は、話してみること、つまり聞くということである。第二は、表情を見て、心の動きを知ること。「そんなことは当たり前だ」といってしまえば、それまでのことだが、いうはやすく行うはかたしである。
なぜなら、本来の人間は目や耳などの五官で見たり、聞いたりして、相手を見抜き、物事を知るという力が備わっているのに、現代の人間は五官さえ正しく働いていないことが多く、みないい加減な自己意識に左右され、判断を誤っているからである。
人を正しく見抜くためのよい方法は、日常的に多くの人々と接して、人間を見る目を養っておくことである。言い換えれば、人を見抜くには、まず見抜く側の自分を鍛えるべきだということになる。
人生は常に、真剣の一本勝負である。何事にも、一期一会という禅的心構えで臨むべきである。
●真の器量よしは単なる美人とは異なる
世の中には、口のうまい人が多い。うそつきで、ご体裁の見掛け倒し、大抵これに引っ掛かってしまうのである。社会的な肩書きも、金も、学歴も、本当には当てにならぬことが多い。
同じ意味で、見掛けの美人、編集子のいうところの表面的な器量よしも、当てにならぬことが多いので、特に若い人に注意を促しておきたい。
美というと、すぐ顔形、容姿の美しさを連想するだろうが、真の美というものは、根に支えられたもの、精神に支えられたものでなくてはならない。美しい花に、よい実はならぬ。美婦は不祥の器。美しい女は縁起がよくない。「災いや不幸を招く元だ」というのも、すべて根のない姿、形だけの美に捕らわれるからだ。
「美と愚は好一対」といって、とかく美人には愚か者も多い。外見だけの美に心を奪われるのは、危険千万。「はなはだ美なれば、はなはだ悪あり」ということだ。
絵画を見ると、そのあたりの理がよくわかるだろう。技巧のみに走って、何とか美しく、うまく描こうとしたら、すなわち、意識を働かせ、意識で描こうとしたら、その絵はもう堕落である。一見、「美しいな、うまいな」と思っても、すぐに見飽きてしまう。精神がないし、見る者に対して訴えるものも、力もないからである。
この点、先に触れた与謝野鉄幹の詩を口ずさむ者は、「妻をめとらば才たけて、みめ麗しく」、そこで終わっているのではなかろうか。下の句の「情けあれ」を見逃している若者が多い、と思わないだろうか。
美人で、しかも頭がいい。これは外観で、少し付き合えばすぐわかる。だが、「情けあれ」は内容だから、ちょっとやそっとでは、なかなか見通せないもの。「目下恋愛中」などと、熱ボケしている段階では、お互いによく見せようと、猫をかぶっているだろうから、相手の真実などわかりっこない。
「情けあれ」こそが重大だ。情けとは、優しい心遣い、思いやりというもの。物事の趣がわかる心ともいえる。情は愛なり、敬なりで、せんじ詰めれば、まこと心、誠実ということになる。
誠は天の道なり、これを誠にするは人の道なりで、情け心は真理に通ずる心。そういう心根を持った女性こそが、真の器量よし、本当の利口者として、家庭を支えていくことができるだろう。
男であれ、女であれ、人を見抜き、人を信用する場合には、その人の行いを見よ。体は正直なもので、顔にも、態度にも表れるし、虚偽は長く平均して続くものではない。人の行い、動きをよく見る力を養えば、人柄がわかり、性格、内容もつかめるようになるはず。
強情、頑固な人と、素直で、すっきりしている人とは、顔を見てもわかるし、態度を見てもわかる。自然と姿に表れるからである。人間の性格が、姿、形に表れるのである。
見抜くのは、目の働きである。眼光紙背に徹するほどに鍛えられれば、相手の運命や将来性まで、直観することもできるようになる。
さらに、体を鍛え抜いて、体で「気」を感ずることのできる人になれば、人と人との関係で、相手の人の「気」を気配で感ずるし、気持ちの動きもわかる。
人間の言葉はもちろん、行いや態度というものも、なかなかちょっと見ただけではわかりにくいけれども、相手が何を思っているかということを、「気」という段階で感じ取ることができれば、その内容がよくわかる。「気」と「気」との触れ合いというもので見れば、よくわかるものである。
どうしてかというと、人間の表現力は言葉や態度、動作のみではなく、顔色という皮膚の艶(つや)や生気が、その時々の意識や感情を表しているではないか。
それを言葉を聞き取るように感得する力があれば、相手の意は言葉を発する前に読み取れるのである。相手が心とは逆のうそをついていても、その真意を察して誤ることがない。
●悪い印象を与えないためには外観も大切
誰にとっても、他人の見掛けに惑わされずに、彼や彼女の内容や真実を見抜くことが大切であるが、当人たちの側に立てば、女も男も形だけの美、見掛けの美しさ、格好のよさにこだわるのも理解できる面がある。
完ぺきな容姿を備えた人間など、世の中にそうそういるものではない。ならばせめて、顔に化粧を施したり、衣服や装身具に金をかけたりして、外観を飾りたいと思うのが、人情というものだ。
「見掛け倒し」、「人は見掛けによらぬもの」などはよく聞く表現にしろ、人間の見掛け、外観というのも、なかなかに大切なもの。大抵の場合、人間は相手を第一印象でまず値踏みするからである。
例えば、人間の目が相手の顔から取り出す情報には、その人の目がどっちへ向いているかというような物理的なことのほかに、その人が誰か、あるいはその人の感情状態、属性など、いろいろな要素が含まれる。そういう情報を、人間は意識する、しないにかかわらず、やり取りしている。
人間が本質的にどこを見て顔を判断しているか、実は今のところ科学的には何もわかっていないが、真顔からでも、優しいとか、怖い、明るい、暗いという感性を情報としてちゃんと読み取れるのである。
「この人間は、自分に害をおよぼさないか。付き合って損するようなことはないか」。誰もが持っている自己防衛の関門をくぐり抜けて、はじめて口をきくようになり、お互いの心がほどけて、相手の本質がわかってくる。
つまり、人間の見掛け、外観、第一印象などといわれるものも、なかなか大切なわけだ。
就職戦線で面接に向かう人、恋人の心の底を知りたい人、ビジネスではじめての相手に会う人、人間が人間と向き合う場面はさまざまだが、とりわけ現代社会では見掛けや外観で判断し、判断される面接は、想像以上に重要視されている。
就職試験を始め、さまざまな試験で重要視されているこの面接とは、人間を選別する際に、相手の人となりを察知しようというものである。言い換えれば、面接というのは、短時間で相手の性格や人格を見抜くための手っ取り早く、有効な方法論ということもできる。
人間にとっては、魅力的な顔も、嫌いな顔も、ともに記憶しやすい顔だといわれている。誰もがはじめて出会う人には、魅力的な顔のほうを印象づけたいものである。
日本とアメリカで行われた心理学の実験で、被験者に対して、ある人物の悪い情報とよい情報とを与えて、後でどの情報を覚えているかを調べたところ、どちらの場合も、悪い印象のインパクトが強く残って、よい印象は背景に消えてまったという。
結局、第一印象で悪い印象を持たれないようにしておかないと、悪い印象ばかりが残ってしまい、後の展開が大変むずかしくなってしまうということである。人は見掛けを気にしていないようで、かなり気にしているのだということに、留意する必要がある。
やはり、自分を正しく見抜いてもらうためにも、第一印象は、本当に大切なものである。
∥美人ではないが美しい人∥ ●醜い心が人間本来の美をゆがめてしまう
本来、宇宙天地大自然は大芸術世界で、そこに存在する万物、万有はみな美しい。自然は美しいという原則、真理の上に成り立つから、私たち人間も美を好み、自らも美しからんとすることは当然である。
すなわち、「魅力的な顔になりたい」、「恵まれた容姿になりたい」などと望むことは、当然なのである。
古今東西の芸術を眺めてみると、人間の体や顔など、人間を対象として作られた彫刻、絵画はまことに多い。それらの芸術作品に比べて、人間そのものが必ずしも美しくないということは、どういうことであろうか。
すべての人間の相貌が繊妍窈窕(せんけんようちょう)たる美人とか、たくましい男性美などという、最高の美を持っているわけではないというのは、どういうわけであろうか。
人間誰もが、生まれたばかりの赤ん坊の時はみなかわいい。この禅宗でいう「本来清明」なる生命の本質そのものを一生涯持ち続けていけば、植物が苗木の成長も愛らしく、開花も美しく、素晴らしい結実によって利益を上げ、枯れるまでその価値をたたえ続けるのと同じように、人間も死ぬまで美しく、健康で、幸福であり得る。
ところが、俗に「鬼も十八」というように、十七、八の年頃は器量にかかわりなく誰でも、その人なりに美しく見えるというのに、なぜ娘盛りが鬼婆(おにばば)なるかというところに、逆の不思議がある。 鬼とか、魔物とか、亡霊とかいうものは、人間世界にだけあって、大自然世界にはないものである。偽りも、悪も、醜も、苦も、憎しみも自然界にはない。人間のみにある。
どこにある。それは心にある。人間は体より心を大切にしているが、実は精神作用と心とを混同して、我がまま勝手な、自分本位な自我性の心という、横着きわまる意識作用を作り、覚えてしまってから、鬼や邪(よこしま)を体の中に住まわしてしまうようになったのである。
邪心、悪心、横着心、我がまま心、勝手気ままな性格などというものは、現代ではもう八歳、十歳頃から習い覚える。成長するにつれて、家庭や社会という環境から、さまざまな社会性の意識、知識も覚え、身につけていく。
今の子供の中には、中学生ともなると、ちまたに渦を巻いて待ち構えている情報に汚染されて、いっぱしの大人のような顔付きをしている子供もいる。
社会で生活するためには、社会性の意識、知識というものは全く持たないで過ごすわけにもゆかないが、そうこうしているうちに本来清明なる人間の本質的な生命が、次第に濁り、隠れてしまって、後天的、二次的な心が幅をきかせてしまう。
だが、肉体が成長する段階では、自然の力のほうが強いため、結婚期ぐらいまでは醜くならずに、美しい格好でいられる。
この頃すでに、心の中ではどんどん悪い根がはびこっている。社会的に生きていく上で覚えた人間の醜い心というものが、若者の成長の途中で、顔を険悪な相形に変え、体をゆがめてしまうのである。
心が作る肉体の変化は恐ろしい。人が成人して職業に就き、世帯を持ち、食わんがために目の色を変えて欲をかき、感情を高めたり抑えたり、苦しみ悩んでいると、その心が肉体に影響して健康を害し、どんどん容色を衰えさせ、醜いものになってゆく。
結局、人間に、つまらない心や意識が生ずるために、顔や肉体が必ずしも美しく育ち上がらず、大芸術世界の子たるにふさわしくない人間を、自らがつくってしまうのである。
●器量よしの根本は最高度の健康にある
そこで、女性の場合は年頃になると、美しくありたいと願って化粧をする。青白い、病みほうけたような、不幸な顔に、白粉や紅やいろいろのものを塗りつけ、せめて外観だけでも美しく見せようと苦心惨憺(さんたん)、これに憂き身をやつすのである。
現代、格好のよさだの、おしゃれだのという言葉が当然のように使われて、男の高校生の多くがドライヤーを持ち、朝の化粧に三十分以上費やす者もいるという。昨今、男の化粧品が大変な売れ方だともいう。茶髪と称して、日本人本来の黒髪を茶色や黄色や金色に染めている若者も目立つ。
女性も男性も、化粧など、うそ、偽りをやめて、真の美しさ、本当の器量を発揮するよう努めるべきだ。まずは、自分自身の本当の美しさ、真の価値はどこにあるかと考えてみよう。そこから、真の美と幸福とが成り立ってゆくのである。
人間が一生涯、その時々に応じての真の美を満喫したければ、常に最高度の健康を保持するのが最もよい。十分に睡眠が足りて、心の平らかな、健康そのもののような朝は、気分がよいのみか、自己の顔にほれぼれするような頼もしさを感ずるはずである。美の根源は、睡眠にあり、健康にある。
植物を美しく栽培するには、日光、温度、水、空気、土など、みな自然の力を適当にしてやればよい。栄養、肥料は、空気や水の中にある。光合成をする。
人間は闇(やみ)合成とでもいうか、夜の暗さの中で休養中、何が自然に合成されているか。眠りの中で、ただ無為、無努力で疲れのすべてが解消してゆく、昼間働いて体験したり、本を読んで知識を得たことが夜、しっかり休養中に熟して、自己の脳裏に定着する、という自然の仕組みを知る人がいない。
寝る子は、よく育つ。落ち着きのある人には、知恵がある。静かな中から出た働きでなくては、いたずらに妄想、動揺するばかりである。
真の器量よしの根本、真の美の根本、魅力的な顔の根本は、睡眠にあり、健康にあり、肉体にある。体の中から本質的に美が発動してくれば、心は健となり幸となる。血色はよくなり、喜色がみなぎり、能力が出る。健が賢に通じ、康が幸となる。
人間が万物の霊長であるならば、人間に真の知恵があるならば、この美の根源を知って、自己の肉体から真の美しさを発揮せねばならぬ。
上辺だけの化粧も、人間の知恵、工夫には相違ない。しかしながら、これは付け足り、付け足しである。人に見せるサービスにはなるかもしれぬが、自分自身には損にこそなれ、一文の得にもならない。
人間誰もが、人生をいかに美しく生き抜くべきか。服装ではないが、外見にも、内容にもである。第一が健康、肉体の条件からである。
人間の意識でわからないことがある。それは肉体が知る。人間の生命は、肉体という入れ物あってのこと。その入れ物は、心という悪者を追放して純粋になった、真なる肉体である。宇宙大自然の法則によって生かされている、肉体そのものである。
この肉体が、素晴らしい本能の力を発揮すると、その肉体から汲(く)めども尽きない知恵と力が、こんこんと湧(わ)き出てくるのである。女性の場合は、その真の美しさが、その肉体ににじみ出て、艶々しく、生き生きとしてくるだろう。
どこか理知的ではあるが、険のない優しさにあふれてくる。俗にいう白痴美ではなく、真の器量よしというものである。
この化粧や服装、装身具、持ち物、食べ物、遊びなどからの美でなく、真なる肉体から発する真の美しさ、真の器量は、睡眠、健康によって得られるのであるから、こんな自然な、楽な〃美身〃術、〃健幸〃法はない。
●美人ではないけれども美しい真善美楽の人
真の器量よし、真の美容を心掛ける女性たちのために特記するなら、観音様を一つのイメージにしたらどうだろう。「観音様のような人」といえば、本当に女性的な、優しく、奥ゆかしい人を連想する。
観音様は「観音菩薩(ぼさつ)」、「観世音菩薩」ともいい、般若心経(はんにゃしんぎょう)では「観自在菩薩」として、お経の最初に出てくる人である。
人といったのは、観音様は観音菩薩であり、菩薩はすべて男性であるといわれるが、しかし、観音様のお姿、顔形は、女性の様相で作られているからである。やはり、私たちが観音様を拝観して、女性の理想像としてあこがれ、あがめてもよいと思うのである。
ところで反対に、「般若のような人」といえば、恐ろしい形相をした怨霊(おんりょう)の面を思い出す。また、「外面如菩薩、内心如夜叉(やしゃ)」という言葉もある。表面は菩薩のように優しく見えるが、心の中は鬼のように恐ろしい、というのである。
般若心経というと、その般若を思い出す人もあろうが、般若というのは本当の知恵、すなわち真理のことをいうのであり、恐ろしいどころか、尊い、立派な言葉なのである。
観音様は、年を取らない。顔は艶々していて、シワが寄らない。人間は年を取るにつれて、顔にシワができる。しかし、その自然にできるシワは、浅くて、美しいものである。
深いシワは、醜い。それは何か大きな心配事などがあって、心の圧力によってできるのである。自然でない、圧力が加えられてできるシワは、深く、醜く、不愉快な印象を与える。
女性は化粧をする。いろいろな化粧品が出回って、女性を追い掛けている。化粧とは、もともと化けた粧(よそお)いである。 だから、無礼を承知でいえば、化けの皮をかぶって、平気で街を歩いているわけである。深いシワを埋めようとして、厚化粧をする。ますます醜く、おかしな顔になっているのに気づかない女性がいる。
自然の身だしなみ、というものは大切である。お化粧をするにしても、さりげない薄化粧に値打ちがある。自然の美しさがある。色彩と光沢のバランスを考慮して、品のよい化粧をしてもらいたい。
服装についても同様である。けばけばしい、変わった服装など、自分は満足し、誇りに思っているかもしれないが、おかしいものである。
さりげない化粧と、さりげない身だしなみ、身のこなし方は、女性を美しくする。
何よりも健康的な色艶がよい。観音様のような美しさがほしい。心掛け次第で、観音様のような素晴らしい相貌にもなる。「顔形が、見るからにいい人だな」、というふうに見えるようにも育ってゆく。
まず女性というものは、観音様を一つのイメージにして自ら育つこと、そして、子供を育てること。
人間の心というものは、すでに作られたもので、我がまま勝手なことをいう。その心で子供を育てると失敗が多い。真理の真で育てる。それが子供を育てる秘訣であり、家庭を持つ秘訣でもある。
世の中を渡る透視の玉。観音様は、そういうみたまを持っているのである。観音様からそのみたまを借りて、自分の頭の中にしっかりと刻み込んでおくか、おなかにそれをしっかりと畳み込んでおくか。
そうして自分が観音様のような女性に育ってゆく。嫌なこと、悪いことなどを思わなければ、顔はだんだん観音様に似てゆくのである。
女性は観自在菩薩のような、優しい、素直な、美しい女性になることが、何にしても一番自分の運命をよくする秘訣である。あまり腹を立てない、感情を起こさない、つまらないことを考えて欲を起こさない。悪口をいったりもしないこと。
観自在菩薩は、ほほ笑みながら何もいわれない。一切を感覚で受けて、心を用いるようなことがない。それが般若心経の心の道。般若の知恵が心に教えてくれる、心のお経なのである。
般若の知恵を身につけた真善美楽の人は、ただ居ても真の人であり、生きている姿が善なる人であり、さらに美しい。それは容貌が美しいだけでなく、心も美しい。行為、行動すべて、存在そのものが美しい。
世の中には、美人ではないけれども、美しい人はずいぶんある。その上に楽しい人に至っては、生命の内容がそのまま楽しいのであるから、これは絶対である。
∥自分の表情を変える訓練を∥
●笑えば円満な、器量のよい人になれる
心を楽にするということは、なかなか容易なことではない。しかし、楽にできれば心は肉体の栄養になり、円満な、器量のよい人物になれる。顔の美も、心の善も、愛情もみな、その人の持ち味からである。
心を楽にして、器量のよい人間になるための実に簡単な方法は、日常生活で笑いやほほ笑みの表情を浮かべるように、できるだけ心掛けることである。
相も変わらず自分の顔には笑いも微笑もなく、無表情であるというの、ファッションだの、ヘアスタイルだのと騒いでみても、どうにもなるものではない。
仏教では「和顔施(わがんせ)」といって、何もなくとも笑顔が人に功徳を与えると説いている。
人間の感情には喜び、怒り、悲しみ、楽しみ、驚き、さらに憎悪や恍惚(こうこつ)などいくつかの種類があるが、このうち最も望ましいものは喜びと楽しみで、そのポジティブな感情の主な表現が、この笑いの表情である。
編集子が奨励するまでもなく、我々人間は人生の中で笑いを求め、他人にも笑顔を向け、他人と笑いを共有しようとする。感情を表すあらゆる表情の中で、笑いやほほ笑みは最も頻度の高いものといえよう。
人間誰もが、安心感を得て、喜と楽のポジティブな感情の中で生きられる時、幸せを感じる。陽気を発散する。そういう時には、自然と笑いがこぼれ出るもの。
ところが、普通の人の現実の生活の中では、なかなかそうもいかず、面白くないことや、もめ事が尽きず、どちらかといえば、ネガティブな感情に捕らわれ、陰気を発散することが多いはずである。ポジティブな感情は、えてして長続きせず、ネガティブな感情に支配される時間のほうが長いことだろう。
私たち人間が健康に生きていくためには、ネガティブな状態に落ち込んだ時に、そこにいかにしてポジティブな感情を注ぎ入れることができるか、ということが重要である。笑いがその役目を果たしてくれる。
泣きたい時、しんどい時にこそ、笑いを忘れてはいけない。笑ってしまうと、へばりついていた何か重たいものが落ちてしまって、本来の自己が現れ、エネルギーも湧いて出てくるであろう。
笑いは、人間が平衡状態を崩した時に、それを元に戻そうとするエネルギーなわけである。
人間というのは本来、自己の肉体内部に、心身のバランスをとって生きていこうとする力を持っており、その人間に本来的に備わった能力の一つが笑いである。素晴らしい能力の活用をもっと考えなければいけない。
●ほほ笑み生活から全身に充実する「気」
では、なぜ笑いがポジティブな感情を引き出してくれるのか。誰もが経験的にわかっていることだろうが、笑うという行為は息を吐く行為であるから、心身の緊張を解いてくれのだ。
人間が心身のバランスをとって生きていくための、自然の仕掛けとして湧出(ゆうしゅつ)してくるエネルギー、それが笑いではないかと思われるのである。
だから、人間は笑いのエネルギーを活用し、肉体生理を活性化することによって、体で精神に方向がつけられる。体位から心のゆがみを是正できる。
人間誰もが常に、楽に、楽しく生きよう。泣くも人生、笑って暮らすも人生。くよくよしないで、憂うつな気分、落ち込んだ気分になった時には、笑い飛ばして「カンラカラカラ」で過ごすがいい。居直ってでもいいから、腹の底か「アッハッハ」、「ワッハッハ」と大笑いしてみたらよいだろう。
笑って太れ。笑っていれば、ひとりでに幸せが転げ込んでくる。笑いのあるところは、雰囲気も明るい。人の常として、笑いがあるところには、楽しいことがあるのではないかと気が引かれる。その人物に関心が向き、人も寄ってくることになる。
もう一つ、楽に、楽しく毎日を生きて、円満な、器量のよい人になるために、特に勧めたいのは、笑いというほどの大笑いではなく、ほほ笑みという、いわゆる微笑である。
人間にとっては、ほほ笑み人生が最善。大笑いや高笑いまでいくと、楽しさがこぼれてしまうのが気掛かりとなるからだ。
この人間のほほ笑みとは、楽しい体の感覚や、五官のほころびから作られる、天来自然のものである。そのほほ笑みの中には、すべての苦労も争いもみな融(と)け込んで浄化されるから、人はくつろぎの生活態度で過ごせる。
ほほ笑んで暮らせる人、くつろいで過ごせる人は、神経を無理に使わなくても臨機応変に、事に当たって的確に対応ができ、処置がとれるものである。
一般の現代人は、意識過剰で常に神経を緊張させ、酷使して生活している。ほほ笑み、くつろぎ、リラックス、あるいは気楽などというものを忘れているようであるが、この何でもないようなことが、人生にとって、まことに大きな意味を持っている。
人間はとかく頭ばかりで物事を考えすぎて、どちらかというと寝ても覚めても、あくせくしているのが現状である。このあくせくは神経の緊張となり、容色に精彩を欠かせたり険悪にするばかりか、エネルギーの消耗となり、生命力を減退させ、その結果は寿命を縮める。
反対に、くつろぎの姿からは緊張が消え、緩和されて、エネルギーが回復するばかりではなく、刻々、全身に見えない世界からの、「気」という生命力が充実されてゆくのである。
●ぜひ勧めたいのは自分の表情を変える訓練
気楽というのも、読んで字のごとく気が楽なこと、気を楽しむことで、楽しんでやることは緊張もないから、何でも身につく。見ていても、ゆったりしていて、わざとらしさがない。
気楽、気まま、くつろぎによる緊張緩和は、そのまま家庭や職場の人間関係を和やかなものにする。すると、人間の表情も和らいで明るく、ほほ笑みも現れるのであって、この微笑はそのまま、全身の細胞の一つひとつにも現れるのである。
さらに、全身の緊張が解けてくると、肉体全体の働きは活発になり、神経も精神も正常に働くから、考えや判断も明確になってくる。
くつろぎこそ、ほほ笑みこそは、自然であり、自然こそは真理である。
かの道元禅師も、「正法眼蔵」の中で和顔愛語を説き、穏やかな表情と温かみのある言葉の大切さを強調している。この和顔愛語こそ、現代の混濁した人間関係と、すさんだ心を矯正する上に、最も望まれることであろう。
現代人には品位を備えた言葉とともに、和顔という、ほほ笑みも必要なのである。
言い換えれば、人間というものは、その心が顔の表情に出てくるものであるから、顔を軽んじてはいけないということだ。
いつも苦り切った顔付きをしている人などは、できれば自分の表情を変えるために、和やかなほほ笑みや、明るい笑顔を習慣的に訓練してみるとよいだろう。これは整形手術などをするのではなく、ただ鏡を見て毎日笑う練習をするだけでよいし、ほほ笑む練習をやるだけでよい。
従って、経費も税金もかからないし、おまけに健康がよくなり、家庭がパッと明るくなり、夫婦や子供の生活まで一変するから、ぜひ試してもらいたい。
心のこもったほほ笑みによって、人間同士の温かい気持ちや感謝を伝え、心を通わせることができる笑顔は、人間関係の潤滑油なのである。
人によって、よく笑う人、笑わない人という程度の差はあるにしろ、誰でもが笑う能力を持って生まれ出てくるのだ。
その能力が、後において開発されて十分に顕在化するか、何かの障害によって潜在化したままであるかの違いはつきまとうが、基本的には人間は誰でもが、笑いの能力を持っているということを確認しておきたい。
私たち人間が生きていくのに、なぜ笑いが必要なのか。一つには、個人が生きていくためには、心身ともに元気で過ごすこと、健康に毎日が暮らせるということが何よりも大事で、そのために笑いが欠かせないのである。
しかも、よく笑い、よくほほ笑む人は、心身ともに健康で、自然に円満な人格者、円満な器量よしになっていくのであるから、これほど大切なものはない。
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