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2022/10/04

🟩心身を癒す

∥ストレスは心身への刺激∥ 

●精神と肉体が一体であることの認識

 本来、私たち人間が心身ともに健康的な日常生活を続けていくには、「気」がみなぎり、緑があふれる大自然の中で、穏やかに過ごすことが最善である。心が穏やかであれば、肉体も穏やかである。当然、気持ちは安らぎ、楽しい。ほほ笑みも浮かぶ。

 ところが、現代人は不幸なことに、あまりにも自然と無縁な生活を強いられている。科学万能で、目まぐるしく変転する高度文明社会のゆがみが、人間に不安や不自然さを感じさせ、人類史上かつてないような、過酷なストレス社会に生きているといえよう。

 私たちは、「気」が満ちる宇宙天地大自然という環境が生命の拠り所であることを、決して忘れてはならない。人間の目には見えず、人間の手に触れることもできないが、宇宙天地大自然に満ちあふれ、自らの肉体にも備わっている生体エネルギーたる「気」。この「気」エネルギーの吸収と発動が滞りなく行われれば、自らの心身の健康を維持して、病気を予防することができる。

 自らの心身を病んでしまった場合でも、肉体に備わる自然治癒力を発揮して、病んだ「気」を癒し、立ち直ることができる。現代人特有のストレスの多くは、大自然に触れ、大自然に返ることで解消できるものだ。自然に恵まれた中で、心穏やかに過ごすことができれば、ストレスに悩まされることはない。

 実際には、そういう生活を実践できる人は、真に少ない。ほとんどの人々は、ストレスのたまる人間社会の、人間的で、人工的で、人為的な環境の中で、生きていかなければならない。

 まずは一人ひとりが、このようなストレス社会の中で生きているということを自覚することが大切。加えて、自分自身の健康状態を知り、ストレスの実体を知り、ストレスとうまく付き合うことが、現代社会を快適に、楽に生きるための重要なポイントとなるのである。

 そもそも、私たち人間が生活している限り、ストレスというものが付いて回るのは、必然のこと。精神と肉体を両立させて素直に生きる人間が真に少なく、自我意識から抜け切れない人間ばかりで構成された社会では、戦争やテロの恐怖におびえたり、倒産やリストラの嵐に耐えたり、侵入盗に備えて防犯対策を整えたりしなくてはならない。こういう社会の中で暮らす以上は、誰もがストレスから逃げることはできないのである。

 ストレスを簡単にいえば、生体が外部から刺激を受けて反応する緊張とゆがみである。日常の仕事はもちろん、スポーツをしたり、人前で歌ったり、話したりする場合にも、人間はストレスを感じる。それ自体は、病気でも何でもない。むしろ適度な緊張を伴い、結果的に爽快(そうかい)感や充実感につながるものもある。

 さらに言い換えれば、ストレスは精神や肉体への刺激であり、生きている証拠である。また、ストレスは個人により、感じ方が異なるものである。同じ状況であっても、ある人は非常に負担で苦痛に感じ、別の人は全く苦痛に感じないということがある。個人個人によって、考え方や性格、経験、価値観などに違いがあるためである。

 現代人は各自、自分に適したストレス解消法を見付け、実践しているようだが、特に必要なのは、ストレスに負けぬ、しなやかな精神と肉体を備えることと、人間の精神と肉体は一体であるという確固とした認識を持つことである。

 元来、私たち人間の精神と肉体は、一体のものである。私たちは、精神と肉体がともに健康でなければならないし、そうなるように努力すべきであるということを強調しておく。

 精神が病んでいれば、必ず肉体に影響を及ぼす。その逆であっても同じことである。胃腸や肝臓が病むと、その人の性格も変わってしまうことが多い。苦しいから、痛いからということだけが原因ではなくて、体液を始めとするさまざまな体のバランスの変化が、人格を変えてしまうのである。

 感情の起伏で血管が収縮したり、膨張したりすることは、誰もが経験したことがあると思う。急変した精神状態が、器官に影響を与え、それに応じてホルモン分泌量が変化するからである。悲しみ、怒り、恐れ、嫉妬(しっと)などが頻繁に続くと、バランスが崩れ、病気になる危険性が増す。

●人間の心身の健康にかかわる「気」 

 多くの人は、「病気は憑(つ)き物だ」とか、「病気になることは災難、不幸だ」などと考えているようだ。まるで病気は外部からくるものだと思っているようであるが、それは大いなる錯覚である。

 実は、病気は人間自身が作り出す間違いであって、決して外来するものではない。本当に肉体が健康、健全に保持されているならば、病原菌などに侵されるものではない。同じく、精神が強固で、しなやかであれば、世の中の誘惑に巻き込まれ、その揚げ句の果てにストレスに悩むということもない。

 ここで、人間の精神と肉体は一体であることを改めて認識し、次に、精神と肉体をつないでいるのが「気」であり、人間の心身の健康ばかりでなく、すべての営みにかかわっているのが「気」であることを知ってほしい。

 病気とは、読んで字のごとく「気」が病んでいることにほかならない。「気」が弱っていれば、肉体も弱っていることになる。悲しみや怒りが肉体の内にたまると「気」を弱め、やがて精神や肉体に悪影響を及ぼすのである。

 昔は「四百四病」と言い習わしたものだが、今は二十四万余の種類があるという人間の病気、そのほとんどは生命の根源である「気」が不順、不調だったり、宇宙天地大自然の「気」を受けることを知らないために、精神や肉体までてきめんにむしばまれ、衰弱してしまう結果、起こっているのである。

 私たち人間というものは、地球を取り囲む大気圏内、さらには大宇宙空間を満たす「気」によって生かされて、生きているのであり、人間の体の中の諸器官は、すべて「気」によって働かされて、働いている。この「気」から作られる自然のエネルギーは、肉体を驚くほど充実させるものである。

 宇宙天地大自然の「気」は、肉体が正常な機能の営みを続けるために欠かせないものなのに、その「気」を養うことを知らず、気力の乏しい人には、生命の根源である元気が湧いてこない。とどのつまり、精神や肉体までむしばまれることにもなる。

 病気とは、文字通り「気」を病むことである。

“病は「気」から”が科学であることは、現代医学の脳神経学やホルモン生理学の理論によっても、立証されているところ。自らの肉体を信じ、肉体を主として生きれば、肉体がおのずから精神を調節し、「気」を統御するから、自然に病気にかからなくなるし、自然治癒力も高められる。

 本来、病気か否かを決定するのは肉体であるというのに、人間は自己意識や心で勝手気ままな想像をして、まさに“病は「気」から”という教訓的な短句のとおり、自分で病気を作り出してしまう。

 例えば、昔からよく経験するところでは、心労が重なると大病を招きやすいこと、受験生が風邪を引きやすいこと、憎しみなどが心筋梗塞(こうそく)に陥りやすくすること、抑うつ状態はガンの進行を速めること、孤独な人間は早く死ぬことなどがある。

 このような明らかに社会的環境や、人間関係の影響を受けた病気がなぜ発生するかという原因を探ると、現代人というものが宇宙天地大自然の力によって生かされていることを忘れ、自己意識を振りかざして「生きよう、生きよう」とする傾向が強いために、自然作用によって吸収される「気」が十分ではない、という結論に行き着く。

∥自然治癒力を活用する∥ 

●疲れた時は休養で生命の「気」を養う

 特に、自己意識が過剰な人、自我意識が強い人、社会性意識がたくましい人は、注意すべきである。彼らには、真の健康や真の安らぎを味わうことができない。

 自己意識や自我意識、感情などという人間の心が、心理から生理現象へと及んで、神経症やノイローゼというような病気を引き起こす、という事実を知らなければならない。病気、あるいは健康というものに対する心理的な影響は大きく、人間の心の作り出す間違いから肉体が影響を受けて、神経が過敏になったり、細胞自体が疲労こんぱいして、肉体の秩序性が狂ってくるために機能が弱まって、二十四万種以上もの諸病を引き起こすのである。

 現代社会に、心の病気が肉体に及ぶ心身症が激増したり、ストレスで倒れる人、自殺まではかる人が増えているのは、すべて自己意識や自我意識、感情などという心がありすぎるからである。

 こうした心の煩いや、「気」の疲れに、無理は禁物。疲れたら休むというエネルギーの転換法を実行することが、ぜひとも必要だ。

 “病は「気」”からと私が繰り返すのは、病気になるのも、治すのにも、生命の元なる「気」がいかに大切か、ということを指し示したいからである。

 疲れたら休んで生命の元であり、生命の根源たる「気」を養い、体の中の圧力を除くことが最善。たとえ肉体の圧力が微弱なものであろうと、度重なって加えられることによって内にこもると、機能障害や病気の原因になる。

 圧力は、なるべく小さいうちに取り除かなければならない。吐息をつくとか、あくびをするとか、放屁(ほうひ)をするとか、背筋を伸ばすとかすればいい。これらはすべて、肉体が自然に行う圧力の解消作用なのである。

 私たち人間の肉体にはおのずから、宇宙天地大自然に従ったリズムや、原則があり、「今、こうしないといけない」という規則があるから、それを活用して自分で病気を防ぐのである。

 わけても、疲労を回復する何よりの秘訣は、「疲れたら休む」、「早く寝る」ということに尽きるであろう。

 誰もが疲れたら休めば、働きと疲れが楽しく、休養の味も楽しく感じられるようになる。そうして早く寝床に入って、翌日の仕事や学業に精を出したら、楽しく楽に能力が発揮され、能率もぐんと上がる。日進月歩、人間はかくして伸びる。

 働く時には十分に働き、休む時には十分に休む。こちらも、宇宙天地大自然から「気」という他力を得るために必要な、そして重要な条件である。

 逆に、働きすぎて、ろくに休まない、眠らないというような状態においては、肉体の自然機能は働かず、自然作用は起こってこない。従って、他力もまた起こらない。「ゆっくりと休む、静かに休む」、「早く寝る、十分に寝て体力を練る」ということができない人間の性格は、己自身に対して日々、大変な無理、非道を積み重ねているのである。貴重な時間の無駄のみならず、大切な生命の消費でもある。

●病気の時は肉体の自然治癒力を高める 

 無理と非道の集積で病気にかかってしまった時は、医者も薬も大切には違いないが、この宇宙天地大自然界には医者を超えた医者、薬を超えた薬のあることに、ぜひとも気付いてもらいたい。

 すなわち自然治癒力。自然治癒力とは、人間を創造した根源の力であり、自然現象、自然機能、自然作用というものである。十全、完璧に治す力は、まさにこの力しかないのである。

 「病気を治す」のが医者の使命ではあるが、人間の生命の法則、患者の生きる法則に従って、「適切な手当てをする」、「最善の治療を施す」というのが、彼らの職分である。

 なぜなら、私たち人間の肉体には生まれながらにして、病気を治す力、病んだ体を治癒する力が、自然に備わっているからである。医者や医薬は、病人の治癒反応に触媒作用を及ぼし、治癒を妨げているものを取り除くことはできるが、最初から持っていないものを与えることはできない。肉体が備え、潜在させている霊妙不可思議な自然治癒の反応力、再生・復元力、適応力といったものを、何人も決して無視してはいけない。

 では、病人が自らの体に自然の力、自然現象、自然機能、自然作用を充実し、高めていくには、どうしたらよいのだろうか。 

 第一には、頭であれこれ取り越し苦労をしないこと。「私は本当に治るのだろうか。もう手遅れなのではないか」などと、よくない考えを捨てるように努めることだ。「私を癒す偉大な力は、私自身の体の中にある」と、達観していればよいだろう。体を投げ出して、「自然に任せ切る」という心境になれれば、泰然自若としていられるものだ。

 第二に大切なのは、呼吸を整えること。自然治癒力という自然現象を引き出す方法には、食事療法、物理療法、運動療法などがあるが、最も重要なのは、実はこの呼吸法である。

 簡単にいうと、深く、大きく、静かに息を吐き出す。出し切ったところで、吸うことを考えないでも、無限小の「気」を含む大気は自然現象、自然作用として、外から入ってくる。

 この呼吸を静かに行う。一分間に吐いて吸う呼吸が、五回程度がよいと思う。この場合、吐く時間が十秒ほど、吸い込むのが二、三秒で、一分間に五回程度の呼吸になる。

 生かす力も、治す力も、目には見えないが命の絆(きずな)である呼吸から、人体に運ばれる。最初は自分のペースの呼吸で、体質を考慮して苦しくないように加減しながら、次第に調子を整えて、常時、実行してほしい。

 病む人は何よりも、生かす力とともに生きる力を呼吸で充実することに専念し、回復の土台となすこと。そして、つまらぬことを気にしないで、ひたすら養生するのが、病む人の道ということになろう。

 それで元気になれるのは、この肉体に、あるいは肉体の中の諸器官に、すべて一つひとつ、別々な自然機能があるからこそである。

 自然機能は、私たちが生かされている宇宙天地大自然から与えられているものであるので、自然作用によって生きさえすれば、この機能が立派に働いて、はじめから病気をすることなどもないはずである。つまらないことに悩んだり、捕らわれたり、迷ったり、苦しんだりすることもないはずである。

 人間の肉体にある微妙な感覚というものが、この肉体に本当に働いているならば、いちいち神経を使わなくても、肉体の生命機能、すなわち生かされているという自然作用だけで、立派に生き抜くことができる。

 私たちは、自らの肉体の自然機能や自然作用が百薬に勝る働きをしている事実に、着眼すべきである。この人間の身体組織が持つ天性の復元力、つまり病気やけがを自然機能の働きで治してしまう不思議な能力について、もっと認識を深める必要がある。

 現代の医学で原因のわからぬ病気については、やはり宇宙天地大自然の力を借りて、治す以外にはない。人間の肉体は小宇宙、小天地であるといわれるように、身体組織は常に安定と平衡を指向しているもので、それこそ肉体に具現した宇宙天地大自然の摂理なのである。

∥宇宙に生かされ生きる∥ 

●生きがいがはつらつとした気力を生む

 日常生活において、人間生命の根源である「気」、宇宙天地大自然の他力である「気」で、精神と肉体を養いつつ、私たちが楽しく、健康的に生きるためには、仕事でも趣味でも勉強でも何でもいいから、積極的に生きがいを持つことも必要となる。

 積極的に生きがいを持ち、積極的な物の考え方をすると、人間は必ずよい結果が得られる。それは、自然作用によって「気」が十分に吸収され、気力が充実するからである。気力の充実は、生き生きとした精神と肉体があってこそ可能になる。積極的な考え方をすることで、心身に張りが生まれ、はつらつとして事に臨む気力が生まれるのである。

 「気」は、人間の生命力の源であり、精神と肉体のバロメーターでもある。人間の能力をフルに生かすためには、この気力を充実させなくてはならない。「運を含めて、人間のあらゆる可能性を開くのは「気」の強い、弱いにかかわる」といっても、決して過言ではない。

 精神と肉体のバランスが悪ければ、「気」は働かないし、「気」が入らない。人が飛躍する時、「気」が働かなければ、物事は成就しないのである。自信を持てず、半信半疑で行ったことが成功しないのは、「気」が入らないからである。

 自分で気力を出し、気合を入れるには、意識的にキビキビと動作を速くするよう試みてほしい。体にすぐに興奮が起こり、精神も興奮してくる。体のエネルギーが心のエネルギーに変換し、気力と気合が出るというものである。

 反対に、生きがいという生活目標を見失って気力がなくなれば、精神的に不安定になって、うつ病にかかりやすく、高齢者などは急速に老化する。精神が緩んでは、若い人でも多病必至。精神にたるみがあり、心に妄想や思い惑う憂いがある場合、肉体は自然に酸性に傾いて、発病寸前の状態になり、自ら寿命を縮めることにもつながる。

 一方、人間の生きがいの中でも、真の生きがいにつながる楽しさというものは、宇宙天地大自然の真善美楽・健幸愛和の原則に従い、人間自らの生命のうちにあるものだから、この真の楽しさを持っていれば、毎日の生活は特に意識的な努力をしなくても、自然の力でひとりでに推進される。これが、人間の生命を保持するための大きなエネルギーとなっている。

 言い換えれば、人間世界の楽しさにもいろいろあるが、宇宙天地大自然による楽しさが何より最高のものなのだ、ということである。

 宇宙から誰しもが、一人につき一つずつ生命をいただいている。「この素晴らしい生命をいただいた」という喜びを感じると、すべてが楽しくなり、それだけで幸福感が湧いてくる。

 最高の楽しさは、宇宙天地大自然の原則に従った生活の中から生まれるものである。楽しさ、あるいは楽しみによって推進される生活、宇宙の原則通りに生かされる日常生活は、その気になりさえすれば誰にでもできる。

 だが、楽しさというものは、一種の感覚である。感覚であるため、力としてはもともと強いほうではないが、人間には思い、考える前に、楽しさを感ずるごとく、肉体が感覚するという能力がある。

 楽しさということも感覚である以上、それについて思ったり考えたりしても、実際はどうにもならない。楽というものは、思ったり考えたりすることによって生まれるものではないのである。つまり、肉体が感覚した通りに素直に受け入れ、その同じ肉体がまた忠実に、それに応(こた)えたものということである。

●宇宙天地大自然の中に存在する楽しさ 

 その本当の楽しさを体で感じるためには、人間、己がただの一度、たった一回限りの人生において、くしくもこの宇宙天地大自然間に生まれ出たという事実を忘れて、いい加減に毎日を過ごしてはならない。

 一日一日、厚みのあるよき体験、経験を積み上げてゆく人の人生には、どれほど大きな楽しみや価値が与えられていくことであろうか。人生は時の計画である。時の上にしっかりと人生を積み上げ、自己を積み上げてゆくことである。

 では、人間は何を基準に、自らの人生の生き方を考えればよいのか。普遍的な基準、時間や空間を超えて一貫する基準は、宇宙の原則、自然の法則にのっとって、一日一日を生きること。それ以外にはない。

 宇宙天地大自然の原則、法則のままに生きれば、そこに人間の生き方を解決する道がある。すなわち、宇宙の真理にかなった生活をすれば、私たち人間はおのずから、人間としての理想像に達することもできる。

 真理はこの宇宙にあり、天地にあり、大自然の中にある。人間はこの宇宙天地大自然に創られ、天地の間に生かされて生きているのであるから、大自然の心を己の本当の心として生きるならば、人は本来の面目たる自己を完成することも可能なのである。

 人間にとって、真理に生きる以上の生き方はない。これ以上の生き方がほかにあるだろうか。この世には真理以上のものはないのである。スタートから百何十億年の歴史を刻む宇宙を貫く法則が、真理である。すべての現象は、この真理から生まれている。この世に真理のあるのは、ありがたい。

 宇宙天地大自然は、真理に動き、刻々に流転しながらも、少しの狂いもない。朝がくると、太陽が輝く。夜がくると、月が出る。春になれば、桜が咲く。冬になれば、雪が舞う。

 人間は、この真理の、ただ中から生誕し、真理そのものとして刻々を呼吸して、真理に生かされている。ありがたい極みである。

 物を物たらしめ、現象を現象たらしめている理(ことわり)、これが真理である。人間はまさに、この真理の結晶体である。

 宇宙の真理こそ、人類普遍の原理である。宇宙の真理は、宇宙精神であり宇宙エネルギーそのものである。また、真理は真、善、美、楽を内容とし、これに従えば、人間は理想的に生きることができる。人間の理想社会が実現する。

 まず、宇宙天地大自然の真理の内容をなす真善美楽のうち、真は絶対である。この宇宙に充満し、森羅万象、万有を統一、運行している真秩序である。それは、恒久、無限の過去から未来に渡って、いささかも狂わない。万物はさまざまに生かされ、依存し合い、生きている。その存在は、絶えず変化をするが、それでいて一定、不変である。一定、不変であって、毎日変化してとどまることがない。そこに、間違いがないのである。

 よって、宇宙の秩序、宇宙の真理に背くものは、一切のものと共存共栄することができない。宇宙には侵すことのできない、おきてが存在する。それが真なのである。

 私たち人間が住む地球は、らせん状に回る。同じ平面を同じように回っているようだが、この平等の中に差別を作る。巧妙至極である。これを賛美することは、楽しく、しかも利益に通ずる。利益のあるところに原理があり、原理のあるところに必ず利益がある。理と利、利と理は常に一対一で、誤らない。その存在性の中に、みな働きをもって価値を生じている。

 これが善である。しかし、善悪の善という相対的観念ではない。悪のない善一色の全である。それは全き姿であり、個々のものも個別的に全き姿である。

 全という素晴らしい仕組み、恵み、喜び、楽しさ、幸せという情操的なものを感ずるのが、善である。これが高等生物になって、情愛、愛情を感ずるようになれば、善は愛という受け取り方、感じ方に変わる。そして、愛は美しさ、楽しさに変化する。

 宇宙天地大自然に存在するものは、何を見ても美しく、その音は何を聞いても楽しい。美しいことは楽しいことに、美は楽に通ずる。

 結局、真なり、善なり、美しさなり、楽しさなりという真善美楽こそが、宇宙天来の仕組みなのであり、宇宙天地大自然の原則に従った生活の中からは、おのずから真の生きがいや楽しさを体覚できるわけである。

∥内発的な能力を利用する∥ 

●人間の笑いから湧き出るエネルギー

 私がいくら、「宇宙天地大自然の原則に従って、疲れたら休み、早く寝る生活によって、宇宙に生かされ生きる楽しさを体覚できれば、毎日が実に楽しいものである」と述べても、「それは特殊な、解脱したような境地にすぎない。自分にとって、人生は苦だ。生きがいも見付からない」という方には、試しに「アッハッハ」と笑ってみることをぜひお勧めしたい。

 宇宙天地大自然の創造の神は、美しいもの、優しいもの、本当のものを見れば、楽しくてならないように人間を創った。楽しくなかろうと、誰もが「アッハッハ」と笑ってみれば、腹の底から息が全部、吐き出せる。何となくすっきりとし、気分爽快で愉快になるはず。

 笑えば胸の内圧が下がり、肩も垂れ、上半身がリラックスすると同時に、七福神の布袋(ほてい)和尚のように下腹が突き出て、ヘソが天井を向き、腰がぐっと締まるという効果が、おのずから発揮されるのである。

 反対に、泣けば肩に力が入り、腹や腰は虚脱する。試しに、すすり泣きをまねてみれば、息を吸い込むばかりで、果ては胸苦しくなり、妙に寂しく、悲しくなるはず。

 なるほど、笑いは「百楽の王」。仏教でも「和顔施(わがんせ)」といって、何もなくとも笑顔が人に功徳を与えると説いている。笑いは人生の妙薬である。

 人間の感情には喜び、怒り、悲しみ、楽しみ、驚き、さらに憎悪や恍惚(こうこつ)などいくつかの種類があるが、このうち最も望ましいものは、当然ながら喜びと楽しみであり、そのポジティブな感情の主な表現が、この百楽の王で、人生の妙薬たる笑いの表情なのだ。

 私が奨励するまでもないかもしれない。私たち人間は人生の中で笑いを求め、他人にも笑顔を向け、他人と笑いを共有しようとしているはずだ。感情を表すあらゆる表情の中で、笑いや、ほほ笑みは最も頻度の高いものといえよう。

 人間誰もが、安心感を得て、喜と楽の感情の中で生きられる時、幸せを感じる。そういう時には、自然と笑いがこぼれ出るもの。

 しかし、普通の人の現実の生活の中では、なかなかそうもいかず、面白くないことや、悲しいこと、もめ事が尽きず、どちらかといえば、ネガティブな感情に捕らわれることが多いのが、現実かもしれない。

 ポジティブな感情のほうは、えてして長続きせず、ネガティブな感情に支配される時間のほうが、長いことだろう。

 だからこそ、人間が心身ともに健康に生きていくためには、消極的な状態に落ち込んだ時に、いかにして積極的な感情を注ぐことができるかが、真に重要となる。幸い、笑いがその役目を果たしてくれる。

 一般に、「泣きたい時、しんどい時にこそ、笑いを忘れてはいけない」といわれるのは、なぜか。笑ってしまえば、へばりついていた何か重たいものが落ちてしまって、本来の自己が現れ、エネルギーも湧いて出てくるからこそであろう。

 笑いというのは、人間が平衡状態を崩した時に、それを元に戻そうとするエネルギーなわけだ。

●本来的に備わった能力を活用しよう

 私たち人間というのは本来、自己の肉体内部に、心身のバランスをとって生きていこうとする力を宇宙天地大自然から与えられており、外界の毒素に対しても一定の抵抗力を内発させる免疫機能を与えられている。

 この内発的な抵抗力によって、言い換えれば内発的な自然治癒力を持つことによって、外界に適応できているわけである。

 その内発的な治癒力が崩れた時、私たちは病気になる。薬を必要とし、医者の世話になる。従来の西洋医学の研究は、病気になった人を治癒するために、いろいろな新薬を開発し、さまざまな治癒技術を開発してきた。東洋医学と異なり、人間が内発的な治癒力として蓄えている自然の能力を活用することに、熱心であったとはいえない。

 笑いも、人間に本来的に備わった内発的な能力、内発的なエネルギーなのである。誰もが、素晴らしい能力の活用をもっと積極的に、考えなければいけない。

 「笑ったら必ず救われる。病気も治る」というのは、無理な注文である。ここで私がいいたいのは、笑いがポジティブな感情を喚起する、という利点を持つことである。

 なぜ笑いがポジティブな感情を引き出してくれるのかについては、先にもいったように、笑うという行為は息を吐く行為であるから、心身の緊張を解いてくれることは、誰もが経験的にわかっていることだろう。

 人間が心身のバランスをとって健康、健全に生きていくための、自然の仕掛けとして湧出(ゆうしゅつ)してくるエネルギー、それが笑いではないかと思われるのである。

 だから、人間は笑いのエネルギーを活用し、肉体生理を活性化することによって、体で精神に方向がつけられる。体位から心のゆがみを是正できる。

 人間誰もが常に、楽に、楽しく生きよう。

 泣くも人生、笑って暮らすも人生。悲観するも人生、楽観して暮らすも人生。悄然(しょうぜん)とするも人生、泰然として暮らすも人生。

 くよくよしないで、何かあったら笑い飛ばして「カンラカラカラ」で過ごすがいい。

 この笑いに関連した生理的反応としては、自律神経系のうち副交感神経に由来するものが優位となることが多い。例えば、笑いの後では心拍と血圧は減少するか、他の情動と比べると低い状態になり、唾液や涙の分泌が生じやすくなる。

 また、この笑いというものは、ポジティブな感情を引き出すものであるから、人間のやる気を奮い立たせるきっかけとなり、刺激ともなる。

 まず、笑うことで不要な重苦しい緊張も解かれ、気分は明るい方向に進んでいく。この明るい気持ちが、「仕事も勉強をやりたくない」というマイナスの気持ちを抑え、「何とかやってみよう」という、やる気を呼ぶのである。

 わけても、瞬間的に大声を出して笑うならば、自分をやる気にさせるのに一層、効果的だ。

 この意味で、会社や家庭や学校の周囲を見回してみれば、大声で快活に笑う人物には仕事や勉強などの能率もよい人が多い、ということに気付くであろう。

 私たち人間とは不思議なもので、笑う習慣が身に着くと、自分が楽しい気分になれ、笑いたくなるような現象に敏感になってくるもの。進んで笑うことで、やる気を出して仕事や勉強に取り組めるのである。

 誰もが笑い上戸を見習って、憂うつな気分、落ち込んだ気分で物事に身が入らない時には、居直ってでもいいから、腹の底から「アッハッハ」、「ワッハッハ」と大笑いしてみたらよいだろう。

 楽ちん人生、気楽人生の妙は、心を天に預けて、笑って暮らすことと覚えたりだ。

 笑って太れ。笑っていれば、ひとりでに幸せが転げ込んでくる。笑いのあるところは、雰囲気も明るい。人の常として、笑いがあるところには、楽しいことがあるのではないかと気が引かれる。その人物に関心が向き、人も寄ってくることになる。笑いの誘引作用といえよう。

∥自分の表情を変えてみる∥ 

●ほほ笑みという微笑がもたらすゆとり

 もう一つ、楽に、楽しく、気楽に毎日を生きるために私が特に勧めたいのは、笑いというほどの大笑いではなく、ほほ笑みという、いわゆる微笑である。人間にとっては、ほほ笑み人生が最善。大笑いや高笑いまでいくと、楽しさがこぼれてしまうのが気掛かりとなるからだ。

 もともと、人間の赤ん坊が生まれて、最初から持っている表情は泣きの表情であり、その次に現れる表情はうれしそうな笑い、ないしは、ほほ笑みである。

 意味をなす言葉を発することのできない人間の子供や、そもそも言葉を持たない動物の子供が、母親に自分の状態を伝えることは重要である。自分の状態の最も大まかな分類は快、不快であり、子供は母親に快につながる行動を多くしてもらい、不快につながる行動を減らしてもらわなくてはならない。

 このような目的のために、快い場合はほほ笑みを、不快の場合は泣く行動をとるように、人間の赤ん坊が進化しているのは当然といえる。

 人間が喜んだ時に出る笑いは、このような原初的なほほ笑み行動に由来しているものだと考えられる。この赤ん坊の快信号の表情は、子供時代の遊びの笑いや、大人になった時の融和の笑いに、簡単に転化できる性質の表情である。

 そして、この人間のほほ笑みとは、楽しい体の感覚や、五官のほころびから作られる、天来自然のものである。そのほほ笑みの中には、すべての苦労も争いもみな融け込んで浄化されるから、人は一生涯、くつろぎと安らぎの生活態度で過ごせる。

 なぜなら、怒ったり、泣いたりするネガティブな感情生活には危険が多いが、ほほ笑みで暮らす人というのは、体に落ち着きがあるだけに、一切を眼耳鼻舌身の五官意識で選択し、善処してくれるから、真に安全なのである。

 体に落ち着きがあり、心にゆとりがあれば、喜怒哀楽を上手に表現し、セーブすることができる。感情というものは、人間の体や性格に微妙に影響を与えるものだ。プラスの感情とマイナスの感情をコントロールすることが、幸せにつながる。

 ほほ笑ましい、楽しい、喜ばしい、気分がいい、やる気が出るというプラスの状態は、感情の問題であると同時に、ホルモン分泌もかかわっている。

 大脳基底核、大脳新皮質の前頭葉、側頭葉、大脳辺縁系に分布するドーパミンが、前向きな快感をもたらす。ドーパミンが分泌することで、意欲的な精神状態を作り、プラスの方向に作用する。

 人間は通常、ホルモンをコントロールすることはできないが、精神の力で感情をコントロールすることは可能である。ドーパミンがプラスのホルモンであれば、当然マイナスのホルモンも存在する。恐怖のホルモンといわれるアドレナリン、怒りのホルモンといわれるノルアドレナリンである。逃避や不満の感情が高まった時は、必ずこれらのホルモンが分泌されている。

 怒りをほほ笑みに変え、マイナスのホルモンを分泌させないことも、幸せな人生を過ごすための秘訣の一つである。宇宙天地大自然の真理に生かされて、生きていることを喜び、楽しく感じ、そう努めることが、人生をより充実させるのである。

●リラックスから充実する「気」の生命力

 問題は、日常生活でいかに落ち着き、リラックスして、ほほ笑みで暮らせるかにある。リラックスの上手な人は、神経を無理に使わなくても臨機応変に、事に当たって的確に対応ができ、処置がとれるものである。

 現代人は意識過剰で、常に神経を緊張させ、酷使して生活している。ほほ笑み、くつろぎ、リラックス、あるいは気楽などというものを忘れているようであるが、この何でもないようなことが、人生にとって、真に大きな意味を持っている。

 人間はとかく頭ばかりで物事を考えすぎて、どちらかというと寝ても覚めても、あくせくしているのが現状である。このあくせくは神経の緊張となり、エネルギーの消耗となり、生命力を減退させ、その結果は寿命を縮める。

 反対に、くつろぎの姿からは余計な緊張が消え、緩和されて、エネルギーが回復するばかりではなく、刻々、全身に見えない世界からの、「気」という生命力が充実されるのである。

 気楽というのも、読んで字のごとく「気」が楽なこと、「気」を楽しむことで、楽しんでやることには緊張も生じないから、何でも身に着く。端から見ていても、ゆったりしていて、わざとらしさがない。やるふりや見せ掛け、ごますりなどの恥ずかしいことはしない。

 気楽、気まま、くつろぎによる緊張緩和は、そのまま家庭も、職場も、学校も、世の中も、世界の全体までも、人間関係を和やかな、安らいだものにする。すると、人間の表情も和らいで、安らぎ、明るく、ほほ笑みも表れるのであって、この微笑はそのまま、全身の細胞の一つひとつにも表れるのである。

 このように、くつろぎという、ただこの一事が、内は全身の細胞から外は全世界までも、和やかなくつろぎに導く。さらに、全身の緊張が解けてくると、肉体全体の働きは活発になり、神経も精神も正常に働くから、考えや判断も明確になってくる。

 くつろぎこそ、ほほ笑みこそは、自然であり、自然こそは真理である。

 かの道元禅師も、曹洞宗の根本聖典である「正法眼蔵」の中で「和顔愛語」を説き、穏やかな表情と温かみのある言葉の大切さを強調している。

 道元禅師のいう和顔愛語こそ、現代の混濁した人間関係と、すさんだ心を矯正する上に、最も望まれることであろう。現代人には品位を備えた言葉とともに、和顔という、ほほ笑みも必要なのである。

 言い換えれば、人間というものは、その心が顔の表情に出てくるものであるから、顔を軽んじてはいけないということになる。

 いつも苦り切った顔付きをしている人などは、できれば自分の表情を変えるために、和やかなほほ笑みや、明るい笑顔を習慣的に訓練してみるとよいだろう。これは整形手術などをするのではなく、ただ鏡を見て毎日練習するだけでよいし、ほほ笑む練習をやるだけでよい。

 従って、経費も税金もかからないし、おまけに心身の健康状態がよくなり、家庭内がパッと明るくなり、夫婦や子供の生活まで一変するはずである。

 私たち人間の中に、本来的に備わった自然力としての笑いの能力も、開発されないことには顕在化することがないと銘記して、ぜひ試してもらいたいものだ。

∥息を吐いて落ち着く∥ 

●圧力を体外に吐き出す呼吸

 「人間は笑う動物である」というのは、紛れもない事実である。だが、「人間は笑うことのできる唯一の生物だ」というわけでもない、と説く学者もいる。

 実際、知能に優れたチンパンジーやゴリラを観察すると、遊び顔をして仲間同士遊ぶし、くすぐられたりすると口を開け、「アハハ」と声を立てて笑うという。

 喜怒哀楽の四大感性の中で、最も表出しやすいのは怒りの感情のようだ。これは多くの動物が表現できるが、笑いに近い表情をとれる動物は、社会性に富んだものたちだ。笑いが表出できるのは、精神活動の発達の証拠でもある。

 すなわち、笑いの感情を示すことができるのは、高等動物の証明ということであり、その笑いの感情を人間は持っているのであるから、実に素晴らしいことである。

 怒りの感情は人間にもあるが、広く動物にも見られるわけであるから、怒ったからといって自慢できるものではない。笑いは人間が自慢できる、優れて人間的な能力といわなければなるまい。

 動物も当然、さまざまな感情を全身で表現するといっても、この人間の笑顔や、ちょっとしたほほ笑みとともに交わす一言には、はるかに及ばない。

 また、言葉による挨拶(あいさつ)はもちろん大切だが、たとえ言葉は通じなくても、心のこもったほほ笑みによって、人間同士の温かい気持ちや感謝を伝え、心を通わせることができる。笑顔は人間関係の潤滑油だ、と考えられる。

 動物はいうまでもなく、植物にも人間の心が通じ、言葉もある程度は通ずるのも事実。ただ植物には、動物に見られる表情というものがないから、通じたかどうかがこちら側によくわからない、という不便さが残る。

 しかし、人間はありがたいことに、豊かな言語と表情を持っている。これを使わず、まるで無表情に押し黙っていたり、「男は三年片頬(ほお)」といって、「男はめったなことで笑うな。三年に一回、片頬で笑うぐらいでよい」などと教えるのでは、いたずらに宝の持ち腐れを奨励しているようなものである。

 最近、海外でいわれているのは、「笑いは内側からのジョギングである」ということであり、笑いやユーモアのストレス対抗策としての効用が、特に注目されるようになったらしい。

 ユーモアのセンスを持つことは、職場で有効なリーダーシップを発揮するのにも役立つとされる。それは、職場でのストレスを減少させ、従業員に管理者の関心を理解させ、従業員のやる気を高めるという点で有益であるが、ユーモアは短く、会話的で、控えめで、謙虚なものがよい。不適切なユーモアは逆効果であるようだ。

 このようにユーモラスな状況を作る能力が求められていても、とりわけ日本人男性には、「おかしくもないのに笑えるか」というような厳格主義に取りつかれている人物が、今日でも少なくない。

 このような石部金吉は、企業や官庁、学校の管理職には結構おられようが、それでも不愉快な会議をしたり、部下や生徒に説教を垂れた後の眉間(みけん)にシワの寄った顔を鏡に映して、ニヤリと苦笑するくらいの余裕はほしいところだ。

 次に、ほほ笑みたくない時でも、「フーッ」と強く息を吐くだけで、ほほ笑んだり、笑った時と同じ調子が出ることも知っておいていいだろう。

 大事の時、「心を落ち着けろ」といっても、急に落ち着くものではないだろう。が、ただ「フーッ」と息を吐き、本来のリラックス状態を取り戻せばよい。

 このリラックスとは、生まれ変わることである。その時点まで身に着けていた心の垢(あか)を洗い流し、意識や感情のしこりやこだわりをほぐして、吐き出し、生まれ出た時のままの自然作用、自然感覚、自然機能をよみがえらせ、そこから再出発すること。これがリラックスの真意である。

 ジリジリ、イライラして頭に血が上った時にも、息を吐くこと。何回も何回も大きな息を吐いて、心を安らかに、平らかにすればよい。苦しい時や悲しい時にも、大きくため息をすれば、気持ちが楽になる。

 頭の圧力、胸の圧力、上半身の圧力がみな、呼吸とともに外に吐き出されてしまって、心が落ち着くからである。

 息を吐いて、吐いて、吐き抜けば、胸が真空になる。頭が軽くなる。心が落ち着く。心を落ち着かせようとするには、息を吐いて、吐いて、体内の圧力をなくせばよいのである。吐いたり、吸ったり自由に息ができないと、気詰まりがする。

 息を吐いて、常に楽に楽しく生きようではないか。

●笑いは人間にとって欠かせないもの

 ここまで、笑ったり、息を吐いたりすれば楽しくなれる肉体生理などを述べてきたが、人間の笑いについて考えた場合、人によって、よく笑う人、笑わない人という程度の差はあるにしろ、誰でもが笑う能力を持って生まれ出てくるのは、紛れもない事実。

 その素晴らしい天与の能力が、後において開発されて十分に顕在化するか、何らかの障害によって潜在化したままであるかの違いは付きまとうが、基本的には人間は誰でもが一人ひとり、笑いの能力を持っているということを確認しておきたい。

 遺伝子という言葉を使うならば、笑いの能力は人類のDNAの中に刷り込まれているとも考えられる。人類が長い歴史を通じて進化を遂げてきた中で、笑いの能力は生存していくのに必要だからこそ、今に残り続けてきたわけであろう。人間が生き物として生き続けていく限り、笑いの能力も生き続けることだろう。

 盲人の行動を研究したところでは、先天的な盲人にも、笑いやほほ笑みが普通の者と同じように観察されることが、見いだされている。先天的な盲人には、他者の表情を視覚的に模倣することはできないから、人間の笑いやほほ笑みが本能的な行動であることを示唆している。

 もし、人間が本能的な行動たる笑うことを忘れ、笑いの能力が開発されず、そのうちに退化するようなことが起こったとしたら、その時はもはや人間が人間でなくなる時を意味するのではないか。

 私たち人間が生きていくのに、なぜ笑いが必要なのか。

 一つには、個人が生きていくためには、心身ともに元気で過ごすこと、健康に毎日が暮らせるということが何よりも大事で、そのために笑いが欠かせないのである。

 私たちの祖先は、経験上の知恵から、笑いが健康によいということを知ってはいたが、医学的に立証することはできなかった。最近になって、精神的にも肉体的にも、笑うことが医学的な見地からして大切であるということが、証明されつつある。

 大いに笑うと、免疫担当細胞として働くNK細胞が増えるという知見も、その成果のうちの一つである。

 もう一つには、人間は共同生活を営んでこそ生きていけるわけで、その共同生活を営む上で、笑いが欠かせないということである。

 夫婦関係であれ、親子関係であれ、他人との接触や交渉に当たっても、互いの関係を親和的に取り結ぼうとすれば、笑いが必要となる。人間関係には、大なり小なり緊張が付きまとうのは宿命であり、そうした緊張を緩和させる仕掛けがないことには、共同生活を円滑に営むことはできない。

 人間の歴史を振り返れば、緊張を解くのに暴力が使われ、今もなお世界各地で、暴力が緊張解決の手段として使われている。暴力の延長上にあるのは、共同生活の破壊である。笑いには、緊張を解決できるだけの力はないとしても、緩和する働きはある。

 日常生活の中での個人と個人の話し合いでも、笑みを浮かべたり、相づちを打ったり、時には声を出して笑い合ったりして会話が進む。

 笑いの表情が全くない話し合いの場合、命令的か、けんかをしているか、いずれにしろ緊張をはらんだ関係ということになろう。協調としての笑いが交ざってこそ、円滑な人間関係が取り結ばれる。

 結局、人間にははじめから笑いの能力が与えられており、これなくしては、人間が人間として生きていくことはできないであろうと考えられるのである。笑いやほほ笑みなど、何でもないようなことが、私たちの人生にとって、まことに大きな意味を持っているわけだ。

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