ラベル 脳力を研ぐ の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 脳力を研ぐ の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2022/10/05

🟩脳力を研ぐ

∥仕事への体当たりで頭を磨く1∥

●人間の能力には伸びる時期がある

 私たち人間の知力を意味する「脳力」にしろ、体力や技術力をも含めた力を意味する「能力」にしろ、決して、一直線で伸びるものではない。

 世の中には、子供の頃は神童と呼ばれていたのに、社会に出て行き詰まる人間もいれば、若いうちは凡才と評されていたのに、人生の後半で伸び、懐の深い大人物といわれるようになった人間もいる。

 ところが、一般の人たちは現代の日本を学歴社会だと思い込んでいて、いい大学に入学した時点で、あるいは一流企業に入社した時点で、その人の長い人生が決まったという見方をする傾向があるようだ。

 私が思うには、学歴社会というのは大学の先生や官僚組織の一部においてのみいえることで、その他の世界では全く錯覚にすぎない。ほとんどすべてが実力の世界である。だから、今まで目立たなかった人間が、ある時から急に才能を発揮して伸び出し、注目を集めるということがよくあるのだ。

 明らかな実力の世界であるスポーツ界と、サラリーマンの世界とを比較してみれば、さまざまな面で著しい差があるにしても、芽の出ない状態の時やスランプの時に、体当たりの猛烈な努力の積み重ねがあったかどうかが、その後の伸び方の決め手になっていることだけは共通しているようだ。

 例えば、大相撲の力士やプロ野球の投手がある日突然、実力が伸びたように見えた場合でも、実際には、彼らが負けながらも、打たれながらも研究心を燃やし、肉体に力をつける厳しい練習を続けてきた結果なのである。努力で次第に実力がつき、ある日たまたまその一端が現れ、勝負に勝つと自信を持ち、その後は自信が実力をフルに発揮させるようになったのだろう。

 その日がいつくるかは誰にもわからないが、努力さえしていればいつかは必ずくるということの好例である。

 スポーツ界は結果が数字に表れるので、伸びたことが特にわかりやすい。ビジネスの世界や学業でも、同様に、ある日を境に突然力がつく、伸びるといったケースはよくあるもの。

 昔流にいうと、「艱難(かんなん)汝(なんじ)を玉にす」とか、「苦労それ自身に価値がある」ということである。

 そういう意味では、自らを窮地に追い込み、あがきながら最後まで手段を尽くし、全力投球するということが、頭を鍛える上で大いに役立つものである。

 こうした努力からは、たとえ上司が期待した水準の成果は出なかった場合にも、本人の持てる力からすれば、十二分のものが生まれているのである。その上、将来の成長のための潜在力が育成されるのであるから、本人にとってはかなりの成果が得られたといってよい。最初から与えられた仕事を避けた人に比べて、その後の人生において大きく伸びるチャンスをつかんだことにもなる。

 反対に、現在の困難を避ける人は、将来の伸びるチャンスを自ら放棄しているのだといっても過言ではないだろう。「こんな仕事、目立たないから嫌だ」などと、要領よく仕事を手抜きする人間は伸びない。

 与えられた仕事をどんなことでも、一生懸命やる人間のほうが頼もしい。

●働くほどに生まれる肉体の創意工夫

 会社のために一生懸命働くということは、直ちに自分のためにもなる。懸命に会社の仕事をし、それを通じて自己を磨く。そうして、絶えず向上しようと心掛けるべきだ。

 その仕事のために必要な知識や能力について勉強すれば、面白く、興味も湧いてくるだろう。労働するということは、本来楽しい、面白いことである。これを苦しい、つまらないものにしているのは、人間の自己意識のなせる業にすぎない。

 また、己の職業を天職と確信し、迷わず努力してゆけば、必ず仕事がよくわかるようになってきて上手になる。上手になれば、この仕事は自分に適していると思うようになり、面白くなってくる。そうなれば、もはやその仕事は苦労ではなくなり、道楽に変わるというものである。職業の道楽化は人生の最大幸福である、ともいえる。

 誰にも、「よし、やろう」と決意した仕事が見事に完成した時の、素晴らしく、楽しく、幸せな体験があるだろう。汗水たらしての艱難辛苦の後に、ついに険しい頂上を極めた時の感激はどうか。「万歳」と叫ばずにはおれないだろう。

 才能を伸ばすコツも、人生のコツもここにある。持っている力を出さず、何もしないで怠惰に一日を空費したのでは、夜は決して快適な眠りを与えてはくれない。人間がよりよく睡眠をとるためには、ある程度の疲労が必要条件である。

 ただ、その疲れは何でもよいというわけにはいかない。望ましい疲れは、例えばスポーツの後のさわやかな疲れを思い浮かべれば、誰でも思い当たるであろう。このさわやかな疲れは、昼間、それぞれの職分において、快適に働いた後に得られるものである。精いっぱい、自己を完全燃焼させて残る疲れであり、それによって自らを高め得た疲れである。

 こういう価値ある疲れこそ、夜、眠りによって自己を充実させる源泉になるものだから、職業の選択もおろそかにしてはなるまい。

 ビジネス界で精力的な活動家といわれた人物を観察してみると、決して無駄で余計な意識を使わず、明るく活発な「気」を集中させながら、自我意識を捨てて仕事に取り組んでいる。そして、全精力をその日一日の仕事に使い切る。これが大切なコツ、中途半端はいけない。手抜きやサボタージュは、肉体を一時的に楽にはしても、「気」の流れを妨げ、心にスキを与えることになる。

 その日一日の仕事に全精力を使い切るという心掛けの人は、性格も素直で明るく、健康で賢明で、社会的に成功者が多い。もちろん、肉体は疲れる。へとへとに疲れ切るだろうが、そういう人の肉体は、一晩ぐっすり寝ると疲労そのものが明日のエネルギーに変換しており、前日楽をして疲労しなかった人よりも元気で、精力的に働けるものである。

 肉体の巧妙さは、「気」エネルギーを出せば出すほど、使えば使うほど多く出るようになるという点である。働けば働くほど、肉体から知恵はいくらでも湧くのである。

 人間の肉体には、誰にでも宇宙根源の真理力という「気」エネルギーが潜在している。それは、肉体一色の命懸けの熱心さで仕事に励む時、はじめて力として、またヒント、アイデアとして、さまざまの工夫として現れるもの。

 当然、命を懸けるくらいの覚悟があるならば、物事に取り組む態度というものが、おのずと真剣になる。従って、考え方が一新し、創意工夫ということも、次々に生まれてくる。命が生きて働いてくれるからだ。

 かくして、そこから私たち人間が繁栄していく方法というものが、無限に湧き出してくるのである。この無限に潜んでいるものを一つひとつ探し求めていくのが、人間の営為であり、私たちお互いの、人間としての務めだ。「もうこれでよい、これで終わりだ」という考えは、人間の務めに反した考えだといわなくてはならないのである。

 人が命を懸けて仕事に励めば、命が働いてくれて、無限の知恵が出る。それまで隠されていた真理が現れて、素晴らしい働きをしてくれる。それは、命、すなわち人間の体、肉体が汲(く)めども尽きない力と知恵を発揮してくれる、という意味である。

●仕事の価値を知れば能率アップ

 さて、人間が仕事を進めるに当たっては、自らの実務能力を高め、限られた執務時間の中で能率的に事をなす努力も続けなければならない。

 そのためには、自分の仕事の重要性を認識して、取り組む心構えが欠かせないだろう。「書類を作成するなんて、つまらない仕事だ」と否定的に考えていれば、取り掛かる時も気力が充実し、意欲が出るどころではないし、ダラダラと仕事をして、つまらないミスを繰り返したりする。そもそも、人間の心理というものは、つまらないこと、簡単にできるやさしいことを前にしては、いくらやる気を出したつもりでも、意欲が高まらないのが普通なのである。

 逆に、「今作るこの書類一枚がなければ、会社の仕事は動かないし、私が少しでもミスをすれば、会社や取引先に迷惑をかけることにもなる」と、自分の仕事が重要で、価値あるものと認めれば、自然に書類を作成するのにも積極的になり、能率もアップするものである。

 同じように、人間は心理的に、先行きの予測が立たないことについては強い不安感を抱くもので、それが行動意欲の減退につながることが多いから、自分が取り組もうとしている課題の全体像を把握し、結果をある程度予測することが大切となる。

 一つの仕事に取り組む場合でも、全体の見通しが立つ条件と見通しが立たない条件とでは、仕事の結果に大きな差が出るものだ。

 まだ体験したことのない仕事をする際には、その仕事を経験した人の話を聞くなり、自分で調べたりして、情報を少しでも多く集め、自分が新たに挑戦する課題の全体の見通しを持つようにすればいい。

 自分の仕事の全体像をイメージできない例として、「大企業病」という言葉がある。企業が巨大になりすぎると、社員たちが大きすぎる組織の中で、自分の役割分担を見失ってしまうのが、病気の最大の原因である。

 無論、やるべきことは上司から指示されてわかってはいても、自分の仕事が組織の中でどのくらい重要性を持つのか、見当がつかなくなってしまう。こうなると人間は、与えられたことを与えられた時間以内にこなす以外、興味をなくしてしまう。仕事に創造的な喜びを見いだせず、いわゆるルーチンワークをこなすだけの人間になってしまう。

 そんな社員ばかりになれば、組織全体の生産効率は目に見えて落ちる。各職場ごとの社員に、向上意欲がなくなってしまうからである。

 自分の取り組んでいることに何の意義も感じず、自分の達成したことがどの程度、会社や社会の役に立っているのかがわからなくては、仕事に意欲を出して頑張ろうとしても、無理なのは当然だ。

 反対に、自分の仕事が必要とされているのだとわかれば、大いにやる気も湧き、次第に実務能力も高められていく。中小企業の中に多いが、社員一人ひとりが組織の中での自分の役割をつかみ、「自分がやらなければ」という気持ちで働いている会社は発展する。

 自分の仕事が確かに役に立っている。自分が製品を作ることで喜んでくれる人がいる。こうした意識を持てるかどうかは、仕事の張り合いにも大きくかかわってくる。張り合いややりがいは、人から与えられるのを待っていてもしょうがない。

 どのような仕事にしても、要は自分の見方、考え方次第である。何もあえて自ら自分の仕事をつまらなく考える必要はないから、自分の会社の製品を喜んで使ってくれているお客の姿を想像する。自分が仕事をしなければ、会社の中で支障をきたしたり、迷惑をかけたりする部署が必ずあることを考えてみる。

 こうしたことをイメージしてみるだけでも、組織の中の一員としての、自分の仕事の重要さを意識できるであろう。

●考える前に体で専念するがいい

 ここまで述べた工夫で、自分の役割の重要性、価値を認識しながら仕事に臨めば、意欲的に、楽しく業務を遂行できることだろう。たとえ単調な仕事であっても、「気」を入れて能率よく働けば、知恵が身につく。

 ここにも、業務に習熟し、自らの能力を高め、仕事を楽しみ多いものにするコツがある。誰もが「しなければならないからやる」という態度でするのではなく、価値ある仕事への努力に対する満足感、完成した場合の快感のためにやるように、心の持ち方を変えてみることである。

 スポーツは、自分の満足のためにやっているからこそ楽しい。もし、これが強制的に課せられた労働だったら、必ずしも楽しいものではなくなるだろう。同じことが仕事にも当てはまる。

 喜びとして、また自分の創造力の表現として見ることによって、仕事は楽しみとすることができ、そこから人生と仕事に対するゆとりが生まれてくる。実際にそうしている人々の例もたくさんある。

 「どういわれようと仕事なんか楽しくない」という人は、「仕事が嫌だなあ」などと考える前に、まずその仕事に飛ぶ込み、体で専念してやってみればいい。あれこれ考えずに、思いっ切り自分の体を動かすことが意欲につながる。最初に一歩を踏み出す。そうしてはじめて状況は動く。

 ほんのちょっとした行動を起こすだけでも、状況は大きく変わり、仕事、あるいは勉強に集中するきっかけを作ることになるもの。机に着くだけでいい。書類をペラペラとめくるだけでもいい。鉛筆を手に持って、ノートに何でもいいから書いてみるだけでもいい。 とにかく、行動することが大事なのである。書類を眺めたりしているうちに、次第に「やはり今のうちにやっておいたほうがいいかな」という気持ちも生まれてくる。そこで「よし」とやる気を出せばよい。

 すぐ行動する習慣を自分のものにし、ここ一番という時に意欲を燃やし、その集中力を持続させるエネルギーを持つためには、ふだんからスポーツなどで体を動かす習慣を持つことを勧めたい。

 日本の優秀なビジネスマンも、体を動かすことで仕事への意欲を喚起しているようだ。経営のトップにある社長、第一線のビジネスマンや現場を統括する管理職たちは、それぞれ「出社前に水泳をすることで、まず体にエンジンをかける」、「毎朝のジョギングの後に朝風呂に入って心身をリフレッシュさせてから出社する」、「毎朝五時に起床して近くの公園を散歩してからラジオ体操をやる」と、ビジネス雑誌などで独自の体を動かす健康法を語っている。

 これらの運動は、健康管理の一つの方法であるとともに、自分の意欲を喚起するためのものでもあるはずだ。体を動かすことで精神も興奮する。仕事をしなければならないという積極的な気持ちが刺激され、「怠けたい、仕事をしたくない」というマイナスの気持ちを上回る。そこで、今日一日の仕事への意欲が生まれてくるというわけである。

∥仕事への体当たりで頭を磨く2∥

●集中力を持続させる気分転換法

 意欲を喚起する方法の一つとして体を動かすのに、時間や場所にこだわる必要はない。仕事や勉強をしている最中、「能率が落ちてきたな」、「ちょっとダレてきたな」と自覚したら、その場で椅子(いす)から立って、背伸びや屈伸運動をしてもいい。床に手をついて腕立て伏せをしてもいい。

 運動の種類は何でもいいのである。要は、体を少し動かすことで、心に活を入れればいいのだ。

 仕事が順調にいかない時や、イライラして手につかない時には、会社の屋上へ出てみたり、トイレに入って、ゴルフのスイングや野球の素振りのまねをしてみるのもよい。会社の階段を駆け足で上り下りしてみるのもいいだろう。これだけでも、気分が爽快となり、「もう少し頑張ってみよう」と、全身に意欲がよみがえってくるものである。

 このように、ただ自分の体を動かすだけでも効果があるが、仕事中にキビキビと素早い動作をするようにすれば、心のエンジンも始動する。

 ダラダラと緩慢な動作で仕事をしていたなら、意欲も湧かないはずである。一方、キビキビと素早い動作で仕事をしてみると、不思議に意欲が出てきたという体験は誰もがあることだろう。

 緩慢で鈍い動作では、体に興奮が起きてこないから、精神も興奮しない。動作を素早くすると、自分の体にすぐに興奮が起こり、精神にも興奮が伝わる。体のエネルギーが心のエネルギーに変わり、意欲が出てくるというわけだ。

 そこで、仕事に気乗りがしない場合には、書類をめくるスピード、文字を書くスピード、何でもいいから自分の動作を早くしてみることを勧めたい。

 さらに、キビキビした動作とともに、リズミカルな動作で仕事を行うこともぜひ勧めてみたい。

 熟練した大工、左官、庭師、土工などの仕事ぶりを見ていると、仕事の上手な人ほど体がリズミカルに動いていることに気がつくだろう。頭脳的な仕事をする場合の心身のリズムも、これと同じ理屈である。能率の悪い人は、何か一事を始めても完全にやり終えないうちに、中途半端なところでほかのものに手を出したりして、仕事に少しもリズムが見られない。

 そういう人は、ある時間、決して無駄で余計な意識を使わず、一つの仕事だけに熱中するようにすれば、おのずとリズムが生まれてきて、意欲が出るから能率が上がるものである。

 といっても、やたらに根を詰めて仕事をするように、勧めているのではない。むずかしい仕事を一気に片づけようとするのでは、息が続かなくなるから、途中でペースを調節しながら気力を一新し、能率をよくする工夫をしなければならない。

 人間の集中力とは、一種の瞬発力である。時間がたてば、次第に減退するのが当たり前といえよう。では、いかに気力を一新し、気分転換をうまくはかるか、そこにどう心を配るかが、集中力の持続を左右するカギとなる。

 仕事でも、例えばルーチンワークは、自然と手順がマンネリになってしまうものだ。そこで、業務に支障が起きぬようにしながら、順序を変えてみる。反復作業はワン・パターンに陥りがち、手順を変えることによって、緊張感が回復し、能率が上がる。

 場所を変えてみるのも一案。哲学者が散歩をしながら考えるというのも、思索に集中し続けるためと思われる。

 手順や場所など目先を変えただけでは、どうしても集中できないという場合は、作業を中断し、仕事を再検討してみる。期日が迫っている仕事でも、やはり飽きはくる。焦れば焦るほど集中できないという矛盾にも陥る。そこで、今までどれくらい作業は進んだか、スケジュール通り進めていいのか、期日までにはどのくらいのペースでやればいいのかなど、再検討してみる。そして、緊張感が戻るのを待つのである。

 作業を思い切ってやめ、何もしないのも手である。この何もしないは、文字通りテレビ、ラジオ、散歩などすべて許されない状態とすること。そのうち反動で、何でもいいからやりたいという意欲が、湧き上がってくる。

 気分を換えるのと、現実離れした状況に自分を置くことで、かえって頭の疲れがうまくとれるものなのである。

●将来展望から今日一日を考える

 人間が仕事や勉強に意欲を燃やし、能力を高めるための工夫を各種述べてきたが、そもそも、私たち人間の体は働きそのものである。仕事や勉強に忠実、勤勉の毎日を積めば、将来の生活の基礎となる自己というものが確立するはずである。

 その点、一日を大切にすると同様に、自らの将来のことでも、自分の家庭のことでも、会社の仕事や経営のことでも、先の先を読み取ること、壮大でかつ綿密な先見性という能力を身につけることも大切となる。長い単位としては二十年後、中期では五年から十年後、短期でも一年から二年先までの状態を見つめる。

 二十年先にはどうなっているか、どうすべきかと考える。そのためには十年後にはどうなっていなければならないか。その十年後の自分や家庭や会社の理想の状態を可能にするには、一年後にはどう進展していなければならないか。さらに、そのためには明日、そして今日やるべきことは何かを考える。

 二十年後という大きな展望から、今日やるべきことまでを考えるのである。二十年後の状態というのは、まだボンヤリとしか見わたせないだろう。

 それを十年後、五年後、一年後といったように細分化してゆくと、今日やるべきことにたどり着く。つまり、今日一日の実行すべきことというのは、一見見えないようであっても、実は二十年後にちゃんとつながっていくのである。

 こういう将来展望という大目標、今日一日やるべきことという小目標は、人間にとって非常に大事である。人間は目的に向かってこそ、努力をしたり、苦労をしたりできるもので、それこそ雲をつかむような漠然とした状態では、意欲を高めようもない。

 だからといって、あまりにも現実離れした高い目標を掲げてしまうと、人間はその能力を発揮できないものである。

 目標が適度だった場合には、人間は「よし、やってやろう」という気になる。それが大きすぎたり、高すぎたり、漠然としたものでは、気持ちがついていかない。

 成功した人の話を聞いてみると、大目標と小目標の使い分けがうまい人が多いものである。「絶対社長になろう。会社を十倍にしてみせる」などと、十年後、二十年先の大目標はもちろん持つのであるが、「まずこの目の前にある仕事を成功させるのだ」、「今度の商談は絶対にまとめてみせる」と、ちゃんと目に見えやすい小目標も同時に持っている。 誰にでもつかみやすい単純な目標は、人間に力を与える。頑張れば達成できそうだと思えれば、人間は気持ちが前向きになるのである。

 誰もが「どうしてもこれをしなければならない」と没頭し、成功した体験の一つや二つはあるはずであり、それは目標が明確であったからである。

 成功したいという決心、それに向かっての情熱、意欲が人生における成功のカギであるが、目標を明確にすることによって、それに向かって能力を磨けるし、目標があってはじめて生きがいも生まれるのである。

>

 生きがいとなる大目標についていえば、例えば金持ちになりたいという気持ちは、人間誰にもあるはずだし、努力もしているだろう。しかし、ここから先、アプローチの仕方が重要なのである。

 企業内で出世することによって高収入を達成するのか。事業を起こして金持ちになるのか。あるいは、プロのスポーツ選手や音楽家などを目指して実現しようとするのか。

 方法は多様であり、どれを選択するのかをまず決めることからスタートしよう。その上で、実業家を目指す人であれば何年先に自社所有のビルを持つのか、持つとすれば何階建てにするのか、場所はどこにするのかなどと、できるだけ具体的にしていくのである。

 学者になりたいという人であれば、専門の分野は何か、どの大学で教えるのか、はたまた、世界最先端をいく学者としてノーベル賞を目指すのかといった点まで、明確にすべきである。

 また、目標は一つでなければいけないということではない。それどころか、学校や仕事における目標、家庭生活における目標、さらにはトータルなライフスタイルでの目標と、異なる方面ごとに目標を掲げ、それぞれの達成に向けて積極的に挑戦し、情熱を傾けることを勧めたい。

●人生における大きな目標を掲げよ

 人生における目標は、大きければ大きいほどいい。あまりにも現実離れした目標であってはならぬが、自分の能力以上と思われる大きなテーマを目標として、「やってみよう」と決断し、全力で取り組むことが、人生においては大変大切なことである。成功している人はすべて、その道を通ってきている。

 逆に、小さな目標を設定し、それすら達成できなければ、計り知れないほどのダメージを受け、立ち直るのに時間がかかる。

 大きな目標を掲げた場合は当然のことながら、自分の能力との食い違いを埋める努力をしなくてはならないし、挫折感を味わうことにもなろう。だが、それを繰り返してこそ能力、才能というものは磨かれていくのである。

 その上、人間は目標を突破するたびに、自信がついてくるはず。目標を一つ越えるたびに、積極的で、たくましい人間に変身していくのだ。

 別の言葉でいえば、大きな目標に向かうということは、苦難の連続でもあるわけだが、それを突破するたびに信念がより強固になり、そうなれば、自分でも気づかなかった潜在能力が次々と開花し、文字通り奇跡をも起こすことが可能になってくるのである。胸に抱く夢の大きさが、その人の将来の大きさを決定する、といってもよい。

 同じ高さの山を見ても、一方は大きな山だと感じて引き返し、他方はとにかく登ってみようと挑戦する。いうまでもなく、能力をいかんなく発揮して大きな成果、成功をものにすることができるのは、後者のような積極的思考の持ち主である。

 「自分には大きな目標を達成することができないのではないか」と恐れていては、いい結果は生まれない。楽観的、かつ積極的に、「山は登れる。必ず成功する」と確信して取り組むところに、創造的で無限の供給を得て事をなし得るのである。

 この点、成功者と呼ばれる人物は、並みはずれたやる気あふれる努力家であり、忍耐力、あるいは信念が強かった人たちである。

 反対に、何をやっても成功しないという人は、あまりにあきらめが早く、不可能という言葉に慣れすぎているだけであるといえる。ここで認識すべきは、目標を明確にしたら、今度は、目標達成に一歩でも近づこうと真剣な姿勢をとること、我慢強く努力すること、信念を持って行動すること、それが成功への次のステップであるということだ。

●大脳を刺激する早起き生活の実行

 人生における目標を達成するエネルギーを発揮し、将来につながる大切な今日一日の時間を有効に使うために、私がぜひ勧めたいことの一つに早起きの実行がある。

 なぜなら、早起きをしていると、心身が宇宙天地大自然のリズムに等しくなり、ふだんは表に出ない能力まで、発揮することができるパワーが得られるからである。

 同時に、早起きをしていると、物事を明るく前向きに考えるようになり、日常生活の幸運も、ビジネスチャンスも、自然に開けてくるものである。

 人間の肉体の生理面から考えても、早起きが明るく、前向きな気分にしてくれることが納得できる。人間の体温は、午後二時頃にピークに達する。逆に、夜中の二時から四時頃に最低になる。体温が低いというのは、いい睡眠をとるためには非常に大切な要素である。そして、最低になった頃から体温は徐々に上昇し始める。この体温が上昇するということは、とりもなおさず睡眠と逆、体が覚醒(かくせい)してゆくための条件である。体が生理的に順調に目覚めていくタイミングに合わせて、午前五時頃に起床すれば、心身が気持ちよく目覚めていくのは当然なのである。

 だから、さっぱりと快い早起きは、追い詰められた気持ち、焦燥感、いら立ちなど、心身の病気の原因になる心の傾向をなくすことができる。加えて、人間の頭を柔らかくして、先入観や固定観念などを取り除き、頭の自由自在な働きを可能にするのである。

 人間の五官や感性を養うのにも、早起き生活が大いに役に立つ。人間の発生学的に大脳と最も近い関係にある皮膚感覚を、早朝のフレッシュな空気に触れさせ、刺激を与えると、目、耳、口、鼻といった感覚器官を敏感にし、大脳の感情をつかさどる部分を豊かに発達させ、感覚を磨き、感性を豊かにすることにつながるのだ。

 この点、大脳生理学の専門家によれば、人間が誰でも年を取ると自然に早起きになるのは、肉体的にも精神的にも衰えてきたことから生じる、身体の自己防衛作用の働きによるものだという。

 それならば、若い人たちが朝早く起きることで大脳に少し刺激を与えてやれば、大脳は人間に備わった自然治癒力をより活性化させることになる。すなわち、生命のリズムもまた、朝早く起きることで、その活動を活発化させることができるということなのだ。

 さらに、早起き生活で貴重なことの一つは、時間がたっぷりあるから余裕を持てるということで、人間の精神に奥深い落ち着きを与えてくれる効果がある。

 世の中で駄目な人間といわれるのは、その場限りで物を考えたり、行ったりするタイプである。朝ぎりぎりで起きて勉強をしたり、仕事をしたりという行動パターンでは、どうしても先のことを見ていないということにならざるを得ない。遅寝遅起きの人にありがちな失敗は、余裕のなさが大きな原因である。精神の落ち着きや先を見る先見性など、持てるわけがないのである。

 早起きをする人は、そこが違う。優れた企業の経営者などは、経営の先の先まで読み取る重要な時間として、早朝の時間を活用している。壮大でかつ綿密な先見性を身につけるには、真の余裕というものを持つことのできる早朝が最適だからだ。

 目覚めて気合よく起きれば、気持ちは昨日という後ろを向くことはない。集中的に前を向くようにできている。だから、誰もが早起き生活を持続していれば、おのずから先見力も磨かれてくるのである。

 早朝という時間は、誰にもじゃまをされない上に、毎日確保することができる。しかも、多くの人が過ごしてしまう夜の酒やテレビという時間を朝に振り替えれば、集中できる状態で勉強や仕事に注げるのだ。

 実践すれば気づくこと。早朝ほど集中力が継続し、勉強などの成果が上がる時はまずない。朝二~三時間早く活動し始めると一日が凝縮され、充実したものになる。自分にとって無駄な時間がなくなるのである。

 仕事のための勉強に限らずとも、健康のためのスポーツ、趣味や教養のためのサークル活動に活用してもいい。例えば、目覚めてすぐに軽い散歩や体操を行えば、大脳に快い刺激を与え、脳は活発に動き始めることにもなる。これが本当に身につけば、一日の脳の活動時間もずっと長くなり、二十四時間をかなり有効に使えるようになるのは当然だ。

‖読書で脳細胞を刺激する1‖

●尊重したい脳細胞の要求

 人間は一日ざっと、八時間くらい眠る人が多いようだから、生涯の三分の一は床の中という計算になる。睡眠に費やす時間がもったいないからと、省略するわけにもいかなければ、まとめてすます寝だめもできない。

 人間は、人生の三分の一を、眠りに当てなければならないようにできているのである。 それはなぜかといえば、まさか人間を使って試してみるわけにはいかないが、小犬を眠らせない実験をすると、脳細胞は一週間もすると壊れ始める。

 つまり、脳細胞は鋭敏な代わりに、すこぶる疲れやすいものなのである。人間は脳細胞の疲労回復のために、眠るわけだ。

 「ああ、眠くなった」というのは、脳細胞が「もう疲れました」と危険信号を発しているものと思っていいだろう。

 よく「眠れない、眠れない」と、こぼしている人があるが、脳細胞は疲労がぎりぎりのところまでくると、必ず休息、すなわち睡眠を要求する。極論すれば、眠くない人は、眠る必要がないのだといってもよいくらいである。

 いずれにしても、脳細胞の要求は尊重したいものである。

 というのは、脳細胞は百四十億から百五十億あり、その中の四億個がものを考える作業をする細胞であるが、これら脳細胞の成長は十八歳から二十歳までがピークで、その後は減りこそすれ決して増えることはない上に、一度壊れたら最後、いくら養生しても埋め合わせのきかない貴重なものだからである。

 手足の皮膚の細胞などは、少々の切り傷、擦り傷ではびくともしないが、脳細胞はちょっとわけが違う。眠りによって脳細胞を休ませる必要は、誰もが拒めない義務のようなものであるわけだ。

 この脳については、すでにギリシャ時代、医学の祖ヒポクラテスが、次のように書き残している。

 「人間は脳によってのみ、歓びも、楽しみも、笑いも、冗談も、はたまた、嘆きも、苦しみも、悲しみも、涙の出ることも知らねばならない。特に我々は、脳あるがゆえに、思考し、見聞きし、美醜を知り、善悪を判断し、快不快を覚えるのである」。

 現代の日本の脳生理学者は、「脳が人間のすべてであり、高度に分化発達した大脳皮質である新皮質のすべてが人間性の根源である」といい切っている。右脳と左脳の役割分析も、注目されているところだ。

 私は脳も体の一部分で、人間は脳とすべての器官を使って考えているという見解に立つにしろ、精神と心の問題は、脳の働きと切り離すことができない。「気」によって、健康が大きく左右されることは、日常体験していることであるが、肉体に生じる「気」が湧きいずる座の一つは、大脳辺縁系にあり、精神と肉体のバックボーンになっているのである。

 人間の若さは、大脳に集約されて表れるといっていい。脚が衰えると長生きできないといわれるのも、足の筋肉から大脳へゆく信号が減り、弱くなるためである。歩く時には足の筋肉が働いているので、その中にある感覚器の筋紡錘からは、しきりに信号が出て大脳へ。大脳は感覚器から網様体経由でくる信号が多いほどよく働き、意識は高まって、頭ははっきりするようにできている。

 しかし、脳細胞を老化させるのは足などの筋力低下だけではない。精神生活でストレスや不安が続いたり、気疲れしたりすると、大脳に強いダメージを与える危険がある。

 逆に、喜びの心、たくましく生き続けようとする盛んな意欲などは、大脳の若さを保つ特効薬である。

●読書で頭脳を明晰に保つ

 そして、決して枯れることがない知識欲を満たす読書、それによる感銘などは、確実に若さをよみがえらせてくれる原動力になる。

 本に夢中になりすぎて、悪い姿勢を続け、体調を崩すのは感心しないが、誰もが余裕があるなら、せめて一日に一、二時間ぐらい心の糧となるような書をひもとく時間を持ちたいものである。

 人間は年を取るにつれ、つまらない雑用がやたらと多くなる。読むものは新聞、せいぜい週刊誌程度である。よほど向上心の強い努力家でない限り、研究書や新刊書の読破、あるいは古典の世界を散策するなどのことは不可能に近い。

 だいたい、年を取るにつれて知識欲も薄れ、求知心に乏しいのであるから、吸収される知識はきわめて微量でしかない。

 これでは大脳を刺激する適量にも達しないのであり、脳の血流の貧困から脳軟化症をわざわざこしらえているようなもので、忘却現象が加速度を駆って起きるのは当たり前である。

 現実はかくのごとくであるから、特に老人は努めて客観の世界を風化させないよう努力する必要がある。それには若い人に交わったり、読書などで新知識を求めることを怠らぬことである。それこそ頭脳を明晰に保つ方法なのである。

 定年退職した人の場合などは、余裕のできた時間を活用して、読書の趣味を持つことで、今までの仕事だけが生きがいだという、狭い価値観を作り替えることもできるはずである。

 老年や壮年ばかりでなく、若者も心掛けて、読書などで頭の訓練もうんとやっておくべきであるし、肉体の訓練のほうも怠ってはならない。頭と体の練磨が、人間性の「培根」につながるからである。

 培根とは根を培(つちか)うと書くのであり、すべて物事には根があり、根源の問題がある。例えば、人間の体をはじめとして、命には命の根があるというようにである。

 人間は、常に物事の根源は何かを探究すると同時に、その根本を培い、養うことが大切である。根本をおろそかにして、結果のみをむさぼれば、万事は労して功なく、そのために多大な損失を招き、ついには命取りになりかねない。だから、根の力が充実するほど、物事は発展し、生長し、繁栄するという自然法則に従って、学習に、健康に、あるいは事業に、決断に努力すべきである。

 言い換えれば、培根とは天に通ずる感覚力の培養である。この培根を忘れた企業は、必ず弱体化する。これを人間に当てはめれば、若いうちにせっせと根を培い、修行しておくべきだということになる。山登りでも、スポーツでも何でもよい。つらいと感じること、苦しいと思うことをやり抜いて、自分に記録を作っておくことが肝要だ。生涯のうちどれほどプラスになるか。そういう体験なくして青春を過ごすことは賢明ではない。

 むしろ進んで苦しい体験をしておくべきだと思う。老後の健康生活のために、若いうちにしておいた苦しい体験は必ず役に立つ。

●いつかわかることとの出合い

 独り肉体の経験だけでなく、読書などで頭の訓練もうんとやるべきだ。ことに吸収力の強い十代、二十代は、何でも広く取り込んでおくのがよい。乱読で少々雑学に流れても、いろいろ色彩豊かに吸収しておくがよい。

 乱読や多読は、ともかく量を読むことを第一にしているといってよいだろう。一方、精読、熟読は、はじめから終わりまで、一字一句ゆるがせにせずに読んでこそ、著者の考え方が理解できるという考え方に立っている。

 その一つの乱読は、知的好奇心から始まる。好奇心を持って読んだ本は、たとえ乱読といえども情報として脳に記憶される。そして、それが新たな好奇心を呼び起こし、人間は欲求を満たすべく、さらに多くの本を読もうと、自然に効率的な読書法を身につけていくのである。

 特に若い人は、いつか真理がわかるその日のために、前もって多くの本を手当たり次第に、読んでおくことが大切ではないかと思う。

 読書の対象を広く持ち、あれもこれもと、あらゆる分野の本に手を広げてみると、よほど性に合わないものでない限り、興味が湧き、知識が深まり、さまざまな発想も得られるはずである。

 また、いつかわかるために一生懸命、突き詰めて読書し、考えておくことも大切だ。そうすれば必ず、わかるタイミングが向こうからやってくるのではないだろうか。

 本というものは、少年少女の頃はじめて読んだ時には全然意味がわからなくても、空暗記して、お経のように、口ずさむことができるようになると、次第に、意味がわかってくるものだ。「読書百遍意自ら通ず」とはよくいったもので、まさにその通りである。

 こうした乱読、精読を通じて、若いうちにしておいた読書体験は、必ず役に立つ。日頃から幅広く、あるいは突き詰めて本を読んでおくと、思わぬ時に、思わぬ形で、目先の障壁を突破する視座を与えられるものなのである。若い時は二度ないからこそ、若いうちでなければできない貴重な体験をしておくべきだ。

 要は読む習慣をつけることが大切なのであり、それが自己啓発につながると、必ず将来役に立つ時がくる。大きく伸びるためにはぜひ必要である。

 こうした読書習慣を通じて、大きく伸びた人物の一人として、ナポレオンがいる。ナポレオンの睡眠時間がたった四時間だけだったという話は有名であるが、後の二十時間、彼はひたすら読書をしていたのである。

 政治力、戦略、軍事力、指導力をはじめ、人格すらも、独特の読書法から培われたといわれている。彼はその自分の頭脳に基づいて、大帝国を築いたのであった。

 イマジネーションが頭に目覚ましい影響を与えることは、周知の通りである。イマジネーションというものは、右脳がまず働き、次にそれが左脳をリードすることによって生まれ、創造力につながっていくのである。そして、この両者の機能を意識的に使い分け、想像力を磨く訓練をすれば、右脳を含めた脳の機能全体の活性化につながっていくのである。

 つまり、読書を通してイマジネーションを働かせることが、思考力を養い、頭をよくするということである。

 空想や夢想といったものは、現実的な力にはならないと思いがちだが、これこそ創造の源泉であり、優れた発想のためには必要不可欠なものなのである。そのためには、読みながら考えることが大切である。

●通勤電車の書斎化の勧め

 時間に比較的余裕がある学生などと違って、社会人や主婦などの中には、読書に振り向ける時間がないという人も多いだろう。

 しかし、社会人の場合は、どうしてもある程度は本を読む必要がある。今日のように日本経済を動かす要因や企業成長の要因が複雑であって、それを理解するには膨大な知識や情報が必要な時には、何としても本を読む時間を見いださなくてはならないだろう。

 「忙しいので時間がない」というのは言い訳であって、読書の意欲さえあれば自然に時間を発見できるものだ。

 そこで、確実に本が読めるように、日常生活の中で必ず行うことの中に、読書を組み込むことはできないだろうか。可能ならば、必ず読書の習慣が身につくはずである。要するに、習慣化する工夫が必要なのだ。

 毎朝、早起きをして、社会人なら出勤する前、主婦なら家事をする前に三十分でも、一時間でも読書をすることが最もお勧めだが、通勤時間を活用して本を読む時間を生み出すのもよい方法である。

 今、大都市を中心に通勤に使われる時間は年々長くなっている。片道三時間以上かかる距離を通勤している人もいるようだが、片道一時間半はもはや普通のこととなっている。往復三時間、一日の八分の一もが、毎日の行き帰りに費やされているわけだ。

 このように相当の時間を通勤にとられざるを得ないとすると、問題は当然、その時間をどのように有効に活用するかにかかってくるだろう。

 電車やバスの中で本や新聞や雑誌を読むことを、すでに実行している人もかなりいるはずだが、工夫次第で、もっと徹底した通勤時間の読書活用法も考えられる。

 まず、朝早く起きる習慣をつけて、一時間ぐらい自主的に出勤時間を早めて自宅を出ると、新聞さえ広げられないラッシュ前のすいた電車やバスに乗れるから、座席に座ってゆったり読書できる時間を中心に、一日のスケジュールを組み替えることができる。

 今やエレクトロニクス技術の発達で、ワープロやパソコンやビデオなどが一般に普及している時代である。どうしても見たい夜間のテレビ番組などはビデオに録画して、暇な時間に見るのが無駄がなく便利である。ハイテク機器は有効に使うべきで、眠いのを我慢して、深夜までテレビに付き合う必要はないから、やる気があるなら早起きはできるだろう。

 次に、このようにして朝の電車やバスの座席を確保できたら、貴重な通勤時間の利用法を前もって決めておくのである。この時間こそ自分だけのために使える時間だから、思い切り自分の好きなことをすればいい。

 読書に意欲がある人なら、往復二、三時間の通勤電車内を動く書斎にして、せっせと励めるはずである。すいた車内で、座席を確保できるから、本の欄外に感想などを書いておくこともできる。

 机に向かわないと読書意欲が湧かないという人や、他人の存在が気になって読書に集中できないという人は、まず一日五分頑張ってみる。そして、十五分、三十分、一時間と徐々に目標を伸ばしていく。それが、電車やバスの中で、自然に読書に集中できる道である。

 通勤電車などが落ち着ける空間になったら、しめたものである。ゆっくり本を読めるようになれば、通勤電車の書斎化に成功したことになる。毎朝、電車やバスに乗る際は、読みたい本の一、二冊は持っていくことを習慣にすればいい。

 もちろん、読書ばかりでなく、仕事中心の人ならば、電車内で今日の計画を立案したり、明日の計画を考えるのもよい。アイデア開発に興味のある人ならば、カード片手にアイデアや創造性開発を研究するのもよい。囲碁や将棋の好きな人ならば、ゆったりと定石集を読んで勉強するのが楽しみとなるだろう。

 また、もっぱら英会話など語学の勉強をするのもいい。今は小型のカセットテープレコーダーやウォークマンがあるから、超満員の電車では、手を動かさなくてすむ会話の学習に最適だろう。

 このように通勤時間を利用して、人にはまねのできない大きな仕事をしている人はたくさんいる。彼らは、通勤の時間をただボンヤリしていたり、スポーツ新聞を読むことなどに費やさないで、電車やバスの中を自分専用の移動書斎、移動研究室にして、もっと有意義なことに計画的に活用しているのである。

 新聞などは朝食の時にさっと目を通すだけにして、乗り物の中では、読書をしたり、計画を立てるとか、工夫を凝らすといった創造的なことに専念する。詳しく新聞を読むのは、頭の疲れた帰りの電車の中にするといった工夫こそ、通勤時間を有効に使う方法なのである。

 朝は、すいた電車の中でゆっくりと本を読んだりして会社に着けば、始業までなおたっぷり時間の余裕があるので、一仕事も二仕事もできるだろう。普通の仕事に使わず、創造的な思考の時間に当てるのも一案である。

∥読書で脳細胞を刺激する2∥

●自分流の読書時間を作り出す工夫を

 朝の自宅や朝夕の通勤電車内に限らずとも、工夫すれば、もっと多く読む時間を作ることもできる。一般に、「最も多く本を読む人は、大抵最も多忙な人だ」などといわれている通り、読書家はいろいろと工夫をして、時間を作り出しているのである。誰もが、これにならうことができるはずである。

 一つ目は、読みたいと思っている本を、常によく目につくところに置くこと。机の上や寝室の電気スタンドのもとに、いつも本を置いておく。台所や電話台、浴室やトイレなどにも、しっかりした読み物を置いておくといい。つまらない雑誌類に目を通すよりも、ちゃんとした本を読んだほうが、どれだけ将来の飛躍のためになるかわからない。

 さらに、訪問先で待たされる場合や、医者や歯医者や床屋や美容院などで順番を待つ時間に読むために、適当な本を常に用意しておく工夫もできる。車の修理とか、駐車している時間に読めるように、自家用車の中に、本を備えておくのもいい。

 たとえ五分という短い時間であっても、本を読むことに当てるならば、わずかな時間が積もり積もって大きくなるのである。

 以上は時間に追われた人のための苦肉の策であるが、いうまでもなく、ゆったりした読書の時間がとれれば、それに勝ることはない。

 私は早寝早起きで早朝に読書することを勧めたいが、人によって環境も生活スタイルも違うし、朝型の人、夜型の人というように体質も違うので、それぞれ自分に合った読書法があるに違いない。

 例えば、勤め人が残業して帰宅した後、九時から十一時までを読書時間とするというのが自分に最も合っていると考えれば、もちろんそれでもよいだろう。

 仕事で疲れて帰ってきた後で読書するのは苦痛に決まっているから、その苦痛に耐えて体を慣らすのには、かなりの期間の苦しい生活があるはず。この苦しさにどのように耐え抜くかという工夫が、大事なのである。

 その習慣に体を慣らすためには半年ぐらいはかかるし、この期間中は疲労との闘いに精神力が奪われてしまうので、読んだ内容はほとんど頭に入らないかもしれない。しかし、この期間をすぎれば、まだ抵抗感はあるものの、自然に軌道に乗り、一年も続ければ、苦痛どころか読書の楽しみが湧き、内容がどんどん理解できるようになる。

 これは読書が習慣化して、呼吸するのと同じように、一種の生理的な行動になったと見てよいだろう。一度そうなると、今度は机の前に座って本を広げなければ落ち着けないようになる。大げさにいえば、毎夜の習慣が何かの事情で妨げられると、体のリズムが狂うような気にすらなる。

 「いや、仕事で疲れ切って帰った後では、とても勉強できない」と信じ込むのでは、「人生における挑戦をあきらめて安易な道をたどっている」といわれても仕方ない。

 「一般のサラリーマンにとっては、学者と違ってゆっくり読書する暇もないし、むずかしい本などなかなか読めるものではない。仕事をみっちりやって肩が凝り、疲れているのだから、がらりと調子を変えなくては、とても堅い本を読むなどという気分になれるものではない」という人は、机に向かって読書するのではなく、リラックスできる場所で、楽な姿勢で本を読んではどうだろうか。

 生活のリズムを完全に変え、リラックスすることができるという意味では、風呂場は最もふさわしい場所といえるし、寝床も適している。

●読書の成果を身につけるには

 次は、工夫して時間を作り出し、読書に当てた成果を確実に身につける方法である。

 単行本にしろ、新聞や雑誌にしろ、ただ読んだり、読んで赤線を引くだけでは、その情報や知識はなかなか自分のものにはならない。それらをしっかりと身につけてしまうのに最適と思われる方法は、読んだことを口に出して話してみることである。

 特に効果的なのは、読んだ本の概要を翌日、人前で話すことだ。復習ができ、重要なことは頭の中にしっかりと刻み込まれる。また、人からの質問や批判があって、それに十分に答えられなければ、自分がいかにあやふやにしか理解していなかったかがよくわかる。その点をもう一度読み返してみれば、さらにはっきりと理解でき、忘れないものだ。

 そうしたことを繰り返していると、本を読む時にも、後で他人に要約して話せるようにということを意識して、考えながら読むという習慣ができてくる。一章を読み終えたら、その要約を考えたり、あるいはページごとに余白に一、二行要点をメモしたり、といった自分なりの方法が身についてくる。実は、こういった習慣が読書の成果を自分のものとする、最も重要なポイントだと思われる。

 もう一歩進めて、読んだ本の要約や自分の感想、意見を文章にまとめてみるという方法は、読書を自分のものにするという意味では最も効果が高いだろう。

 書くことについて少し話を広げると、読んだ本についてのみならず、自分の考えを文章にしてみることは、頭を鍛えるという点で非常に重要な意味を持っているものである。

 口でしゃべっている時には、少しぐらい論理を飛び越しても気がつかないものだが、文章にしてみると、前と後ろが全く結びついていなかったり、論理が矛盾したりしていることがはっきりして、自分の考えがいかに整理されていないかを嫌というほど思い知らされるものだ。

 文章にするということは、つじつまを合わせる技能を身につけるために、ぜひとも必要である。

 人にある種の感動を与え、人を動かすには、説得力が要求されるものであり、その説得力の第一のポイントは、つじつまが合っていること、すなわち、論理的に首尾一貫していることである。その首尾一貫性が、話し手の信念となり、迫力を生むのである。そのためにも、書くという作業はなかなかに苦しく、大変な努力を要するのも確かだが、ぜひ自分の考えを文章化する習慣をつけたいものだ。

 文章化する場合も、一冊と限らず、関連する書物数冊を合わせて一つの文章にまとめるとなると、ちょっとした研究レポートの色彩を帯びてきて、内容の理解は大幅に広がり、深まるものである。

 だが現実には、仕事に必要なテーマを与えられでもしない限り、自主的にこういう努力をするのは至難の業であろう。やれば必ず効果がある方法とはいえど、少し負担が大きすぎるので、すべての人に勧めるというわけにはいかないように思える。

 誰にとっても現実的な方法で、文章化する力を身につけるためには、メモや日記などのごく個人的な記述から手掛けるのがよいだろう。人に提出するレポートではないので、起承転結の整った文章である必要はない。

 もちろん、文章は上手なのに越したことはないが、ここでいう書くという作業は、自分の考えを紙の上で整理するためのものであって、取り立てて文章の上手下手を問題にしようとは思わない。まず、何よりも自分の考えを正確に、きちんと整理する力を身につけることであり、文章の味わいとか文章力はその次の問題である。

 そこで、個条書き程度でよいから、自分の考えや感じたこと、読んだ本の内容などを毎日メモすることだ。

 この程度のことでも、最初はかなり苦痛を感じることだろう。しかし、読書と同じように、これも半年も続ければ習慣になる。そうなればどうということもない。文章を書くことは、言葉を覚えると同時に、漢字を覚える一石二鳥の効果もあるのだ。

●新聞や雑誌をうまく活用するコツ

 読書に関連して、新聞もまた誰にとっても身近な活字情報であり、ビジネスマンには重要な情報源である。

 ビジネスマンが接する新聞は、各地域によって多少は異なるだろうが、朝日、読売、毎日などの中央紙とブロック紙や地方紙、業界紙などいくつかの種類に分けられる。

 日本で発行されている日刊新聞は約百三十紙、当然のことながら、全部に目を通すなどということはできるはずがない。だが、一般のビジネスマンであれば、中央紙を二紙購読すれば十分である。一紙はいわゆる一般紙、もう一紙は日経などの経済紙である。

 特定の地域に関係のある仕事をしている時や、その地域に関心のある時は、地方紙を取り寄せるのが早い。中央紙ではコラム程度でしか扱われないような記事でも、地元紙はかなり詳細に報道しているものである。地方紙は、即日とはいかなくても、遠隔地からでも定期購読することができる。

 次に、そういった新聞記事で報ぜられる膨大な情報を、自分の中に体系化して理解するためには、経済専門誌や総合雑誌が助けになるだろう。

 総合雑誌などは、私たちには毎日の断片的な情報でしかなかったものを見事に体系化してあるので、非常に読みやすいし、消化しやすい。ある事件について書いてある論文を二、三読むと、その事件に対する見方を学び取ることができる。

 新聞を読まないと時代に遅れるとか、テレビニュースを見ないと新鮮な話題に欠けるという不安に駆られる人がいるものだが、それらを整理する自分なりの視覚を持たないと、単なる雑然とした情報の集積にすぎず、自分の頭を鍛える上ではあまり役に立たないものである。

 そういう意味で、特に若いうちは、新聞の雑多な情報を整理するために、雑誌の総括的な論文を参考にするとよいだろう。

 しかし、新聞と同様、雑誌のほうも選択に迷うほど各種出されている。日本では現在、百種にもおよぶ週刊誌と月刊誌が発行され、書店の店頭に並べられている。このような多種多様の雑誌の中から、何が自分にとって有益な情報かを選び出すのは、それだけで一苦労という人もいよう。

 それらの雑誌をすべて定期購読するのは、金銭的にも、時間的にも不可能である。では、これらを安く、要領よく読んで新鮮な情報を得るには、どうしたらいいだろうか。

 主な雑誌は、発行日ごとに車内づり広告や新聞広告を出す。これを見逃さないことである。特に新聞広告には比較的詳しい内容が凝集される。広告を読み、興味を引く記事があったら、購入すればいいだろう。一般分野について、日常の会話や雑談に活用する話題に、不足しない程度の情報は、これで手に入る。

 また、最近は若い女性が多大な購買力を持ち、社会現象としても時代をリードしているというが、女性誌に目を通して、若い女性が何に引かれ、何を考えているかを知るのは、非常に有益となる。

 女性誌には、他の世代にも応用できる、さまざまな商品やサービスの記事、広告があふれていて、時として参考になるものが多い。もちろん、男性にとっての話である。

 各種のPR誌も、情報源としてはなかなか有効である。大部分は無料か、せいぜい郵送料ぐらいで手に入るのもありがたい。そこで、関心のある分野のものを、いくつか定期購読することを勧めたい。PR誌には、意外な情報やデータが澄ました顔をして載っているものだ。

∥感覚力を生かして発想する1∥

●自ら柔軟思考を鍛える努力

 社会人の中には、新しいアイデアを考え出したり、今までにない商品企画を立案したりといった、創造的な仕事に携わっている人も多いはずである。

 こういうセクションにある人は、鋭い着眼力を持ってひらめく、柔らかい頭の持ち主でなければ、役目を果たすことはできない。融通のきかない、常識に捕らわれた固い頭の使い方しかできない人間では、務めを全うできるものではないだろう。

 創造性、独創性豊かで、柔軟な思考力を持つ必要があるビジネスマンこそ、日々、自らの頭を鍛えることを怠ってはならない。

 「論語」に、「学んで思わざれば、すなわち罔(くら)し。思うて学ばざれば、すなわち殆(あやう)し」という言葉がある。これは、他人に教えてもらうだけで自分で考えない人間も、逆に、自分の考えだけで、先人の知恵を学ぼうとしない人間も、ともに伸びないということである。

 つまり、学ぶことと考えることのバランスをとる必要があるということである。

 この点で、現在の学校教育における、知識をできるだけ詰め込むという知識偏重教育も、独創性を生む柔軟思考を妨げているといえよう。知識があっても、それを活用する能力がなければ、独創性は生まれてこない。物まねが単に物まねで終わってしまう危険性は、ここにある。

 他人の仕事などをきっかけにして、自分の中から独創性を引き出すためには、自ら思考を鍛える努力を怠ってはいけない。

 独創的なひらめきを得るための基本が、常に思考を鍛えること、毎日考えることとしたら、その核は問題意識を持つことといえよう。

 発想力に優れた人は、必ず問題意識を持っている。そして、この問題意識があればこそ、勘も働き、仕事に生かせるアイデアも湧いてくる。

 その問題意識を持つためには、ものを感じ取る能力、すなわち感受性を日頃から磨いておく必要がある。

 そこでまずは、人間一般、特に創造的な仕事に携わる人は、感受性を含めた感覚力というものが、あいまいであったり誤ったものであっては、話にならないことを知るべきである。

 真の感覚力が働けば、人はいくらでもアイデアを生み出し、仕事がこなせるばかりか、健康も、長寿も得られる。企業人なら大経営者、スポーツ選手なら超一流のスポーツマン、芸術家なら天才的アーチストになることも、夢物語ではない。

 なぜなら、真の感覚力とは、宇宙性の感覚であり、宇宙の大感覚に直結、直交して、無から有を生み出す「気」働きとなるからである。

 宇宙は無限の空である。星や惑星や衛星が存在するが、天はもともと空であった。その空なる宇宙に最初に現れたものは、感覚である。かすかな感覚から大感覚が生じ、それが一大エネルギーとなってビッグ・バンと称する大爆発が起こった。だから、宇宙の無限の空の中にないものはなく、すべての情報は潜在していた。

 それゆえ、人間にとって、天に通じる感覚力を養うことが何より大切である。何気ない自然の事象の中や、人の何気ない言葉に計り知れない真理が潜んでおり、真の感覚力で得た真理が人間を大きく育ててくれるのである。

●真なる感覚力の養成が大切である

 その私たち人間の肉体は、厚さ約二ミリの皮膚に覆われている。皮膚の役割は、肉体的生命を内と外に隔離すると同時に、内と外を交流させることにある。つまり、皮膚は自己と非自己を分けて、排除したり、受け入れたりする器官なのである。

 皮膚には、頭部に七つ、下半身に二つないし三つの穴がある。この穴も皮膚の一部として、外界との交流を行う大切な役割を果たしている。一般に五感といわれる皮膚感覚、視覚、聴覚、味覚、嗅(きゅう)覚は、皮膚が有する特殊な能力である。私は、この五感を外部の感覚を感じる器官という意味で、五官と表現することにしている。

 皮膚はもともと、脳と同じ外胚葉と呼ばれる部分から分化したもので、さまざまな能力を持ち合わせている。特に皮膚表面に開かれた穴の周辺は、外部と内部との交流をつかさどる感覚受容器官がびっしり集まっている。人間が感じることのできる外部からのすべての刺激は、この五官を通じて伝わるのである。

 私たちは、感覚というものは自己の内部から発生するものだ、と考えがちである。だが、感覚というのは、皮膚を越え、伝わってくる外部からの刺激であり、皮膚を通して感じる外の世界なのである。外界とは自己を映す鏡であり、言い換えれば自分自身ということになる。人間は内と外をつなぐ感覚器官によって、自己を認識するのである。

 感覚は磨けば磨くほど光るものである。それは、自分を鍛え、知ることにもつながる。現代に働く人は、もっと感覚を重視しなければならない。

 ところが、現代人は一般的に、こういう磨かれた感覚から生じる直観というものについて、理性に劣る精神作用だと思いがちである。直観というものが非論理的であったり、科学的でなかったりするためで、西洋的な考えが論理や科学的であることを優先させてきたゆえでもある。

 しかし、もともと東洋の思想は、知識よりも直観ということを大切に考えてきた。直観とは、いわゆるインスピレーションのことである。禅の修行僧は、問に対して即座に答える訓練をする。俗に問答といわれるこの行為は、知識よりも直観力を高める訓練である。 直観によって世界を理解することは、物事をイメージで捕らえ判断するということ。直観は、無意識の世界に近く、しかも主観的である。東洋の思想が直観を重視するのは、意識の世界には、真の判断を狂わせるさまざまな邪念があると考えたからである。

 ここで、古今東西の偉大な人々の発明、発見は、ただ単に知識や論理から生まれたのではないということを、今一度考えてみてほしい。発明、発見の前には、必ず「ひらめき」という現象がある。優れた直観力がなければ、偉大な発明も発見もないのである。ひたすら知識を吸収し、論理を磨くだけでは、新しい物は生まれてこない。

 現代では、人間の知識や記憶はコンピューターでも代用できるのに対して、磨かれた感覚から生じる直観は人間だけが持つ優れた能力なのである。人生は自分の直観を生かすか否かで、大きく変わってくる。人間の能力は、生かしてこそ価値があるものなのだ。

●半意識はひらめきを得るチャンス

 ここに、磨かれた感覚から生じる直観を生かしたアイデア発想法を、紹介することにしよう。企画力などを高める発想法にはオズボーンのチェックリスト法、ブレーンストーミング、シネクティクス法などさまざまな方法があるが、これは「気」を利用したものである。

 はじめに、誰も知らない未知を対象にして研究、発見をする科学者などを例に話を進めていく。彼らは、「気」が入っていなければ本当のことはわからない。ノーベル賞を受賞したような科学者や各分野の専門家は、「気」で発するとか、「気」で発見するとかいう意味において、余人に未知なことを知るのである。彼らはみな、それぞれの専門、専門で「気」を磨いている。「気」を利用し、「気」を使って、「気」で探査研究しているのである。

 そういう人たちは、一生懸命「気」を入れて熱中しているならば、朝の目覚めのひとときなどに、素晴らしい感覚から直観を起こしてひらめき、難問解決のヒントに気がついたりする。このような着想、ヒントを得て研究し、成就させる科学者は、鋭い感覚を持っているのである。だから、思い考えるというよりも、「気」を入れた科学的な研究が合理的に続いて、朝の目覚めの時、夜の眠りに入る直前、放心状態などにおいて、感覚を起こして気がつく時、いろいろひらめきを感ずる、ヒントを得るということがある。

 そのような時は、意識が放たれつつある状態であるから、自己意識から五官意識が解放されて、自由に働く。肉体の自然機能が、自然作用として宇宙に直結して、宇宙の大感覚を吸収している。つまり、宇宙に遍満する「気」を肉体が盛んに取り入れているのだ。宇宙の「気」が肉体内で力となって瞬間にイメージを結ばせる、これがひらめきである。

 このようなひらめき、インスピレーション、アイデアを得られるわずかな時間、いや瞬間は、人間が半意識という意識状態になっている時でもある。

 私のいう半意識という状態は、無意識と大変よく似た状態である。精神集中から無念無想に移った時、意識と無意識の交代が行われ、無意識が意識の中に入り交じると、半意識状態が生じる。すなわち、半意識とは、無意識と意識との架け橋になるものである。半分の意識というのではなく、うつらうつらと意識が放たれつつあるような状態をいうわけだ。

 このような状態は日常、私たちが朝目覚める時や、夜の眠りに入る直前などにも、同じ半意識が生じるので、どなたでも体験ずみのものである。が、体験があり、毎日のように経験しながら、専門の科学者や発明家と違って、その本当の価値というものを知っている人は少ない。

 もしも、精神の純粋性を保ち、無意識の中に超自我を体得できるならば、半意識状態の時に真空妙有の宇宙真理が、稲妻のように天と地を結んでいくらでもひらめく。思いも掛けないイメージを受けたり、難問解決のヒントに出合ったりもする。

 無意識のエネルギーが意識界へ流れ出る時、肉体感覚と宇宙感覚とが瞬間的にではあるが接触を繰り返す。これが、ひらめきであったり、素晴らしい宇宙真理であったりするのだ。

●夢の創造力を利用する方法

 この点で、睡眠中に夢を見ている状態も、一種の半意識状態といえる。無意識の内容がいろいろと意識の中へ躍り出して、幻影となって現れているのである。ある意味では、私たちが見る夢の中にも、貴重なヒントやアイデアが凝縮されているといえる。

 なぜなら、夢の内容には、その人が意識的、無意識的に実現したいと望んでいる願望が含まれる場合が多いからである。深層心理学では、無意識の願望は夢を誘発するばかりでなく、夢の内容を決定するという。

 そして、眠っている状態では意識の検閲力は弱まっているから、無意識は現実の制約や、さまざまな日常的配慮から解放されて、自由に活動することができる。このため、目覚めている時には思いもつかなかったようなアイデアや発想が、眠っている間に浮かぶことがあるもの。

 古来、夢の力を借りて難問を解決したり、個性的な仕事をした発明家や芸術家は数多く見られる。有名な例を挙げてみると、作家のスティーブンソンは「ジキル博士とハイド氏」などの作品の構想を夢から得たし、ミシンの発明家であるイライアス・ハイは、先端に穴の開いた槍(やり)を持った未開人に捕まった夢を見たことから、針の先端に穴を開ける着想を得て、開発に成功したのである。

 しかし、一般の人にとっては、よほど印象に残る夢でもない限り、すぐに内容を忘れたり、ヒントに気づかなかったりしてしまう。もちろん、いくらひらめいても、それを理解する知識や日常の努力というものがある程度なければ、意味不明な夢でしかない。

 スティーブンソンのように、夢の力、夢の創造力を利用するには、日頃から問題意識を抱いて、寝床に入っても解決したい問題について考え、心に念じながら眠りに就くといい。

 こうして眠ったら、目覚めた朝、すぐに夢の内容をメモする。たとえ自分の問題と無関係に見えることでも、突拍子もないことでも、思い出せる限り綿密に書き留めておく。そうしてメモを点検して、問題解決のヒントを探せばいいだろう。

 さて、寝ている時のほかにも、トイレの中、電車を待っている時、入浴中などボーッとしている一瞬に、直観的にひらめきを得ている人は数多いものである。

 名案は、真剣に考えている時ではなく、対象から意識が離れ、力が抜けた時に生まれるわけである。つまり、仕事に集中して取り組んでいる時よりも、ふっと気を抜いて自分の好きなレコードを聞いてぼんやりしていたり、風呂に入ってリラックスしている時などに、新しいアイデアが浮かぶことが多いのである。

 アルキメデスが浮力の法則を発見したのは、朝風呂につかっている時だった。ジェームズ・ワットが蒸気機関の構想を組み立てたのは、散歩中だった。ダーウィンが進化論の解答を突然思いついたのは、馬車に乗っている時であった。

 それらのインスピレーションを受けた意識状態が、自己意識を放下して、無意識となった瞬間である場合が多いことは、無意識が意識界に入り込む直前か、意識と無意識の入り交じった半意識の状態にのみ生ずる、不思議な現象だからである。

 半意識というのも、無意識の中へ含めてよいのは、意識はあってもそれは自己コントロールが不可能で、自然現象として受け止めるほかない意識ゆえである。

 いうまでもなく、その半意識の時に生じるひらめきは超感覚的知覚の一種である。

 思考は人為的なものであるが、気がつくことは自然作用である。肉体感覚を高め、五官の働きをよくすれば、宇宙感覚と直結して「気」をキャッチする能力が身につくばかりか、おのずから超感覚も養われ、発想豊かな企画の名人、当為即妙の人生の達人、天才といわれるほどの仕事もできるようになる。

∥感覚力を生かして発想する2∥

●アイデアを生む「気」の原理

 私のいう「気」というものは、知情意の源泉であるけれども、その本質は宇宙始元の空の世界に属し、無限無上のエネルギーである。そのような目に見えない「気」エネルギーは、人間の肉体の空意識層に入り、自己の無意識層において人間の生命力に切り替えられて蓄積される一方、私たちが生きているところの実社会で体験し、毎日感受するものは、そのまま意識を構成し、あるものは潜在性意識に蓄積されて、生まれてから今日までの生活体験のすべてがイン・プットされているのである。

 この私たちの体内の空の領域、すなわち無意識層および潜在性意識層に蓄えられた、たくさんの知識や意識や体験は、体内の隅々にまで充満していても、それは空の世界だから少しの容積もなく、重量もないので、いつもは忘却のかなたにあることが多いのである。 それが思い掛けない時に、思い掛けないイメージとしてひらめくことがある。それは自己の意思や意識が放下され、半意識の状態にある時にしばしば生じることは、すでに述べてきた通りである。

 これは、空の世界に蓄積されているものが、空から色へ、色から空へと自由に次元を超えて、瞬時に交流(ひらめき)を生ずるからである。それは空世界の真理現象といえる。 「気」のこのような本質を知れば、私たちは目に見える日常の目先のことに気を使いすぎて、気疲れする生活はほどほどにして、「気」を豊かな想像力として発揮して、創造的に日常の中で自由に生かすようにしたいものである。

 「気」をあまりに知性や意思や感情に結びつけ、自意識を目いっぱい働かせ、自力本位に生きるよりも、空世界のエネルギーを上手に発揮する生活、他力本願の宇宙真理生活を目指すほうが、楽で賢明で、創造的である。人間は、知識や意思や感情で何々すべきであるとか、何々がしたいと、「気」をそのようなものに従わせる社会生活を身につけているが、もっと大きな想像力に結びつけて、空の世界に遊ぶ人のほうが素晴らしい業績をなし、豊かな人生を送っていることに注目してもらいたい。

 そもそも人間には、空の世界から「気」となって到来するものがたくさんあり、物事となってくる前に、必ず「気」が働いている。この「気」というものは他力である。他を利する「気」、他利気ともいう。自分を利する「気」、自利気、自力というのも、実は「気」である。この他力と自力はつながっており、他力即自力となって働く。

 宇宙大自然や人間社会の他力を察し、把握し、うまく利用して自力とすることができれば、すべてが機会となる。アイデアや発明、発見の発想が、体内の空の世界からいくらでも発動するようになる。

 だが、他力に通ずる根本の原理、要領を知らずに、目的のみに向かい、結果を急いでも、他力は求められないものである。いろいろな企画会議などでも、「さあ、よいアイデアを出さなくては」などと改まると、意識ばかりが気負い立って、いいプランは決して出てこないものだ。

 タバコ一服、お茶一杯、まるで関係のないようなことを気楽にしゃべり合っているうちに、突拍子もないところに連想が次々に飛んで、虚空からヒョイヒョイと名企画が生まれてくるというのも、この他力の消息を示す好例だ。

 私は、何の修行もいらずに他力を得る方法を伝えたい。他力を求める原理、要領とは、自然作用にほかならない。自然作用を無視しては他力は得られないことを知らなければならない。自然の作用は頼りないように見えるけれども、決してそうではない。常に肉体を調整し、意識を秩序的に守っているのは、この自然作用である。

 自然の食物をとる。自然の姿勢をとる。自然の呼吸をする。自然の睡眠をとる。自然の「気」に触れる。自然の動植物と親しむ。自然の音楽を聞く。自然な考え方をする。自然の成り行きに身を任せる。自然を友とし自然を師とする。

 深く微妙なところまで自然作用が円滑に働くならば、現象界はもちろんのこと、見えない世界まで知ることができる。全身の細胞が活性化されて、下半身にある他力層の働きが充実し、上半身の自力層につなげてゆくからである。宇宙の「気」エネルギーという他力が、即自力となってゆくと、素晴らしい働きをしてくれるものである。

 自然作用によって、常に青空のように心を空にした人にとっては、宇宙エネルギーという他力で、目に見えるものことごとくがアイデアの世界となる。

 この青空とは、空寂世界のことであり、空寂という状態においては、肉体が宇宙の「気」エネルギーを盛んに吸収し、蓄積しているのである。物事に相対した時に、当意即妙に解決することのできる判断力が生じてくる。ここにこそ、真に役立つすべての名案、素晴らしいアイデアの源泉がある。

●電車やデパートは発想の宝石箱

 ここまで、直観を重視したアイデア発想法を説明してきた。

 日頃から真の感覚力を養って、無から有を生み出す「気」働きで発想すること。朝の目覚めの時などに、半意識状態の素晴らしい感覚からひらめきを得ること。アイデアという他力を求めるには、常に肉体を調整し、自然作用が働くように心掛けること。以上が要点であったが、アイデアや企画を生み出す日常的な方法や工夫は、ほかにもいくらでも考えられる。

 アイデアを生む心構えとしては、大胆不敵になることが必要であろう。アイデアや企画などというものは、仮説を作る作業であるから、奇想天外な仮説を発想する能力も求められる。融通のきかない人間は、とっぴなことを考えられないものである。

 アイデアマン、企画マンなどは常に、「この世の中にこんな物があったらいいなあ、なかったらいいなあ」といった、あり得ない仮説を立てて、そこから派生する現象を考える訓練を積むことである。やがて、あなたの脳の中で、非凡なアイデアや企画を生み出す能力が醸成されてくることだろう。

 次に、アイデアマン、企画マンには過去の経験や知識も、なるほど大切な情報であり、多ければ多いほどよいが、自由自在に使いこなせなければ、無用の長物、宝の持ち腐れであると知ること。

 つまり、ただ知っているだけでは応用がきかない。見慣れない事物や問題にぶつかった時に、すでに持っている知識や経験と比較、分析し、類比の発想から、新しいアイデアを得ることが大切なのである。

 例えば、ダンロップタイヤの創始者、ダンロップは、丈夫なタイヤをどう作ろうかと苦労している時、サッカーボールをヒントに、空気を入れることを思いついたという。

 このように、よく見知っているものの中にも、視点を変えてみると、発想や企画のヒントになるものは多い。

 アイデアに詰まったら、散歩したり、デパートを見て回ったりするとよいといわれる理由も、ここにある。何か、自分のテーマと結びつくものが見いだせるかもしれない。

 その点、各種の車内づり広告があったり、いろいろな年齢、職種の人たちが乗り合わせている電車の中は、発想や企画の宝庫といえるし、人間が考えるのに絶好の場所でもある。たとえ満員電車の中でも、意外に考えがどんどん広がっていくものである。

 電車の中というのは、いくら書類作成の締め切りなどが近づいているとはいえ、決して原稿が書けないのだから、時間に追われることはない。それは開放された無駄な時間であるから、逆に考えがぐんぐん広がっていくのだろう。今まで行き詰まっていた考えに突然明かりが差してきたり、意外なひらめきが浮かんでくる。こういう発想は、次の瞬間にふと忘れることが多いので、思いついたことはきちょうめんにメモしておけばよい。

 そのほかにも、仕事をする上で物事を考えるのに適した場所は、いろいろあるものである。

 頭脳を明敏にしたり、日常業務でない特殊な問題に注意を集中するために、短時間自分一人になって考えたいと思うのだったら、静かな喫茶店を利用するのもよい。先の電車に座席のすいている時間を見計らって乗り、環状線を二、三回回ってみるのもよい。

 天気のよい日だったら、会社の屋上も考える場所になるだろうし、あまり人が混んでいない公園のベンチ、美術館、博物館も、まとまった自分の時間を持ち、新鮮な気持ちで落ち着いて物を考えるのに適している。

●アイデアが湧き出る日常生活の工夫

 屋外ではなく自分の会社内で、アイデアを考え出したり、計画を立案したり、問題を解決したり、より創造的な仕事をするのには、機械的方法を用いてみることもいい。

 この機械的方法とは、まず机に向かって何かをしてみることによって、精神にスタートをかけるのである。それには、メモ帳と筆記具を用意して、精神集中の道具とするというテクニックが役立つはずだ。

 私たち人間が紙の上にある考えを書く時には、注意力は自動的に書くことに集中されることになる。脳というものは、一つの考えを考えながら、同時にそれと違ったことを書き出せるようにはなっていない。だから、手で紙の上に一つの考えを書いている時には、心の上にもそれを書いているのである。書き出してみると、ずっと長く、ずっと正確に、内容を記憶していることが何よりの証拠である。

 こうして、ひとたびすぐ書き出せる習慣を身につけてしまえば、新聞記者のように、ざわついた中でも、その他、気を散らすどんな環境の中でも考えることができるようになる。精神を集中して考えたいと思った時には、いたずら書きでも何でもよいから、何かを紙に書いてみることである。

 その上、物を書くことは、自分の考えを系統立てて整理するのにも役立つ。発表の席でも、自分の考えをただ口に出して述べていくのではなく、重要な点を書き出したり、図解しながら話していくと、自然に頭の中が整理されて、述べる考えも系統立ったものになってくるから不思議である。

 次に、アイデアを生むためには、異種体験を積むことも大切である。ビジネスマンが会社の仕事だけに忙殺され、飲みにゆくとしても上司や同僚が相手というのでは、刺激が少なすぎて、どうしても知らぬ間に狭い世界に閉じこもりがちになるので、発想の視界は狭くなるばかりである。

 多少無理をしても、異業種の人間と付き合うことも、豊かな発想を生む、一つの方法である。全く違った世界の人に接するのは、頭の活性化のためにもよい。最近は勉強会と称して、異業種同士での集まりが盛んだから、積極的に参加してみるのもよい手である。

 また、発想の井戸を増やすためには、趣味として、俳句や短歌を作るのもいいかもしれない。外国語をマスターするのもいいかもしれない。

 さらに、発想や創造性は直観的なもので、右脳の分野に属しているから、日常生活の中で右脳をトレーニングするように心掛けることもよいかもしれない。トレーニングといっても、決してむずかしいことではなく、たやすく右脳を刺激できる方法がある。

 例えば、左手や左足など左半身は、右脳の管轄である。右利きの人は、カバンを左手で持ったり、電車のつり皮を左手で握ったりするだけでもよい。絵を鑑賞したり、クラシック音楽を聴いたりするのも効果的である。

 もっと簡単なのは、うまい物を食べること。これは何も舌の問題だけではない。見た目、嗅覚、歯ごたえなど、右脳が総合的に処理して、うまいと感じさせてくれる。味のわからない人は、右脳の働きが鈍いということなのである。

●先見力と情報収集力を育てるには

 発想に相通ずる先見力と、発想のもとにもなる情報収集力というものについても、触れておこう。

 先を見る力を意味する先見力というものは、特に企業活動において、きわめて重要な意味を持つものである。時々、とっぴすぎて誰からも相手にされないようなケースもあるだろうが、それはいわば優れた先見力の宿命のようなものだ。

 さまざまな情報の中から、独自の嗅覚でヒントを捕らえ、独自のアングルで掘り下げ、先を読む。そうした力は、創造的な発想とともに、現代のビジネスマンに最も求められているものの一つではないだろうか。

 では、発想力や先見力を生み出すもとになる情報は、どのように収集すればいいのか。 集めるべき情報は、我々の身の回りのどこにでもある。街を歩いていても、家でテレビを見たり、新聞や雑誌を読んだりしていても、仕事をしていてもである。

 ただ、これを自分の仕事にどう生かせるかが問題なのであるが、とりわけ情報で勝負するビジネスマンなら、まずは、仕事上必要な情報がどこにあるかを、嗅ぎ出さなければならない。

 そこで、人間の情報感知能力というものは、人間の五官(五感)、つまり視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚から発揮されるという、基本的な話から始めてみよう。

 心理学者のメトフェッセルは、今から五十年ほど前に、「人間の知識の六十五パーセントは、目から取り入れられる。二十五パーセントは耳から、残りの十パーセントは、触覚、味覚、嗅覚による」と指摘した。

 今日では、活字媒体と映像媒体の発達によって、視覚を通じた情報の受け入れ比重が、一段と大きくなっていると思われる。

 このような情報感知能力は、どのようにして養えばいいのだろうか。情報通といわれる人たちは誰でも、きわめて好奇心が強い。モーターショーが行われるといえば、何はさておき飛んでゆき、国際見本市があると聞けば、すかさず出掛けていく。そこには、現在と未来についての情報が、無数に転がっているからである。

 彼らはあらゆる出来事に関心を持ち、熱心に観察し、メモをとっている。何でも見てやろうの精神は、やじ馬根性にも通じる。新しいものを発見すると、すぐさま試してみようとするのである。

 要するに、さまざまな情報、わけても生きた情報を集めるには、マメであることが第一条件なのである。まず、強い好奇心を持つことが必要だ。「何でも見てやろう」という、やじ馬根性に駆られて、何かあればすぐ飛んでいくといった行動力がなければ、なかなか細かい情報は集めにくい。

 また、好奇心の強い人と話し合うこともプラスになる。気がついたら何時間も話し込んでしまったという経験をするのは、相手が好奇心の強い人の場合に多い。好奇心の強い人は多くの人に関心を持ち、同時に多くの人から関心を持たれているから、自然に大量の情報がストックされている。彼らはひとりでに、情報のギブ・アンド・テークを行っているわけで、お互いに加速度的に情報が累増するわけだ。

 およそ、情報は生身の人間が持っているものだ。特にインフォーマルな情報ほどそうであって、本当に人間好きな人でなければ情報は集めにくい。

 多くの情報が集まる人には、一定の性格パターンがあるようだ。人間の性格をドン・キホーテ型とハムレット型とに分けると、情報集めにはドン・キホーテ型の人が有利である。こういう人は平気で、格好の悪い、ぶざまな情報集めができるし、軽蔑(けいべつ)されることも恐れずに、議論を吹っ掛けることもできる。

 彼の率直な質問の仕方や議論の仕方は、気取った人のそれよりもはるかに人に好かれるものである。人に好かれれば、おのずと豊かな情報が集まってくる。

 こうした純情さと、労力をいとわないマメさこそが情報の源であって、さらに「火事だ」といえば、すぐに走り出すような江戸っ子の腰の軽さも重要だ。

 情報の源であるマメさは、日常生活の中でも大いに発揮してほしい。

 ビジネスマンの場合、奥さんのお供でスーパーにいったら、レジ近くに立ち、奥様方はどんな物を買っているか、いくらぐらい買ったかを見る。床屋にいって、そこの主に世間話を聞く。タクシーの運転手の愚痴をたまには聞いてみる。

 我々は、日々生きた経済の中で生活しているのである。そこから得られるホットで、多種多様な情報を鍛え抜いた頭で体系化すれば、日本経済に関する優れた洞察力を持つようになる。それに基づいて会社の仕事の展開を考えていけば、必ず非常に優れたアイデアが次々に生まれるに違いない。

∥心構えから脳を活性化する1∥

●心のあり方が能力におよぼす影響

 実社会のビジネス界では、学校の教科書には決して書いてない全人格的な判断を必要とすることばかりで、心で考え、心で判断することが多い。頭を鍛えるというのも、人の感情をいつも深く考えながら、判断するという癖をつけることであり、学説やジャーナリズムの論調に惑わされないで、自由に考えることである。

 以上のように冒頭で述べた通り、私が述べる頭脳明晰法は、頭を心で鍛えていくということに主眼の一つを置くものである。

 本編では、青壮年層が心の面から頭脳を活性化したり、老年層が気構え、心構えから頭脳の明晰さを維持したりしていく方法を解説していく。

 実際、人間の心のあり方、心構え、気構えなどというものは、その人の頭脳の明晰度に大きな影響を与え、人生さえ左右するものである。

 例えば、世の中、同じことをしても、成功する人と失敗する人とがいる。たまたま運がよかったのか、それともたまたま運が悪かったのか。もしも身近に運のよい人と悪い人がいるなら、その人たちのいうことを比べてみるといい。心構えや考え方が、大きく違うはずである。片や気力が充実し、積極的で自信にあふれ、片や気枯れして、消極的で過去にこだわる人が多いということに気づくだろう。

 つまり、どういう心構えや考え方が頭を活性化させ、成功につながるのかを一言でいえば、積極的な心構え、前向きで広い思考ということになる。成功も失敗もすべてプラスにとる態度が大切なのである。反対に、自分に自信のない人は、せっかくのチャンスも逃してしまう。

 なぜ、積極的に構えると、いい結果が得られるのだろうか。それは、気力が充実して、能力が高められるからである。気力の充実は、生き生きとした精神と肉体があってこそ可能になる。積極的な心構え、前向きな考え方をすることで、心身に張りが生まれ、はつらつとして事に臨む気力や能力が生まれるのである。

 人間の内と外には、「気」という神秘なるエネルギーが存在する。人間が発散しているこの気体は、光背とかオーラとか呼ばれ、目で見ることができる人もいる。

 「気」は、人間の生命力の源であり、精神と肉体のバロメーターでもある。人間の能力をフルに生かすためには、この気力を充実させなくてはならない。人間のあらゆる可能性を開くのは、「気」の強い、弱いにかかわるといっても過言ではない。

 精神と肉体のバランスが悪ければ、「気」は働かない、「気」が入らない。人が飛躍する時、「気」が働かなければ、事は成就しないのである。自信がなく、半信半疑で行ったことが成功しないのは、「気」が入らないからである。

 積極的な心構え、前向きな思考とは、「気」を高め、生かすための気構えであり、考え方の一つなのだ。

 人間の気力というものは、宇宙の「気」から作られる。能力、知力、体力というものも、肉体が宇宙から「気」を受けて力とするのである。人間の体も、そこに「気」がこなければ、花を咲かすことも、実をつけることもできない。成長することも、発展することもできない。これが自然の約束なのである。

●気力から発揮される能力、知力、体力

 気力を作るには、深い眠りの中で深呼吸によって、あるいは体をほうり出して、生かされているという状態で、自然作用、自然機能で肉体が空の状態になると、この体に「気」が充実してくるのである。

 また、人が気力が出る場合は、必ず自分自身が喜びを感じた時である。不安や絶望、悩み事を抱えている人は、見るからにわかるものだ。生気がない、喜びがないから気力が出ないのである。自分で気力を出し、気合を入れるには、意識的に動作をキビキビと速くしてみるといい。体にすぐに興奮が起こり、精神も興奮してくる。体のエネルギーが心のエネルギーに変わり、気力が出るというものである。

 気力は体力、知力ともなり、その人の能力として発揮されるものだから、一番の働きの元である。

 だから、誰もが積極的な心構えで、前向きに考え、気力を充実させて事に臨めば、無限の能力は発揮できる。人生をよい方向へ向けることも可能になる。

 つまり、人間の人生は、自分の心の持ち方一つ、考え方一つ、気力の出し方一つでどのようにも変わるということである。人間には誰にも、能力があり、可能性があるのである。ただ、「自分にはとてもできない」と頭で思ってしまうから、自らその能力、可能性を殺してしまうわけだ。

 人生の一こま一こまの場面を考えてみても、仕事や勉強をする時、ダラダラとやった場合よりも、「よし、やるぞ」と積極的に考え、うまく気力を充実させた場合のほうが、能率がグンと上がるし、間違いが減ったり、要領もちゃんと覚えられるなど作業の質が違ってくることは、誰にでも体験があることだろう。

 格言にも、「一念天に通ず」、「志ある者は事ついになる」などという。前向きに志をしっかり持ち、心を集中して思いを込めて行えば、どのような事も最後には成し遂げることができるという意味である。

 まずやるべきことは、どんな障害に遭遇しても、いかにして突破するかを考えることであり、「私の手には余る」と判断する前に、腰を据えて事態を分析し、自分の能力を信じることが必要。

 この自分の能力を信じること、自分自身に対して自信を持つことも、人間なら誰でもできる。誰にでも、才能があるからだ。

 必ずしも、その才能が学問に向けられるとは限らないが、スポーツや芸術、経営能力や商才、人を楽しませる能力といったように、自分に適した方面に隠れた才能は確かにあるはずである。

 その才能というのは、否定的な考えのところには現れることはなく、常に自信に満ち、積極的に考える人、気力にあふれる人にのみ開花するといえる。

 今、いかに劣等生でも、あるいはコンプレックスを感じていたとしても、自分の好きな点を伸ばすことによって前途は開かれる。弱点、欠点には目をつぶり、自分の優れている点だけを見つめ、それを追求し続ければ、ハンデは障害にはならず、才能は開くのである。

●小さな成功体験が才能を開かせる

 あの発明王のエジソンをはじめ、成功した人の多くは劣等感をバネにして、人生を大きく発展させている。逆境こそ、人を成長させる糧である。悪条件こそ、人を大きく前進させる推進力である。

 誰もが劣等感によって苦しむのはやめにして、積極的な心構えで、気力を充実させて事に当たれば、やがて成就しない願いはないのである。

 世の中に、最初から自信満々な人間などいない。偉人と評される人であろうと、一つの小さな成功をステップに、一歩一歩、一段一段とより大きな成功を手にし、それがまた大きな自信となっていくのである。その都度、より大きな自信を獲得して、さらに成功を重ねるのである。

 大いなる錯覚でもよいだろう。単なる思い込みでもよいだろう。まず自分自身に対して自信を持とう。「信じる者は救われる」ではないが、自分には能力も才能もあると自己暗示し、「必ず成し遂げる。きっと成功させる」と、楽観的に考えられる人間になることから始めよう。

 人間の心というものは面白いもので、「必ず成功する」という確信は持てなくても、「頑張れば何とか芽がありそうだ」などと少しでも思うことができるならば、いかに苦しい仕事でも、それなりに能力を発揮して達成してしまうものである。

 その意味でいえば、常に失敗と挫折ばかりが心の中で大きな比重を占めている人は、事に当たって成功イメージを持つことができず、「やればできる」と楽観的になれない。特に、今まで失敗を繰り返し、自信を失っている人は、何をするにも「今度も、うまくいかないのではないか」と、否定的に考えてしまう心理状態になっていることが多い。

 反対に、成功を重ねてきた人ならば、自分に自信を持ち、何をするにも積極的、行動的に対処していこうとする。こういう肯定的な捕らえ方をする人は、物事を否定的に捕らえ、消極的な姿勢になっている人よりも、いろいろな面で成功する確率が高い。

 はじめて手掛けることであっても、「やればできるだろう」と肯定的に考えることで、積極的に取り組むようになれるし、気力もずっと高められるのである。

 事に当たって、ビジネスマンや学生が自信を持ち、肯定的になるためには、最初、ささやかでいいから、とにかく実際に小さな成功を体験することだ。その成功を重ねていくと、だんだん当人の意欲、積極性に火がついてくるのである。

 人間は仕事や勉強を手掛ける時、すべり出しでつまずくと、嫌気が差してしまいがちだが、最初の段階である程度の成功を収めると、後は調子に乗ってどんどん進んでいく。

 ほんのささいなことでも成功したり、うれしい気持ちにさせられた体験は、その人間の行動を大きく変えるもの。よく見聞するところで、絵や作文などで青少年時代に教師からほめられたためにその気になり、一生懸命励んでいるうちに一流の画家や作家になったなどというのも、好例といっていいだろう。

 大人でも、一つの仕事をうまくこなして勢いがつくと、全く別の仕事もうまくこなせるようになる傾向が強い。分野は何でもかまわない。ともかく、うまくいくことが第一歩。 そのためには、自分の得手とすること、やりやすいことから手掛けるのもよい手である。パソコンが得意な人なら、OAを使う仕事から入る。ここで、ある程度の仕事をこなしたという実績が、次の仕事へ向かう意欲、自信を湧かせ、気力が充実しやすい状態を作ってくれる。

●尊敬する人やライバルを作ろう

 尊敬できる人物、あこがれの人がいたら、その人の活躍している姿を見たり、思い出したりすることで、自分の能力を高めるようにするのもよいだろう。

 野球選手、プロレスラー、相撲取り、俳優など昔のスターというのは、一般のファンにとってはあこがれ、尊敬の対象という一面を持っていたものである。こうしたスターでなくとも、身近に尊敬できる先輩や上司を見つけられれば最善かもしれない。

 尊敬する人が働いている姿を見ることによって、「自分も、もっと頑張らなくては」と、意欲を新たにすることができる。

 そもそも、こうした尊敬される先輩や上司というものは、仕事ができる有能な人であることが多い。同時に、身近な存在なだけに、仕事ぶりをつぶさに観察することができる上、彼らのまねをすることで、手際のいい仕事の進め方まで、知らず知らずのうちに身につけられる。それがまた、自らの自信へとつながっていくのである。

 同じような意味で、自分の頭を心理面から鍛える方法として、積極的にライバルという刺激物を作るのもいい。

 スポーツでも芸事でも、楽しんでのんびり道楽としてやっている人は、時間を注ぎ込んでいる割には力が伸びない、といわれている。勝負にこだわる人が、結局のところ最も伸びるらしい。今度は負けまいとするから反省が生まれ、一度犯した誤りは二度と起こさないよう細心の注意を払う。

 ビジネスでも全く同じで、上司から注意された悔しさや、ライバルに論破された屈辱感から逃げない人や、プライドを捨てて自分を素直に反省する人が伸びるわけだ。

 人間はほうっておくと、とかく楽なほうへ楽なほうへと流れがちだ。その結果、カドがとれ、次第にボケてしまうことになる。だからこそ、悔しさが自然に発生する状態や勝負にこだわる状況に、自らの身を置く必要がある。

 その点、人間は誰でも、ライバルが出現すると嫌でも発破がかかり、闘志に火がつく。彼や彼女だけには負けたくないと思い、負けた時の自分のみじめな姿を想像すれば、自然と仕事や勉強に身が入るものである。

 好敵手は自然にできることもあるが、もしいなければ、自分で作り出すことである。会社の仲間の中に作ってもいいし、学生時代の友人で、今は別の会社に就職している相手を標的に絞ってもいい。あるいは、全く別の分野で活躍している自分と同年配の人間を、勝手にライバルにしてもいいのである。

 また、ライバルというと、同年配で実力伯仲の相手を対象にしがちであるが、必ずしもそうである必要はない。自分と同レベルの人間をライバルに選ぼうとすると、ついつい楽をしたい意識が勝ち、絶対に自分が勝てるやや安易な相手を想定しがち。

 自分の能力を高めるには、そういう相手はふさわしくない。勝って当たり前の相手だから、結局あまりやる気が出ないし、時に負けることがあったりすると、ひどいショックを受けかねないからだ。

 自分より、やや実力が上と思われる相手であれば、負けまいとして全力を尽くすから、仕事に身が入る。自分よりも上のレベル、なかなか勝てない相手だからこそ、何とかして勝とうという気持ちが強まるのである。

 「彼の勉強したことを全部勉強しなくてはいけない」と思えば、猛ハッスルするはず。そうすると当然、頭にドンドン知識が入ってくるので、頭は数段鍛えられるものだ。

 「無知の知」といわれる通り、ライバルに比べて自分が無知であることを知るのは、大事だ。そこから一歩進んで、知らないことを知るように努力したい。

 もし身近に競い合うほどのライバルがいなければ、将来、完全に抜き去るための一時的なライバルを想定してもいい。例えば、今の上司を自分が超える相手としてのライバルに選ぶのも一案である。

 ともかく、誰もが自分のお手本となる人を探し、じっくり研究し、まねてみるところから頭を鍛える作業を始めることだ。

 まねること、盗むことのまず第一歩は、自分の資質に比較的似ており、また目的を同じくしている人を選ぶことだろう。その人と同じレベルになるためには、それこそ何度も同じことを繰り返しやればいいわけだ。偉大なるライバルは、自分が五、六度繰り返してやっとできたものをたった一度でできたのかもしれないが、できるようになった結果としては同じことで、恥じることではない。人間の持ち前の才気は年とともに衰えていくから、かえって何度も繰り返して鍛えた頭のほうが行く行くは長持ちし、優れているということが多いものだ。

●前向きの言葉一つで自分が変わる

 自分自身と競争して頭を鍛えようとする人には、座右の銘を持つことを勧めたい。

 世の中で、「継続は力なり」といった座右の銘を持っている人は多いものだが、自分の好きな言葉、自分の信じる言葉が、へこたれそうになった時、まるでムチのように心に気合を入れてくれ、心と言葉が結びついた時、思いも掛けない起爆剤になってくれることもある。

 その言葉も、ただ心で念じているのではなく、机の前に張ったり、紙に書いて持ち歩くことで、より心理的効果を高めてくれるものだ。

 人間は弱いもので、いったん状況に流され始めると、自分が大切にしている言葉もめったに思い出さなくなってしまう。忘れてしまいたいとすら思うようにもなる。そのような時、目につきやすいところに書いてあれば、当然、繰り返し確認させられることになる。 例えば、「必ず、あの試験に合格してみせる」と、ただ心の中で決意していただけでは自分を甘やかしてしまいやすいが、紙に書いたりして視覚化しておけば、紙を見るたびに意欲が喚起され直すし、他の人の目にもつくわけだから簡単には引っ込められない。

 自分の決意が鈍っても、その言葉が目に入れば、「こんなことではいけない」と、自分を励ましてくれるのが、自分の好きな言葉を張る心理的効果なのである。

 座右の銘を壁に張っておく際、この言葉は語尾がはっきりとした、断定口調にするのがいい。

 言葉を見た瞬間に有無をいわさず飛び込んでくる、強いもののほうが効果がある。強い断定口調は、自分に確信めいたものを与える。それが説得力につながっていくわけだ。

 太平洋戦争中にあったスローガンを思い出してみると、「鬼畜米英」、「贅沢(ぜいたく)は敵だ」と、対象を明確に位置づけ、断定している。この種の標語は二度と唱えたくないものではあるが、スローガンには選択の余地を与えない、力強いものが必要だという見本である。

 この意味で、よく受験生の部屋の壁に、「必勝」、「目指せ東大」などと書いた紙が張ってあるのは、意欲を鼓舞するための簡潔な言葉として、なかなか効果的な役割を果たしているはずである。断定のもう一つの効用は、言葉が短くなり、一見して目に飛び込んでくるものになりやすいということだ。

 たくさんの目標や標語を張ることは、かえって効果が散漫になってしまいがちだから、座右の銘をいくつか持っていてもいいが、特別の一つを選んで集中したほうが効果は高い。

 ことほどさように、人間は言葉によって、心の持ちようまで変わってくるものである。明るく、積極的、肯定的な言葉は、自分だけでなく、周囲の人々をも、明るく、生き生きとさせるものである。

 逆に、暗く、消極的、否定的な言葉は、自分を暗く、じめじめさせ、周りも暗く、不幸な気分にさせてしまう。

話も、「……します」、「……です」、「……やります」で締め、「……と思います」、「……するつもりです」を避けるのが、賢明である。

 なぜなら、明るく、積極的な言葉は、常に自分を高め、現状を打破しようという意志を持たせることができるからだ。あきらめや自信のない言葉からは、成功は生まれない。

 言葉とは、精神までも支配してしまうものなのである。

 ビジネスマンで仕事の実力があっても、チャンス、ピンチの大切な場で、その実力を発揮できるか否かは、言葉からくる精神力に微妙に左右される。

 むずかしい仕事だと思っても、「やれそうです」という。決して、安請け合いをしろというのではないが、「やってみたい」と前向きな態度で臨むことが、自分の能力を伸ばす。不安を感じながらも、困難な仕事に挑戦すれば、それだけ仕事の面白みも増すというもの。

 運の悪いことが続いても、「そのうちついてくるさ」という。言葉からスネた陰りを除けば、表情も明るくなり、自信が生まれ、物事はよい方向へ発展するだろう。

とにかく、「やれる」と思うこと、そして「やれるぞ」と他人に告げることは、思わぬ可能性を生み、自分のレベルを引き上げる方策となるのである。言葉で可能性をつぶすことはない。

∥心構えから脳を活性化する2∥

●興味を引く目的が頭を鍛える

 さて、人間にとっては、六十歳をすぎても頭脳を明晰に維持するための心構えや、気構えも大切である。

 今、人生は八十年といわれる時代である。一般のサラリーマンであれば、定年後もう一度人生があるようなものである。老後も知性を保ちながら、いかに心身とも充実したものにするかということは、これからますます重要になる。

 人間とは、目的なしには生きられないものである。趣味もなく、定年まで仕事一筋できたような人は、往々にして老け込みやすい。定年後、ボケるのを待つばかりの生活では、人生はつまらないものになってしまう。

 幸いなことに、現代社会は人それぞれ、さまざまな楽しみ方ができる。自分が一生かかわることのできる目的を、一つでも持つことができれば、その人の人生は有意義で、張りのあるものになる。芸は身も、心も助けてくれるのである。

 人生の目的は、何よりも自分の好きなもの、興味のあるものでなければならない。興味が湧かないことに時間を費やすのは、時間の浪費であろう。逆に、他人からはつまらないことのようにいわれることでも、興味のあることになら徹底的に首を突っ込み、考え抜くべきだ。

 人間は誰もが、嫌いな仕事や勉強をしている時は、時間がたつばかりで、なかなか集中などできないものであるが、面白く、楽しいと思うことには、何の苦もなく集中できるものである。だから、興味を引く問題に関する情報は、大した努力もなくおのずと頭に入るだろう。

 それは、頭を鍛える上で大変効果的である。誰でも興味のあるものに引かれるという、ありがたい性癖を神から与えられているのだから、頭を鍛えるためにも大いにそれを利用するべきであろう。

 この点、余暇時間を利用して、定年までの期間コツコツと知識を深め、技術を磨くことができれば、その人の老後は最高のものになる。一見つまらないものでも、その道を極めれば専門家、達人になれるというものだ。例えば、現役のサラリーマン当時から英検や不動産鑑定士、税理士、中小企業診断士など何か特殊資格を取っておくことが、定年後の人生に役立つ場合が相当多いようだ。

 一方、人生の目的もなく、興味を引く趣味や仕事もなく、じっとしていては頭のほうもボケてくる。古い細胞だから、刺激を与えて、年を取らないようにしなければならない。 細胞の中では、脳細胞を一番大事にせねばならないのである。なぜならば、これを悪くしてしまうと、生命に関するほどの危なさもあって始末が悪いからだ。

 若い時の脳細胞の状態というものは、割合に新鮮で健康であるけれども、中年から老年となってくると、脳細胞のあり方というものは非常に重要なものになる。老人になればボケる、物忘れをする、頭脳が強く働かないというようなことも大いにあるから、頭脳の鍛錬が必要なのである。

 この脳細胞は意識的な影響を受けて、非常に変化をする。脳細胞は非常に精密、巧妙であるけれども、これがいろいろなことによって、能力を低下させることがあるのだ。

 例えば、睡眠不足の日は全くボケて役目を果たさないということもあったり、精神とか心とか意識とかいうものによって、頭脳が大変な変化をしたり影響を受けたりして、全く用をなさないようなことさえある。そうして、著しく変化すると思うと、元に戻るということもあって、実に変化が早い。この脳細胞を維持する自然の作用、これは肉体全体の自然の作用とも、少し違うものである。

●楽しさという推進力を活用しよう

 では、どうすればよいか。それには、眠ることが一番である。そうすると五官的にスッキリ、ハッキリとして頭脳は新鮮になるから、物事がハッキリと処理できる。子供と老人は、よく寝ることが肝要。

 また、脳細胞を健全に保つには、気を使わないことである。つまらないことを気にしない、苦にしない、心配しない。のんきに楽しく生きて、余計なことに頭を使わない。いらざる思いや考えをしないで、自然の仕組みに任せること、常に頭脳を休ませておくことも肝心である。

 人間の頭の健康度は、集中力に比例する。頭の老化、すなわちボケは、集中力の低下によって現れる。つまらないことを気にして、イライラ、クヨクヨすることは、頭の正常な働きを妨げる。

 物忘れをしたり、やる気が起きなかったり、ちょっとしたことでもすぐ気になったりといった自覚がある場合は、注意したほうがよい。気になることは、ストレス状態になる前に取り除くこと、それが集中力低下、頭の老化防止のための前提条件なのである。

 こうして集中力があり、心にゆとりがあり、体に落ち着きがある老人は、喜怒哀楽を上手に表現し、セーブすることができる。感情は、人間の体や性格に微妙に影響を与えるものだ。プラスの感情とマイナスの感情をコントロールすることが、幸せにつながる。

 気分がいい、楽しい、やる気が出るというプラスの状態は、感情の問題であると同時に、ホルモン分泌がかかわっている。大脳基底核、大脳新皮質の前頭葉、側頭葉、大脳辺縁系に分布するドーパミンが、前向きな快感をもたらすのである。ドーパミンが分泌することで、意欲的な精神状態を作り、プラスの方向に作用するのである。

 人間は通常、ホルモンをコントロールすることはできない。だが、精神の力で感情をコントロールすることは可能である。ドーパミンがプラスのホルモンであれば、当然マイナスのホルモンも存在する。恐怖のホルモンといわれるアドレナリン、怒りのホルモンといわれるノルアドレナリンである。逃避や不満の感情が高まった時は、必ずこれらのホルモンが分泌されている。

 怒りをほほ笑みに変え、マイナスのホルモンを分泌させないことが、幸せな人生を過ごすための秘訣である。生きていることを喜び、楽しく感じ、そう努めることが、人生をより充実させるのである。

 こういう楽しさという推進力を、人間はもっと活用すべきなのである。人間が生きるに当たって、その大きな推進力となるものは、この楽しさである。

 遊びなどという面白いことのためには、ずいぶん元気も勇気も出るし、熱心になれるということは、遊びの中には楽しさという推進力があるからである。だから、仕事も、勉強も楽しくやれば、自然に運びがつくし、気も入るものである。

 楽しさを素直に楽しまない、楽しめないような人は、どうしても幸福とは縁が遠くなる。

 物事をなるべく楽しく見る、楽しく考える、そういう見方、考え方を身につけよう。毎日を、できるだけ明るい動作や態度で送るように気をつければ、それだけで、その人の生活はずっと楽しいものになる。

●高齢者が頭の老化を防ぐコツ

 そして、老後の自分の肉体を守るためには、やはり新陳代謝を活発にすることが必要になってくる。一日中こたつに座ってじっとしているのでは、長生きはできない。よく働き、よく体を動かし、よく歩く。あるいは体操をするとか、摂生を守るということによって、自分の健康は保てる。

 だが、足などを鍛えるのは心臓の鍛えにはなるが、それのみで頭の老化は防げない。原稿を書いたり、社会のために働いている人はボケずに、気楽にテレビの前で過ごしていたような人は案外ボケている。

 だから、ボケないためには、いろいろな本を読むとか、勉強するとか、書くとかする。先に触れたようにいろいろな趣味を持ってそれを楽しみ、絶えず頭を働かすということも大切である。

 短歌などは、頭を刺激し、安らぎも得られ、エンジョイできるということで、老後の趣味としてはいいだろう。

 一日規律のある生活をすること。早起き、体操、乾布摩擦、散歩、さらに体をこまめに動かすために庭の草木の世話も勧めたい。疲れた時は休む。熟睡するとともに、ストレスをなくすには、やはり十分休むということが必要である。

 それから、バランスのとれた食事、特に蛋白(たんぱく)質を十分とり、ミネラル、カルシウム、ビタミンというようなもの、新鮮な野菜をよくとることである。

 最近では、音楽を聞くのもよいといわれ始めている。五官を通じて大脳に刺激を与え、活性化を促す音楽健康法が近年広まっており、クラシック音楽が老人の神経の安定に役立つという音楽療法の臨床実験が注目を集めている。脳機能を活性化させて、ボケを防ぐ効果もあるそうだ。

 しかしながら、感情が鈍くなっていては、いい音楽を聞いても、美しい絵を見ても、感動など湧こうはずもない。こういう人は腹の立つこともない代わりに、頭を鍛えることもないから、ボケるのを待つのみだ。

 頭脳を明晰に保つためには、常に感動する若々しい気持ちや、他人を理解しようという素直な態度を持ち続けていかなければならないということである。そのためには、テレビや報道写真をよく見ることが効果的だろう。

●新たなことに挑戦する気概を

 今まで述べてきた中で最もよいのは、若い頃だけでなく、老後でも生涯現役として、打ち込める仕事を持つことである。健康で、元気な限りは何かできるはずだ。

 老人になっても、楽しみながら毎日の仕事をしていると、人間も向上するし、自分の生命そのものにも張りが出て、常に若々しく新しい道を求めてゆくことができる。若者のように、新しい芽を吹かせることもできるのである。

 現役で会社を経営したり、勤めている人は、バリバリやればいい。新しく商売を始めるシルバー企業家を目指すのもいい。かつての豊かな経験や一芸を生かせる人は、技術コンサルタント、経営コンサルタント、趣味教室の講師などを務めてはどうだろうか。

 私がいかに勧めても、「年を取って、もう力も出ない、何に対しても興味が湧かない」という人は、とにかく何か変わったことをやってみることだ。

 子供たちというものは、新しい字を覚えたり、新しい遊びを考え出したり、日々新鮮な学習意欲に満ちているものである。人間は義務感のみを感じて何かをやるような場合には、それを楽しむことができない。しかし、積極的に熱意を持ってやった場合は、その疲労感は普通の場合の五分の一、十分の一にもなる。

 年を取るごとに、この熱意が減退してゆくとしたら寂しいことである。老人になっても、子供の頃の気持ちを忘れてはいけない。仕事はもちろん、余暇の時間に関しても、常に新しいことに挑戦する気概を持ちたい。

 新しいことへの挑戦が、生きる上に楽しく、さらなる意欲を生み出すために役立つはずである。それによって、生きようという心や気力を盛んならしめるだけでも、大したものではないか。

 今から、ゴルフやテニスや山登りなどのスポーツで、体を鍛え直すのもいいだろう。改めて万巻の読書に取り組むのもいい。語学を勉強して、年に一回は世界を見て歩くのも結構だ。墨絵、粘土細工、男の料理などの稽古事、釣り、囲碁将棋、古典や植物の研究、何でもよい。学習することも立派な労働である。カルチャーセンターや教養講座は、今や社会に定着した感があるから、ここで学習意欲を燃やすのもいいだろう。

 知識は、商品のように金で買うことはできない。だからこそ、学びの日々、自己啓発の日々の中に人間の価値、喜び、楽しさ、幸福というものが実現されてくるのである。物事を知るということは楽しい。勉強は面白いものである。

 今日覚えたことは、今日の楽しさとなる。明日もまた、何かを覚えよう。明後日もまた、新しい知識を得、能力を進めて楽しく生きよう。

 あるいは、自然に触れて、自然の芸術を大いに味わうこともよい。盆栽いじりや、美術品、骨董品を味わって暮らすのもよいであろう。ボランティア活動で、体に蓄積された体験、経験をもって、世の中にお返しをするのもよい。

 積極的に社会の中へ出て、寝たきり老人の話し相手のボランティア活動など、何かの社会活動に参加する意欲と行動が、自らの病気さえ吹き飛ばすものではないか。

 老化しないためには、こうした場をどんどん利用して、積極的に生きることである。つまり、何かに挑戦するとか、新しい人と接するとか、前向きに考えることが大切になるのである。しかも、自分のやっていることが、人のためになっているという実感があるほど若々しくなる。だから、持てる生命力を、人のためにフルに使えるようなものをつかむことが、高齢化社会を生き抜く秘訣ではないだろうか。

 また、老齢になっても社会生活に参加していれば、知的発達があり、進歩するもので、隠居などすると脳の退化が早い。老人は進んで社会生活に参加せよ。頭を働かせろ。

∥肉体を慣らして頭を鍛える1∥

●歩くことが大脳を活性化する

 頭脳を鍛えて活性化し、あるいは頭脳の明晰さを維持するために、自らの体を使うというのはよい方法である。

 「気」の宇宙真理的に理解するならば、人間の体は宇宙の「気」の結晶身である。そして、人間の体を「気」の結晶身、「気」の放射体として理解して得られる結論は、その全身が判断機関であり、記憶機関であり、呼吸機関であるということであった。

 私たちは一般的に、脳だけが考えることを行う器官だと思っているが、実際は脳とすべての器官を使って考えているのである。頭脳明晰法を考える場合にも、やはり肉体の存在と機能を無視するわけにはいかない。

 頭脳も体の一部分、体全体が鍛錬されて立派になると、おのずから頭脳も整い、落ち着き、さえてくるものなのである。

 例えば、体を支える足を使って歩くのは、脳の働きも活性化する。歩くことによって、血液の循環はよくなり、血圧も調節され、その上、脳の働きもよくなるのである。

 近頃はあまり使われなくなったが、逍遙(しょうよう)という言葉がある。ブラブラ歩くことであり、そぞろ歩きのことである。ギリシャの哲学者、アリストテレスは、並木道を歩きながら弟子たちに講義したそうで、この学派には逍遙派という、またの名がつけられた。

 歩く時には足の筋肉が働いているので、その中にある感覚器の筋紡錘からは、しきりに信号が出て大脳へ伝えられる。大脳は感覚器から網様体経由でくる信号が多いほどよく働き、意識は高まって、頭ははっきりするようにできている。

 人間の若さは大脳に集約されて表れ、足が衰えると長生きできないといわれるのも、足の筋肉から大脳へゆく信号が減り、弱くなるためである。

 手の運動をつかさどる脳の分野があるように、足の運動をつかさどる働きも、位置と占める割合こそ違うが大脳にはある。この大脳にある足の運動を担当する領域と互いに連動し合って、歩くのに使われる筋肉は、特に歩行筋と呼ばれており、おしりの筋肉である大臀(だいでん)筋、大腿四頭(だいたいしとう)筋、下腿(かたい)の腓腹(ひふく)筋やヒラメ筋などである。

 これらの歩行筋だけで全身の筋肉の半分以上を占めているのだから、気づいていないかもしれないが、歩くという単純な運動を続けるだけで、大脳ばかりか、体の多くの筋肉を鍛えることができるのである。同時に、腹筋と背筋を強くするのに、歩くことは効果的だ。

 ともかく、さすが大哲学者のアリストテレスは、合理的な教授法をとっていたわけである。同じ哲学者のカントの規則正しい散歩も有名である。

 そこで、頭脳労働をしている人は、ことに歩かなければいけない。頭ばかりを酷使していては、うまい考えは出てこないからだ。正しい歩行により、大地に足を印することは、脳に微妙な刺激を与え、脳の疲労をとり、脳を健全にすることにも役立つことを忘れないでほしい。

●頭も足も使わないと委縮するもの

 歩くことが頭をはっきりさせると知ったからには、頭脳労働者ばかりでなく誰もが歩いて肉体を主として、意識をすっきりさせるようにしたいものである。

 歩くことの刺激によって、人体の横隔膜の下にある肝臓、胃、腸、脾(ひ)臓、すい臓、膀胱(ぼうこう)、それに女性ならば子宮などの臓器において、停滞している機能が適度にほどけて、働きが活発になる。

 すると、横隔膜の上位にある心臓も肺も、同時に機能的に血液の循環をよくし、血液への酸素の供給が盛んになるため、当然、意識はすっきり、気分はさわやかになってくるのである。血液の流れが速くなるので、管にたまった汚れを掃除する。血管が膨張して、若返る。しかも、刺激が強すぎることもない。

 歩くことは、基本的に無害なトレーニングであり、運動なのである。この点、運動生理学者も、トレーニングによって体を鍛えられるだけでなく、精神的なストレスも軽減できると保証している。

 紀元前四世紀の昔、医学の祖といわれるヒポクラテスが「人間の体は、使うことで開発され、使わないことで弱くなる」といっている通り、人間の肉体はよくできたもので、外界から刺激や緊張などのストレスがかかると、これをはね返そうと働き、体を鍛える。トレーニングの原点はここにある。

 運動によって、脳の中に天然の鎮痛剤であるエンドルフィンという物質が分泌される。モルヒネの数百倍とされる効き目があり、不安の痛みを鈍らせ、ストレスの影響を緩和するといわれている。

 ある程度走り込んだ長距離選手は、走って二十分ぐらいたつと、急に苦しさがなくなり、周囲の景色が美しく見える。ランナーズハイという一種の恍惚(こうこつ)感で、これも同じストレス緩和現象だ。

 走るより軽い歩行でもストレスを軽減できるし、さらに、歩くことによって下半身の筋肉の運動がなされて、腸の蠕動(ぜんどう)運動も順調になる。便秘というものは、腸の蠕動運動が鈍るために起きる現象である。

 このように、歩くという単純な運動でも、脳をも含めての内臓諸器官を調整し、強化することになるのである。このことは、とりもなおさず、一切の病苦に対する最良の防衛力を強化する手段となる。脳卒中のリハビリテーションの権威は、中高年時代に運動を続けていた人は、脳卒中で倒れた場合でも、その機能回復がスポーツゼロ族に比べ、はるかに早いと述べている。

 歩きが減量とか、体重維持に効果があることも実証されているところで、いろいろな機関の最近の医学的研究によると、一般社会人が健康状態を保つには、一日に三十分以上歩く必要があるという。一日の歩数の多い人ほど、心電図異常の発現が少ないとか、動脈硬化を助長する高脂血状態が改善されるという発表も見られる。

 やはり、私たちの体は頭と同様、上手に使うことが、その健康維持に大切なのである。頭でも足でも使わないと、だんだん委縮する。機械化、自動化、省力化が進むにつれて、人間の体力は当然落ちていく。「現代人の直立能力があやしくなってきた」、と指摘する医学関係者もいる。下半身に力のない人は、概して感情や圧力を起こしやすく、ヒステリー的である。

 なるべく下半身を鍛えるためにも、二本足で歩くという人間の自然な、根源的な行為を大切に心掛けたいものである。

 毎日の通勤、通学の際、一駅前で下車して歩く、買い物の時いつもより遠くの店へゆくなど、意識的に工夫をしたり、特別な運動プログラムを組むなどして、あなたも一日三十分以上、ないし一日一万歩を目指して努力してはいかがだろうか。

●ボケを防ぐ手のひらの鍛錬

 人間の足に続いては、手を鍛錬して頭の働きを維持する方法を述べよう。体の中で、生かされているという自然の中に深々と根差しているものは腹から腰、それから生殖器官、そして両脚、両足であるのに対して、人間の手は生きるという面に、生きるための働きをしている。

 手は自由自在に独立しているかのごとく、さまざまなことをなすことができる。生きるという自力を発揮する上で、手というものがどのくらい進歩してきたかを考えれば、人間はまだまだ、現在くらいの働きで満足していることはできないだろう。

 かの哲学者カントは人間の手を称して「脳の可視部分」といったが、大脳の半分以上が手を動かすための役割をつかさどっているともいう。足の運動をつかさどる脳の分野があるように、手の運動をつかさどる働きも、位置と占める割合こそ違うが大脳にはあるわけだ。この大脳にある手の指の運動を担当する領域は、足の運動野の十倍以上の広さを占めており、互いに連動し合って、人間の複雑な動作をも可能にしているのである。

 その手を使うあらゆる分野の名人、達人の手が、どのような、からくり、仕組みで巧妙至極に動くかは、実は心と神経に関係がある。心の充実したものが、直ちに手にくる。その間に五官も頭脳も働いているが、それらは、同時に間髪を入れずに働く。

 しかし、働いてはいるが、それほど頭も五官も使っていないように見える。腰や腹にも力を入れているようには見えないが、力が入っている。極端にいえば、肉体全身にすべての力が加わっているのである。

 そこで、頭のボケを防ぐために、誰もが自分でできることとして、手のひらを鍛錬するのも一つの効果的な方法である。

 お寺の和尚が念仏を唱える時に、数珠を手のひらでもむ。それはお経をありがたくするということだが、手のひらを鍛錬してボケを防ぐということが、その中にちゃんと入っているのだ。

 中国の気功術の手始めも、両手の手のひらをこすり合わす。そろりそろりと手のひらを離すと、両手のくぼみの間に「気」が通う。これが気功の第一課だといわれている。

 そして、両指先を動かす末端運動もボケの予防になる。なぜなら、血液の循環は心臓の鼓動による力ばかりでなく、血管、ことに毛細管の末端にある動脈系と静脈系を結びつけるグローミーというものの働きが、同時にその原動力となっているというが、末端の運動はその血液循環をよくするからである。

 よく、中国では長寿法の一つとして、クルミを両手に始終持って常に動かすという。これなども結局、手、指先を動かすのがいいということである。使えば使うほどよいのが手と頭である。手の五指ばかりではなく、末端運動の一つとして足の指も動かすのもよい。 また、手のコブシで、コメカミのあたりを軽く叩けば、頭に微震動を与えて、頭の血管やその毛細管を相当に刺激し動かすという作用もある。

●よく噛むこともボケ予防に役立つ

 さて、誰もが毎日の食事に際して、何気なくやっている噛(か)んで食べるという行為も、実は、ボケの予防に役立つものである。時間をかけて、ゆっくり、よく噛んで食べさえすればよい。

 このよく噛むということの大切さを、現代人はどれほど知っているか。三千年ほど前にできた中国の「黄帝内経」という東洋医学の古典にも、「呼吸と咀嚼(そしゃく)が完全になされるなら、人は百年生きることができる」と書いてある。

 最近では、噛むという行為に関して、歯は感覚情報器官であり、物を噛んで食べるという咀嚼は口だけの運動ではなく、システムとして捕らえるべきだという研究が発表されている。

 これは、歯の根からの神経が、頭を支える首の筋肉群につながっていることを突き止め、脳全体への情報伝達という意味から、幼児期からよく噛むことがボケの予防にも役立つし、唇や舌などの情報は各神経系を通じて脳幹に伝えられ、適切なリズムで噛み続けられるように、咬(こう)筋などの咀嚼筋を調節するというものである。

 生理的にいえば、毎日の噛んで食べるという当たり前の行いも、実は複雑な神経系のお陰ということである。

 よく噛むことは、体の生理や神経にとって最も大切なことだし、歯槽膿漏(しそうのうろう)の予防、健全な歯並びによいだけではなく、あごの筋肉の伸縮で大脳を刺激する信号が送られ、情緒的にも安定して、無意識のうちにストレスを解消、中和させるという、人間形成上に大きな役割を果たすこともわかっているのである。

 リズミカルなあごの運動によって、パッピネス・ホルモン(ベータ・エンドルフィン)という物質も分泌される。このホルモンが多量に分泌される状態の時、ストレス解消はもちろん、ウイルスやガン細胞の増殖を抑える力まで発揮する。

 もちろん、食物の味がわかるためにも、咬筋という一群の筋肉を十分に動かして、十二分に咀嚼しなければならない。

 現代人は高級な食生活をしながら、食べ方が早すぎし、量も多すぎる。食物の味を知る人間は、人間としての味が出る、知恵も出る。腹いっぱい食べる人間には、物事の真髄がわからない。

 そういう意味で、むやみと軟らかい食べ物を選ぶのもよくない。現代の食べ物やその傾向を見ていると、ハンバーグなどに代表される練り物と、めん類が全盛で、人類の歯という歯は、ほどなく、ちょっと硬めの食べ物にも「歯が立たない」ものになってしまうに違いない。

 ある実験によると、現代食の咀嚼回数は、戦前の約半分だともいう。現に、よく噛まないせいで、あごの発達が悪くなっている子供が増えている。

 食事三昧に徹して、よく噛んで食べれば、実においしい。食べ物がおいしいということは、大変に幸せなことである。

 同時に、よく噛んで体を鍛える。噛むことで唾液の分泌が盛んになれば、食べた物が口の中で十分に消化される。咀嚼によって、食物は小さく砕かれ、表面積が大きくなれば、消化酵素などが触れる部分が大きくなるから、それだけ消化しやすくなる道理である。

 また、必要以上に食べすぎると、意識がボンヤリして、仕事や勉強をするのが面倒になるから、腹八分の自然の食べ物を口の中で、気化するほどによく咀嚼している。

 人間の咀嚼は単なる口腔の運動ではない。全身の営みであり、精神の営みなのである。 

∥肉体を慣らして頭を鍛える2∥

●あくびで頭の働きに活を入れる

 人間の上あごと下あごの間に張っていて、食べ物を噛む際に使う筋肉が咬筋という咀嚼筋であるが、これを意図的に強く引き伸ばすことで、頭をはっきりさせる方法もぜひ勧めてみたいことの一つである。

 簡単にいえば、あくびをするのである。仕事や勉強に飽きた時、やる気を取り戻したいと思ったら、あくびという吐息をする。あくびは、体内の疲れを「気」に変えて、体外に放出する自然作用だから、大いに奨励すべきものである。

 あくびの原因が前夜の睡眠不足では怠け者の象徴となるが、気分転換、心機一転の機会ごとに、着想が新しく、新しくと進んでゆくのがよい。そうすれば、意識は前向きでやる気が出る。

 事務仕事の多いビジネスマンや学生は人工的に、時々、このあくび、ないし伸びをする癖をつけておくと、習慣的に、条件反射運動的に、疲れがたまると、すぐに出るようになる。努めて、このような自然機能が発動するような体勢、体調にしておくことだ。

 頭の働きに活を入れようと思ったら、体の筋肉を引き伸ばすことが一番なのであり、人間が無意識に実行している典型的な例が、あくびや伸びなのである。

 歩きの効用を述べた際にも説明したように、筋肉が引き伸ばされた時、その中にある感覚器の筋紡錘からは、しきりに信号が出て大脳へ伝えられ、大脳は感覚器から網様体経由でくる信号が多いほどよく働き、意識は高まって、頭ははっきりするようにできている。 「血液の中の炭酸ガスを追い出すための深呼吸」だと思っている人が圧倒的だろうが、あくびは「頭をはっきりさせるための運動の一つ」でもあるのである。

 今まで眠っていた猫が目を覚まして、行動を起こそうという間際には、決まってあくびをし、ついでに背伸びをしている。我々人間も、これから起き出そうという際には、伸びをしたり、あくびをする。

 ともに筋肉を伸ばすことによって、頭をはっきりさせる効果があることは、説明した通りである。

 長い会議に出席したり、退屈な講演や授業を聞かされると、あくびが出そうになるもの。このあくびが、頭をはっきりさせて、何とか目を覚ましていようという、無意識の努力の現れだとしたら、周囲も「エチケットに反する」と腹を立てたりはできなくなる。

 あくびは自然の覚醒剤。したい時には、いつでも堂々とやりたいものである。その点、咬筋の収縮を繰り返しても、同じような効果があるので、ガムを噛むのもいいだろう。

 同じ意味で、パソコンやワープロに向かう際には、立ったままで仕事をするのもいいだろう。人間が立っている時も、意識には上らないけれども、百くらいの筋肉が働いているから、腰掛けて筋肉をダラッとさせている時より、頭はずっとさえるはずである。

 だから、学校の朝礼において、「気をつけ」と不動の姿勢をとらせての訓示は、休みの姿勢で聞くより効果的なのだ。疲れて電車に乗っても、立ったままではなかなか眠れない。それが腰掛けると眠ってしまうのも、同じような理由によるのである。

 では、腰掛けるのと座るのとは、どちらが頭の働きをよくするかというと、太股(ふともも)の筋肉がより強く引き伸ばされるようになる座り方だろう。説明してきた通り、筋紡錘からの信号は、筋肉が引き伸ばされた時に、しきりに出るものだからである。

●睡眠で脳細胞の疲労回復に努める

 私たち人間が頭の働きをよくしようと思ったなら、日常茶飯事の睡眠という行為をないがしろにしないで、頭や体を十分に休ませることも大切である。

 一生涯のうち三分の一は睡眠であるというほど、睡眠は大事なことであるのに、現代人は通常、誰でも夜更かしをして、若いうちから体内にある生理作用を狂わしている。眠りを軽視し続けていては、頭の働きのみか、ついには心身の健康まで駄目にしてしまうのは必然である。

 睡眠のメカニズムについては、科学的にも諸説が出され、いくつかのことが解明されているが、まだまだ未知の部分の多い領域だといえる。

 ただ、眠りとは脳と体の興奮や活動が低下した状態で、睡眠と覚醒をコントロールしているのが脳であることだけは明らかになっている。脳といっても、脳幹と呼ばれる部分が睡眠と覚醒を調節しているとされている。大脳の内部にあり、古い皮質に包まれた脳幹は「命の座」といわれ、生命を維持し、成長を促す重要なところ。自律神経系とホルモン系を調節する間脳、中脳、橋、延髄などで構成されている。

 さらに正確にいえば、その脳幹にある間脳の一部に、視床下部という手の親指ほどのところがあるが、視床下部の一部で、視神経が集まっている視交叉(さ)上核という一対の神経細胞群の中にある生物時計が、目覚めと眠りのリズムを支配しているのである。

 視床下部はちっぽけでも、支配力は絶対的なのが特徴で、睡眠の偉大なリズムは一生涯にわたって続くのである。睡眠はすべての物事の根本で、生命が培われるのも夜の眠りの中である。

 まさか人間を使って試してみるわけにはいかないが、子犬を使って眠らせない実験をすると、六日間の断眠で体温が四~五度も下がり、脳細胞は一週間もすると壊れ始める。

 つまり、脳細胞は鋭敏な代わりに、すこぶる疲れやすいものなのである。我々は、脳細胞の疲労回復のために、眠るわけである。「ああ、眠くなった」というのは、脳細胞が「もう疲れました」と、危険信号を発しているものと思っていいだろう。

 よく「眠れない、眠れない」とこぼしている人がいるが、脳細胞は疲労がぎりぎりのところまでくると、ちょうど食欲と同じように、必ず休息、睡眠を要求する。逆にいえば、眠くない人は眠る必要がないのだ、といってもよいくらいである。

 いずれにしても、脳細胞の要求は尊重したいものである。脳細胞は百五十億個もあるが、これは生まれた時から備わっていて、ほとんど増えないし、その上、一度壊れたら最後、いくら養生しても埋め合わせのきかない貴重なものだからである。

 眠りによって脳細胞を休ませる必要は、誰もが拒めない義務のようなものである。

 手や足は使わないでいるだけで、ある程度、疲れをとることができる。だが、脳は目や耳から絶えず刺激を受けていて、機能し反応し続けているのである。起きている間は、脳に休息はない。脳を休ませるには、眠るしか方法がないのである。

 一日使ったら、夜は脳を含めた肉体を疲れさせないように、軽く食事をとり、風呂に入り、肉体を温め、血液の循環をよくして、湯冷めしないうちに寝るがよい。就寝時間の最善は八時、次善は十時、限度は十二時前である。

 最近では、眠れないなどという人が増えているようだが、仏教の要義が簡単に約説してある法句経(ほっくぎょう)の中に、「眠られぬ夜は永し」とある。先哲も、内なる時間として述べている。「人間の置かれている環境次第で、楽しい時は過ぎやすく苦しい場合は長い」と。

 私にいわせれば、不眠症はぜいたく病。働きが精神労働に傾きすぎて眠れないということもまれにはあるけれど、だいたい、軽く疲れるくらい働けば、ぐっすり眠れるというのが、宇宙に創られた結晶身、自然生物、自然機械たる人間のオートメ装置である。

 たとえ横になって眠れなくとも、イライラしないで、五体を横たえてさえいれば、基礎代謝は最少ですみ、疲れはとれるものだから、気にしないこと。気にしなければ、必ず眠られるはず。

 眠れないなどというのは、意識が欲をかいている証拠でもある。一切の欲を捨てて、体一色になれば、すぐに眠れる。よく眠れる。

 かくして、早寝早起きするようになると、体の中に蓄積された疲労や病因や心労や悪癖や性分なども、夜の眠りの中で自然作用により浄化されて清浄身となる。

 そこで、本当に眠りということに徹すれば、寝ているうちに洗心され、精神修養もできるのである。

 早く寝て、十分に眠ることを毎日の習慣にしている人は、よく眠るだけで賢明かつ健康な人となり、気がつくし、気もきくという「気」の働きのある人になるから、学歴や知識などあまりなくとも、世の中にあっては皆、それぞれの職分において立派に成功することができるだろう。

●昼寝は発想を転換する特効薬

 そして、第二編でも述べたように、「気」働きのある人になれたなら、十分な眠りの後の朝の目覚めのひとときなどに、素晴らしい感覚から直観を起こしてひらめき、難問解決のヒントに気がついたりするのである。

 このようなひらめきを得られるなどの効用があることから、夜ばかりでなく、昼食後も体を投げ出して、そのまま二、三十分眠ることを勧めてみたい。

 二十分から三十分くらいの時間の眠りは、睡眠生理学的にいっても体まで眠る深い眠りにはならず、大脳だけを休める睡眠だから、あまり夜の睡眠のじゃまにはならない。しかも、効率よく体の疲れをとることができ、自律神経の乱れを調整していくことができるのである。

 昼寝は罪悪ではない。奇妙なことのように聞こえるかもしれないが、昔から立派な仕事をした人々は、居眠りの名人が多いようである。「昼食後の三十分の昼寝は夜間の三時間の睡眠にも匹敵する」といっている人もいるが、居眠りも気分転換の特効薬といえよう。その上、脳の疲れをとってくれる大切な行為なわけである。

 仕事をしている時は左脳を使うが、寝ている時には右脳の働きが相対的に活発になるもの。ウトウトしている状態などは、レム睡眠ではないのだが、夢と同じようなものを見る。ウトウトすると、右脳より先に左脳が休んでしまうからである。こうして右脳を使うと、直観、ひらめきが出てくることもある。

 考えあぐねて壁にぶつかった時は、意識的にウトウトして、右脳で発想の転換をするのも一つの方法である。寝た後は、いい企画が浮かびやすいから、企業はもっと仮眠室を設けるべきではないだろうか。

 果報を得んとする者は、まず体を投げ出して寝、自然に湧いてくる力の発動を待てということである。

 企業に勤める人ばかりでなく、誰もが眠気を催したら、昼間でもそこへゴロリと寝る癖をつけること。十分間、十五分間の眠りでもすっきり頭がさえ、はっきり体が澄んで元気になる。勉強中でも家事中でも、居眠りするより寝るがよい。

●瞑想によって開発する潜在能力

 ここまで、人間の頭脳を明晰にする各種の方法を述べてきたが、人間の潜在能力というものは、普通の人なら現在の約十倍は眠っているといわれる。最後に、ほとんどの人がその能力に気づくことなく、一生を終えてしまうこの潜在能力を開くための、呼吸法にポイントを置く瞑想(めいそう)について少し解説する。

 人間に潜在している能力が多くあるということは、自然界から最高の能力を与えられながら、雑多な意識のためにその機能を半減させているわけであるが、最も顕著なのが、約百四、五十億個あるといわれる人間の脳細胞である。

 体の中で一番エネルギーを消費していながら、平常時に機能している人間の脳細胞は、全体の十~二十パーセントにしかすぎない。しかも、酸素や血液などのエネルギー分配に関して、頭脳は非常に優位な位置を占めているのである、仮に筋肉がフルに使われたとしても、脳より二十五パーセント多く酸素を消費するだけである。

 本来、人間の肉体は、無駄がなくきわめて合理的で、しかも絶妙なバランスによって見事に構成されている。脳細胞がエネルギーを使うのは、頭脳がそれだけ重要な器官であるからである。しかし、残念ながら頭脳の使用方法を誤っているため、正常に働いていない。その原因の大部分が、意識と肉体のアンバランス、つまり「気」の拡散と力みである。 現代人の頭脳は、知識や論理を重視する習慣の影響で偏った発達をしているため、脳波を調べると複数の波が重なった不規則な波形を見ることができる。意識が拡散しているため、いろいろなインパルスが飛び交っている。

 そこで、私は瞑想を勧めるのである。瞑想とは、「心と身体を開放し、無の状態を作り、宇宙と一体になる」という精神行為である。禅僧は、自我を捨て、悟りを開くため瞑想をする。悟りの本質は、仏教の道に入らなければわかるものでないし、私も仏教やヨガを勧めているわけではない。一般の人が潜在能力を開くために、無の状態を作る瞑想を勧めるのである。

 無とは、もちろん無意識のことであり、人間が自覚できない意識のことをいう。無意識の中には、人間の隠された本質が眠っているのである。いわば瞑想は、無意識の中に潜む未知の能力を引き起こすための準備運動と考えればよい。

 瞑想を行う際には無心になり、坐禅に見られるあぐらの姿勢、または私の開発した寝禅に見られる五体を投げ出した姿勢で、力を抜く。それは、宇宙大自然と一体となるための心構えと体構えである。

 そこで、鼻から息を吸い込み、長く、ゆっくり、静かに吐く。呼吸はすべて腹式呼吸で二十分から一時間くらい続ける。瞑想中の意識は、呼吸のみに集中すること。この呼気の意識を集中し、「気」を沈める場所は、ヘソから下の腹部である臍下丹田である。

 目は閉じても開けてもいいが、開けて行う場合は半眼の状態が望ましい。どのスタイルにも共通することは、背筋を直っすぐに伸ばし、あとは全身の力を抜きリラックスすることである。とにかく、長期間続けることが大切である。

 この瞑想の効用の一つが、脳波の同調である。深い瞑想状態に入り、精神が統一された時、すべての脳波が同調され、きれいな波形を描く。しかも、それは睡眠の際に現れるアルファ波といわれる脳波である。

 アルファ波の中でも九~十二ヘルツのミッドアルファの出ている状態は、脳が集中、調和し、心身ともに最高のコンディションであるといえる。精神も肉体もリラックスし、眠っていた潜在能力が目覚め、創造力、ひらめき、勘が働いてくる。これらは、無意識下に眠る潜在〃脳力〃の働き、日常の記憶の外に追いやられた情報の再現である。脳の中では、無意識思考が自然に行われ、ひらめきとなって現れる。

 全身に精気がみなぎり、隅々まで「気」が通い、人間と自然が一体となる理想の状態である。それは、細胞に秩序が生まれ、精神と肉体が完全調和していることを意味する。瞑想こそ現代社会のストレスから自分を解放し、健全な精神と肉体を作る最善の道なのである。

 潜在能力を開きたいと思うのであれば、誰もが迷うことなく瞑想をすべきである。

 そういう習慣を持つことで、真の健康を知り、真の自分を発見することができる。自我を捨て、焦らずコツコツと瞑想を続けることである。文明社会の不自然な環境にむしばまれた精神と肉体が徐々にリフレッシュされ、やがて「気」を感じ、宇宙大自然のエネルギーにより潜在する世界へ導かれるはずである。

🟪インフルエンザの患者数が注意報の基準を超える 新型コロナと同時に流行ピークの恐れも

 インフルエンザの感染状況について、厚生労働省は20日、全国約5000の定点医療機関から9〜15日の1週間に報告された感染者数が1医療機関当たり19・06人だったと発表しました。前週(9・03人)と比べ2・11倍に急増し、「注意報」の基準の10人を超まし た。  都道府県別では...