∥上半身の出物が発する健康情報(1)∥
●自分の顔を見れば病気がわかる
人相、容貌がその人の性格や経歴との一致率が高いことは、すでに述べてきたことであるが、この人間の顔というものはその人の健康状態を判断する場合にも、非常に役立つものである。
外形的な目鼻立ちのほか、表情、顔色、黒目、白目、唇、皮膚の状態など、まことに多くを教えてくれる。精神状態をよく教えてくれるのも顔で、とりわけ表情と目の状態が多くを語る。
医者の臨床診断や健康診断に際しても、顔はきわめて有力な情報源となる。患者の顔を見て病気を判断するのは、西洋医学で「視診」、東洋医学で「望診」といって、東西両医学がともに行っていること。顔から病気を見て取ろうとするのは、ごく日常的な診察法の一つなわけだ。
名医といわれる人なら、顔を見ただけで、患者の病気と、その症状をピタリと見抜くという。
昔の名医には、糸脈で診断できる人がいたそうだ。いくら名医でも、腕に糸を巻いて、その先を隣の部屋で持っただけで病気の診断をすることは、眉唾物である。しかし、十数年間も臨床検査を行って病人の顔を見ているうちに、いつの間にか顔の変化を見ただけで診断がつくようになったという名医は、実際に存在する。
人間の顔には、健康状態を示すシグナルが表れており、経験を積み重ねた医者はそれを的確に読み取り、病気の状態を認知できるようになるためである。
治療の方法は違うが、西洋医学であろうと、東洋医学であろうと、これは同じであり、名医といわれるほどの医師は同じ能力を備えているはずだ。
西洋医学の診察法の一つである視診は、体付き、動作、顔などから、患者の健康状態を判断する診察法。視診は、患者が診察室に入ってきた瞬間から始まり、動作が緩慢ではないか、一方に片寄った歩き方をしていないか、前かがみになって歩いていないかなどを見る。
例えば、動きがぎこちなく、ゆっくりしていると、パーキンソン病の可能性があり、一方に片寄った歩き方をしていると、脳卒中や小脳の異常などが疑われる。歩き方が緩慢で、前かがみになっている時には、うつ病、筋力の低下、パーキンソン病、内耳疾患などが疑われるようだ。
わけても、内科では主に、患者の顔の色を重要視する。青白いか、紅潮しているか、黄だんがあるか、紫はんがあるかなどである。そのほか、顔では髪の毛の状態、目、唇、舌、歯肉なども、注意して視診される。
もちろん、西洋医学の診察では、視診とともに、問診、触診、打診、聴診も行って、身体的検査や、脈拍・体温などの生命力データのチェックに加え、血液や尿の検査により循環、排泄(はいせつ)機能などを調べて、総合的に病気を判断する。
●顔で病気を予測する東洋医学
西洋医学に対し、東洋医学の漢方は、検査機器の少なかった古代中国で確立された医療である。そのため、西洋医学とは異なり、診察は患者の顔や体の状態を見たり、聞いたりすることだけで判断される。
基本となるのは望、聞、問、切の四診といわれる方法で、西洋医学の視診に相当するのは、この四診の中の望診に当たり、陰陽、虚実、表裏、寒熱の基準によって判断する。人間の体力の充実度については、虚、実という尺度で表され、体力があり、病気に対する抵抗力がある状態を実証とし、その逆の体力のない状態を虚証と見なす。
人間の健康状態を、どの時点で問題があるとするかについても、東洋医学は西洋医学と大きく異なっている。病気というのは本来、顔を見ただけで病名がわかったり、検査で異常値が出たりした状態になってからではもう手遅れだとして、病気になる前に前兆を予測し、対策を講ずることが大切と考えるのである。東洋医学は西洋医学と比べて、病気にならないようにすることを特に重要視するわけだ。
望診で注意するのは、西洋医学と同様、自律神経などの神経が多く表面に表れている顔と手。顔では輪郭、顔色、髪の毛、眉毛、目、耳、鼻、口などの状態を詳しくチェックする。
そのほかには、姿勢、声、呼吸の仕方などにも注意を払い、それぞれ実証か虚証かを判断していく。例を挙げれば、顔色は青白いのが虚で、赤みがあるのが実、口はつい開いてしまうのが虚で、締まっているのが実といった具合である。
その際、人間の顔は艶や張りがあり、赤みを帯びた状態が一般的には良好とされているが、東洋医学では、それのみを重要視するわけではない。
健康を長いサイクルで判断し、天寿を全うできることを最大の目標としているため、顔の色艶がよく、脂ぎっていて、活力にあふれた状態は実証とされ、問題も抱えていると見られる。バイタリティーがあり、元気すぎるほどの人は、四、五十代で疲れてしまい、途中で高血圧症などの病気になりやすく、突然死んでしまうことも多いからだ。
反対に、顔色が青白く、弱々しい人は虚証とされるが、世間で考えられるほど問題があるとは見なされない。体が弱い人は、体力がなくて無理をしないので、逆に長生きをすることが多いからである。
東洋医学では、実証と虚証の中間の状態が、最もいいとされている。
また、東洋医学には昔から平田氏帯という研究があり、これは顔の部分の変化によって、疾患を診断する方法である。
この要点を略記してみると、男性ホルモンの過剰な人は頭がはげてくるし、婦人に子宮の疾患があると、前額に局限してニキビができることがある。便秘症の人は、鼻の付近に湿しんができる。
観相術で見ても額は生まれつきの相というが、この部分が赤くテカテカ光っていれば、糖尿病である。
顔の中央は中年相で、このあたりがどす黒くなったり、頬にチョウ型の染みができたりしている人は、肝臓障害である。
下顎のあたりが貧弱で、吹き出物ができていれば、胃腸障害、唇に水疱(すいほう)が生じて、治らない時は心臓が悪い、といった具合である。
●目の色や声に表れる「気」を診る
かくのごとく、顔から病気を認知する方法が確立されているのは、人相が病気とつながりがあるからこそである。
観相のほうから調べてみても、下顎は晩年の相を表し、下顎が発達し、円満な人は長寿であるとされている。漢方医のほうでも、下顎の貧弱な人は胃腸が弱く、短命であると考えている。
言い換えれば、下顎がよく発達し、胃腸が丈夫な人はいわゆる福相で、「胃腸の丈夫な人に病なし」の格言の通りである。
昔から「エビス、ダイコク、福の神」という言葉があるが、いつもニコニコしている人は、おおむね長生きである。私たちの周囲を見回しても、七十歳以上生き永らえている健康な人は、福相が多いはずである。
つまり、楽しく、愉快な生活を送っているから、自然と人相まで福々しい顔になったものと思われる。
これに反し、怒りっぽい人に胃潰瘍(いかいよう)が多かったり、ヒステリーの女性が神経系統の病気にかかりやすいのも、そのためである。
その点、もしも既婚者が改めてお嫁さんをもらうなら、オカメの面のような下膨れをした、ニコニコしている娘さんを選ぶのもよいだろう。
ともあれ、東洋医学でも、西洋医学でも、その診察に際しては、患者の顔や体から病気を判断するとともに、顔や体に表れる精神力をも判断しようとするものである。目に見えないエネルギーというか、生命力、東洋医学では「気」という概念で表現されているものである。
同じ病気でも、患者の顔から「気」が出ている場合と出ていない場合とでは、大きく違う。「気」が出ていると、顔に生気が戻り、表情が明るくなって、病気は次第に治っていくのである。
東洋医学では、「気」は目の色や、話す声に表れるとされている。目の動きが活発で、輝き、声に張りがある状態が、「気」が充実した状態である。
実は、望診で一番むずかしいのは、この「気」を診ること、患者のエネルギー、生命力を見抜くことなのだ。
ここまでの説明で、医者の視診、望診という顔から認知する病気判断の必要性がわかったことと思う。また、こうした面接や問診の場合は、じっくりと聞くという医者側の姿勢が、患者の苦しみや病像を知る上で、基本的に大切なのである。
だが、最近の西洋医学においては、検査データばかりを見て、患者の顔をしっかりと見ない医者が少なくない。病棟回診の医者が「お変わりないですね」と、おざなりに声を掛けるだけで、サッといってしまうだけでは、患者の心にも不満が残ってしまうというものだ。
●自分の顔を鏡に映し、よく点検
一般家庭における健康管理の問題についても、同じ傾向が見られる。昔の家庭では、母親たちが家族の顔色、表情に注意し、健康点検に役立たせたものだが、最近の母親は世情の慌ただしさの影響を受けてか、家族の顔をあまり注意しない兆候があるのは残念だ。
また、テレビの影響のためか、夫婦でさえも、お互いの顔をちゃんと見る機会が少なくなり、お互いの健康状態のチェックがなされない傾向が強い。
一般に、日本では健康管理の仕事を、医師や保健婦といった医療の専門家たちの仕事と割り切り、あなた任せの風潮が強い。
この点、西欧諸国の人たちのように、健康は人生の幸福と考え、ヘルスケアは自分自身でやる仕事で、自分で手に負えない場合に専門家の指導を受ける生活態度を、私たちは学ぶ必要がある。
少なくとも、毎朝一分間でよいから、自分の顔を鏡に映し、顔色、顔の表情、目、鼻、口の状態を点検してほしい。
コンピューター会社に勤めるOLのA子さんは、毎朝自分の顔の点検を続けていたお陰で、ある朝白目が何となく黄色っぽいのに気づいた。約一カ月残業が続き、疲れがたまり気味で体もだるい。会社の健康管理室を訪ねたところ、急性の肝臓炎と診断され、緊急入院をした。幸い早期発見のため、約一カ月の入院で回復できた。
大阪にある大学のB教授は、ある朝、目尻の上に米粒大の腫瘤(しゅりゅう)があるのに気づいた。早速、大学の付属病院の友人に診察してもらったところ、血液中のコレステロールが異常に高く、黄色腫と呼ばれる脂肪の塊ができたことが判明し、約二カ月間の厳しい食事療法でやっと高脂血症状態から脱出し、黄色腫をなくすことができたのである。
誰もが毎朝、自分の顔を鏡に映し、数分間の点検を心掛けよう。睡眠不足や二日酔いの時は、何ともさえない顔が鏡に映る。
こんな場合は健康の危険信号で、必ずそこには健康を損ねる原因が潜んでいる。早く、その原因を取り除き、その回復に努めてもらいたい。
また、このようにして、その朝、その時、その日の人間の表情や、血色、気分、健康状態について考えてみると、それはよいにつけ、悪いにつけ、そのままが天の印でないものは一つもないことに気づくであろう。
寝不足をすると、すぐ翌日の疲れとなり、顔の表情にも活気がなくなるというような一事にも、人間を生かしてくれている宇宙天地大自然の営みに反した印が、すぐその翌朝の表情に出ることを知る。
従って、人間の今日、ただいまの表情に、私たちは天の印を見ると同時に、その人がどれだけ天の営みにのっとっているかどうかも、その表情からうかがい知ることができるのである。
人間の一生涯は、片時も天の営みから離れてはならず、人間は何よりも、その営みに従うことを心しなくてはならない。
だから、人間が生涯にわたって、その時々に応じての美を満喫したければ、常に天の営みにのっとって最高度の健康を保持するがよい。十分睡眠が足りて、心の平らかな健康そのもののような朝は、気分がよいのみか、自己の顔にほれぼれするような頼もしさを感じるだろう。
顔の美の根源は睡眠にあり、健康にある。肉体にある。体の中から本質的に美が発動してくれば、心は健となり幸となる。血色はよくなり喜色がみなぎり、能力が出る。健が賢に通じ、康が幸となるということがよくわかる。
∥上半身の出物が発する健康情報(2)∥
●耳垢は汗腺の分泌物などからなる
人間の目や鼻が前頭部にあるのに対して、側頭部にあるものといえば二つの耳である。この耳は、外耳、中耳、内耳の三つに分けられている。
俗に「福耳の人はお金が授かる」といわれるが、この場合の福耳というのは、耳の中で最も外側にある耳介を指している。先の鼻の重要性を認識していない人が多いように、「耳ごとき」と思われる人も多いことだろうが、耳は他人には意外に目立つ個所であるし、自己の肉体内部に対しても調節、調和作用をしている大事なところだけに、おろそかにはできない。
実は、耳の働きというものは、目以上に人間の肉体作用、精神作用に大きな役割を果たしているのである。世間の人は、その耳の働きをあまり知らないし、気がつかないようだ。
人によって耳介の大きさが違うとともに、形もさまざまである中で、一般には、耳介が大きく、耳輪の渦も深いのがよしとされている。確かに、耳介というのは聴覚器の外へ向けられた集音器で、すべてのものの音はここで捕らえられ、耳の奥へと伝えられていくのであるから、大きかったりするほうが集音能力は優れていると思われるだろうが、現実に、耳介の大小によって、聴力が影響を受けるということはほとんどない。
この耳介は、全体には軟骨が基盤をなし、下部の女性がイヤリングをつける一帯だけは軟骨がなくて軟らかく、下方に垂れ下がっているので耳たぶという。
耳介の前方下部には、耳珠という小さな高まりがあり、その後方の陰に外耳孔がある。この外耳孔から鼓膜までの道を外耳道といい、外耳道と耳介を合わせて、外耳と呼んでいるのである。
外耳道は成人でほぼ二・五センチの長さで、軽くS状に曲がっている。お陰で、外からのぞいただけでは鼓膜は見えない。これを見るためには、耳介を後ろ上方に引っ張り上げなければならない。
さて、外耳道には柔らかい毛があり、耳道腺という汗腺の一種が開いている。耳からの出物である耳垢は、この汗腺からの分泌物と、表面の皮膚のはげたのが混じったものなのである。
耳垢は体質的に、たまりやすい人と、そうでない人がいて、たまりやすい人は耳道腺からの分泌が活発な人に多く、中にはそれがすぎて、耳の中がいつもぬれた感じの人がいる。この種の、いわゆる猫耳は西欧人に多いようだ。
外耳と内側にある中耳を境する鼓膜は、〇・一ミリの薄い膜でほぼ長円形をなし、その長径は一センチ弱である。この面はよく見ると、中央部がラッパ状にへこみ、臍の形をしているので、臍と呼ぶ。この部分の内側には、ツチ骨の柄が接し、ここから音の振動が内部に伝わる仕掛けになっている。
鼓膜は薄く、外側からこれらの骨の形が透けて見える。それでも、膜の中には神経や血管が走っていて、耳垢をとる時など、誤って触れると激しい痛みを覚えることは、誰もが経験済みのことであろう。
そのように耳の鼓膜はとても敏感で、表面をわずか百億分の一センチ動かす振動でも捕らえることができるという。そして、鼓膜の振動圧は、鼓膜のすぐ裏側にあるツチ骨など三つの耳小骨で、何と二十二倍の圧力に増幅される。
●中耳炎は咽頭や喉頭の炎症から起きる
その三つの耳小骨に囲まれた空間が中耳で、鼓室と、ここと咽頭(いんとう)をつなぐ耳管とからなっている。いずれも表面は粘膜でおおわれ、中は咽頭から流入してきた空気で満たされている。
鼓室の内側は、ツチ骨、キヌタ骨、アブミ骨という三つの耳小骨が互いに、関節をもって連なり、前記の鼓膜の臍から伝えられた音を増幅しながら、ツチからキヌタ、アブミ骨の順で、内耳へ送られていく。
中耳炎は、この骨を取り巻く粘膜の炎症で、悪化すると音の伝達がうまくいかなくなり、難聴からやがて失聴に至ることもある。中耳は耳管によって咽頭と通じているため、咽頭や喉頭(こうとう)の炎症から起きる場合が多い。
内耳は中耳のさらに内側にあって、硬い骨に囲まれ、小部屋の中に、蝸牛(かぎゅう)管、三半規管、前庭などが収められている。いずれも複雑な形をしているので、この一帯を骨迷路といい、この内側の粘膜を膜迷路と呼んでいる。
このうち、カタツムリの形をした蝸牛管の中には、一種のリンパ液が満たされていて、ここまでやってきた音はリンパ液に波を起こし、その波紋がそこにいっぱい生えている繊毛(有毛神経)を動かし、その信号が聴神経を経て脳に伝達されるという仕組みになっているのである。
一方、三半規管には前庭神経の一部がきて、体の平衡感覚をコントロールする働きをする。幼い子が車や船に酔うのは、この三半規管が未発達のため。耳は音の情報を得る感覚器官であると同時に、人間の直立姿勢の保持、つまり体の平衡を保つ平衡器官なのである。
三半規管が発達していない乳児の場合も、音の情報を得る聴覚は発達しており、だいたい毎秒十六サイクルから三万サイクルの範囲の音まで聞こえる。だが、六十歳になると一万サイクル前後にまで落ちてしまう。人間は老いてくると、耳が遠くなるのである。
耳で聞こえなくなると、鼻や口で聞こうとして、つい口を開ける。ポカンと口を開けた顔は、何ともだらしなく、締まりなく見えるものだ。
現代の文明人たちは、テレビを見る、ラジオを聞く。無用な雑言にも似たくだらない音で、やたらと耳を煩わす。
「聴、甚だしければ即ち耳聡ならず」と「韓非子」にあるが、無理に不必要な音で耳を刺激したり、耳がそれを聞こうとして焦ると、耳がだんだん本来的な働きを失い、いうことをきかなくなる。〃不感症〃というやつになってしまうから心すべきだ。
それにしても、人間の耳というものは、まこと巧妙にできているものと、つくづく思うことがある。
電車のような大きな騒音が聞こえるところにいても、慣れれば、ちっとも耳障りにならなくなるから不思議である。
ちゃんと耳が調節、ろ過して、体に無益な刺激を与えないような機能が働く。一般には知られていない耳のもう一つ大事な働きは、肉体の内部、内臓の器官に対して、素晴らしい調節、調和作用をしていることなのである。
さらに、耳から無意識につながってでき上がる勘というものは、肉体の深部にまで到達する。例えば、犬がぐっすり寝こんでいるようでも、耳だけはちゃんとアンテナを張っていて、ちょっとした物音にも敏感に動く。目は閉じていても、耳や鼻は外のほう、つまり生かされているという世界に向けて開いている。
●耳を澄ますと奥深い世界に通ずる
この耳は聞くだけでなく、耳で見ることもできる。目は確かに事実を誤りなく見るが、それはあくまで表面的な状態だけで、内容を見ることのできるものは耳である。人を本当に見ることができるのは、耳なのである。耳は、目で見た印象と合わせて、物事の本質を間違いなく感覚することができる。
結局、耳も目も、外界のものを捕らえるという点で、同じような働きをしているようであるが、本質的に違うものである。
目は平面的であるから、表面的で浅いところを広く見る性質を持っている。耳は深いところにあるから、力というものを把握することができる。目に見えない世界を把握できる力を持っているから、耳を澄ますと奥深い世界に通ずることができる。耳で落ち着くということができる。だから、耳がしゃんとしていると、目がキョロキョロするようなことはなくなるわけだ。
この力を活用すれば、難行苦行をするまでもなく、人間性を成就することができる。真に健康、賢明になり、病気もせず心に悩みを持つこともない。難病、業病を治すこともできるのである。
目に見える物や、耳に聞こえる音はまず潜在性意識の中に入る。目と口は現象界に直接し、直面して頭脳に記憶させるし、耳と鼻は目に見えぬ世界のものを捕らえて体内に入れる。
鼻で嗅げないものや、目に見えない物や、耳に聞こえないものは、一種の光となって無意識の中に入っていく。
人間は目に見える物、音として聞こえるものだけが、ものだと思っている。けれども、それ以外に、それ以上に素晴らしいものがあるということを知らない。こうした力が無意識に入っていくと、下のほうの空意識から入ってくるものと、二つの力が合流して、大変な能力を生み出すのである。
こういう力は誰にでもある。平等に生かされている世界に生きている人間の、素晴らしい能力である。しかし、このことを知る人がない。この力が肉体のあらゆる器官、機能に重要な力を与え、大きな能力を発揮させる力であることを人は気づかない。
つまり、見えない物、聞こえないものが、この空の世界に、空の形で存在している。それを体で受け取り、我が力とする方法ができたならば、その人は達人になれる。
耳は音を音波として聞き、目は光を吸収して万物を見る。同時に、耳や目からいろいろな物事を発動し、発揮していく力を持っている。人間の行う芸術、科学もそうした働きによるものである。
耳や目はものを吸収するが、それが目に見える陽の面に働く時と、目に見えない陰の面に働く時とがある。目は光を捕らえ、光の中で陽の面に働き、耳は目に見えない世界のものを音として受け取るわけである。
古来、「耳を信じて目を疑う」とか、「耳に入り心に著(つ)く」といって、耳から聞いた学問、知識などが、よく身につくもの。
賢い人のことを聡明(そうめい)といい、耳ヘンである。聡明といえば、精神が立派で、物事の判断力が確かな人だ。その元はといえば、耳が優れていて、もののよしあしを判断する機能が、十二分に働くということである。
徳をもって人に分かつ、これを聖という。財をもって人に分かつ、これを賢という。人に恵む時、徳を人に分けてやるのが一番尊い。それが聖。財産を分けてやる賢はその次。こう荘子もちゃんと教えている。
聖という字にも、耳が付いている。やはり、最高の人間たるには、耳が正しくないといけない。そのあたりは、昔の人も心得て、字を作ったものだと感服するばかりである。
∥上半身の出物が発する健康情報(3)∥
●目から出る涙は酸素と栄養の供給源
本人は健康だと信じているのに、いつの間にか病気にむしばまれ、気付いた時にはもう手遅れとならないために、毎日、自分の体からの貴重な出物を観察することをぜひ勧めたい。
いろいろな出物は毎日姿を変え、体の調子をはっきり告げているものであり、非常に役に立つ健康のバロメーターで、素人にも判断しやすい健康の指標なのである。
もし色や形、量、におい、音などに異常が発見されたら、病院にいって精密検査を受けてほしい。確かに、一過性の違和もあり、出物の異常がすべて病気というわけではないものの、本当の病気だったら、早期発見できる場合もあるのだ。
いきなり病院に担ぎ込まれる前に、体からのメッセージを自分の目で読み取る能力を養っておくのが、内臓をはじめとした心身へのいたわりというもので、誰にとっても決して無駄にはならないはずである。
メッセージの解読法とともに、肉体各部の異常な出物を正常な出物に変える対処法や、日常生活において根本的に肉体を調整、浄化する健康法をお伝えしていく。この健康法も、誰にも有効で、大いに活用できるものである。
現代の日本人の肉体の中で、最も酷使されているものの一つに、両の目が挙げられるだろう。
もとより、宇宙には音が存在するから人間の耳が作られたように、光があるから人間に目が与えられたのであるが、目の網膜には光に反応する視細胞が一億三千七百万個もあり、そのうちの一億三千万個で明暗を感じ、七百万個が色彩を感じているという精巧な器官なのである。だからこそ、目の視覚機能は、最も多くの外界の情報を瞬時に判別、認識する。
この目からの出物、腫れ物といえば、涙、目やに、ものもらいが考えられる。
最初の涙に関して、感極まって涙を流す動物は人間だけだといわれているが、実をいうと、我々人間は別に悲しくなくても、常に、一定の量の涙を出し続けているのである。人前で泣くものではないと教育されて成人した男性でもだ。
それは涙の基礎分泌と呼ばれている。この涙の分泌が一瞬でも止まれば、角膜が乾燥してしまうため、我々は目を開けていられなくなる。
角膜というのは、眼球の黒目の部分をおおう透明な膜で、直径はほぼ一センチである。角膜の外側はいわゆる白目で、表面は透明な結膜、その下には強膜という白色、不透明の丈夫な膜がある。鏡をのぞいて、自分の目をよく見ると、その表面には細かな血管が張り巡らされていることに気づく。目が疲れてくると、血管が充血して目立つようになるのは、目に酸素と栄養をたくさん送り込むための反応なのである。
この張り巡らされた血管は、白目が角膜に接するところで途切れてしまう。よくできたもので、角膜の中に入り込む血管は一本もない。透明な角膜に血管が入り込んでいては、視界のじゃまになってしまうからである。
しかしながら、角膜を構成しているのは生きた細胞であるから、酸素と栄養の補給を欠かすことはできない。そこで、血液の代わりに使われるのが、まばたきの刺激で基礎分泌される涙というわけなのである。
意外に感じるかもしれないが、毛も、皮膚も、表面の部分は、新陳代謝を終えて死んだ細胞である。人間は、体を死んだ細胞でおおうことによって、水分の蒸発を防いでいる。生きた細胞は空気に触れると、すぐに乾燥してしまうからだ。
この点、角膜のように生きた細胞が直接大気にさらされているのは、人体では珍しいケースなのだ。それが乾燥せずにいられるのも、涙が常に目の表面をおおっているお陰なのである。
目をおおっている涙の量は、きわめて少量だ。およそ七マイクロリットル、千分の七ミリリットルという量である。
涙は目の表面に、ごく薄い層となって、延び広がっている。本当に薄い層であるが、細かく見るといくつかの層に分かれている。外側から油層、漿液(しょうえき)層、ムチン層と呼ばれる三つの層だ。この三層が正常に機能して、はじめて涙としての役割を果たしているのである。
最外層の油層は、脂肪分に富んだ液体だ。これが涙全体をおおっているために、涙は普通の液体よりもはるかに蒸発しにくい。油層はまつげの生え際に一列に並ぶ、マイボーム腺(せん)と呼ばれる器官で作られる。皮膚の脂腺が詰まってニキビができるように、マイボーム腺が詰まるとまぶたが赤くはれる。これが目の出物、腫れ物、いわゆる、ものもらいである。
油層の内側の漿液層が、涙の本体。ここに、酸素や目に必要な栄養などの成分が含まれ、目の健康を保つのである。主に、上まぶたの裏の耳側にある涙腺で作られている。
その内側、眼球の表面と接しているのが、ムチン層。ムチンは粘着性の高い蛋白(たんぱく)質で、涙が目の表面に安定してくっつきやすいようにする。外部から侵入した異物や細菌を目の外へ出し、まぶたの動きをなめらかにするという働きもする。このムチンは、白目の表面にあるゴブレット細胞で作られている。朝起きた時に、目の隅などに目やにがついていることがあるが、これがムチンである。
このように三層をなす涙は、目を正常に機能させるために欠かせない液体なのである。
●目を酷使すると生理的機能を痛める
その涙が、人間の感情の高まりと一緒に、大量に分泌されるのはなぜだろうか。この疑問に対する明確な医学的解答はいまだ得られていないが、感情的涙についての仮説で有力なのは、人間がストレスを受けている時に体内に発散した有害物質を取り除く働きがあるというものである。この感情的涙には、刺激で出る涙より高い濃度の蛋白質が含まれているそうだ。
また、目から出る感情的涙というのは、ボディーランゲージの一種であることも確かだ。悲しさと涙とが条件反射的に結びつけられていく過程は、新生児を観察するとよくわかる。
多くの人は悲しいから涙が出るのだと思っているが、「涙が出るから悲しい」のも側面的真理であって、心の悲しみは体ごと表現されるものである。
そのような人の動きをよく見る力を養うと、人柄がわかり、性格もつかめるようになる。これも目の働きである。
眼光紙背に徹するほどに鍛えられれば、相手の運命や将来性まで、五官(五感)意識で直観することもできるようになるものであるし、そういう達人の目はゆったりしている。なぜなら、古人が「胸中正しければ、眸子(ぼうし)明らかなり」と喝破しているように、体が正常であれば目もゆったりしているものなのだ。
残念なことに、たいがいの現代人の目は落ち着きがなく、視点が定まらないでキョロキョロしている。物事に対する鑑定も、全く当てにならないものである。
言い古された言葉であっても、「目は心の窓」というのは千古不易の真理である。自己意識の強い人は、内面を映す目が濁って妄想が渦を巻いている。
一方、五官意識でスッキリと生きている人の目は、まるで新生児や乳幼児のように、自ら澄んで美しく、青空のようにすがすがしい。
実は、そのような目をした新生児の五官のうち、真っ先に働くのは口と鼻である。目や耳は少し遅れるものだ。
目という器官は、もともと物を映すようにできているから、教えなくとも自然に見ることができる。意識的に見るように教え込まれなくても、天地万物のほうから新生児の目に飛び込んでくるわけである。
つまり、目は与えられれば何でも見る。目からは、自然の心が入ってくる。恐ろしい害毒も飛び込んでくる。刺激の強い、つまらないテレビの画像も、子供の目に飛び込んでくる。こうした映像が、すべて先入観念となって肉体に蓄積され、人間の一生を支配するのである。
子供のうちから、やたらに目や耳を使うと、人間性の根本が狂ってしまう。
ビジュアルに教え込むことはやさしいから、人はやたらに視覚教育を尊重するが、そのために自己意識や誤った先入観を子供に詰め込むことになる。その害毒の大きさは、テレビについてだけ考えてもよくわかることだ。テレビの見すぎは、子供の精神に「心」という錆(さび)をこびりつかせるばかりでなく、目の生理的機能をも痛めてしまうものである。
●心の窓たる目の疲労の治し方
子供に限らず、現代人は目を酷使しすぎる。用のない時は目を閉じていたほうがよい。 目を自己意識で酷使していると、疲労のために頭痛がしたり、吐き気やめまいを生じることもある。
とりわけ、人間の目の疲れで最近多いのがドライアイで、涙が少ないために目が疲れる一種の現代病である。先に述べたように、その涙は泣く時に出る涙とは全く別で、目が正常に働くための最低限必要な潤いとしてのものであり、この基礎分泌の涙が少ないと、ドライアイと診断される。
では、涙が少なくて目の表面が乾くとどうなるのか。角膜の表面には、きわめて細かい凸凹が誰にでもある。凸凹は、本来なら涙によっておおわれ、なだらかな曲線になっているのであるが、涙が不足するとそのまま露出し、表面組織がはがれてしまう。
そこに光が乱反射してまぶしさを感じ、視神経を疲れやすくしてしまうのである。特に、一日中コンピューターに向かって仕事をしている人、つまりVDT作業をしている人は要注意。じっと画面を見つめる作業なので、まばたきの回数が減る。通常の涙はまばたきの刺激によって出るものだから、その回数が減れば自然に涙の量も減って、ドライアイになりやすいわけだ。
対策としては、涙に近い成分の目薬を頻繁にさし、目を休めることしか手立てはない。ことに目を酷使する作業をする時には、一時間を一クールとして、その中に必ず十分くらいの休憩をすること。
その時に、遠くの緑を見るといいとか、星を数えるといいとかいうけれども、一生懸命見ようとするのはかえってよくない。ボーッとするとか、同僚とおしゃべりをするとか、少しでも寝るとか、とにかくあまり物を見ないことが、目にとっては必要なことである。何より血行をよくすることも大切だから、首や腕を回したり、社内をうろつくのもいい。目のためには、見るな、そして動けである。
もちろん、ドライアイの人の仕事休みの時は別にして、ふだんから遠い地平線を凝視したり、強くまばたきを繰り返したりするのは、疲れ目に効果がある。ヨガの古い文献によると、トラータカと称する一点を凝視する方法は、視神経を強め、眼疾を治癒させる効果があるという。
また、光が目の保健に役立つことは生理学的な事実で、漠然と遠くの一点を見つめたり、天上に輝く日や星を注視することは、肺が清浄な空気によって元気づけられることと、同じような効果を持つことになる。日の出や日没の時の、まぶしくない太陽を注視するのは、スーリーヤディヤーナと呼ばれるヨガの保健法でもある。
しかし、日中のまばゆく、強い太陽光線では、逆に目に炎症を起こす恐れがあるから、みだりに注視することは好ましくない。
目が疲れたなと思ったら、まぶたを閉じて親指の腹で軽く摩擦をするのもよい。目の体操としては、首をしゃんと伸ばして、自分の鼻先を注視する方法や、上目使いに眉間(みけん)を見つめる運動がある。顔を動かさず、視線だけを左右の肩先に移動させると、眼球をコントロールしている筋肉の鍛錬になる。
そして、目の疲れに何よりいいのは、十分に寝て目を休めること。誰もが夜の眠りに入る前に、空の世界に目を遊ばせ、目に見えないものを見るようなつもりで寝ると、肉体に蓄えられた「気」の作用で自然に精神が統一され、宇宙大自然と一体の境地に到達できるものである。もちろん、目の疲れも回復する。目薬よりも寝薬なのである。
∥上半身の出物が発する健康情報(4)∥
●イビキは眠りや健康を損なうことがある
人間の目の下にある鼻は、顔の中心、中核である。この鼻や口から発せられる出物の一種に、イビキがある。眠っている時に呼吸とともに出るイビキの音ほど、本人平気、はた迷惑という図式がはっきりしている現象も珍しいのではないか。
対処法として、よく「姿勢を変えてやれば止まる」といわれるが、そうとも限らない場合もある。
口を開けて寝ると舌が下がるため、口から喉(のど)への通路が狭くなる。その上、鼻腔(びこう)と口との境界にある、口蓋垂(こうがいすい)や軟口蓋と呼ばれる部分がゆるんでいると、ここが振動する。それがイビキになるのであるが、体が疲れている時ほど、そのあたりの筋肉のゆるみが激しく、イビキもひどくなるのが道理。
一見、安眠の印のようにも見えてしまうイビキが、本人の眠りや健康を損なうこともあるし、病気の症状として出ることもあるから、注意をうながしておきたい。
その病気の代表が、夜中に息が止まる睡眠時呼吸障害という特殊な病気である。睡眠時無呼吸症候群ともいい、起きている時は正常に呼吸しているのに、眠ると十秒から二分ぐらい、繰り返し呼吸が途切れる病気である。
睡眠中の無呼吸は、健康な人でもよく見られるが、十秒以上の無呼吸状態が一時間の睡眠に五回以上ある時、この病気と診断される。
脂肪が沈着するなど気道をふさぐ原因があって起きたりするもので、圧倒的に男性に多く、年を取るに従って増える。女性も閉経後に見られるので、性ホルモンが関係しているらしいといわれている。
こういう病気の人たちは、睡眠時間をたっぷりとっているのに、昼間に眠気を感じる場合が多い。呼吸が再開する時は、覚醒(かくせい)時と同じ脳波が現れるので、無意識のうちに、夜中に何度も目が覚めているわけだ。酸素不足から、日中、頭の重さを訴える人も多く、高血圧や不整脈、赤血球の数の増加、心臓肥大など、さまざまな合併症も起こしやすい。これらが、睡眠中の突然死の原因の一部になっている可能性が指摘されている。
睡眠時無呼吸症候群の人でなくても、イビキをかく人は周りへの迷惑を気にするだろうから、イビキ対策を述べよう。
一番いいのは、鼻や喉に異常がないか、耳鼻咽喉科で診てもらうこと。扁桃(へんとう)がはれていれば、切除することもある。鼻づまりなら、治したほうがいいだろう。
ただ、重症でなければ、生活面の工夫である程度は改善できる。太った人は、日頃から減量を心掛ける。お酒を飲む人は、飲酒をなるべく控える。アルコールというものは、喉の筋肉をゆるめ、イビキをかきやすくするからだ。
鼻の粘膜が乾燥して荒れると、イビキをかきやすくなるので、部屋の湿度を保つことも必要。仰向けに寝ると、喉が狭められるので、横向きに寝るのもよい。枕(まくら)の下に本などを置いて、傾斜を作るのも効果があるそうである。
●鼻はホコリを排出する浄化機能も持つ
さて、人間の鼻は顔の中核で、大切な顔面を引き立てる美の象徴でもあるとともに、人間の生死も、宇宙大自然との交渉も、鼻から始まって鼻に終わるといえよう。鼻は人間が死ぬ時には、一番最後まで残る。呼吸が止まれば、鼻の存在も終わる。鼻は最初で最後である。
この鼻というのは、人間の腹部における臍(へそ)と同じように、五官の要になる大切な器官である。
そして、鼻は宇宙からの「気」を受信し、発信するアンテナでもあるが、それは外部環境に対しての広がりを意味するだけではなく、肉体内部のあらゆる器官にも四通八達しているものである。
鼻は五官の中央にあって、鋭敏な感覚力を持っている。五官と潜在性意識、無意識と空意識を一貫して、すべての感覚を調整し、神経を上手に制御したりする。
こういうと、鼻といえば嗅覚(きゅうかく)をつかさどるだけが役目と思っている人がほとんどに違いないから、意外な機能にびっくりすることだろう。
人間の鼻は、においを嗅(か)ぐだけではない。生きる上では、鼻腔の上部の粘膜上皮に約五百万個ある嗅細胞でにおいを嗅ぐ器官とされているが、生かされの世界では、鼻が素晴らしい感覚の中心となっているのである。わからぬものが、わかるという力さえもある。
これは鼻とか、臍とか、生殖器官という神秘的なところに、空意識、無意識という意識できない大きな力が潜んでおり、発揮できるからなのである。
一般的に知られているところでは、感覚器官としての鼻には、嗅覚機能のほかにも、呼吸作用を効率よく行うための役割がある。まず、冷たい空気がそのまま肺に入るとよくないので、鼻甲介の血管の収縮によって、空気を吸い込んだ瞬間に三十度くらいまでに温度を上げる暖房の機能、加温機能がある。
その次は加湿機能で、鼻の中の粘膜は水分が九十五パーセント前後あり、入ってきた乾燥した空気に湿り気を与え、喉などの粘膜を保護するわけだ。
また、鼻腔内の数百万本も生えている繊毛によって、外から侵入するホコリを体外へ排出する浄化機能という役目も果たしている。
人間の鼻は、霊妙な五官作用の働きのシンボルといえよう。
●頭脳の疲労素も排出する鼻水
鼻の感覚機能が訓練されて高まると、においのあるものだけを嗅ぎつけるだけでなく、目に見えない世界にあって、まだ香りになってこないものまで嗅ぎつける能力を持つようになる。
例えば、夜、眠っている時は目と口は現象世界と交通遮断をしているが、耳と鼻とは、生かされているという世界において、開けっ放しになっている。
といって、無用、不要なことは聞きもしないし、嗅ぎつけもしないが、泥棒が入ったり火事のような時には、その不審な物音に気づく。異常を察知した時には、耳と鼻が協力をして、かすかなものでも聞きつけ、嗅ぎつけるのである。
最近は、人の鼻も耳もマヒしているから、そういう微妙な問題に対処する力がない。社会の雑音の多い生活の中にいるから、必要な音さえ聞こえないのである。
この鼻に力を入れると腹も締まるし、全身も、「気」も、心も締まってくる。鼻から下の顎(あご)まで軽く力を入れると、魂が落ち着くものである。
さらに、鼻に「気」を集中して物事を考えると、無心のうちに真相が解けるものである。精神集中も、鼻に「気」を集めることが要領である。坐禅の時にも、鼻を中心に静寂、空寂になれる秘訣があり、人生のポイントがある。
鼻は空気だけではなく、宇宙の生気、「気」というものを吸い込み、吐き出している。
「気」とは、エネルギーとか、単なる働きではない。生命である。この宇宙生命という「気」の存在、働きは万物万象のすべてに現れているが、その「気」を吸収するところも、発揮するところも、頭部では鼻が主なのである。
だから、「気」が生じ、力がある時、鼻が何かと感じる。しっかりした鼻からは、着想や名案が出てくる。
人間は五官の中で、鼻というものをすっかり忘れている。目と耳と口があって、その中央に位する鼻のアンテナが、まるっきり遊んでいる。無視されているのである。人間の体には、まだ忘れられている大切なものがある。
鼻のよい人、完全な人は、頭脳にも関係がある。そこで、鼻腔の呼吸で頭脳を内部から冷やすこともできる。大きな徹底呼吸をしたならば、鼻からの空気で、頭脳を養うこともできる。
頭脳の排泄物などは、鼻に下ってくる。鼻には、頭脳の疲労素を鼻水という出物に変えて、排出する機能があるわけである。ヨガでは、鼻の浄化によって頭脳が爽快となり、視神経が強くなるという。
これも巧妙に仕組まれた自然作用の一つだが、自己意識がのさばってこの自然作用を妨げると、鼻づまりや蓄膿(ちくのう)症にかかることになる。
また、唾液や胃液が気化されて熱に変わった時も、鼻が詰まったり、詰まり加減になったりする。鼻は「気」神経の集まるところだから、鼻にさしたる故障がない時でも、鼻づまりで困ることがあるし、体に水分が不足したり、エネルギーの燃焼や気化に異常があると、すぐ鼻に現れる。
簡単なことながら、意外な原因で意外なところに現象が起こるものである。その影響もまた無視できない。
そこで、変わった健康法として、毎朝の洗面の時、冷たい水を手にすくって、鼻に七十回から百回ぐらいかけるのを習慣にすると、真冬でも風邪を引くことがない。少々の鼻づまりなども、てきめんに治ってしまうから妙である。
朝の洗面の時に、鼻から薄い塩水を吸い込むことも、鼻の健康法としては抜群の効果がある。
鼻づまりを治すもう一つの方法は、昔から言い伝えられてきた頭寒足熱で、足を温めることである。足は鼻ばかりではなく、目とも関連があって、フクロウの足を折ると瞳孔(どうこう)の周囲の光彩に傷が現れるというデータもある。目の悪い人は、多くの場合、足も弱い例が多いことを付け加えておこう。
∥上半身の出物が発する健康情報(5)∥
●口などから出るゲップ、クシャミ、セキ
耳の次は、人間の口からの出物についてである。いうまでもなく、人間の口は、消化器官の一部であり、声帯と一連の発声器官でもあり、その周りには表情筋を張り巡らした表現器官でもある。もちろん、呼吸器系統にも属している。
この口から発する言葉を主にして、私たちは互いの意思を伝え合っている。実は、そういう人間の言葉というものの根源は音(おん)である。その音の発生を追求すると、宇宙大自然の中に逆上ることになる。音も光も宇宙エネルギーの具現だが、それを感覚で受け止めた肉体が体の中で「気」に変え、自己のエネルギーに変換する力は素晴らしいものである。
人間が生かされている下半身の無意識、空意識が、上半身の潜在性意識、五官意識に通じてくる時に、肉体の働きとして音というものが発生する。すなわち、音は無意識、空意識という他力から発生して、上半身のほうへ上がってくる途中で、潜在性意識の中を通ってくると、さまざまな編集、組み合わせができて、言葉というものとなって、五官意識から発動するのである。
音が言葉になる。音が声になる。音声、声が言葉になる。音が歌になる。思えばなかなかに面白い肉体の仕組みである。
上半身にある口から言葉を上手に発する人は、その言葉の根が空意識、無意識という下半身、下腹にある。無意識層のよくできている人、発達している人の言葉は整然として、内容が立派である。
本当によい声を出そうとするならば、下腹の無意識、空意識という世界を鍛錬して、腰と腹に力を持ちながら、上半身は空虚にして楽に声を発する、歌を歌うようにすべきである。上半身で力んで、努力して一生懸命歌おうとすれば、かえって楽に声が出ない。色も艶(つや)も味もない歌になってしまう。
人間の声も、もっと美しく微妙に、立派に出す工夫が必要である。そのためには、呼吸作用を上手にしなければならないし、「気」が浮ついている時には、大きな腹式呼吸をして舌を落ち着かせることである。
さて、口からの出物の話に移って、まずは胃から口を通って発せられるゲップについてだ。ゲップというと、何となく上からのオナラという感じがすることだろう。しかし、両方の成分を比べてみると、ゲップはほとんど大気と同じで、窒素、酸素、炭酸ガスからなる。オナラとは大違いなのである。
人間は話したり、歌ったり、食べたり、飲んだり、タバコを吸ったりと口を開閉するたびに、空気を飲み込んでしまっている。普通の場合、食道に比べて胃の内部のほうが少し内圧が高いのだが、食道括約筋によってふたをされているので、逆流しない。ところが、空気がたまりすぎたり、ビールとかコーラの炭酸ガスが入りすぎたりすると、「あんまりじゃないか」と胃が苦しがって、放出してしまう。それがゲップというわけである。
人によっての違いはほとんどないけれど、その時、胃の中のにおいを持ってくる。欧米ではオナラよりもゲップのほうが失礼になるというのは、食物のにおいを感じさせることが一因であろう。
ゲップと同様に、口や鼻から音をともなって出てくるものに、クシャミとセキがある。冬には、両方に悩まされる人も多いが、前者のクシャミは、鼻粘膜に異物が付いたり、刺激が加わった時に、これを飛ばそうとする運動である。後者のセキは、気管粘膜の異物や刺激を除こうとする運動である。
このように、出口は違うのだが、ものすごい速さの呼気を作るという点では、ほぼ同じ動作なのだ。
もう少し詳しくいうと、クシャミは、呼吸中枢のすぐ近くにあると思われるクシャミの中枢の指令によって起こる。思い切り吸い込んだ息を、鼻腔を目掛けて吐き出す。この時、当然、口にも息が押し寄せるから、もし口を開いたりすると、ツバキまで飛び散ってしまうわけである。
一方、セキの場合は、セキの中枢の指令で出る。こちらの指令には、「声門と鼻腔を閉じておけ」という内容が入っている。息の吐き出し方はクシャミと同じで、息の流れが声門にぶつかった途端、声門が開かれるということになる。
声門は意思で開閉できるから、空セキなどという芸当ができるが、鼻腔はいうことを聞いてくれないので、空クシャミはできない。
普通の呼吸と比べてみると、クシャミやセキでは、吐く息のパワーが全く違う。普通の呼吸に使う筋肉は、横隔膜が主で、外肋間(ろっかん)筋と内肋間筋が肋骨を広げたり、狭めたりというアシストをしている。
これがクシャミやセキとなると、がらりと態度を変えてしまうのである。まず、使う筋肉では、補助呼吸筋と呼ばれ腹壁周辺の筋肉七種以上が助っ人する。場合によっては、足腰の筋肉まで使うという物々しさなのである。クシャミをしたら腰を痛めた、などという人がいる理由が納得できるだろう。
深く息を吸った後、これらの筋肉が力任せに収縮して、肺は猛烈に圧迫される。その結果、吐き出される呼気のスピードは、秒速二百~三百メートルという亜音速なのである。
●アクビは大いに奨励すべきもの
口から出るものの一つとして、アクビという吐息、深呼吸もある。人間なら誰もが、長い会議に出席したり、退屈な講演や授業を聞かされると、アクビが出そうになるもので、、一般には「眠い」、「疲労」、「退屈」と、ろくなイメージがないことだろう。
人間工学の立場から、単調労働とアクビの関係について研究した大学教授もおられる。工場の組み立てラインや検査ラインに働いている人たちを観察したところ、仕事開始から三十分くらいは変化がないが、三十分すぎる頃から注意力が落ちてきて、能率が落ち始める。そこで何とかカバーしようとして、姿勢を変えたり、隣の人と短いおしゃべりをして、気持ちをしっかりとさせている。
ところが、開始六十分頃になると、もう、そんな努力ができなくなって、姿勢も動かなくなり、アクビが出始めるという。新幹線の運転手のデータをとった時も、六十分でアクビが出てしまったという。
その結果からわかったのは、人間が大きな変化のない仕事を続ける場合の限界は六十分とみられることだ。つまり、「これ以上続けても、大脳生理学からいって効率はよくない」とサインしているのが、アクビだというわけだ。
六十分やってアクビが出た時は、二十分休憩というのが理想で、これでほとんど能率が回復する。少なくとも、十分は休憩したほうがいいようだ。
一方、「アクビは深呼吸の一種であって、特別な意味はない」という医学関係者もいる。
それによると、疲れた時だけでなく、緊張が続いてもアクビが出そうになる。緊張した時も、「息を詰めた」状態なので、血液に酸素の借りができる。あまりに借りると「返せ」といわれるのはどこでも同じで、それがアクビというわけである。しかも、このアクビという深呼吸の後は、しばらく無呼吸状態になるので、派手なアクションのわりに返済額は大したことがないというのである。
授業や会議中にアクビが出そうになったら、何回かに分けて大きめの深呼吸をすれば同じことだが、緊張すべき時が終わったら、なるべく派手なアクションをすれば、リラックス効果があるそうだ。
編集子にいわせれば、アクビは体内の悪疲、悪ガス、圧力の放出法である。アクビは疲れを「気」に変えて、体外に放出する自然作用だから、大いに奨励すべきものである。
誰もが仕事に飽きたら、アクビをせよ。これが前夜の睡眠不足が原因では怠け者の象徴となるが、気分転換、心機一転の機会ごとに、着想が新しく、新しくと進んでゆくのがよい。そうすれば、意識は前向きで元気が出る。
こうするために、お茶を飲んだり、タバコを吸ったりするが、一番簡単で無害有効なのは、伸びとアクビである。単調労働に従事している人や、事務仕事の多い人は人工的に、時々、伸びやアクビをする癖をつけておくと、習慣的に、条件反射運動的に、疲れがたまると、すぐに伸びやアクビが出るようになる。努めて、このような自然機能が発動するような体勢、体調にしておくことである。
●筋肉を伸ばせば頭がはっきりする
俳人高浜虚子は、「五十ばかりアクビをすると一句浮かぶ」という特技を持っていたそうである。
頭の働きに活を入れようと思ったら、筋肉を引き伸ばすことが一番なのであるが、人間が無意識に実行している典型的な例が、アクビなのである。
筋肉が引き伸ばされた時、その中にある感覚器の筋紡錘からは、しきりに信号が出て大脳へ伝達される。大脳は感覚器から網様体経由でくる信号が多いほどよく働き、意識は高まって、頭ははっきりするようにできている。
アクビも、咬筋(こうきん)といって、上顎と下顎の間に張っており、食べ物を噛(か)むのに必要な筋肉を強く引き伸ばすものであることを思えば、俳人の特技ももっともな話だ。
アクビは「血液の中の炭酸ガスを追い出すための深呼吸」だと説いている書物が圧倒的だが、アクビは「頭をはっきりさせるための運動の一つ」でもあるのである。
それでも納得いかないという方にも、わかってもらえるような例を挙げる。
今まで眠っていた猫が目を覚まして、行動を起こそうという間際には、決まってアクビをし、続けて背伸びをしている。我々も、これから起き出そうという際には、伸びをしたり、アクビをする。
ともに筋肉を伸ばすことによって、頭をはっきりさせる効果があることは、ご承知の通りである。
退屈な講演や授業を聞かされた時のアクビが、頭をはっきりさせて、何とか目を覚ましていようという、無意識の努力の現れだとしたら、ただ「行儀が悪い」としかりつけたり、腹を立てたりはできなくなる。
アクビは自然の覚醒剤。したい時には、いつでも堂々とやりたいものである。先のゲップや放屁と同様、エチケットに反することになるのは、いかにも残念だが。
ついでながら、咬筋の収縮を繰り返しても、同じような効果があるので、ガムを噛むのは結構なこと。アメリカの野球選手は、例外なくガムを噛みながらプレーしている。
同じ意味で、パソコンやワープロに向かう際には、立ったままで仕事をするのもいいだろう。人間が立っている時も、意識には上らないけれども、百くらいの筋肉が働いているから、腰掛けて筋肉をダラッとさせている時より、頭はずっとさえるはずである。
だから、学校の朝礼において、「気をつけ」と不動の姿勢をとらせての訓示は、休みの姿勢で聞くより効果的なのだ。疲れて電車に乗っても、立ったままではなかなか眠れない。それが腰掛けると眠ってしまうのも、同じような理由によるのである。
では、腰掛けるのと座るのとは、どちらが頭の働きをよくするかというと、太股(ふともも)の筋肉がより強く引き伸ばされるようになる座り方だろう。説明してきた通り、筋紡錘からの信号は、筋肉が引き伸ばされた時に、しきりに出るものだからである。
また、座りっ放しで仕事をしている人にとっては、体の伸びを取り入れた簡単な運動が気分転換に大いに役立つだろう。
椅子(いす)に腰掛けるたびに、腕を精いっぱい伸ばし、深呼吸をする。十分か十五分おきに、きちんと椅子に座り直して、肩を回し、体をリラックスさせる。三十分おきに、椅子の背にもたれて、十分に体を反らせる。電話を手元におかず、少し離しておく。当然ながら、電話のたびに手を思い切り伸ばさなければならないので、腕の運動になる。立ち上がるたびに、前かがみになって、足先をつかむようにするなどだ。
それぞれ本当に簡単な運動ながら、これらを習慣的に実行すれば、緊張を解きほぐし、やる気を呼び起こす上できわめて効果的である。
∥上半身の出物が発する健康情報(6)∥
●シャックリは横隔膜のケイレン信号
人間の口から発せられる音の出物の一種に、シャックリがあることも忘れてはならない。シャックリの医学上の名は、吃逆(きつぎゃく)という。
そのメカニズムを一口で解明すれば、横隔膜のケイレンである。人体の横隔膜は、呼吸中枢からの指令によって上下動し、呼吸のための重要な筋肉となっているもの。これが、何らかの拍子にケイレンを起こすわけだ。
横隔膜はオワンを伏せたような形をしている。呼吸中枢から「息を吸え」という命令が下ると、横隔膜の筋肉が収縮して、横隔膜は平らになる。そのぶんだけ胸腔が広くなるから、胸腔内の内圧がより陰圧になる。そこで、胸腔に収まっている肺がふくらむ。ふくらんだぶんだけ、空気は声門を通って肺に流れ込んでくる。
そのような仕組みで、我々はふだん呼吸しているわけだが、横隔膜が何かの原因でケイレンを起こすと、空気の出し入れと声門の開閉がうまく合致しないで、めちゃくちゃになる。そのために、例の「ヒック」という音が出るのである。
そのケイレンを起こす原因について説明しよう。横隔膜は、呼吸中枢→横隔神経→横隔膜→迷走神経→呼吸中枢と結ぶループによって支配されており、このループのどこかに刺激が与えられると、シャックリが起こると考えられているのである。すなわち、頭部、咽頭部、胸部、腹部などに何かトラブルが起こると、シャックリが出るというわけで、食べすぎ、飲みすぎはその代表的な原因である。
俗に「シャックリが三回続くと命が危ない」というが、シャックリが続いただけでは、死ぬことはない。世の中には、四億回以上もシャックリをし続けて、ギネスブックに出ている人もいるそうだ。
しかし、「出たら止めたい」というのが人情で、世の中には、実にいろいろなシャックリの止め方が流布している。いわく、「驚かす」、「水を飲む」、「紙袋の中で呼吸する」、「舌を引っ張る」、「眼球を手で押す」、「クシャミをする」、「柿のヘタを煎(せん)じて飲む」。
それらは本当に効き目があるのかといえば、それなりに理由はあって、単なるおまじないとはいえない。なぜなら、呼吸中枢を安定させてやる方法であったり、横隔神経や迷走神経をブロックしてしまって、シャックリ情報が呼吸中枢や横隔膜まで行き着かないようにしてやろうという方法だからだ。
●肺と心臓の働きを促す横隔膜
さて、ここで私が強調しておきたいのは、何かの原因でシャックリというトラブルを起こす横隔膜が、呼吸作用による肺のガス交換と同時に、心臓を助けて血液循環にも重要な役割を果たしていることである。
横隔膜という膜は、人間の上半身と下半身の境目にあって、あたかも波に漂うクラゲのように動きながら、肺の活動をうながして呼吸の出入りをつかさどり、しかも血液循環という重要な仕事に参加している。だから、無意識の呼吸でも丹田にまで行き届く呼吸を行っている人の場合は、横隔膜を活性化しており、血液循環を活発にし、体細胞の新陳代謝を健全に営ませているのである。
そこで、横隔膜を中心とした腹筋の運動が、健康増進に大変な効果を発揮することになる。
昔から、「腹のしっかりした人間は病気をしない」といわれた。腹とは腹筋のことである。腹筋の力強い運動は、横隔膜の動きに連係しており、呼吸を深く力強いものにしてくれる。いわゆる精神、気力の充実も、この腹の力によって達成できる。
腹を訓練するにはジョギングやマラソンもいいが、心臓や肉体の負担が大きく、病人やお年寄りには無理である。寝床の中で仰臥(ぎょうが)したままで、私の開発した真呼吸、腹式全身の呼吸を行うのが一番よい。
一日のうち何回でも、体を投げ出して全身の力を抜き、意識を放下して大きな息を吐き出し、吐いて吐いて吐き抜けば、次には思い切り腹いっぱい吸い込むことになる。全身で吸い込み、そして全身で吐き続ける。こうして、腹筋は鍛えられ、横隔膜は力強く活動する。
呼吸法のポイントは、上半身と下半身の境目を作っている横隔膜の運動を力強く行うことである。これによって、腹腔内の内臓諸器官から静脈血を心臓に効率的に送り、同時に冠血流も活発にするので、心筋および内臓全体の収縮強化にも役立つ。
横隔膜の活発な収縮運動にともない、内臓全体の収縮運動が行われるので、自然に腹が鍛えられることになるのである。
これは、横隔膜という呼吸筋の自在な働きが、内臓諸器官の健全な活動を保障し、併せて精神の充実にも寄与しているからである。
ところで、横隔膜というのは、少し変わった筋肉集団である。その位置は、すでに述べたように胸腹両腔を横に隔てる境界をなしており、絶えず上下に移動運動を繰り返している。固定した境界膜ではなく、クラゲが漂うように上下に波打ちながら移動する境界筋、といったほうが適切である。
この横隔膜は収縮と弛緩(しかん)の上下運動を繰り返して、胸腹両腔に減圧、加圧のダブルプレーを行い、両腔内臓に巧妙至極なマッサージを施して、血流をうながし、活性化をうながしているのも特徴の一つだ。
横隔膜が、呼吸作用によってこのように巧妙至極な働きをしていることを知れば、私たちの健康や生命の維持の保障人の役割を、果たしてくれていることに気づくであろう。
横隔膜が第二の心臓として働いていることも、詳しく説明しておこう。横隔膜の収縮上下運動は、もっぱら静脈血ポンプの役割も担っているのである。
いうまでもなく、血液循環系においてダイナミックな仕事を絶えず繰り返しているのは心臓である。それは、肺動脈および大動脈へのポンプとしての役割で、肺に対しては静脈血を、全身の動脈へは動脈血を送るポンプである。
この心臓の働きで最も重要なことは、栄養分と酸素を多く含んだ血液を全身の体細胞に送り届けることである。
だが、心臓自体は、体細胞が使い古した血液を、栄養分と酸素を多く含んだ血液に再生することはできない。とはいえ、使用済みの血液をその都度捨て去るほど、人間の肉体はぜいたくにはできていない。そこで再生産が必要である。そのためには血中の不足物を補い、不要物を捨てた新鮮な血液を再生産し、絶えず全身から静脈血が集められ、心臓へ送り返されなくてはならないのである。
そういう全身の静脈血をかき集め、心臓へ送り届ける重要な仕事を助けているのが、横隔膜である。その収縮上下運動は、もっぱら静脈血ポンプの役割を果たしている。つまり、横隔膜は第二の心臓として働いているのである。
だから、横隔膜の活動が鈍いと、心臓も十分にその機能を果たすことはできないのである。横隔膜の働きは、直ちに心臓の働きとなるからである。
この点、腹を使った腹式呼吸をすると、横隔膜を上下して内臓諸器官をマッサージすることになるばかりか、意識的な呼吸によって大脳の前頭葉を使い、脳幹で発動される本能的な雑念は制御されることになる。エネルギーは上昇し、ますます精神がさえわたるのである。
ここで、内臓と脳との関係についても触れておくと、人間は内臓が衰えると、脳の働きが鈍ってくる。脳が内臓を支配していることは、誰でも知っていることだが、内臓も脳を支配していることは、あまり知られていない。精神的なストレスですぐ胃炎になったり、胃炎がひどくなると気がふさいだり、とっぴな行動をとったりするようになるのは、脳と腹が密接な関係にあるからである。
実は、腹の中に脳の兄弟ともいえる神経節、つまりリトルブレインと称する小さな塊があり、それが人間の気力や体力に影響を与えているのである。
私たちは一般的に、脳だけが考えることを行う器官だと思っている。しかし実際は、脳とすべての器官を使って考えているのである。頭脳明敏であるためには、心身ともに健康でなくてはならない。どこかに痛いところや悪いところがあれば、名案も浮かんでこない。特に、内臓機能の衰えは、気力、体力だけでなく、思考をゆがめやすいので、注意しなければならない。
内臓を鍛えるには、内臓機能の中枢である小さな脳、リトルブレインを強化することが大切だ。ここを鍛えれば、頭も体も心もすっきりする。
このリトルブレインは、臍(せい)下丹田、臍の下にあるから、ぜひ毎日の日課の一つとして、腹式全身呼吸法によって鍛え、その能力をさらに高めることをお勧めする。
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