2022/10/04

🟩健康を創る食養生

‖腹八分の勧め1‖ 

●食環境の変化が及ぼす影響

 現代の日本人は、何とも恵まれた食生活を送っている。毎日、牛乳、卵、チーズ、バター、さらに生野菜も一色ではない。トマト、キャベツ、レタス、セロリなどなど。魚に肉。晩酌には日本酒、焼酎、ビール、ウイスキー、ワイン。何でも簡単に手に入り、食べられるし飲める。

 不平不満はゼロ。このような豊かな食生活、ありがたい暮らしに恵まれたのは、ほんのここ二十年、三十年くらいのことではあるまいかと思う。この上なく繁栄した日本を築き、飽食の時代といわれる現代を築いたことは、「よかった」としなければなるまい。

 終戦の折、やっと芋を食べていた人々が、スーパーの棚にあふれる食品の中から好きな物だけを買い求める。サラリーマンやOLは、昼飯にハンバーグランチやパスタを食べる。米食中心であった日本人は、パンや肉を中心とする食生活に変わってきている。四十年前、いや三十年前まで米・菜食だった民族が、この十年、十五年ほどの間に、欧米とは比べ物にならないとしても、肉食中心の西洋型食生活に移りつつある。

 何千年かかってはぐくまれてきた日本人の肉体が、食環境の変化に対応し得ているかは、大いに疑問が残るところである。民族の体質というものは、そんなに簡単に変われるものだろうか。

 飽食の時代といわれる今日の食生活は、昭和二十年代とは比べることはできない。当時は、食べ物を選ぶなどということはとんでもないことで、食べられる物を探すだけで精いっぱいだったのである。

 近年は食べ物に恵まれた結果、我が日本人、ことに若い人の身長は著しく伸び、欧米人に比較して見劣りしないほど、成長したことはまことに喜ばしいことである。

 逆上って原因を探れば、終戦直後、まさに成長しようとしている学童に対し、アメリカから全国的に学校給食として送られた牛乳や脱脂粉乳などを毎日飲ませたので、骨格を作るカルシウム、身長を伸ばすビタミンB2 、および血や肉を作る良質の蛋白(たんぱく)質などを豊富に摂取できたのが一番大きい、と解すこともできる。

 敗戦後の食糧不足に困り果てた日本人への、戦争相手だったアメリカからの思い掛けぬ贈り物が、当時の少年少女を発育させ、彼らの世代を親とする今の青少年の身長をかくも伸ばす要因の一つとなったのである。

 しかしながら、現代の日本人は体だけは大きくなっているが、「うどの大木」ではなかろうか。

 飽食、過食、美食の結果、肥満となり、知らぬ間に骨はもろく、内臓はおかしくなって、いろいろな欠陥が出てきている。病院や製薬会社はもうかり、国民は常に保健に気を遣うようになってきた。

 弱った体を医療で補い、長生きをする長寿国日本ということで、平均寿命が八十歳代となったが、今長生きしている人たちは明治生まれ、大正生まれなのである。これが昭和初期生まれくらいまではよいとしても、団地やマンションに住み、インスタントラーメンやレトルト食品を食べて育った団塊の世代以後が老人になった時、果たして明治生まれや大正生まれのように長持ちするのであろうか。たぶん、病院や介護施設ばかりが込んでしまうのではないだろうか。

●食事の三S主義というもの

 「丈夫で長持ちしたい」と本気で願うならば、飽食を避け、できるだけ粗食をすること。そして、適当な運動をすること。

 明治生まれ、大正生まれに限らずとも、第二次世界大戦前の昭和生まれは菜食、粗食で、あの厳しい時代を生き抜いてきた。肺病は多かったが、胃の悪い人は少なかったし、脳卒中やガンも少なかった。戦後の死亡原因の変化も見逃すわけにはいかない。ほとんどが、ぜいたく病。

 一昔前、この「ぜいたく病」の代名詞と見なされていたのは、痛風だった。「風が吹いても痛い!」と言われるほどの激痛を伴う病気で、中年男性特有の病気のように思われていたのが、最近では女性や若い年齢の人たちにも見られるようになった。

 痛風とは、その基礎となる「高尿酸血症」を改善しないと、心臓病や腎臓病などの合併症を起こす恐い病気であり、予防するためには運動などの生活改善と共に、食生活の改善が必要である。 繁栄と裏腹の飽食の時代を生きることを余儀なくされた現代人は、せめて自ら防げる害は排除すべきだろう。

 つまり、人間にとって栄養を取ることは必要であり、飲食は本能でもあるが、この飲食には、単にエネルギーの補給とか、味を楽しむというだけではなく、正しい仕方、方法があるのである。

 菜食、粗食であれば、食べ物は何を食べてもよいから、量に注意せよ、食べ方に注意せよ。これが、編集子の説く〃正食〃の要領である。

 正しい食物を、適量に、よく噛んで食べること。よく噛めば、結果的には小食になる。わかりやすく簡単にいえば、人間は菜食、小食、咀嚼(そしゃく)という三S主義によって、食事を取ればよいのである。

 体験しない人には「まさか」と信じられないだろうが、小食で、よく噛むことを長年実践し続けると、空腹に慣れ、いつも胃腸がすっきりしている。何ともいえないさわやかさ。牛飲馬食で、絶えず胃が重くモタモタしている人のちょうど正反対、見事な肉体管理である。

 もしも飢餓感があれば、心身ともに悪影響をおよぼすが、習慣は第二の天性だから、体のほうによい癖をつけると、食事時でも、さらに目の前で家族が食べていても平気で、欲しくならない。いつでも全身が軽く、吸収がよく、中毒なども起こしようがない。

 いつも受け入れる肉体容器が空だから、うんと働いた時など、たくさん食べても支障がない。人間、半日や一日欠食しても、自身の肉体があわてないよう躾けをしておきたいもの。

 全国各地、世界各国の食材が口にできる飽食の時代で、食事の恩恵がわからない人は、意識的に二、三日でもよいから断食をやってみることだ。それで、どんな物でも食べられるということが、この世の幸福であると悟れる。

 いかに粗末な物を食べても、「うまい」、「おいしい」と思わず感嘆の言葉が口をついて出てくる。すると、「ごちそうさま」と感謝し、お礼を尽くしていることにつながる。

●食べられることの幸福

 食卓に向かって敬意と感謝の心を忘れない人であれば、今の豊かな世の中で一生食うに困るということはないだろう。

 家庭においては、食事の作法というものもある。背筋を伸ばし、姿勢を正して一口ひとくち、ゆっくり噛んでいただく。

 どんな食べ物でもみな、大自然が創ってくれた物。「いただきます」という感謝の言葉を述べて、一口ひとくち大切にいただくことである。ありがたく感じて食べれば、まずいものはない。

 「いただきます」という言葉の元は、「命をいただきます」ということである。生きとし生きる物は、動物でも植物でも、穀類にしても野菜にしても、みなそれぞれ生き続けたいわけである。その命をいただいて私たち人間が生きるわけだから、それをたくさん食べる人は寿命が短いし、心から感謝し、満足して食べる人は寿命を長く与えられる。おいしい物、本当に新鮮な物で、汚染されていない物を小食でいただく。おいしくいただく。そういうことが、長寿の秘訣となる。

 本当に「ありがたい」と思って食べると、胃液の分泌が盛んになるから、粗末な物でも血となり、肉となる。体に害となるようなことはない。

 心身の健全、完全な人は、何を口にしても特別な味がして、「自然はよくもこれほど、食物にさまざまな味をつけて、美味に食べさせてくださるものか」と、感嘆せざるを得ないだろう。

 栗の実はクリ特有の味があり、西瓜はスイカだけにある特別の味がするように、粗末な物は淡泊でよく、美味な物は美味でまたけっこうだと思えるのが、健全な心身を持つ者の感覚である。

 どうしても食事のありがたさ、食物のおいしさがわからぬ時は、わかるようになるまで一食も口にせず、辛抱することに限る。

 「この世の中で、一番うまいソースは何だろう」というフランスの小話があり、「それは空腹という名のソースだ」と話のオチがついている。確かにおなかがすいていれば、大抵の物はうまく食べられるものである。

 日本にも、「お斎(とき)の時間を延ばして、思いっ切り空腹にしておけば、香の物だけでもご飯はおいしく食べられる」と説いた、江戸前期の禅僧・沢庵(たくあん)和尚のごちそうという有名な話が伝わっている。

 カロリー計算や栄養チェックに神経を使わなくても、食事を取る肉体側に完全吸収、完全燃焼という条件がそろってさえいれば、沢庵や梅干しや豆腐を主にした食事だけでも、もうろくしないで、禅僧のように九十歳、百歳までも生きられる。

 山海の珍味も、満腹時には見たくもない。腹いっぱいなのに食べるのは、おいしくないどころか、かえって苦しいものである。

 体は本来、素直なものだから、毒物だって口に入れればこなさなければならない。腹も身の内、体こそいい迷惑である。

 食事をおいしくいただくコツは、疲れ切らないほどによく働いて、「よくやったなあ」と満足してリラックスし、腹八分目の食事をよく噛むのがよい。

●腹八分の食事を守る

 前述したように、人間は菜食、小食、咀嚼という三S主義によって、食事を取ればよいのであるが、現代は物がありすぎるため、誰もが食べる量が多すぎる。その食べ方が早すぎる。噛むことも少なすぎるし、料理の味も強すぎる。

 毎日の労働で得た高い金で食生活をしながら、ろくに味わいもせずに、たくさんの食べ物をうのみにするなど、実にもったいないことである。

 昭和五十一年頃で、日本人の食べる量の平均は、一日に一四六二グラムだったが、少ない人は七一九グラムなのに、多い人では三五七一グラムと約五倍の開きがあって、個人差はかなり大きいようだ。

 誰もが見た目に惑わされて、食べすぎたりしないように、間食もなるべくせずにすますことである。満腹感ばかりではなく、空腹感のよさも知ること。とにかく、消化器を休ませることが肝要である。

 例えば、自然に従い、自然に任せて暮らすような生き方をすれば、食べすぎなどということは、しなくてすむようになるはずだ。

 日本には、昔から「腹八分に医者いらず」、「腹七分に病なし、腹六分は老いを忘れる」などということわざもあるのである。

 小食で胃腸を悪くする者はないが、過食によって病気をする人が多い。ことに夜、寝る前の大食は内臓に悪いから気をつけるべきである。

 食べすぎて腹を壊したり、病気になったりするのは、みな心の欲、意識がそうさせるのである。見た目においしそうだから、ついつい手が出てしまったり、隣の人がうまそうに食べているから、「それじゃ、私も」などと思ったりする。

 鳥や獣は、決して食べすぎるようなことはない。意識というものを持たないからである。その点、人間が一番劣っている。

 自然に任せ、意識を起こさず静かにさせれば、人間も適量の食事しかしないようになる。肉体は自分にとってちょうど都合のいいだけの量を要求し、それ以上は欲しがらない。 腹八分目ならば、活動をするにしても、休養をとるにしても、負担を感じるようなことはない。それでいて、栄養は十分に足りることを請け合う。

 人間は食べすぎた場合でも、完全に消化できれば害にはならない。しかし、食べすぎるというより、この食べ足りない腹八分のほうがいかに健康によいかということは、昔の長寿者の発言からもわかる。

 金沢に成巽閣(せいそんかく)というのがある。これは前田藩の下屋敷で、そこには前田藩時代のさまざまな文献などが残っているが、ある部屋にゆくと扇面が飾ってある。それに「一口残」、つまり腹八分目と書いてある。

 これはどういうのかというと、藩では非常に老人救護に力を注ぎ、六十五歳以上の老人には、日労五合給付した。毎日のお米を五合出したというのである。今日でいうならば、老人年金をお米に代えて出しているようなものであろう。

 その前田藩第十三代の殿様が斉泰候という人で、百歳以上の老人を呼んで園遊会を開いた。集まった最年長が百二十五歳の人で、その翁に書かせたら、なかなか雄勁(ゆうけい)な文字で「一口残」と書いた。長生きの秘訣は、一口残す、腹八分目ということである。

 その後に「一口残、以て衆生を養う」と続く。残ったお米を托鉢(たくはつ)の坊さんにやって、坊さんはそれで生を養い、人生の生き方を庶民に説くということであろう。

 この例からもわかるように、腹八分というのは、老人の一つの心得なのである。

●百歳長寿者の秘訣も腹八分

 現在においても、百歳を超えてもまだ健在な、文字通りの長寿者にその秘訣を聞いてみると、必ずといっていいほどいわれるのは、この腹八分目ということである。腹八分で決して余計な物は食べない。そして、好き嫌いはない。

 日本百歳会が平成三年九月末に百歳人二百八十五人にアンケートしたところでは、食事の分量は腹八分目が六十七パーセントと多く、回数は一日三回がほとんどであった。

 おかずについては、肉類よりも魚や野菜を好む傾向があり、特に好き嫌いなく何でも食べると答えた人が多かった。料理の味つけは、半数以上の人が一般的な普通味を好んでいるが、最近では健康上の問題もあり、塩分控えめの数が増えつつある。

 このように百歳人が実践、実行している腹八分の健康法は、一般の方にも、知識としてはよく知られた健康法であろう。しかし、これを実行した場合の効果の大きさについて、理解している人は少ないといってよい。

 ある長寿者の場合、時々ズボンを新調しないでもよいように、体重を五キロ程度二〜三カ月間で減らすため、減食することがあるという。その期間は、本人も驚くほど快調になり、最もありがたいことは、睡眠時間が少なくできることで、腹八分の効用を十二分に理解しているつもりだという。

 ところが、食べる物が以前に比べあまりにもおいしくなるために、食べることの楽しみを味わう時間、回数が増え、何カ月かが経過すると以前の状態に戻るのが常らしい。

 人間が腹八分以上に食べることは、日常生活の必要量以上の食べ物を摂取していることであり、その余分の食物の消化、吸収およびエネルギー源の蓄積のために、余分の体力を消耗する必要がある。その体力の回復のために、睡眠や休養が必要となる。従って、減食すれば、それだけ体力がつき快調となる。

 病気の場合は食欲が減退し、休養および睡眠を要求するが、この場合は日常生活に必要な食事を代謝する体力がないことを意味し、食物の代謝には、想像以上に体力が必要であることを物語っていると、この読者は理解されているという。

 さて、私たち人間が一日に消費する標準カロリーは、二千四百カロリーといわれる。カロリーとは、糖質、脂肪、蛋白質といったエネルギーが、食品中に蓄えられた単位をいう。

 この点、永平寺の修行僧の食事は、一日わずか千二百カロリーで、成人男子の六割程度である。それで激しい修行をしてなお、ふっくら、つやつやしているのはなぜか。朝食はかゆ、ゴマ塩と漬物。昼食は麦飯、野菜のあえ物。夕食はそれに煮物がつく。

 修行に訪れる雲水たちは、最初の二カ月で体重が数キロも減り、足もむくむ。それが三カ月をすぎる頃から体重が戻り、お坊さん特有のふっくらした体になってゆく。

 分析した専門医師は、「栄養バランスを含めて分析しても、従来の栄養学では解決できない矛盾がある。精神力が食べ物の栄養の吸収力を強めるのではないか」といっている。  永平寺の和尚さんは、「新しく入った雲水も、しばらくして心が清らかになり、目も澄んでくる頃には、順応の力が湧き、ゴマ一粒からも活力を求められるようになります」と説いている。

∥腹八分の勧め2∥ 

●食べることのプラスとマイナス

 修行僧の秘密を説明すれば、食べ物というのは一種の触媒みたいなもので、少し食べておけば、その何倍かの栄養が唾液との化合作用や胃液の消化作用によって、宇宙から供給されるという面があるということである。

 エネルギーというものは、食べ物からのみ得られるものではない。

 わずか一リットルのガソリンでも、あの大きな車が走ることができるが、あれだけのエネルギーは、ガソリンだけでは出せないのである。そこに空気が加わった時に、どれほどの爆発力が出るか。

 空気というのはタダであるから、人間はこの価値を忘れているけれども、食べ物をよく噛み、唾液、胃液とよく混和させてやれば、それに第二次的栄養、つまり肺臓から吸収した空気が燃焼して、「気」エネルギーが発生するわけである。

 同時に、人間にとって、体内の水分のお陰で細胞から出てくる力、これも大きなものである。肉体というものは、水分によって運営されているといってもよいだろう。

 食べ物は腹八分目にしておいて、後は水分から作られてくる力を養うがよい。粘りがある、辛抱ができるなどという力は、食べ物からくる力ではない。鍛錬によって「気」から作られる力である。

 その空気と水のエネルギーの根源は、いったいどこにあるのか。誰が補給しているのであろうか。

 源は宇宙である。エネルギーは宇宙にある。宇宙の「気」にある。そして、その「気」エネルギーを上手にエネルギー化して、あらゆるものに役立て、生き、生かしてゆくのが人間であり、人間の肉体の生命作用なのである。

 人間には、「気」から作られてくる力と、食べ物からできる力があるわけである。それらは、同じ力のようでも、違いがあるし、違いが出る。

 永平寺の修行僧の例などは、肉体を真理的に正常に働かせれば、精神が安定し、宇宙の「気」が肉体に十分に吸収され、肉体は豊かに維持されるという真理の実証である。

 ところが、一般の現代人は空気を吸う量や、水を飲む量が少なすぎる一方で、物がありすぎるため、誰でもみな食べる量が多すぎる傾向がある。また、味は濃厚すぎ、ことに菓子など、甘味を多く取りすぎている。

 現代人の生活態度を見ていると、いかにしてうまい物をたらふく食べるか、ということだけを考えているように思われる。一日三回食べるということでさえも、必要があって食べるというよりも、習慣だけで食べている。

 食べるということはプラスの面ばかりでなく、マイナスの面もあることを忘れてはならない。

 人間は、体にとって必要のある時だけ食べるのがよいし、必要のない時は食べないほうがよい。つまり、食べてはならない時には食べないほうが、より体のためになるという意味である。

 これは実に簡単、明白な道理であり、真理であるのに、こうした基本的な原理でさえ、実社会では無視されているようである。

例えば、腹が減らない時は食べる必要がないし、ある程度食べて空腹感が止まったら、そこで食べることをストップすべきであって、それ以上は体にとって無駄というよりも、むしろ有害でさえある。

●釈尊が説く横死する原因

 このように私が食事について、腹八分の心得を説いても、一般の人にとって節度を守るということは、なかなか実行の難しいことであろう。

 現代では、食事にしてもインスタント時代全盛とあってみれば、湯を加えたり、電子レンジに入れたりしてすぐ食べられるとなると、つい手が出る。街には食堂、料理店が軒を連ねているから、サンプルケースを見ていると、それも食べてみたくなる。

 結果として、食いすぎということになるのだが、この食うことは命を養う上にきわめて大切なだけに、方法を間違うと反対の結果を招くのも当然で、小食で病気をしたり、命を失った者はあまりないが、過食のためには例外なく、体を痛めつけている。食べすぎて病んだり、死んだりする人も多い。

 現代以後の日本人に、大きな忘れ物といえば、季節感であろう。夏冬ぶっ通して野菜が食える。温室ばかりではなくて、冷凍施設を利用すれば、世界中の食べ物はいつでも食える。その恵まれの結果は、飽食して肥満児を作り、恍惚(こうこつ)老人を増やし、病気の種類も多く、病人の数も激増している。何しろ、浮浪者も糖尿病になる時代なのだ。

 イギリスのシェークスピアは、「ベニスの商人」の中で、「食べすぎは空腹と同様、体によくない」というセリフをいわせている。アメリカには、「多くの人々はフォークで墓を掘っている」ということわざがあるほど、栄養過剰で早死にする人が多い。

 日本でも貝原益軒は、「飲食は人の大欲にして、口腹の好むところなり。この好みにまかせてほしいままにすれば、節に過ぎて、必ず脾腹をやぶり、諸病を生じ、命を失う」と、「養生訓」の中で戒めている。また、昔は食録などという言葉があって、「美食や飽食をする人は早死にする」といったものだ。

 かの釈尊も、この食事の取り方の大切なことを説かれているので、紹介してみよう。

 一、不饒益(ふじょうえき)の食をむさぼる――身のためにならぬ物をたくさんに食うこと。

 二、食を計らず――食べる分量がデタラメだということ。

 三、いまだ内に消せずして後食う――十分消化もしていないのに続けて食うこと。

 四、強いて嚥下す――無理やりに飲み込むこと。

 五、すでに消して出んとする物を強いて制す――排出すべき時に我慢して出す時を失うこと。

 六、食病に応ぜず――病弱の時、それに合わせず、胃腸のよくない時でも、消化のよくない物を食うこと。

 七、病に従って数量せず――病気の重い軽いに従って、食物を加減しないこと。

 八、副食を怠る――副食物を食わないで、主食に偏すると、栄養が不足すること。

 九、知恵なくして心を調うることあたはず。

 ということが挙げられている。この注意事項は、食事の注意と述べたが、実は、人間の横死の原因として書かれたもの。九項目中八項目までが、食生活の問題であることは注目に値する。命を守り養生する上に、いかに食事ということが大切であるかを教えている。

 第九項の心の問題は、どんなに食生活を正しくしても、心そのものが平静を保っていないと、例えば、「仕事だ、事件だ、野望だ」というものに追われ、イライラして落ち着かず、食べながら走り出すというようだと、せっかくの食事も身に着かないというわけだ。

 古くから、食後のひとときの落ち着く時間を持つために、「親が死んでも食休み」というようなことがいわれているところをみると、食事を身に着けるものは、平静な心そのものだといわなくてはならない。

 食事の時は、その食事に対して、心から感謝の心で取るということも、忘れてはならないだろう。

●肉体は宇宙銀行の預金通帳

 それでは、暴飲暴食などの弊害によって、なぜ横死にまで至るのか探ってみよう。

 結論から先にいえば、人間の肉体くらい正直で、的確で、間違いのないものはないからである。例えていえば、人の体は宇宙銀行の預金通帳のようなもの。一生涯の貸借が細大漏らさず肉体のコンピューターで計算され、記入されて、当人は忘れていても、ことごとく運命上に表れる。

 この肉体の仕組み、性格によって、さまざまな人生模様となるのである。つまり、人の一生の貸借対照表も財産目録も、みな、人の体にあるということである。

 若い頃からの塩分の取りすぎからくる高血圧や脳卒中、肉の脂肪やバター、糖分の取りすぎ、肥満の人などに多い糖尿病と、ストレス過多や運動不足などが引き起こす心筋梗塞や狭心症などの諸病は、一口でいうと、長い間の食生活、生活習慣などの偏りが積もり積もって症状となるもの。

 知らず知らずのうちに、肉体の預金通帳が赤字になっているのである。

 ネズミでの試験で、腹いっぱい食わせたグループ、六十パーセント食わせたグループに分けて、どのくらい生きるか比べると、やはり小食グループのほうがずっと長生きする。 人間においても、食べ物をたくさん食べることによって、体の器官というものが災いされるものである。

 人は欲が深く、むやみにたくさん食べて体を疲れさせ、妄想の種を多くして頭脳を悪くする。この妄想心が胃に固まり、感情が胸いっぱいにはびこると、常に意識界から、無形の圧力が上半身にみなぎり、胸を圧し、心臓を苦しめ、小心翼々、小心〃欲々〃の不安、不平人とする。

 そして、人は食べすぎるわりに、吸収力が少なく、大部分排出する。しかも、その消化に要するエネルギーの消耗が激しいために、燃焼が悪く、悪ガスが全身にくすぶり、血液は濁り、血管は硬直するから、スモッグ体質はスモッグ人生となり、これが高血圧や心臓病やガンや中風など、成人病の原因となる。

 たくさん食べて、たくさん便を排出することは、有害無益である。肉体は太るかもしれないが、細胞の本質は弱ってしまう。これがさまざまな病気の原因となる。その一番恐ろしいものが、ガンなのである。

 また、甘い物を食べると、便秘がちとなるもの。先に入っていた物が、みな胃の中、胃から腸をずうっと固くする影響がある。

 消化器官に対する面から見ても、現代人は働かないわりに食事の分量が多すぎ、消化し切れないうちに次の飲食が嚥下されるので、胃腸の休む暇がない。腹八分に病なし。そうすればガンの心配などしないですむのである。

●満腹は不健康の元である

 人間は腹八分、バランスのとれた物を少しずつ食べることである。淡白に味をつけた小食をよく噛めば、まことにそのものの味が出る。人生の味も腹八分の心構えを、平素身に着けることだ。

 食べ物がおいしいからといって、たくさん胃の中に詰め込めば、胃はいっぱいになって胃液すら分泌できにくくなってしまう。相当長い時間をかけないと消化しないのに、次の食事時間がくれば、続いて食べてしまうから結局、胃が重いとか、もたれるということになるのは当たり前なわけである。

 一方、断食をした後、復食後の食事を三拝九拝して押し頂いて食べても、なお感謝し切れず、平素食物に対してあまりにも横着であったことを猛省する。砂漠広しといえども、米粒一つは落ちていないだろう。まさに「一粒の米これすなわち菩薩なり」と拝むわけである。

 現代人は安易な物量に慣れ切って、汗水流して生産しないでもお金で買えるから、過食暴食の悪習に染まる。肉体は自然機械、容積一リットルの胃に二リットル詰め込めばどうなるか。元来肉体は素直にできているから、心の暴君の思いのまま。体は何もいわないけれど、こなす容量の何倍もほうり込まれれば、胃や体を壊してでも消化しようとするのである。

 胃というものは、食べ物を消化するだけではなくて、生きていく上の意識に非常に大きな働きを持たされているから、胃がもたれ、気分がすぐれないなどということは、みな心の受ける悪影響、自己意識となるのである。

 また、胃というものは、食べ物を食べない時でも適当に胃液を出して、生きる上の上半身の細胞に力を与えている。消化ばかりが胃の働きではない。唾液でも、胃液と同じことがいえる。消化や吸収といった作用ばかりでなく、生きるための適当な分泌が続けられているのである。

 だから、若い時ならばいくら食べても無理はきくものなのだが、ストレスの多いこういう時代では、四十歳をすぎたら胃の中の消化液の力も弱くなってくるから、量をたくさん食べたり、刺激の強い物を食べたりすることはいけない。それは、日常無理をしすぎているということと、だんだん体を動かさないようになって、運動不足になっているということからなのである。

 肝心なことは、胃の中にある固形物の量と胃の分泌液とのバランスが、うまくとれればいいことを覚えておくことだ。

 一時にたくさん食べられなければ、少し食べてやめ、何時間かおいてまた食べるようにすると、けっこう消化も進み、胃にもたれないし、胃液の分泌も活発で、非常に快適であるというわけである。

 食べる以上はよくこなしてくれるほどに、胃腸の機能を育てなければならない。

 この胃腸の機能をよくするには、夕食は満腹にしてはいけない。よく、人間は「夜こそ楽しみである」といい、夜は平均して七、八時間も寝るから、満腹してもいいように思っているが、胃の中にいっぱい入れたならば、胃腸の働きは困るものなのである。

 胃腸というものは、体の全機能を調整するのであるから、夕食など極端にいえば、うんと少なくてもいいのである。

 そのほうが体の機能的な面は充実してくる。こんなことをいうと、今の時代には笑われてしまうけれども、内容的な面からいうならば、それはいえるのである。

 年齢的にいえば、年寄りは腹七分目より少なくてよい。若い者はなかなかそうはいかないだろうが、七、八分目くらいで十分であり、それでも体は充実されるのである。

●栄養過剰が人類を滅ぼす

 食べるほど精がつくなどとは、決して思わぬこと。朝食は軽く、昼食を主にすることだ。夕食を食べすぎると、消化器に障りが起きるばかりでなく、睡眠不足に陥る恐れがある。

 夕食を適度にすまし、夜は余計なことはやらない。体も心もゆったり解放することが大切だ。

 ところが、今時の若い者たちは、朝食を抜くと仕事や勉強の集中力不足を招くのに、朝食べずに出掛ける。昼は適当に食べる。昼が軽すぎるために、夜は帰ってきて、くつろぎながらたくさん食べる。

 これでは、体の疲れとか機能的の面の調整はできない。だから、血液の循環も悪くなる。心臓の働きにしても、そのほかの何もかにも全部、この夜ということにおいて大事なわけなのである。

 結局、現代の日本人は栄養的な説からいろいろいわれ、うまい物をたくさん食べているが、皆、病気になっているのである。物資に恵まれて、食べることには心配はなく、たくさんあるだけに、体の調整が鈍っている、できないといえるのである。

 こういう日本人への警鐘の意味で、平成四年の日本経済新聞から、メキシコ・インディオの食生活を研究した共立女子大、泉谷教授の話を紹介する。

 貧しくて食べ物の八十パーセントがトウモロコシで、残りはウズラ豆とジャガイモで、肉はほとんど口にしない彼らの社会に、不妊症は全く見られなかった。

 逆に、飽食を謳歌(おうか)している日本では、不妊症で悩む夫婦は全体の一割もあり、妊娠しても三分の二の女性が、帝王切開や人工分娩に頼らざるを得ない状況である。

 高カロリー、高蛋白の栄養は、子孫を増やすには望ましくない。牛でも、高蛋白のえさを与えると子を産まない。花でも、蛋白質を含む窒素をやりすぎると、生殖器官である花が咲きにくくなる。

 栄養がよい状態で繁殖する生物は、栄養分を短期間で食べ尽くし、栄養事情が厳しくなった時には、種の絶滅の危機にさらされる。ところが、栄養の悪い時により多く繁殖する生物は、よい栄養事情を長く楽しみ、絶滅の可能性は低い。

 「こうして何十億年という生命の進化の歴史の中で、環境が悪い時に子孫を残すタイプの種が生き残ったのではないか」と同教授はいう。とすれば、人類にも同じプログラムが埋め込まれている、と考えるのが自然ではないか。

 この約五十年間で、全世界の男性の精子の濃さが半分になっていると発表した学者がいるが、この間の食糧大増産、食事の高蛋白化が影響している可能性が大きいわけだ。

 「衣食足って」というが、足れば足るほどに貧富の差が広がり、社会に不満が蓄積して犯罪が増える傾向が強いのは、困ったことだ。「礼節を知る」を素通りしてしまっているのが、現代社会の構図である。

 「暖衣飽食、逸居して教うることなければ即ち禽獣(きんじゅう)に近し」と「孟子」にある。暖衣飽食が己の破滅、ひいては民族の破滅を招く元凶であることを、とくと銘記すべきだ。

∥よく噛む効用1∥ 

●食事をよく噛む大切さ

 食事は一日に朝と晩の二回で、昼は抜いているという人もいる。空腹であろうとなかろうと、一日に三度と決めて食事をするのはあまり意味がない。時間や回数にはこだわらず、おなかがすいた時に腹七、八分目に食べることが、最も自然で合理的な食事法と考えているからである。

 その代わり、二食の食事は、旬(しゅん)の食べ物をよく噛んでいただく。食事三昧に徹して、よく噛んで、噛んで、一生懸命噛んで、少なくとも一時間はかけている。これが実においしい。食べ物がおいしいということは、大変に幸せなことである。

 同時に、よく噛んで体を鍛える。噛むことで唾液が十分に出る。唾液の効というのは非常に大きい。素晴らしい働きをして、体を養ってくれている。

 その効用を大きくこの生命活動に取り入れているから、胃腸を悪くするということがない。体の器官が常に健康、正常に働いている。体が健全であれば、心は完全。静かに、素直に肉体に従う。

 この噛むということの大切さを、現代人はどれほど知っているか。三千年ほど前にできた中国の「黄帝内経」という東洋医学の古典にも、「呼吸と咀嚼が完全になされるなら、人は百年生きることができる」と書いてある。

 よく噛んでいれば、唾液の分泌が盛んになって、食べた物が口の中で十分に消化される。咀嚼によって、食物は小さく砕かれ、表面積が大きくなれば、消化酵素などが触れる部分が大きくなるから、それだけ消化しやすくなる道理である。

 軽く考えて、よく味わいもせずに流し込んでいては、唾液が十分に働かないために胃が迷惑をする。精神の働きも弱くなってくる。

 食べ物に対する観念、態度を正さなければならない。食事というものは、呼吸と睡眠と合わせた生命の三大作用なのであるが、それをただ肉体を維持するだけだくらいに思ってはならないのである。

 だから当然、私の食事は、第一章で述べた量の問題、腹八分目に食べるということについても、十分に注意を払っている。

 何を食べるかよりも量に注意せよ。食べすぎ、太りすぎは、成人病の最大の原因だといわれている。なぜ食べすぎ、太りすぎがよくないかといえば、食べすぎは消化器官に負担をかけ、太りすぎは心臓や肺に負担をかけるからである。

 もちろん、食事の適量というのは、個人個人の体質や生活により異なる。スポーツ選手や重労働者と、普通の仕事に携わる人とでは違ってきて当たり前であるが、グルメな現代の日本人は一般的に過食ぎみである。

 「病は口から入る」ということわざもあるが、うまい物があればつい食べすぎるのも、口が卑しいからである。必要以上に食べすぎると、意識がボンヤリして、仕事や勉強をするのが面倒になる。

 何より健康を考えるなら、カロリーの面より、栄養の吸収力と排泄機能を高める工夫をしたい。

 例えば、繊維質を多く含んだ食べ物などをよく噛んで食べれば、三分の二、ないし半分の量で腹が膨れるし、夕食の量が多すぎたり、食べる時間が遅かった場合は、朝食を抜いて胃腸を休めることも有効だ。東洋には、一日二食主義という健康法もある。小食主義を勧めるのは、体の機能増進、新陳代謝に役立つからだ。

●咀嚼は精神の営みである

 食べ物をたくさん食べても、やせている人がいる。いくら食べても元気のない人がいる。一方、小食かつ粗食でありながら、まことにエネルギッシュに活動する人も多い。食べ物の分量だけが人間の肉体を作るのではないことが、よく理解できる。

 誰もが腹八分の心構えを平素から身に着け、バランスのとれた物を少しずつ、よく噛んで食べることである。

 腹いっぱい食物を押し込まずに、腹八分の自然の食べ物を口の中で気化するほどに、よく咀嚼することが大切。これは、物の味の真髄を極めることに通じる。咀嚼は単なる口腔の運動ではない。全身の営みであり、精神の営みである。

 また、人の二倍も三倍もよく噛んで、口の中である程度気化してしまった食べ物が、直接細胞に吸収されると、ハイ・オクタン価のガソリンのように、熱効率の高い物が生産されることになる。

 さらに、よく噛んで食べて、唾液を十分に分泌してやれば、栄養分が無駄なく細胞に吸収されるばかりか、体は足りない栄養素を必要に応じて作り出すことさえもしてくれる。 粗食でもよく噛めば、唾液の神秘性が栄養に変化させる妙も、自然と肉体の秘密である。栄養価の少ない物でも、唾液によくまぶして嚥下したならば、胃の中で、カロリーに代わる物ができるものである。噛まなければそれはできない。口は最大の消化器官である。

 つまり、極端にいうならば、食べる物はどんな物でもよい。カロリーやビタミン計算にばかり心を奪われているのが、現代人だ。旬の物を、よく噛んで食べれば、何を食べても消化、吸収されて、立派な体ができてくるものである。

 唾液というものは、口から侵入してくる病原菌をすかさず捕らえて殺してもくれる。唾液の働きによって、健康が保障され、老化が防げるのである。唾液は、すべてに作用する万能ホルモンなのである。

 このような唾液の働きを知ったからには、毎日の食事時に、もっとゆっくり時間をかけて、食べ物を十分に噛みしめて味わうことである。

 噛むということは、唾液という神秘性の物質を生み出すことによって、人間の感覚を素晴らしいものにするのである。

 禅者にガンなし、病気なし。みな長寿なのは、かゆや梅干し、野菜食などで、千二百カロリーの粗食でも、よく噛んで食べることに原因がある。このような食生活によって、かえって心気は清澄になり、不思議な体力が維持されるという秘密が生命にはある。

●一石三鳥の合理的食事法

 食べ物をよく噛まない人の多いのに驚く。よく噛めば、口の中で七割も八割も消化される。完全消化は、口の段階では意識的にできる。そうして、食物が万病薬となり、万能力となる。

 よく噛まなければ、どうしても食べすぎてしまう。食事というのも一つの習慣だから、大食の癖がつくと、ついついたくさん食べないと満腹感が味わえなくなってしまう。

 その満腹感というのは、脳の視床下部の満腹中枢が決めるというが、そこを刺激するルートが二つあって、胃壁の迷走神経のほかに、血糖値の変化を中枢の神経細胞が監視している。

 だから、あわてて飲み込んだりせず、時間をかけてよく噛めば、栄養の吸収率がよくなって血糖値の増加も早い。それだけ早く満腹感が得られることになる。

 おまけに、パロチンを含んだ唾液が十分に出るから、若返りや老化防止にも役立つし、食べる量も半分ぐらいですむという、まさに、一石三鳥の合理的な満腹法、健康法なのである。

 つまり、すべての人にとって相対的でしかない食べ物を、自己の絶対力で食べて、人の半分の分量が人の倍のエネルギーになるという食べ方で、それを己自身がすればよいのである。

 多くの人は、百グラムの食べ物を食べる時に、十だけ咀嚼し、十の唾液しか出さずに、ガツガツと食べてしまう。これが五十グラムの食べ物であっても、五十の咀嚼と唾液を加えて完全な食べ方をすれば、すべてが完全燃焼して、素晴らしいエネルギーに変化するのである。

 この点、私が天啓を受ける宇宙の神の言葉に、「食べ物が気化してエネルギーとなる」というのがある。

 食べ物を十分に、液状になるまでよく噛むと、本当に水のような何も形のない物になって体に入ってゆく。食べ物が口の中で「気」になり、ただちにエネルギーになって吸収されるのであろう。

 一部分は、もちろん下に下りてゆく。おそらく、唾液と食べ物が同化し、気化した後の物が、胃に下がっていくのであろうけれども、やがては肉体に吸収されて、みな「気」になる。細胞が物を「気」にし、エネルギーにして、人間の働きにする。九十六歳という私の老体で、毎日こんなに元気に働けるのは、この「気」ゆえである。

 誰もが口を働かせること。五官の一つである口を十分に働かせて、口を通して宇宙の「気」を受けることである。肉体というものは、自覚のいかんを問わず、無限宇宙とつながることのできる唯一無上の存在なのだから、口の働かせ方をおろそかにしてはならない。口は最大の消化器官である。

 まず夜は早く寝て、昼は働き、腹が減ったら何でもよく噛んで食べれば栄養にもなる。草を食べて馬は太り、ワラを食べて牛が大量の牛乳を作ってくれるではないか。

●食事が人間形成に影響する

 人間においても、エネルギーの元になる食べ物を気化するほどに咀嚼することは、物の味の真髄を極めることにもなる。

 山の幸、海の幸には、それぞれ固有の味覚があるのに、ろくに噛みしめずに胃袋に送っては、いかにももったいない。また、その結果表れる健康か病身かという差異はもとより、賢愚、幸不幸に至るまで、驚くほどの開きが出てしまう。

 咀嚼さえ十分に行われれば、天然の味が人工の味つけなど比較にならないほど美味になる。自然意識によって捕らえることができるなら、調味料を加えない大根おろしでも、絶妙な天恵の味覚として受け取ることができるようにもなる。落ち着いてよく噛んで食べれば、「大根どきの医者いらず」といわれる野菜の主役の栄養が身に着くし、味がわかる。味は精神である。自然意識である。

 反対に、食べ方が早すぎる、よく噛まないというのは、食べ物の味を味わわないということで、過食の原因ともなる。

 まず食べ物を粗食にし、よく噛むこと。今までの三倍噛むようにすれば、真の味もわかるし、量も少なくてすむ。物の価値と恩恵もわかり、肉体の持つ巧妙性、万能力を知ることもできるようになる。

 すなわち、付け加えたいことは、人間の口は、食物を食べるためのみにあるのではないこと。そこでは、万事、万物の味がわかるように仕組まれている。

 同じ毎日の食事をするにしても、よく噛む人と早飯食いの人とでは大変な差がある。よく噛んで食べる人は、単に栄養の吸収がよくなるということだけではなく、すべてについて感覚、感度のよい人間となる。

 だから、口でよく味わう人は、肉体で物事一切の味も感じ、人間自身も味のある人間となることができるのである。物の味がよくわかり、味のある人間は、精神作用も立派になるから、頭がボケるということもない。

 そして、たとえ粗末な食べ物でも、天の恵みだと思い、口でよく噛んで食べれば、消化され肉体力となり、気化して精神力となるから、心身ともに全知全能の人となるだろう。

 こうして、食べ物は腹八分にして、よく噛んで一つひとつの味がわかるようになれば、「おいしいな」、「楽しいな」と、この積極的な幸福を食べ物からも得てゆくことができる。食べ物ゆえに程合いを知り、節度、調和が保たれる結果、楽しく幸福だということがわかるようになってくる。

●システムとしての咀嚼

 さて、私が述べてきたよく噛むという行為に関して、最近では、歯は感覚情報器官であり、物を噛んで食べるという咀嚼は口だけの運動ではなく、システムとして捕らえるべきだという研究が発表されている。

 これは、歯の根からの神経が、頭を支える首の筋肉群につながっていることを突き止め、脳全体への情報伝達という意味から、幼児期からよく噛むことがボケの予防にも役立つし、唇や舌などの情報は各神経系を通じて脳幹に伝えられ、適切なリズムで噛み続けられるように、咬(こう)筋などの咀嚼筋を調節するというものである。

 生理的にいえば、何気なく毎日やっている噛んで食べるという行為も、実は複雑な神経系のお陰ということである。

 よく噛むことは、体の生理や神経にとって最も大切なことだし、歯槽膿漏(しそうのうろう)の予防、健全な歯並びによいだけではなく、あごの筋肉の伸縮で大脳を刺激する信号が送られ、情緒的にも安定して、無意識のうちにストレスを解消、中和させるという、人間形成上に大きな役割を果たすこともわかっている。

 リズミカルなあごの運動によって、パッピネス・ホルモン(ベータ・エンドルフィン)という物質も分泌される。このホルモンが多量に分泌される状態の時、ストレス解消はもちろん、ウイルスやガン細胞の増殖を抑える力まで発揮するのである。

 もちろん、食物の味がわかるためにも、咬筋という一群の筋肉を十分に動かして、十二分に咀嚼しなければならない。

 現代人は高級な食生活をしながら、食べ方が早すぎる。すでに述べたように、食物の味を知る人間は、人間としての味が出る、知恵も出る。腹いっぱい食べる人間には、物事の真髄がわからない。

 そういう意味で、むやみと軟らかい食べ物を選ぶのもよくない。現代の食べ物やその傾向を見ていると、ハンバーグなどに代表される練り物と、めん類が全盛で、人類の歯という歯は、ほどなく、ちょっと硬めの食べ物にも「歯が立たない」ものになってしまうに違いない。ある実験によると、現代食の咀嚼回数は、戦前の約半分だともいう。

 現に、よく噛まないせいで、あごの発達が悪くなっている子供が増えている。

 また、現代の食生活は、あごや歯だけではなく、胃腸などの消化器官にも影響をおよぼしている。半加工された食物は、消化器官をも退化させているのである。現代人に便秘持ちが多いのは、肉食中心で繊維質不足の食生活が原因である。少々消化の悪い食べ物を取っても、すぐに胃腸障害を起こさない丈夫な胃腸を作る必要がある。

●唾液は万能ホルモンである

 私が説く食養生法の中では、よく噛むことと、唾液の神秘的な効用を特に強調している。わけても唾液の効用を改めて挙げれば、その多彩さ、万能さに驚く人も多いだろう。

 唾液について本当に知る人は少ないが、これが実は生命の源泉である。肉体の第一関門に存在して、万能力を発揮している。その働きによって、健康が保障され、老化も防げる。唾液こそは、すべてに作用する万能ホルモンなのである。

 気化も、消化も、殺菌もすべて行う。味も、においも何もかも取捨選択する。犬の嗅覚の鋭さも、牛が粗食しながら、あれほど大量の乳を出すのも、みな唾液の効である。

 消化作用というものも、胃や腸だけで行われるものではないわけである。口の中でよく噛んで食べ、固形物を液化すれば、その大半は霊妙な唾液の働きで気化され、気化熱というエネルギーになり、体の細胞が直接に栄養を吸収してしまうものである。

 胃腸で消化された後のカスは宿便となって体内に残るが、気化されてしまうとわずかなガスが残るだけだし、そのガスも朝の目覚めの放屁一発で消え去り、肉体はいつでもすがすがしく新陳代謝されている。

 だから、よく噛むということは、それだけ唾液が豊富に分泌され、神秘的な効用を引き出すということで、それは消化を助けるばかりでなく、唾液中に含まれるさまざまなホルモンが全身の健康維持に大いに役立つ。

 そして、よく噛んで食べれば、唾液の作用で物の本当の味わいがわかるものである。

 俗に「空腹という名のソースをかけて食べれば、世の中にまずい物はない」といわれるが、唾液という名の天然のソースは、もっと合理的で経済的で、健康的なものである。

 その食べ物の味というものは、うまい、まずいという二つの面だけははっきりしている。そのうまさ、まずさというもの、何がよくて、何が欠けているかということは、唾液の働きによって教えられるものである。

 うまいということは、どういうところがどううまいか、何がうまいか、永遠に残るうまさか、ほかの物に応用されるほどになるうまさか、これは唾液に残さなければならないものである。まずさというものも、同じように唾液に残らなければならない。

 唾液は分泌してしまえば終わりのように、思うものである。今、物を食べて、唾液によってまぶすということになると、その唾液は死んで、もう分泌したから終わりであるかというと、実は残っているわけである。

 料理で同じ物を作るということになると、味がさらに変わってくる場合と、同じ味をいつも変わらずに保つことができるということは、唾液の分泌から計算することができる。

 そもそも唾液なるものは、もともとは肉体の発生する一つのホルモンであり、液体である。ない世界から働きを持って出てきて、ある世界の物とぶつかると、そこにある世界の物の中にあった味というような物を抜いて感じ取っていく。

∥よく噛む効用2∥ 

●知られていない唾液の働き

 詳細に説明すれば、唾液というものには、食物を消化、気化するための酵素のほかに、パロチンというホルモンが含まれている。唾液腺ホルモンが耳下腺から唾液とともに導管内に分泌され、再び導管中から吸収されて自由に移行することが発見され、後にその有効成分がパロチンと命名されたのである。

 このパロチンは、骨や歯の石灰化を促進させ、血中カルシウム量を低下させるなどの作用で知られている。これが欠乏すると、変形性関節症などを促すことにもなるのである。また、パロチンには老化を防ぐだけでなく、若返りにも大きな効果があることが、カルシウム代謝による実験データからも証明されている。

 次に、おなじみのウナギをはじめ、強精食品には特有のネバネバがあるが、そのムチンという蛋白質は、唾液にも含まれている。

 驚くのは、口の中に入ってくる物の種類に応じて、唾液はたちどころに、その有機成分の組成が変わってしまうということ。例えば、酸性食品の場合、唾液の分泌量は四倍になり、アルカリ性の有機成分がうんと増えて、うまく中和作用が働くといった具合である。

 私の知り合いで化学が専門の教授によると、唾液のぺーハーという酸性度を計ると、日本人は六・四と六・九に二つのピークを持っているという話であるが、唾液は人の心のように、絶えず変化しているものである。

 腹を立てると胃に悪いといわれるのも、唾液の有機成分がアチドージスに傾き、食べ物の消化が悪くなるからである。自己意識や心の状態によって唾液を変化させることは、好ましくない。五官の自然作用によって、自然のうちに変化に対応させれば、その機能を十分に生かすことができる。

 そして、日本人の成人は牛乳不耐症、乳糖不耐症といって、ヨーロッパ人などに比べると、腸内の乳糖を分解するラクターゼという酵素が非常に少ないといわれるが、牛乳を飲む時には、あわてて飲み込んだりせず、じっくり噛むようなつもりで唾液の分泌を促せば、下痢をしないですむものである。でんぷん質を消化するのも、唾液の働きなのだ。

 夜の眠りの中では、口の中の唾液も乾きがちのものだが、それは分泌作用を止めているからではなく、内分泌腺ホルモンとして肉体組織に働きかけているからである。

●生命保存の巧妙な摂理

 ここで忘れてならぬのは、虫歯を防ぐ唾液の効果である。砂糖の取りすぎなどから、小学校の低学年で虫歯罹患(りかん)率が九十とも九十五パーセントともいわれる通りで、現代人は不幸なことに、肉体の門戸で行われる歯と唾液との絶妙な交響楽が耳に入らない。それをすっかり忘れてしまっている。

 虫歯の原因となる砂糖は甘くても酸性食品であるから、体液を酸性にするといわれているが、もう一つ、大切な唾液の根を枯らしてしまうことに、気づいている人は少ない。

 砂糖を取りすぎると、早く老化してしまうのも、そのためである。扁桃腺(へんとうせん)が乾くと唾液の分泌が鈍るし、砂糖の摂取量に比例して、唾液の量は低下するのだ。 食べ物をよく噛むということは、唾液の効果で虫歯を防ぐばかりか、肉体の五官作用を旺盛にし、生理のみならず、精神衛生に資するところきわめて大である。

 かくいう私も子供の頃、甘い物が好きで虫歯が多く、五十歳頃には、どの歯もほとんど役に立たないようになった。従って、咀嚼力は常人の半分以下となり、胃腸の具合もすぐれず、体調は悪くなる一方であった。

 ちょうどその頃、感ずるところあって、人生の立て直しをはかった。そして、常人の三倍も五倍も噛むことを心掛け、体力も精神も誰にも劣らぬと自負できるほどに確立され、健全になったのである。

 ところで、食物を味わうために、唾液が重要であることは誰もが知っているだろうが、この唾液は食べ物を味わう時ばかりに出るものではない。

 においを嗅ぐ時も、唾液の作用によって、においの味を味わうことができる。犬や牛を見ても、唾液は消化作用として機能しているばかりでなく、においを嗅ぐ、何かを探す、ということにも役立っていることがわかる。

 つまり、唾液は生命をよりよく維持していくためにも、重大な役割を果たしているわけだ。人間も唾液が出なくなったり、少なくなったりした場合は、「生命力が乏しくなった、注意せよ」、と危険信号が出されている時なのだ。口中に随時分泌されている適量の唾液に負うところは、実に大きいのである。

 こうした何人も知らなかった摂理、私の説に、ようやく最近になって科学の裏づけが得られつつある。

 平成二年、農水省の食品総合研究所が、人間の唾液に、動脈硬化や老人性痴ほう症の原因物質として注目されている過酸化脂質や、細胞や遺伝子を傷つける活性酸素の発生を防ぐ効果があることを突き止めたのである。

 唾液は、消化や殺菌の働きのほかに、生命保存の著しい効果を持っていることが、生理学的にも証明されたわけだ。

 ネズミの唾液には、酸化を防ぐ主役の尿酸がない。ネズミが二~三年、人間が八十年という寿命の差には、唾液の成分が関係しているかもしれないという。

 人間の場合も、唾液の分泌量は老人になると低下する。だから、老化防止には過食を避け、よく噛んで唾液を多く出し、唾液ホルモンという若返りの妙薬を活用すべきなのである。唾液の中にも、長命の秘密が潜んでいるからこそ、よく噛むことを勧めるのである。

 その他、唾液の成分として、各種のビタミンや制ガン作用のあるペルオキシダーゼもかなり含まれているから、よく噛むことにより、ガンの予防にもなる。

 加えて、年を取るに従い血圧が高くなりがちなものだが、唾液の中には血圧を下げる物質が、自然に増えてくるようになる。無論、低血圧の場合には、その逆の作用が働く。

 このように、よく噛むことは、一般に考えられている以外に、多くの効用が明らかになっている。これも自然の巧妙な摂理といえよう。

●口を通して宇宙の「気」を受ける

 肉体のホルモンの中で、唾液ほど重要なものはない。実際に、唾液は万病薬、老衰の予防薬なのである。

 食事の時に百回ずつ噛んで食べたら、神経痛やリウマチまで治ってしまったという、アメリカの臨床例もある。これなども、唾液の働きが単なる消化作用だけにとどまらぬことを、生化学的に証明している話であるといえよう。

 次に、「寝る子は育つ」といわれるように、眠っている間は唾液が成長ホルモンとして働くことも、生化学的に証明されている。

 新生児というものは、唾液がありあまっているから、ヨダレを流している。生命力にあふれる幼児の時代も、唾液の分泌は盛んである。生命の核ともいうべき細胞を、日々新たに製造しなければならない時期には、唾液はおのずから濃厚に、豊富になってくるのである。これも、肉体自然の摂理なのである。

 成人するにつれて、次第に唾液の出方が少なくなるのは、肉体的な成長が止まったためというよりも、むしろ、自然作用の発生を自己意識が邪魔をして、唾液腺を枯らすなどしている場合が多いものである。

 もう一つ、唾液には重要な働きがある。それは空の世界からくる「気」の働きを助けるものだが、そのことを知る人は少ない。

 口を働かせること。五官の一つである口を十分に働かせて、口を通して宇宙の「気」を受けることである。「気」の中から作られるエネルギーによって、唾液から唾液ホルモンが作られる。それが肉体細胞の収縮運動を助けるのである。

 肉体というものは、自覚のいかんを問わず、無限宇宙とつながることのできる唯一無上の存在なのであるから、口の働かせ方をおろそかにしてはならない。

 人生は、エネルギーの消耗と補給の連係プレーである。補給のために、すぐ食べ物を問題にするが、食べ物からエネルギーを取るだけでは、それほど効率はよくない。夜の眠りの中で、口など五官を通して宇宙エネルギーを吸収し、大呼吸、自然運動で宇宙の「気」を吸収する。これが最も効果的な補給法である。食べ物を味わい、消化、吸収するためにも、肉体が健全、賢明な宇宙性を備えていなければならない。

●唾液と胃液の相関関係

 今まで述べてきた唾液と胃液との関係に話を転ずると、唾液と胃液は相関関係にあって、同時に連動している。唾液が十分に出ていれば、胃液も適当に分泌され、食物は無駄なく、消化、吸収されている。唾液、胃液が十分に出ていれば、肉体エネルギーは無尽蔵に豊富に湧き出るものだ。

 胃というのは消化器官であるばかりではなく、感覚を持っており、よい意識を作り出す機能もある。胃と意との語呂(ごろ)合わせではなく、古人の説にも「胃の気は元気の別名なり」とある。

 胃の働きには、中枢神経とか感覚神経、脳神経というような、脳細胞で行われるということが存在している。

 しかし、人間は意識が強すぎるために、胃というものは、ただ、物を消化するだけの器官だというくらいにしか考えていないものである。これ以外には何もしていないと思っているが、実は、そうではない。

 肩が凝るというが、その肩の凝りというものは、胃の動き、働きに通じているものだ。肩が凝っている時は、胃の働きも衰えているもの。だから、胃を押すことによって、肩が楽になってくるということもある。胃の機能が回復すると、肩の凝りはなくなってくる。

 そして、唾液、胃液が十分であれば、腰がしっかりする。腰がしっかりしていれば、自然に足もシャンとする。老化現象は足、腰から始まるものだから、常日頃から、唾液の出方には注意を払っておくべきである。

 この点で、今の人間は、唾液の分泌も、胃液の分泌も少ない。そのためガスの排出ができず、また、体内に多くのガスを作ってしまうことになる。

 もしも、胃が完全に働き始めると、煩わしいことは、気にならなくなってくるものである。胃は精神面の煩わしさとか、自分に関係ないものは感覚して受け入れないというような、機能的な面の働きもするからである。それが、人間の味、能力ともなる。

 人間は食べ物を口で味わうから、胃に入れば味はないかといえば、胃の中でも味わうことができる。

 胃というものは、食べ物を食べない時でも適当に胃液を出して、生きる上の上半身の細胞に力を与えている。消化ばかりが胃の働きではない。唾液でも胃液でも同じことがいえる。消化や吸収といった作用ばかりでなく、生きるための適当な分泌が続けられているわけである。

 こういう胃の中に固形物がたくさん入ると、唾液の分泌は逆に少なくなる。唾液が働かないから、ますます消化が悪くなって胃腸を壊したり、体全体の機能をダウンさせてしまったりするものだ。

 食べすぎ、あるいは寝冷えといった自然的な面に対する胃の感覚は、非常に鋭いのである。

 このことから考えても、育ち盛りなのだからといって、子供たちにやたらと腹いっぱい食べさせる習慣は、意識や知識が作り出した先入観念的行為にすぎないことがよくわかるにちがいない。

 大人でも、胃に食べ物のある時は、自由な発声も、表現も、できるものではない。これは一般芸術家にもいえること。日常の仕事をする時にも、胃がもたれていては、体いっぱいの働きはできない。

●もう一つの胃の働き

 さて、人間の自我性という自己意識は五官から入ってくるが、これは胸や胃のあたりで止まって感情になったり、自己意識すなわち心になったりする。自己性の強くたくましい人は、逆上したり食べた物を吐き出したり、まことに頼りないものである。

 自己意識から妄想が生じると、それは胃に作用して胃病の原因になる。胃病の七十パーセントはストレスからといわれるのは、そのためである。

 胃がやられると、感情が胸いっぱいにたまるようになる。圧力が胸を圧迫し、心臓を苦しめるから、不安が絶えずに小心翼々と生きねばならない。

 すでに説明した通り、胃というものも食べ物を消化するだけではなくて、生きていく上の意識、生きるという問題に非常に大きな働きを持たされているから、胃がもたれ、気分がすぐれないなどということは、みな心の受ける悪影響、自己意識となるのである。

 一方、腹の中心、中核は胃と腸であるから、胃と腸がよく働く時には、他の内臓器官がことごとくそれに調和し、呼応して働く。病気になるなどということはない。

 内臓器官のそれぞれの分業的役割が統一されて、健全に働くようになれば、何を食べても完全に消化、吸収される。あえて栄養を考える必要もなく、ぜいたくな食事を選ぶ必要もないということになる。

 高い物など食べなくてもよい。豪華な物にとらわれる必要がない。キャベツが安ければキャベツを食べる。肉が高くて食べられなければ、安い魚を買ってきて、よく噛んで食べさえすれば、すべて、胃がうまく働いてくれる。

 素晴らしい機能を持っているものである。もし胃が働かなければ、その後、腸にいっても腸の働きがうまくできない。胃で消化し切れない物は、腸にいっても吸収できないわけだ。

 そういう人間の生理的現象は、人間の意識で働かせてやろうと思って動かしているのではない。

 例えば、胃の消化作用にしてそうである。空腹になるという現象にしても、人間の意識が空腹になろうと考えて空腹になるのではなく、肉体がそう命ずるから、そうだと気がつくのである。

 これは満腹になる場合でも同じで、満腹になるのは肉体のほうで、もうこれ以上は入らないという信号を出すので、腹いっぱいになった感じがわかるのである。

 また、仮に、よくない食事を意識は知らないで食べた場合などでも、肉体はちゃんとそれを知っていて受けつけない。下痢になって出すか、上に吐くかして悪い物を体外に出してしまうのだが、これは意識でやっているのではなくて、肉体がそれを知って活動しているのである。

 人間の肉体は、食べ物を口に含めば、ただちに唾液が流れ出し、それが胃袋に入ると、胃は間髪を入れず収縮作用を起こし、胃液を分泌して食物を消化してゆくという、消化器系統一つを取り出してみても、そこには、神秘としかいいようのない微妙な生理作用が働いているのだ。

●腸の選択力の妙について

 肉体の生理作用について話を続ければ、呼吸ははからわずして血液に酸素を補給し、腸の蠕動(ぜんどう)は食物を栄養たらしめているのである。

 最近の生理学の教えるところによると、消化された食物から栄養を摂取する長さ三メートルの小腸の内側は、無数の絨毛(じゅうもう)で埋め尽くされており、その表面積はテニスコート二面分に相当するという。さらに、一本の絨毛は約五千個の栄養吸収細胞からできており、小腸全体で千五百億個と推定される。

 目や耳など五官だけが感覚器官ではなくて、腸の感覚の強さ、選択力の妙は驚くべきものがある。こういう微妙な、不思議な働きは、胃にはできない。驚くべきは、人間の機能、働きの素晴らしさである。

 腸は生理的な器官であるが、感覚意識、精神的能力もあるから、その本来の働きは二つの使命、機能を持っているといえるのである。

 この腸は非常に吸収力の強いところであって、本来は食べ物を吸収することが専門であるが、空意識から入ってくる「気」を蓄えて肉体の力とする中心であり、その場合には、非常に大きな働きをするものである。

 そういう人間の腸の働きは、驚くべき力を持っている。機能をなしている。内臓器官の胃や腸は本来有能、有効のものである上、胃を取ってしまっても腸を食道につないでおけば、やがて腸は胃の働きをするほど大変な力を持っている。

 胃は胃液を分泌して消化を果たし、腸は消化と吸収を同時にするといってよいほど、最終的である。胃は食べ物を消化してもまだ形を残しているが、腸はその形の中から吸収する。後は残滓(ざんし)ばかりだが、吸収という力において、腸は素晴らしい働きを持っている。便に元の姿で出てきても、内容物は腸で吸収されているから、その力は強いものである。

 まずい物を食べて吐くというのは、腸の力によって、胃が吐き出すのである。こうした微妙な、不思議な感覚と働きは、空意識から入ってくる「気」の働きである。

 そして、腸の感覚の強さ、選択力の強さにも驚くべきものがある。五官だけが感覚器官ではない。この腸の微妙な、不思議な働きは、胃にはできない。

 私が以前に見たテレビの画像の中に、腸の感覚の強さ、選択力の強さを示すものがあった。金魚を飲んでそのまま吐き出したり、ガソリンを飲んでそのまま吐き出したりした男がいたが、それがそうである。

 飲み込まれた金魚やガソリンは、胃の中だけにとどめておくわけではなく、腸まで下げたのである。すると、腸は蓄えられてあった「気」でその内容がわかり、これは吐き出さなくてはならないものだと察知する。この吐き出すという腹全体の仕組み、仕掛けが、素晴らしい腸の感覚力、対応力なのである。

 腸の感覚というものは、非常に微妙なものであり、機能もまた優れた力を持っている。それが魂の場であるに至っては、人間の魂はどれほどの働きをするか想像にあまりある。 また、生理作用、精神作用、意識作用といったものの選択力、識別力などに至る場合は、驚くべきほどの素晴らしい人間の機能、働きとなるのである。

 例えば、気力はいったいどこから出るものかといえば、胃に食べ物のあるうちは、気力は出ない。胃が空になって腸に力が蓄えられる時に、腸から気力が出るのである。

 この肉体の下半身から、自然にエネルギーが湧き上がってくるような気合の人は、疲れるなどということはない。倦怠を覚えるとか、飽きるとかいうようなこともない。何らの障害を外部から受けることもなく、スムーズに人生を送ることができる。

 こういう人間になれば、腸が活発に働くだけでなく胃も丈夫だから、頭脳も明晰になり、体全体がバランスよく、すべてが当たり前に働くような人になる。

∥体に適した食べ物1∥ 

●正しい食物とは何か

 腹八分の勧め、続いて、よく噛む食事法を説いてきた。ここでは、腹八分に、よく噛んで食べるのに合った、正しい食物とは何かを中心に話を進めていきたい。

 適した食べ物を知るには、まず、人間の歯と腸と両方の関係を見ればよい。それが裏書きしている。人間の歯は上下合わせて三十二本あり、門歯(切歯)八本、犬歯四本、前臼歯八本、後臼歯十二本が内訳である。

 門歯は野菜や果物を食べるためのもの、犬歯は肉類を食べるため、臼歯は穀類を噛み砕き、すりつぶすために用意されたものと、それぞれの歯は特有の目的を持っており、数の割合を見ると、人間は全食物の八分の五を米、麦などの穀類、八分の二が野菜、果物、残りの八分の一が動物性蛋白質を取ればよいということになる。殻菜類が主食で、後は副食物なのである。

 このことは、唾液の中でのでんぷん分解酵素、アミラーゼ活性の度合いが高いという人間の食性から見てもわかるし、人間の腸の長さから考えても、栄養学以前の自然の理とわかる。人間の腸は、大腸、小腸を合わせると八メートルくらいもあり、肉食動物と比べると大変長い。

 主食の殻菜類が長い腸を通過する間に、その栄養を十分に吸収するという肉体の仕組みである。

 だから、最近の日本人の食生活において、あまり多く動物性蛋白質を進めるようなやり方には、私は賛成できない。長生きした人は、やはり殻菜食で生きてきた人が多い。ビフテキばかり食うようになったら、動脈硬化になるとか、血圧が上がるとかで早く死ぬ。だいたい、胴長の日本人は腸がヨーロッパ人と違って長いなど、もともと体の構造が適応できていないのである。

 体格のよくなった若者の間で、立ちくらみをするとか、骨がもろいとか、健康が問題になっているが、西欧型の肉を食べすぎる食事も原因の一つのようだ。

 極端にいえば、それが体の調和を破綻させ、脳の働きにまで影響して、闘争的になり、犯罪の凶悪化、ひいては知性の低下をもたらす。美食が脳を破壊する。栄養のバランスをとくと研究しないといけない。

 といっても、牛肉、豚肉、鶏肉、魚などから取る動物性蛋白質は体に必要な物であり、決して悪い物ではないが、摂取しすぎるとコレステロールを生じ、また、血液を酸性にする害があるため、野菜を多く食べるなどバランスを考える必要があるのである。

●血液の酸性化を防ぐ

 我々の正常な血液は、平均PH(ペーハー)七・四の弱アルカリ性であるといわれており、そのことが生命体を健康に維持する最も基本的な条件になっている。もし血液が酸性化すれば、基本的な条件に異変を生ずることになる。すなわち、細胞個々の活動は低下し、ひいては内臓諸器官の活動にもおよんで活発な活動ができなくなるし、傷つきやすくなる。

 だが、血液が弱アルカリ性で、内臓諸器官の作用が活発に行われている限り、ガンなどにかかる心配はないわけである。

 血液がアルカリ性であるためには、大別して三つの条件がそろっていなければならない。

 その第一は先の食物であり、第二は心の問題であり、第三は環境のことである。

 第一の食物のことであるが、肉、米、砂糖、アルコールなどの酸性食に偏すれば、血液は酸性化に傾くことはいうまでもない。反対に、野菜、海草、果物などのアルカリ性のものを摂取していれば、血液は弱アルカリ性になる。自然の水をたくさん飲めば、血液もまた浄化される。

 この点、野菜類、豆類などの植物性蛋白質ならコレステロールもなく、血液をアルカリ性にするので最上である。特に年を取ったら野菜を多くすることが大切で、動物性の物を食べたら、約三倍の野菜を食べること。六十くらいの年となっては、血液は絶対にアルカリ性でなければならない。

 野菜の味の素晴らしさ、自然の味のわからぬ人に、味覚を談ずる資格はない。動物としての人間と、植物の関係も深い。若い人も、植物性の物を食べることだ。

 ビタミンも必要だから、青野菜、特にニンジン、大根の葉、ホウレンソウを食べれば、カロチンという成分が腹に入ってからビタミンAに変わる。加えて、カルシウムを多く取ること。これには、野菜のほか小魚を多く取り、イワシなどは骨ごと食べる。ワカメ、コンブ、ヒジキなどの海草は、毎日食べること。バターや牛乳も必要。

 第二の心の問題は、日常生活において、思うことが自分の意のままにならなかったり、嫌なこと、つらいこと、悲しいことのために、腹を立てたり、嫉妬をしたり、嘆き悲しんだりすると血液は酸性化に傾くのである。

 結局、感情的に恐れ、おののき、嘆き、悲しむこと、希望を失ったり、失意、苦悩のため快々として楽しまなかったり、不眠や過労が続いたりすることは、すべて血液の酸性化につながることばかりである。

 第三の環境の問題であるが、空気、飲料水、湿度、温度、それからくる公害の諸問題は、すべてが血液を酸性化する要因子である。

 我々は環境に住み、食物に養われ、心の命ずるままの生活をしているのである。しかも、そのことは体内の血液に影響して、健康を左右する原因となっている。

 だから、健康で長生きがしたいと思うならば、このことをよく頭に置いて、常に弱アルカリ性の健康血液を体内に回らせるように、合理的な生活をするよう努めねばならぬ。

 だいたい、健康とは消極的な無病状態をいうのではなく、あくまでも積極的に進んで、自己を実現する根本態勢の整っている状態をいうのである。

 それには快食、快眠、快通ということがいわれている。

 文字通り、食べ物はうまく、よく熟睡ができ、毎日通じに滞りない状態こそ、健康体といって可なるものである。この状態が長く継続する限り、原則的には病気はないはずである。

 誰もが、健康を軒昂(けんこう)に維持することは、その人自身の生活の幸福を意味するだけではなく、病気にすきを与えないことであって、両々相まって長寿につながる意味での大いなる人生意義がある。

●旬の食べ物の価値

 食べ物の種類について述べてきたが、実は、私が本当に強調したいのは、食べ物は好き嫌いをせず、何でも喜んで食べることにある。

 喜んで物を食べると、唾液作用が変わってくる。また、喜んで物を見る、喜んで物事を実践する、喜んで行動すると、能率が上がる。宇宙の森羅万象は、常に、喜びという形で存在するものである。その喜びというものは、生理的にいえばホルモンという形で体に作用し、影響してくる。

 人間の食べ物は、地球上にいっぱい存在する。自然世界にこれほどの物が作られる。この自然の力を知るべきである。謳歌すべきである。感謝すべきである。

 宇宙を知り、太陽を知り、真理、原則を知る時、生かされているという恩恵、大きな幸せを知ることができる。

 神のお与えくださる物、それによって生かされているという恩恵を忘れ、不平をいうとか、不安な気持ちで食べる者は、恩を仇(あだ)で返しているようなもので、道理不明の罪が病を作る。

 食べ物の種類によって、体の肥痩(ひそう)は起こるものではない。何程でも、この証言ができる材料がある。ただ、食事に対する正しい心遣いを忘れている者に下す、軽い神のご忠告であろう。

 現代は物がありすぎ、食べ物の種類も多すぎるために、誰もが美食を好み味にうるさく、やたらにあれこれ暴飲暴食したがるものである。

 本来、少し食べても楽しく、自然の味があるのに、若い時からたくさん食べる癖をつけて、それも油っこい物、味の強い物を食べて楽しかったような気がするから、淡い、自然の香りのある食べ物を食べても、その淡い味も、香りもわからないのである。

 大相撲には、「チャンコの味が染み込んでいない」という言葉があると聞く。心も体もプロになっていない、という意をいい得て至妙。チャンコを口で味わっているうちはまだ素人相撲だ、体に染み込ませてはじめて一人前の相撲取りといえる。省みて、うわべの味に満足しているやからの多きことよ。

 名コックの料理も、やたらに砂糖や調味料は使わないし、煮すぎることもない。程々のところ、素材の固有の味を殺さぬところである。

 私にいわせれば、食べる物はどんな物でもよい。カロリーやビタミン計算にばかり心を奪われているのが、現代人だ。旬の物を、よく噛んで食べれば、何を食べても消化、吸収されて、立派な体ができてくるものである。

 人間は金で物の寸法を測っているから、金のかかること、値段の高い物はみな尊いと思いがちであるが、大きな間違いである。こういう意識は、改めなければならない。

 金のかかる物を食べるよりは、その時節、季節の時を得た物や、その所、所の「気」を得た物を食べるのがよい。

 天候、気候、季節、時期というものに、それぞれの内容があり、折がある。その時節に一番たくさんとれる物、できる物を食べるのがよい。そうすると、生命力の弱い人であっても、夏でも冬でも耐えられるように、そういう食べ物、食べ方から、命が養われるということもある。

 季節にできる安い物をよく噛んで食べる人には、ビニールハウスでできた高い物を食べる人よりも、よりコクがあり、利益があるものである。

●人間にとっての新しい木の葉

 昨今では、食べ物について、あれこれと論議する人が多くなっている。

 神のお与えくださる自然食の中にはよい物があるが、人為的な物には反動や弊害、副作用があるから注意が肝心なことは確かである。人工着色料や防腐剤、人工香料、人工甘味料などは反自然の物質であるから、長い間には人間の自然の生理作用を狂わして、治療困難な成人病者を作り上げる。しかも、この本当の原因を、病者自身が知らないし、自覚しないのだから、一番始末に困る。全くの自業自得である。

 現在、人為的な環境汚染は海にもおよび、魚介類にしても何PPM以下は食べても安全だといっても、魚によって、またその漁獲時期によっても違うと思われる。それをいちいち測定するわけにはいかないし、仮に安全基準に合格したとしても、その基準そのものが甘い場合もある。

 公害物質には相乗作用、複合作用、蓄積作用があって、安全基準なるものも、各人の体質、体力などによって違ってくる。特に、公害物質の微量蓄積による慢性毒性は恐ろしく、一説には、生物濃縮による人体への影響は十一年目に最大に達するといわれている。異常体質、虚弱体質、乳児、老人などの場合は、その影響度も異なってくるであろう。

 このように、今や世界中の関心を集めている公害は、誰にとっても無関係ではあり得ない。いくら山奥の清流のほとりに住んでいても、農産物や食品公害からは逃れられない。 この点、エンゲルスは「猿が人間になるに当たっての労働の役割」の中で書いている。「動物は新芽の果てまで食べ尽くすと、それまで食べたことのない新しい木の葉を食べ始める。そうすると動物たちの血液成分は変わり、その種は絶滅する」。

 汚染された農産物や魚介類、あるいは科学の力で作り出された医薬品や食品添加物の入った食べ物は、我々にとっては「それまで食べたことのない新しい木の葉」ではないのだろうか。

 近代科学は、例えばガン細胞を作るためにマウスを実験台にしてデータを取り、その結果を人間に当てはめようとする。しかし、人間の肉体組織は他の動物と形質的には似ていても、生命の本質で違っているから、データそのままを適用しようとしても駄目なものである。

 だから、化学的に合成された薬品や、食品添加物などの安全性が動物実験で確かめられたからといって、必ずしも安心できるものではない。要するに、自然の食品以外はすべて生体にとっては異物であるから、一切使わないことが健康にとっての大原則である。

 日赤の医者に、私の知人が食品添加物の影響について聞いたところによると、どの食品にも添加物はあるが、一番いけないのは防腐剤だそうである。

 また、豆腐屋の元締めに聞いたところによると、パック詰めの豆腐をデパートやスーパーなどほうぼうで売っているが、四日も五日も持つように、防腐剤を入れてあるので体にはよくないから、買う時には豆腐屋へいって、水の中に浮かしてあるのを買うべきだという。

 集団発生する奇病という名の気味の悪い病気などは、「安全性が高い」というあやふやな表現で使われている食品添加物や、未知の薬害による現象ではないのかと疑ってみる必要がありそうだ。

●心で食べず、体で食べる

 化学的合成品の恐怖は、我々の身近なところに潜んでいることをさらに指摘したい。例えばビタミン剤である。

 ビタミンというと健康の根源のようなイメージがあるから、多くの人々はあたかも護符のようなつもりで愛用している。だが、ビタミン剤といえども、やたらに飲んでは副作用の害のあることは当然で、そういう意味では、おまじないが物質化された護符より始末が悪い。科学の仮面をかぶった悪魔になる場合も、少なくないからである。

 ビタミンAの過剰症にかかったらどうなるか。まず、食欲がなくなる。毛髪が抜け落ちたり、手足の節々の骨が痛み出す。時によっては、肝臓をやられてしまうことも珍しくない。

 ビタミンAといえば、おなじみのニンジンやカボチャなど、赤い色をした野菜に含まれていて、これが不足すると俗にいう鳥目になったりする。野菜などに自然に含まれている物なら、少々食べすぎても害はないところに、巧妙な大自然の摂理があるが、人工の肝油などで補おうとして量をすごすと、往々にして中毒症状を起こすことになる。

 改めて、化学的に合成された薬、食品添加物などというものは、原則的に毒であることを肝に銘じなければならない。

 ところで、このように、はっきりと有害と判断できる人工合成品の害を説くのは正しいが、自然の産物としての食物それ自体について、「あれは食べてはいかん。これを食べよ」と説法する人が増えているのは問題である。

 その説がそれぞれの解説者によって違うから、一般消費者はどうしてよいかわからない。これは、心で食べ物を食べようとする態度であって、不自然である。

 自然の食品で、その人が食べておいしく、かつ食べた後の体の調子がよいならば、あえて無理な理屈を並べて、食品を厳選するほどのことはいらない。

 肉体が欲する物は、何を食べてもよい。しかし、心でえり好みする食品は、時に〃造病〃食につながることがある。

 正食は体で食べるが、心は舌の先で食べるから、時には、体に害になる物でも平気で食べたり、飲んだりする。

 このような誤りを犯さないためには、常日頃から意識を正しくしておくことが必要である。

 意識が正しく働けば、意識は肉体の五官から発生するものであるから、食物の選択においても誤ることはない。

 自然の物を食べる自然食の考え方は、すでにギリシャ時代の哲学者たちも唱えており、その後も多くの人によって提唱されてきた。

 だが、近年の自然食の大クローズアップの原因は、農薬による食品の汚染、発ガン物質、食品添加物の乱用などが、人々に不安感を与えたことにある。また、現代の薬害(医原病)、公害(企業害)の多発も、人々に自衛を迫った。人間の体にとって、一番よい食べ物は自然の食品であるということに、ようやく人々は目覚め、ちまたには自然食ブームが続いている。

 その目的は大変結構であるし、方法も自然的、真理的であって、何もいうことはないが、実際面においては、人間心が介在、介入してくるために、手放しで喜んでばかりもいられない。

 一つには、現代人の食事は、季節感を忘れて夏冬ぶっ通して野菜が食える、温室ばかりではなくて、冷凍施設を利用すれば、世界中の食べ物はいつでも食える。その恵まれの結果は、自然食ブームの陰で、飽食して肥満児を作り、恍惚老人を増やし、病気の種類も多く、病人の数も激増している。

●自然食愛用のための注意

 飽食の現代人への警鐘として、少し前の昭和五十三年、奥多摩の入川谷にある東京都の水産試験場で、面白い話を聞いたことがあった。

 ここでは主にヤマメとイワナを飼っていた。山間の渓流で生息しているものは五年かかって成長し、そして死ぬのだが、水槽で養育されたものは半分の二年半で成長し、そしてやはり死んでしまう。それ以上は生きられない。

 魚に限らず、自然から離れ、常に保護され、労せずして食を得られる人間の命運も、かくのごとしではなかろうか。

 そこで、正しい自然食愛用のために注意すべきことを二、三述べてみよう。

 第一は、人間の体に合った自然食とは何かということであるが、これには必ずしも明確な定義はない。一般的には、自然にとれたままで加工しない物、さらに食品添加物や防腐剤などを含まない物という答えが返ってくるが、具体的な食品選択ともなると、人によって異論がある。

 例えば、牛乳や卵は、BHCなどの公害物質に汚染されていなければ自然食と見なされるが、自然医学会などは、これらは本来、人間の生理に合わないものであるからと、自然食品のリストから外している。

 第二は、レッテルに自然食品と銘打ってあっても、それが果たして本物の自然食品であるのかどうか、消費者にはわからないという基本的な問題である。農薬を使用しない清浄野菜、清浄果物といってみても、見た目にはわかりにくいから、作り手、売り手を信用するしか手はない。もちろん、この場合は、虫食いの跡があれば無農薬栽培である証明になるが、やがてそのうちに、狡猾な商人らは、人工的に虫食いの跡を作る技術を発明するかもしれない。

 第三に、市販の自然食品には多種多様の物があるから、そのうちのどれが自分にとって最も好ましいのかを判断するのが困難であるということである。自然食であれば何でもよい、というわけにはいかない。朝鮮人参は強壮食として流行しているが、高血圧の人にはかえってよくないし、ニンニクも強精食であるが、多食すると、貧血を招くという医学のデータのあることを知っておく必要がある。

∥体に適した食べ物2∥ 

●肉体には精妙な選択力が働く

 現代人の食事に比べ、自然の中に生きていた大昔の祖先たちは、自然のままの食品を特に味つけなどせずに、そのまま食べていた。少なくとも、現代よりは塩味も甘味も少なかったと思われる。

 それが現代では、濃厚な味つけの料理が好まれるし、不必要に人手をかけ、人工の添加物を加えたりして、豪勢に見える食品を作り出すのに懸命になっている。

 多くの人が口では公害を非難し、きれいな空気や日光、水の必要性を痛感しているはずであるのに、ことひとたび食品のことに関しては、自ら不自然化を見逃しているのはどうしたことであろうか。

 もちろん、食べ物はうまいにこしたことはない。しかし、そのうまみは自然の持ち味を生かしたものでなくてはならない。人工的に濃厚な味をつけた料理は、ちょっとの口舌の楽しみはあっても、それを食べ続けていれば、やがて体に障害をおよぼしてくることを忘れてはならない。

 人間の体には精妙な選択力があるから、そうした現代流の濃厚な味を一週間も食べ続けていれば、必ず飽きがくるはずである。この本能的な選択力に忠実に従うならば、淡泊な自然の味の中にこそ、生命の糧があることを、体で知ることができるだろう。

 現代では、食べ物や食べ方に注意しても、素人にはわかりにくい有害添加物を含んだ食品も少なくないからこそ、食べ方について心であれこれ思い煩わず、食べた後の体の調子、頭脳の働きなどで、つまり体そのもので判断して、正食を正しく食べる習慣をつけることが大切である。

 栄養となるかならぬかは、体そのものによるのであって、食べ物だけにあるのではない。いかに栄養学的に認められた食品でも、食べる本人の体が完全でなければ、それはまずく感じるし、生命の糧として身につくこともないだろう。

 人は食べ物の種類によって、それぞれの栄養分が違うと思っているが、肉体が自然に返っていなければ、いくらいろいろの物を食べても、偏った栄養しか得られないもの。

 肉体の持つ物理的作用というものはコンピューターより正確に、健康のために不可欠な栄養のバランスをはじき出し、かつ、計算通りの栄養を吸収してしまうものである。

 誰もが健康になりたければ、肉体というものの素晴らしい働きを、無条件で信じるがよい。肉体機能の持つ自然作用に任せておけば、食べた物を肉体が分解、仕分けして、必要な栄養に転換してしまうものである。体に悪い物を食べると、すぐに吐いたり、下痢したりするのも、肉体を守ろうとする機能が自然に働くからである。

●もっと水を摂取しよう

 食事について論じているからには、水を中心にした飲み物についても触れておきたい。

 かくいう私は、一日に水を一升は飲む。肉体生命は水を注がれ、水をたたえて、楽しく、元気はつらつと躍動している。

 水は宇宙万物にしみわたっている。しかも、熱しては蒸気となり、冷えては氷に変ずるというように、色即是空、空即是色の大真理を具現している。中国の老子の言葉にも、「上善は水の如し」とある。最上の善は水のようなものだ。水は万物に利益を与え、水なくしては何物も存在できぬ。

 これほどの水なのに、近頃の人間は一般に偏食したり、あるいは過食したりしているわりに、水を飲まなすぎる。併せて、もっと上手に空気を呼吸することを心掛けなさすぎる。だから、今日ほどの便利な時代に、偏食のために病気をしたり、ビタミン不足、ホルモン欠乏症などというのが出てくるのである。食糧の少ない昔でも、そういうことは少なかった。

 自分の健康を守るためには、朝起きたら十分に水を飲み、窓を開けて新鮮な空気を胸いっぱいに吸うがよい。

 人間の体は水分が三分の二を占めていて、絶えず循環しており、特に細胞には水が必要であるのに、その補給が足らぬのである。

 一説によると、人間の肉体の成分比は、蛋白質が全体の十七パーセント、脂肪約十四、炭水化物一・五、ミネラル約六、そして残りの約六十一パーセントが水だという。私たち人間の肉体のほぼ六十~七十パーセントは血液、体液といった水分であることに間違いはなく、その肉体を構成している細胞は、ちょうど水中の生物のように、水に浸され、水に溶けた栄養や酸素を得て、老廃物を捨てている。

 水や空気の中には、知恵も力も栄養もある。それに直結して効をなす空の力が人体にある。人間は肉体の持つ神秘の能力を、みな放棄して、平凡なものになってしまった。

 水の素晴らしさは、実際、千万言を費やしても語り尽くせないほどである。

 私自身が毎朝起きると、枕元に昨夜のうちに汲(く)んでおいたヤカンの水を二回、三回と飲むのは、体が要求するのである。慣れもあるが、寝起きの際の水の効用は大きい。

 水道水ではない。裏庭の井戸水で、水質検査を何回もしてもらっている自然水である。これが、冷たくてうまい。新鮮で、栄養たっぷりの自然の水を飲むと、体中の細胞にしみわたるようにいくらでも水がおいしく飲める。

 起き掛けに飲む水はうまい上、胃を刺激して活発にするので、食欲も出るし、同時にあくびやおならなどガスの放出にも役立ち、快便をも促す。さらに、脳の活動をも活発にするのは、水による酸素の補給があるからである。

 頭もすっきりとし、体中が快い。「さあ、今日一日も頑張るぞ」という気分がみなぎる。

 とりわけ、すきっ腹に飲む自然の冷水は、胃に入るやいなや、ほんの数秒あるいは数分間で体中にいきわたるものである。細胞から細胞へ、血液を通して、どんな微細な部分へでも、たちどころに浸透していく。これは、水の毛管現象といわれる宇宙性の特徴である。天然水が巨岩を砕き、ついには押し流すに至る力も、この毛管現象による。この浸透力と溶解する力に生命を託し、依存しているのが、動植物を問わず、生物全体の水との関係である。

 だからこそ、よく眠って肉体をゼロにして起き出す朝の、水分不足の体に、コップ一杯の水は牛乳以上の効をなす。人間は金高で価値をはかるが、水というインフレ退治の妙薬のあるのを忘れている。

 ぐっすり眠れた朝ほど、寝ている間に自然作用で水分が吸収されてしまうため、ことにのどが渇くもの。従って、その分だけたっぷりと水を補給しなければならない。七、八時間の睡眠なら最低コップ五杯ぐらいの水が必要で、一度では無理としても、何回かに分けて飲む習慣をつけるべきである。

●水は噛むようにして飲むこと

 誰もが人間の生命維持にとって大切な水、自然なよい水を、ぜひとも一日に一・八リットルは飲むようにしたいものである。

 この水を飲むにも飲み方がある。急いでガブガブ流し込んではいけない。噛むようにして飲むことが大切なのである。

 空気が乾燥しているからといっても、ガブガブ飲むということはいけない。一応口の中に入れて、静かに飲まないと二杯飲んでも、三杯飲んでも効果は薄れる。一含みしたほうがどんなに効果があることか。間をおくわけで、三杯一度に飲むよりも、三回に分けて飲むことのほうが、体全体に効くというわけなのである。子供であろうが老人であろうが、すべての者に必要なことだ。

 つまり、急に無理に飲まず、肉体が水分を要求し、よく吸収するよう、肉体を動かし、働かせて、運動を怠らぬようにすることである。

 このようにして水を多く飲み、それが体になじむほどであれば、体の中の不用な物、悪い物をみな溶かし、流してしまう。水が体全体に吸収され、変化して力となる。肉体にとって、水の価値は計り知れない偉大なものである。

 水を飲むと唾液が薄くなるというが、そんなことはない。人体は水分を多量に必要としているのに、現代人は水の飲み方が少なすぎる。努めて水を飲むべきである。そうすれば、のどが渇くということもなく、結果的に、健康上問題のあるジュース類を飲む必要もなくなって、一挙両得となる。

 といっても、昼間は、どうしても水以外のジュースなどに目が移り、水以外の物を飲んだり、食べたりする人が多いのが常だろう。

 この時、水を飲めば疲労やのどの渇きが回復するということが、往々にしてあるにもかかわらず、それに気がつかないということは、水のありがたさとか、水がどのような働きをするかということを知らなすぎるせいである。

 体が水を要求する時は、細胞が活発に働いているか、体自体が吸収できる状態にあるから、水を飲むという吸収力があるということになる。そして、飲んだ水は直ちにエネルギーにすることができるもの。水の触媒作用を利用して、肉体内部に自然の「気」を起こさせると、比喩でいえばちょっと変わった発電所ができて、水力電気、体電気エネルギーが発生するということだ。

 腹が立った時にも、まずコップ一杯の水を飲むがよい。体が疲れた時にも、水を飲む。疲れた時にはのどが渇く。それは働くということで汗が出るのであるから当然である。

 人間の体を分析してみると、約三分の二を占める水分の、たった十分の一を失っただけで病的状態に陥るといわれている。体が疲れると、この肉体の水分が減って、いっそう疲労の「気」がたまるから、この「気」を元気に戻すためには、水を飲むことが何よりである。水を補給すれば、たちまち気分もよくなる。

●大自然が与えた最大の活力源

 水の飲み方次第で、人間は健康になれるのである。

 水の中には生命の素があるから、新しい血液ができて元気になる。すなわち、血液の細胞を作る鉄、葉緑素を作る重要な元素であるマグネシウム、細胞中のミトコンドリアのカギを握る元素のリン、毛を作る硫黄、骨や殻を作るためになくてはならないカルシウムや珪素(けいそ)など、水はその溶解性によって、生物に必要な物質をすべて溶かし込んでいるのである。

 また、水には物を純粋にする浄化力もあるから、肉体の新陳代謝がよくなる。たくさん水を飲んで体を洗えば、細胞は非常に立派な新鮮なものとなる。

 水を飲んで、そこからエネルギーを取ることができる。細胞を新鮮にすることもできる。それは、水の中にも宇宙生命、宇宙感覚、宇宙エネルギーが潜んでいるからこそである。

 私たち人間も、食物のカロリーなどという栄養価を口にする前に、知らず知らずのうちに恩恵に欲している、自然の水と自然の空気の大切さを知らなくてはならない。

 これは宇宙大自然の尽きることのない恵みである。いうなれば、大自然が惜しみなく無尽蔵に、平等に与えてくれている最大の栄養こそ、水と空気、そして日光である。まさに、この三要素こそは、生命の元の元なる栄養源、肉体の原動力となるエネルギーなのだ。

 水の生理的効用としては、血液の循環をよくし、体液をアルカロージス(アルカリ性)に調整し、細胞の新陳代謝を促進するなど、すべて生化学的に認められているところである。

 体の中の水分が減ってくれば、血液は当然濃くなり、粘っこくなる。そのままの状態では、末梢血管の血液の流れが悪くなり、赤血球一つがやっと通れるような毛細血管などが、真っ先に詰まりやすくなる。当然、体のあちこちの機能が低下し始める。

 まず、脳の働きが悪くなる。思考力がガタ落ちになり、勘なども働いてくれない。「血の巡りが悪くなる」からである。

 まだそれほどの年でもないのに、〃恍惚の人〃になったりするのも、若いうちから水の飲み方が足りなかったせいでもある。冷たい、生きた水を飲まずに、コーラやジュースばかり飲んでいると、こんな結果になりやすい。

●おいしい水の秘密について

 では、おいしい水とはどんな水であるか、について述べてみよう。

 水のおいしさに関係のある水質成分を科学的に分析すると、第一に、炭酸ガスが挙げられる。炭酸ガスは自然の湧き水や地下水(浅井戸)などに含まれているが、これが適量溶けていると、水に新鮮でさわやかな味が加わる。水中の炭酸が舌や胃の神経を刺激し、消化液の分泌を促進するからである。

 次が、何といっても酸素の量である。水に溶けている酸素の量が多いほど清涼感があり、新鮮な味がするものだ。第三は、ミネラルの含有量である。マグネシウム、カルシウムをはじめ、ナトリウム、カリウム、鉄、マンガン、亜鉛、シリカなどさまざまな鉱物質が水に溶けているのが、自然水の特徴である。適度のミネラル含有量は、五十~二十ミリグラムリットルとされ、こくがあり、まろみを保っている。

 そして何より、私たちにとって一般においしいと感じられるのは、生温かい水より冷たい水である。湧き水や井戸水が水道水よりおいしいのは、成分差もあるが、第一に水温が適当に低いからである。

 その上、湧き水や、湧き水の集まりの谷川の水、地下水がおいしく感じられるのは、良質で低温な自然な水であって、土壌を通過して、ろ過される間に不純物は除かれ、適量の炭酸ガス、酸素、ミネラル、カルシウム、マグネシウムを溶かし込んで現れる水だからである。

 だが、人工的に作り出す蒸留水とは違って、自然水にはバクテリアや塩素化有機物など多少の汚染がないとはいえない。が、そういう自然水になじんだ動物の肉体には、そのほうがむしろ生命の水なのである。

 特に、できるだけ冷たい自然の水の価値は大きい。そのために、中国では、雪解け水が不老長寿の薬と古くからいわれてきた。いつまでも若い気でいる老人をたしなめることわざに、「年寄りの冷や水」などというのがあって、冷たい水は敬遠されがちだが、本物の冷水を愛用するのは大いに結構。細胞にとっては冷たいほうがよいのである。

 水は低温になるほど、その分子構造が緻密になっている。つまり、普通の水道水は十三個ほどの水分子が集まって分子集団(クラスター)を作っているといわれているが、冷たい水は分子集団がより小さく形成されているために、細胞組織に浸透しやすく、取り込まれやすい。

 さて、自然の生水の価値が大きいといっても、一般の多くの家庭ではどうしても水道水に頼らなくてはならないだろう。そこで、一般家庭での飲料として一番ふさわしい水となると、沸かした湯ではなく、水、それも、できるだけ氷を溶かした水を飲んだほうがいい。

 いったん沸騰させてしまった水は、高温の作用でその生命ともいうべき分子構造が破壊され、別の結合状態となってしまう。そのため、細胞には吸収されにくくなり、体内を素通りしてしまうようなことになる。同時に、煮沸によって水の中の酸素、炭酸ガスの含有量が非常に減少しているため、決してよい飲み物とはいえない。

 一方、水が凍った時にできる美しい結晶格子のような分子構造は、生体の細胞の分子構造ときわめてよく似ているので、細胞が実にその水を吸収しやすくなる。言葉を換えていえば、氷の分子構造は、生命体の分子構造の中に、そのまま入っていけるのである。

 いったん凍った水は、再び解けて普通の水に戻っても、氷であった時の特殊な分子構造が残っているものである。つまり、その水の中に、氷の分子構造を持つ無数の小さな島を浮かべているのだ。しかも、その小島に摂氏三十度の熱を加えても壊れない。

 水が凍ると、赤ん坊が喜ぶガラガラの玩具のような形に美しい結晶格子を作るが、その美しい結晶格子を持つ小島こそ、人間の細胞にエネルギーを与える、生命の水の秘密なのである。

 人間の蛋白質、脂肪、炭水化物の分子構造は、氷の分子構造と酷似しているから、普通の水より氷を解かした水のほうがよく吸収されるし、分子構造を傷つける恐れもない。また生物の老化の原因の一つとして、細胞の分子が傷つき、それが生体内に蓄積されるからだという説もあるが、平常から冷たい水をたっぷり飲んでいれば、氷の結晶構造を持つ分子が細胞の傷を補修するから、若返りにも役立つわけである。

●飲料水との上手なかかわり方

 昔は暑い季節になっても、氷を手に入れることは一仕事だったが、冷凍庫のついた電気冷蔵庫が普及したお陰で、どこの家庭でも簡単に氷が作れるようになった。せっかくのフリーザーを大いに活用し、毎日の飲み水はぜひ、生き生きした冷たい水にしたいものである。

 酒屋で売っているぶっかき氷、富士山の氷穴の天然氷などを買ってくるのも一案で、溶解して飲むのもよいだろう。

 水道水について述べると、二PPM程度の塩素含有量の水道の水、つまり日本の大都市の飲料水だと、まず金魚は死んでしまう。魚も人間も、酸素を呼吸して生きているのであり、金魚は水中の酸素を摂取しようとして、水道水中の殺菌、消毒用に使用された発ガン性の塩素ガスを一緒に摂取して死ぬのである。

 こんな水が、人間にもよいわけはないが、水を大量に消費する大都会に暮らしている以上は仕方がない。

 日本の水道は最近、夏場を中心に、臭い水の苦情が相次いでいる。これは、水源の湖などに発生するプランクトンに含まれている物質が原因。かつては山奥にあった水源地近くに、人間が住むようになったために、生活排水などで富栄養化したのが影響したとされている。

 また、テレビ番組で、東京と大阪の水道水を点検した結果、二十四種の化学物質を検出したと報道されたりしている。私が対談した医学博士によると、水道水でも、厳密にいったら二百五十種類ぐらいの生体異物、まあ毒物が入っているという。

 こういう水道水に不安を抱く人は、日本や世界のミネラルウオーター類が売り出されているし、おいしい水を作るという触れ込みの家庭用浄水器が市販されているので、利用してみたらいいだろう。

 家庭用の浄水器には、活性炭などを使用して不純物や異臭を取り除く水道蛇口直結型の浄水器から、水を分離してアルカリイオン水と酸性イオン水を別々にホースから取り出す電気分解式イオン水製造器、超微量の二価三価鉄塩に誘導された水であるパイウオーター製造器まで各種ある。値段も高価な物から、数千円程度の製品までいろいろある。

 ほかにも、最近はティーバッグ式の浄水剤や、沸かしたお湯から水道水のカルキを抜くという保温機能つきの電気ポットなどが、相次いで売り出されている。

 それぞれの効用も盛んに宣伝されているので、比較検討して使用されることを勧めたい。

∥食生活の工夫1∥ 

●乳幼児の味覚と感覚について

 本編では、乳幼児や子供、老人、あるいは眠れない人などについて、それぞれ工夫してもらいたい食事の注意点を述べてみる。

 まず子供についてであるが、子供の新しい生命体には、病気などがあるはずはないのに、現代は子供の慢性疾患が多い。これはすべて、食べ物に原因がある。

 食べ物は、自然の物を、自然な味で、腹八分目だけ与えればよい。例えば、赤ん坊に母乳を与えれば、物を噛む時に使う筋肉をよく動かして飲む。母乳が十分出ないことがあっても、自然の栄養調節になる。

 反対に、ほ乳瓶で人工のミルクを与えても、赤ちゃんは吸い出すだけでよいから、あごの運動は必要でなく、噛む力が育たない。泣きさえすれば与えられることは、過食にもつながるだろう。

 そればかりか、子供が喜ぶからといって、人工の、不自然な物を与えることは、五官をマヒさせ、自然感覚も、自然機能も働かなくさせてしまうこととなる。

 赤ん坊の五官のうち、真っ先に働くのは口と鼻である。目や耳は少し遅れる。

 目という器官は、もともと物を映すようにできているから、教えなくとも自然に見ることができる。道元禅師がいっている「見える目」で、周りの物の姿が自然に新生児の目に飛び込んでくる。

 よく、「子供は物覚えがいい」とか、「子供にあってはかなわない」ということをいうが、乳幼児期には子供の五官は非常に純粋で正しいからで、五官が正しいからこそ、見たり聞いたりしたことを、何でも吸収してしまう。

 こうして子供の五官を通して入ってきたものは、潜在性意識の中に収められ、それが体から出る時には手悪さや、いたずらとなって現れる。

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 耳から入ってきたものは、縁に触れれば自然に片言となって表現されるなど、子供のうち、人間の五官作用は実によくできていて、知能や情操の発達を大いに助け、成長にとって欠かせないものである。

 ところが、乳幼児期に、親が母乳の代わりに、ミルクに砂糖を入れて飲ませたり、人工的に甘く味つけされたジュースやアイスクリームのような、口当たりのいい物をやたらに与えていると、五官がマヒし、最も大事な鼻がきかなくなってしまう。

 新生児は唾液がありあまっているから、ヨダレを流しっぱなしにしているが、すでに述べた通り、唾液の中には食物を消化するための酵素のほかに、パロチンというホルモンが含まれ、これがカルシウムを骨に定着させる作用があることが、科学的なデータからも証明されている。

 親の好みでやたらに甘い物、偏った人工物を与えれば、砂糖が発育に必要なカルシウムを奪う上に、人間の精神の安定や肉体の健康にきわめて大切な働きをする唾液の分泌力を弱め、機能を低下させる。結果的に、ホルモンバランスが変化を起こして、骨や歯がもろく、細胞組織や身体機能の弱い人間をつくってしまう。

 もともと、生まれてきた人間は本能の中に、真なる味覚というもの、真なる味というものを味わう力をいただいている、持っている、持たされているのに、それを妨げるものは、親なのである。世の中の親というものが、子供の感覚をマヒさせてしまうのである。

 人間が生まれてから死ぬまでに、この肉体に感覚というものを持っている、与えられている大変な力であり、財産であり、価値であり、値打ちなのである。

 感覚は、子供の時、一番純粋で純真である。この時、すでに親によって妨害されてしまう。自然に生かされ、生き、成長してゆく人間が、親の都合のいいようにされて、自然の感覚が成長、発達してゆく時期に、親の意識で子供をいろいろ変な者に育ててしまう。

 自然の作用で一方的に生かされ、育てられている時期には、親の満足のために人工物を与えることは控えて、完全に歯が生えそろって、肉体がしっかりでき上がるのを待たねばならない。

●子供と甘い食べ物

 子供の未完成な体は、だんだん臓器がしっかりしてくると、働きが強くなってくるため、外部からの栄養、特に固形物が必要になってくる。この時も、多く食べるという習慣をつけてはいけないので、年齢に応じて与えるべきである。

 親というものは、子供に物を食べさせて喜んでいるが、味の強い物は子供の感覚に残り、意識できるのである。従って、三歳から五歳までは、あまり甘い物を食べさせてはいけない。すでにおわかりのように、甘さによって、唾液そのものの価値がなくなってしまうし、唾液の粘液が薄くなってしまうからである。

 甘い物に慣れた子供にしてしまうと、その子供の中に作られてくる唾液は、口から入ってくる物を、十分に消化することができなくなる。

 そのようなわけで、体の中の機能にしても複雑であるが、物を外から入れて変化させる力が、子供の時すでに弱くなってしまったら、理性とか情操とかいう精神作用にも影響がおよぶのである。六歳以上になってくると、体の中に抵抗力ができるのであるが、親があまりにも物を与えすぎるため、子供の体の中の器官と機能で構成する働きが失われてしまうことが多い。

 一つの働きが失われると、結局、さまざまなところに障害が起こるようになる。例えば、脳の働きが散漫になるというか、弱ってくるというか、そういうことになれば、耐えるとか、我慢するとかいうことができなくなってくるし、集中力もなくなってくる。

 子供は、実際に敏感であると同時に、集中ができるものなのである。それが甘い物を食べさせすぎたため、集中力を失ってしまうことになる。

 甘い物を食べすぎたり、または濃厚な物を食べすぎたため、唾液が力を失ってしまって、ついには気息えんえんたるものになる。

 体の中に必要な糖分は、甘い物によらないでも体の中で作られる。胃の中に入った物から、ひとりでに糖分ができる。甘い物を食べすぎると、歯も悪くなっているから、十分に噛むことができない。余計な分量を入れて、胃に負担をかけてはいけない。胃では、胃液で一切が行われているのである。いつでもいたわっておかなければならない。唾液の補給はもうできないのである。唾液をいくら飲み込んでみたところで、その力には限りがある。

 こういう砂糖抜き育児の問題は、真理生活研究所で、すでに三十数年前から口をすっぱくして警告してきたところである。

 何にも知らない純真な子供に、母乳の甘味の何十倍もあるようなチョコレートや、アイスクリームなどのお菓子を食べさせることは、とんでもない誤りである。子供のおなかの中には、アイスクリームのような冷たい物もなし、チョコレートのような甘い物もない。 そんな不自然な有害物を与えたら、小さな生命体はたちまちマヒしてしまい、虫歯持ち、肥満児、虚弱児になってしまう。

 乳幼児時代から歯が悪くなるのは当然のことで、三歳児でさえ八十七パーセントが虫歯持ちだとか、小学校時代に虫歯の子供が九十パーセントとも、九十五パーセント以上ともいわれるほどいるということは、何という人の世の不覚であろう。

 そうして虫歯として現れた時は、すでに歯だけではなく、全身の骨も肉も細胞も、砂糖の害によって大きくむしばまれていることを、よく知るべきである。

●よく噛み、よく運動する子に

 白砂糖に代表される砂糖の害は、砂糖物を食べたらすぐ、うがいをしたり、歯を磨くことぐらいでは到底すまぬものである。

 甘くても酸性食品であるから、体液を酸性にするといわれているし、唾液の根を枯らし、味覚の微妙さを殺し、胃腸から全身の細胞までを弱体化させてしまう。また、人間性も甘く、我がままなものとなってしまう。

 子供の弱体化を防ぐ第一の方法は、よく噛んで食べさせること。よく噛むということは、唾液をそれだけ豊富に分泌するということであるが、それは消化を助けるばかりでなく、肉体維持に大いに役立つ。食べすぎも防げるし、歯も丈夫になる。

 第二には、子供を自然に育て、肉体を鍛えることである。

 昭和五十九年の「日本学校保健会」の調査によれば、骨折しやすい子供の原因は、加工食品などによるリンの過剰摂取や、カルシウム不足と同時に、実は、過保護に育てるために、幼児の頃から体の発達に応じて運動をさせ、機敏な身のこなしを体得させないことにあることがわかったという。

 「あれも危ない、これも危ない」と親が躾けるために、子供は体を投げ出して身を処する訓練を欠いている。木登りをして落ち、けがをして子供は鍛えられ、社会を知る。小さいけがは、大きいけがの予防だという。危険に直面して、子供は自然に乗り切るすべを肉体に躾けてゆくものである。

 まず現代っ子は肉体を鍛えよ。親は子供を自然に育てること。自然が子供を育てるのである。

 こういう大切な運動の不足や、高カロリー食品の取りすぎなどが原因で、都会っ子の世界では、半数が成人病予備軍だともいう。十歳か十五歳くらいで、すでに体が老化して、糖尿病や腎臓病に患わされている例も珍しくない。

 このままでは子供の大半が、四十代前半までに成人病にかかってしまう、と医師は警告している。

 また、朝の体温が三十六度以下という児童が四割、立ちくらみや、めまいなど、朝に弱い自覚症状を訴える児童が過半数。不規則な生活などから、自律神経失調症に陥っている児童が急増している、という発表もある。

 子供ばかりか、青年も虚弱化している。今の相撲取りの体格と、十年前の幕の内力士を比べてみると、だいたい身長が十センチ、体重が十キロ、今のほうが多いという。ところが、今の力士は誰も、どこか痛めたとかいって、サポーターなど白い物を巻いている。昔はなかったことである。これは腰骨が弱いからだという。

 そこで、第三には、子供にカルシウムをもっと与えること。肉やマグロの刺身などばかり食べていては、体だけ大きくなっても、丈夫な骨を作ることはできない。煮干しや目刺し、イワシのような骨物を頭から食べさせなくてはいけないのである。

●老人の食の原理というもの

 老人の食事法に話を移すと、年を取ったら飽食してはいけない。六十歳をすぎたら腹八分か七分で、大食を慎み、濃厚食も避けるほうがよい。

 老人の大食や濃厚食は、体を疲れさす。夕食は軽く、よく噛むこと。老後の肥満症は危険だから、米の分量も減らさないと、胃に負担がかかることにもなる。

 新鮮な野菜や果物は、動物と植物の依存関係からみても、消化によい面からみても、多く取るのがよい。生野菜、昆布、納豆など、よい食品が山ほどある。

 年を取ると、食べる分量はおのずと決まるものである。若い人でも飽食すれば短命、無福の人となり、バカの大食いの例もある通り、腹八分は若者にもいえることである。人生の後半からは特に小食のほうがよい。自然に肉体の諸器官がそうなってくるから、食べる分量はさほど必要がなくなってくるのである。

 従って、体の状態においても気が軽いし、心や精神面も気楽で、気持ち、気分がよいのである。こうした習慣をつけると、体も、意識も自然そうなるのである。そうして、どんなことでも日課のようにして続けると、かえって若い時のように気が散らず、楽しみとなり、深い味も出てくるものである。

 この点、百歳まで生き抜いた老人たちについての調査を見ると、早寝早起き、腹八分というのが多数を占めている。

 腹いっぱい食べる人は、消化器官が完全に働けないから、栄養吸収も悪いが、消化も悪い。

 人間は消化器官を、食べ物を消化するだけだと思っているが、人間を本当の最高生物たらんとするためには、物事のすべてを肉体の諸器官と諸機能で消化、吸収しなければならない。

 門戸の唾液も、中心の生命核から発する精液も、肉体内のすべてのホルモン作用は分業的で差別的ながら、総合されて、全体の生命作用に統合、奉仕しているのである。一つ狂っても全体が苦しむ総合生命体の妙。

 その人間のホルモンというものは、年を取れば、だいたいにおいて変わるものである。一番変わるのは、唾液ホルモンである。

 これは、実際にあるべきものがだんだん薄らいでいく、消滅しつつある。また、体力がなくなってくる。体力のなくなってきた体に気力を出そうとしても、無理である。気迫を出そうとしても、出ない。

 そうした面は、神経でつかさどってもらわなければならぬ。代わる働きをしてくれるのは、神経作用以外にはない。

 唾液が薄くなるけれども、胃液はそれほど薄くならないもの。しかし、胃の機能は衰えさせてしまうとどうにもならない。

 胃の中には、七分目ぐらいの物を入れておきさえすれば、胃液は絶えず分泌し、胃の先の腸とか、その周辺にある肝臓とか、すべての臓器は間違いなく働いてくれて、消化してくれるのである。

 唾液が薄くなり、少なくなるから、老人は物を食べる時、噛むことがいっそう大切になる。常識の倍も三倍もよく噛んで食べること。

 それだけ時間がかかっても、唾液が十分に出れば、生気は失われずにすむ。人は唾液ホルモンという若返りの妙薬、長命の秘密を知らない。子供時代は唾液が多い。唾液と若返りの関係を見逃してはいけない。

●年寄りに勧めたい多種少量主義

 続いて、高齢者が食事について注意してもらいたいことは、老人になると歯が不自由になったり、胃腸が弱くなったりしてカロリーの摂取が減りがちで、それにつれて蛋白質の摂取も減ることが多いので、蛋白質が欠乏しがちだということである。

 普通、蛋白の必要量は一日当たり体重毎キロ一グラムとされ、この量は老人にも当てはまると考えられているから、この程度の蛋白摂取は考慮する必要がある。

 ただし、老人が体重毎キロ一・五グラムといった大量の蛋白質を取ると、血中の残余窒素が上昇するといわれているので、特に多く摂取することは、むしろ有害とされている。脂肪については、大量の脂肪、ことに低カロリー食での大量の脂肪摂取は避けること。

 大切なことは、老人はカロリーの必要量が低いことが知られているが、これは活動組織の減少によることで、相対的に蛋白質を増加させ、この欠乏をきたさないようにすることである。

 そのためには、動物性の肉とか濃厚な物は避けるのがよいから、魚や植物性の蛋白質を多く摂取するようにしたらいいと思う。

 また、カロリーの摂取が少なくなると、正しい比率でビタミン各成分の摂取ができなくなりがちなので、十分なビタミンを補うことも必要で、老人のビタミン必要量は若年者と変わりないといわれている。水分も適当にとって、便秘を防ぐとともに、ビタミンを十分にとるように留意することが大切である。

 すでに述べた通り、老人での過栄養は好ましくなく避けるべきだが、老人の中には食事への興味が薄くなり、とかく栄養が偏って低栄養、栄養不足と思われる人が、案外多いことに注目する必要もある。

 これに対処するには、ご飯やめん類で満腹になりやすいから、おかずから食べたり、料理の品数を多くするようにアドバイスしたい。

 例えば、私の毎日の食卓には、常に二十種近い品が並べられるのである。量は少量ずつで、重ね鉢五個に十七、八種くらいを入れる。鉢の中身は、魚介類、納豆、昆布、佃煮、漬物、干物類、それに生の野菜などである。従って、価格にすれば割安の物ばかりであるが、長生きするには魚の多い日本食が最高という、最近明らかになった原理にはかなっている。

 これらをよく噛んで、唾液を十分に混ぜることが、私の健康の秘訣である。

 その上、多種類の食べ物を少しずつ食べて、その物独特の味をみることは、楽しいこと限りなし。食べ物は、少ない種類を大量に食べるよりも、たくさんの種類の物を少しずつ味わって食べる多種少量主義のほうが、栄養的にも好ましいし、かつ物事の味をみるという人間形成の上からも望ましいことである。

 そうして吸収された食べ物の価値、効果は多様、多種であり、それがすべて肉体の力となり、精神の糧となるのである。

 五味をバランスよく食べることも、内臓を鍛えるためにも大切だ。酢の物は肝臓、苦い物は心臓、甘い物はすい臓、辛い物は肺臓、塩辛い物は腎臓を強くする。食べすぎると逆に害になるので、量を考えることが肝心である。

 年寄りは物質的なことでも、精神的なことでも、何によらずすべてほどほどにやれ、過ぎたるは及ばざるにしかずである。

∥食生活の工夫2∥ 

●眠れぬ人の各種の工夫

 近頃は不眠症で悩んでいる人も多いから、眠るための工夫として、飲み物、食べ物についても紹介していく。

 世上、寝つきをよくするために、最もよく用いられるのはいわゆる寝酒である。老人の就眠法の大部分はこれで、簡単で便利だが、全く問題がないとはいえない。幸いにして五体が比較的満足で、血圧も上が百四十内外で、下が九十よりさほど高くない程度なら、一応、許容範囲といえるが、百六十~百以上とあっては、結構だとはいえない。胃潰瘍(かいよう)、その他内臓疾患のある人はなおいけない。

 それに、寝酒といっても酒の種類も考慮を要する。なぜかというと、アルコールによって得られる眠りは、生理的な自然睡眠とはいえないからである。

 もちろん、私たちが必要とする眠りは、赤ん坊の眠りと同じく自然睡眠であるが、寄る年波とともに、程度の差こそあれ、中枢神経系統は十分な、ナイーブなというか、オーソドックスな眠りを与えることが困難になってくる。

 そこで、何らかの方法で、睡眠を勝ち取る必要が生じてくるわけだが、自然睡眠をとることは、なかなか難しい。

 アルコールのもたらしてくれるのは麻酔である。寝なければならないためとはいいながら、毎晩の麻酔は考えもの。万一やむを得ないとしても、最小限に食い止めるべきである。

 また、自然睡眠を麻酔とともにもたらす道があれば、人工睡眠としては理想的に近いものといえるかもしれない。

 ある東洋医学者によれば、ホップとアルコールの混合物が眠りを誘う目的に用いられるとすれば、単なるアルコールのみの使用に比して優れていることは、理の当然として考えられるという。

 そこで、両者の共存するビールは、単なる睡眠誘発のためなら、比較的無害なものといえるかもしれない。ただし、ビールのホップ含有量は一パーセントにすぎない。酒を全く飲まない私には、当否は弁じがたいが、その方面に詳しい知人の説によると、寝心地と朝の目覚めはビールが最良だというが、そうかもしれない。

 知人は小瓶一本をもって適量とするといっている。これは我が意を得ている。摂取する水の量が多きに失すれば、心臓に対しても、腎臓に対しても負担となる。

 就寝前は大量の水をとることは避けるべきで、この意味で知人の就寝前ビールの処方は、結構なものだろう。

 食事に関していえば、寝れないと嘆く人は、時間帯と量に問題はないだろうか。就寝前に食べたり、食べすぎたりするのは、眠りの妨げになる。眠くなる前に物をたくさん食べると、眠くなる作用はもう奪われてしまう。それだけ胃に負担がかかって、胃の働きが強くなればなるほど、他から出る機能は淡いものになるのである。

 食事時間を早くするか、夕食を軽めにして、朝食の量を増やす配慮をするべきである。また、カルシウム不足は神経がいらつきやすくなるので、小魚類を食べるようにする。

●牛乳、ホウレンソウ、そば粉

 あまり空腹でも眠れないので、その時は温かい牛乳を飲むといい。食べ物については、残念ながら即効薬的な物はないといわれるが、それでも、牛乳、チーズなどの乳製品は、睡眠を誘う数少ない食べ物の一つといえるだろう。

 牛乳、チーズには、神経の興奮を静めるカルシウムもあり、消化、吸収が高いという長所がある。その上、牛乳、チーズ中に含まれるトリプトファンというアミノ酸の一種が、脳睡眠中枢を刺激して自然に眠りを誘うという働きもある。

 ノンレム睡眠は、セロトニンという物質と深いかかわりがあるとされている。不眠や睡眠障害を起こす時は、決まって脳内にセロトニンが減少しているからである。このセロトニンは、トリプトファンから作られるので、牛乳やチーズを勧めるのである。

 逆に、就寝前に濃いコーヒーや紅茶を飲むのは禁物。コーヒーや紅茶に含まれるカフェインが交感神経を刺激し、眠気を抑える働きがある。

 もう一つ、寝つきと寝覚めをよくする食事法を紹介しよう。愛媛大学の生化学教授の研究成果によると、ホウレンソウやトマトは低血圧によく、グリーンアスパラやシバエビは高血圧にいいという。

 百種類の食物成分をモルモットの血管に注入して、収縮率や拡張率を調べた結果、最も収縮したのがホウレンソウで三分の一程度になり、トマト、ショウガ、トウガラシなども収縮率が高かった。一方、拡張率は、グリーンアスパラが最も高く十パーセント広がり、シバエビ、ホタテ貝、ハマグリの順で、アジやカボチャなどにも、血管を広げる作用があった。

 寝覚めの悪い若い女性に多い低血圧は、ホウレンソウやトマトなどを食べればよくなり、逆に寝つきの悪い高血圧は、グリーンアスパラや貝類、魚類を食べれば治りやすい。また、肩凝り、冷え性、腰痛などの症状も、毛細血管を拡張させることで抑えることができるという。

 次は、肥満で悩む人への忠告。心臓に負担がかかるなど周知の弊害のほか、肥満のために、脂肪が肝臓に蓄積する脂肪肝によって、せっかく献血された貴重な血液が、輸血に使えないケースが増えている。美食や運動不足、酒の飲みすぎなどによる脂肪肝の人は、未知の肝炎に感染している可能性があり、体重が重いほど異常者が多く、輸血には使えないようだ。

 そこで、自身がやせたいと思うならば、生きるための濃厚食品や大食をやめて、生かされるための植物性低カロリー食品を時間をかけて、よく噛んで食べること。運動は、仕事に興味を持って働き続けること。働きという自然運動は、心身を調節するにはよい薬になる。

 胃弱や便秘で悩む人には、そば粉を勧めてみたい。そば粉を水に溶いて食べても、何の味もないが、食べていればけっこう合うものである。結局、唾液や胃液を分泌させやすい。

 合うということは、人間から見れば、味がないから「こんなまずい物」というけれども、体の中の胃液には、何にもない物が合うわけだ。

 そばという物は、元来、荒れ地を開墾してすぐまくくらいの物であるから、大地の力を吸収するとか、天地のエネルギーを吸収するという力が非常に強い植物だけに、できた実によって作られる粉は、肉体に対していうにいわれぬ力を持っているし、唾液、胃液の分泌に対しては特別な働きをするのであろう。

 便秘も治るし、胃も丈夫にするということで、内臓器官のある部分においては、そばは非常にきく物である。

 胸がつかえた時に、そば粉をかいて食べれば治る。それほど消化率というか、合うことにおいては、あれほど味のない物が、一番大きく役をするわけである。

 行者がそばがきだけ食べて行をしながら、厳冬を過ごすといっているが、そういう一見不思議のような事実が、そばには潜んでいる。

●噛む食事法が解決する食糧問題

 人間の食生活について、さまざまな角度から私なりに論じてきたが、本章の最後に、日本の食糧の安全確保と世界の食糧問題も論じておきたい。

 述べてきた腹八分を、よく噛むという食事法は、実は、人間一人ひとりが、ただよく噛むということを実行すれば、世界の食糧問題は一挙に解決するほどのものである。

 それは、従来の二倍も三倍もよく噛む食生活は、感覚や感情的の好みの食事から、体そのものが要求する、正常食とその量となって、きわめて合理的な食生活法となるからこそである。

 現在一般の単なる嗜好(しこう)的の食生活から、実質的な食生活へ、イライラの飲み込む食事から、落ち着いた咀嚼による食生活になることで、日常の食事の量は必要なカロリーを失うことなく、従来の三分の二、ないしは今までの半量で足りることになる。もちろん、食費も三分の二か五割で足りるだろう。

 このことは、現下の世界的な食糧問題を考える上からも、見逃すことのできない大問題といってよいと思う。現在各地に飢餓状態の国もあり、多くの餓死者のある時、恵まれた先進国の人類がただ嗜好による飽食、過食、食荒らしの食生活をしていることは、国家的に、また国際的道義から考えても、大いに反省されなければならない問題であろう。

 飲みすぎ、食いすぎ、遊びすぎ、これを人権か特権のように思う常識を是正せねばならぬ。宇宙間の万物中、ぜいたくをしているのは人間だけである。恵まれた金持ち国の幸せ者は、もっと質素に、まじめに生活して、世界の弱者や不幸な人にささぐべきである。

 飽食、美食に浮かれている日本自体にしても、昭和五十八年頃で、食糧の自給率三十パーセントという数字は、あまりにも不安である。

 食糧の安全確保が大事なことはいうまでもない。日本ではほとんどの食糧を外国から入れている。せっかく海というものがあるのだから、国民の蛋白源である水産資源の開発に力を入れるなど、食糧の自給率をもっと向上させる必要がある。

 あまっているのは、米、牛乳、豚肉、鶏の卵ぐらいで、あまって生産制限をやってきた米も、今年は例の冷夏の影響で記録的不作であったから、緊急輸入する事態となったが、いずれにしろあまっているのである。

 明らかに足りない物は何かというと、数年前の統計で小麦は約十パーセント程度しか需給率がない。大豆は九十五パーセント輸入に頼っている。とうもろこし、こうりゃんといた飼料も、九十パーセント以上は輸入に頼っているのである。つまり、卵は百パーセント近い自給率といっているが、その九十何パーセントの飼料は外国産。ざっと三千万トンの飼料が入ってこないと、日本の畜産は成立しないという。

 日本人の食卓に上る物は、顔は国産、中身は外国産。昭和六十年で、カズノコ百、ハマグリ九十五、ゴマ百、マツタケ七十五、エビ七十二パーセントと聞くと、味覚ニッポンもほとんどが輸入材料なのである。

●世界的な食糧危機を考える

 輸入に頼っていようと、繁栄した平和日本では飽食を享受している。しかし、今も地球上のどこかで、国と国、民族と民族とが武力抗争を展開し、人間同士が殺りくを繰り返している。また、五十数億の人類のうち、二十億人は必要栄養を満たしておらず、そのうち数百万人は餓死寸前にあったり、栄養失調で生死の間をさまよっている。これが一つの現実なのである。現在の地球は、一方に飽食ありて、一方に餓死ありなのである。

 かつて米国政府が発表した報告書「二十一世紀の地球」は、恐るべき未来予測である。人口は六十三億、さらに二〇三〇年には百億人に達し、人口爆発の状態になる。食糧の大半は富める国に流れ、南アジア、中東、アフリカなどの弱貧国の食糧事情は極度に悪化する。国家間の貧富の差は、とみに拡大するという。

 六十億、百億の人間が生きてゆくためには、他のあらゆる動物、植物が犠牲になる。

 人口の増加の九割が貧しい発展途上国だという。食糧問題、自然破壊を思えば、何としても人口抑制策を徹底して考えねばならない時にきている。だが、国連がその場かどうかは知らぬが、抑制の具体的な対策をさっぱり耳にしない。

 平成三年度で世界人口の二十三パーセントを占める中国は、「一人っ子政策」を掲げて、人口抑制に必死に取り組んで十数年になるが、莫大な罰金を払ってでも、労働力としての男の子が欲しい農村の実情から、努力しても実効が上がらぬ。野放しのインド、今後も毎年のように何千万人もの餓死者が出ると騒がれているアフリカ。百年後の人類が、本当に生きていれるだろうか。

 アフリカの飢餓については、「自然による人口淘汰(とうた)だ」とさえいう学者がある。人口増加と飢餓とのぎりぎりの接点が、いつの日にか訪れるにちがいない。

 人間が自ら、この地球の危機を救うための人口対策をしない限り、自然による淘汰は必至である。世界人口予測も、現在の環境を前提にしたものだけに、予想される世界的食糧危機、環境破壊が襲ってくれば、そうした数字は全くはずれるにちがいない。

 アフリカに見る異常事態が、実は常態として長く続くとすれば、現在のような食糧援助が果たして続けられるだろうか。

 昭和六十年、アメリカ環境問題諮問委員会の報告には、「二〇二〇年までには、発展途上国における物理的に接近可能な森林は、事実上すべて伐採されている」という恐るべき予想がある。

 人類の人口の急激な増加が、一つには耕作地を求めて、一つには建材や燃料を求めて森林を無残に伐採してゆく。今や世界の森は、毎分二十から四十ヘクタールの猛スピードで消滅している。二十世紀末までに、地球上の耕作適地の三分の一が砂漠化すると、国連環境計画では警告しているが、それは地球が肥沃な表土を失い、死にかかっているということでもある。

 世界の食糧のカギを握っているアメリカの農業でさえ、土地は疲れ、二、三十年もすれば全土の砂漠化が進み、土は死滅するとも警告されている。化学肥料が土中の微生物を殺し、水かけ農法が土中の塩分を地表に昇らせて、土地を砂漠化する。そのために、農業も次々と新しい土地を求めて移動するのである。食糧も飼料もアメリカに依存する日本農業は、それなりに長期的展望に立った自立化を、ぜひとも確立しておかなければならない。

 焼き畑農業に依存する世界の人口は三億人。すでに、二億ヘクタールに近い熱帯林が消滅した。これは炭酸ガスの増加を意味し、その濃度が非常に増え続けることは、地球の気象にも大きく影響する。

 気候の変化による砂漠化、人口増加に対応するために、森林をどんどん伐採していくことによる人為的砂漠化、両方相まって、土地の砂漠化は地球的規模で進行してゆく。

 地表に植物があれば、そこに水分がたまって、蒸発して雲になって雨になる。植物がなければ、雨も降らなくなり砂漠化が進む。この悪循環を何としても、どこかで断たなければならないわけである。

 さもなくば、人類は森林を倒し、緑を追い、野生動物を駆逐して、やがて人類自らを滅亡させてしまう危機を迎える日が間近に見えるではないか。

 世界的に見れば、もはや将来の食糧不足は歴然。次の十年間に、人口抑制、環境問題、そして、私の説くよく噛む食事法による食べる量の減量化に、どう取り組むかが二十一世紀の人類の運命を決めることになろうというわけだ。

🟩歩いて鍛える

∥歩いて鍛える∥

●自然の中を歩いて汗をかくのも大切
 現代の社会においては、特に都会で暮らす人たちにとって、自然に触れる機会が、真に少ない。暇を作っては仕事を忘れ、都塵(とじん)を避けて野や山へゆき、あるいは海や川へゆき、自然との交流をはかりながら、自然の中に融け込んでもらいたいもの。
 山紫水明、四季分明の自然に恵まれた日本であるから、都会にもゆく所はたくさんあるはずだ。
 加えて、自然に触れ、自然に返り、自然の中を歩き回って、汗をかくという効用も見直してもらいたいもの。
 近頃の人間は、クーラーなど冷房設備の普及によって、汗をかかなくてすむようになった。なるほどクーラーは快適で、真夏の候でも暑さ知らずで過ごす人もあることだろうが、それによる弊害のあることも知っておきたい。
 人間、尿が出なければ大騒ぎする。汗をかかないことも、人間の生理にとっては一大事なのである。自然の中を歩いて汗を流し、体を練り、鍛えるということは、人間にとって大切なことなのだ。
 とりわけカドミウム、ダイオキシン、PCB、水銀、ヒ素、農薬、添加物などによる食品汚染や環境汚染が問題とされている昨今、これらの有害物質を全く取り入れないということは不可能に近い。しかしながら、幸いなことに、私たち人間の体というものは、自動的に有害物質を体外に排泄(はいせつ)する機能を完備している。それが、皮膚に備わった汗腺(かんせん)。
 休日には、大自然の中を歩いて汗を出すことである。ふだんの日には、働いて汗を出すことである。真夏には、冷房にあまり頼らず自然に汗を出すことである。
 この汗が、有害物質を道連れにしてくれる。何とありがたい、肉体の仕組みではないだろうか。汗をかくことによって、体温の調節ばかりか排泄の機能も果たされる。
 今日、冷房病などという結構な病に悩まされる人がいたり、太りすぎの肥満症にかかっている人が多くいたりするのは、まさに文明病であり、運動不足といえる。
 ハイキングや山登りに遠出したり、朝夕、大きく手を振って汗をかくくらいに、せっせと歩かなければならない。
 冷房病、肥満症の人ばかりでなく、誰もが健康法の一つとして、足腰の筋肉を中心に、労をいとわず自らの体を使うということを、決して忘れてはならぬ。人間の体というものは、使わなければそれだけ衰えていく。あまり大切にしすぎても、かえって体のためにならない。
 古代ギリシアの医者で、「医学の祖」、あるいは「医術の父」と称せられるヒポクラテスが、「人間の体は、使うことで開発され、使わないことで弱くなる」といっている通りなのだ。
●足は脳を養い、脳は手を養う
 この点、一般の社会人が健康状態を維持するには、一日に三十分以上歩く必要があるという、いろいろな機関の医学的研究が発表されている。
 一日の歩数の多い人ほど、心電図異常の発現が少ないとか、動脈硬化を助長する高脂血状態が改善されるという発表も見られる。速足歩きなどを行うと、血液中の余分な脂質が燃焼し、善玉コレステロールも増えるから動脈硬化が防止され、その結果、脳へよい血液が多量に循環されることになるわけだ。
 そこで、誰もが健康を保つために、ハイキングや山登りに出掛けて、自然の景観を楽しみながら歩いてもらいたいのであるし、日常生活においても速足歩きを実行することをお勧めしたい。
 私たち人間は普通、一分間に七十~八十歩の速度で歩いているが、速足歩きとは百歩前後にスピードを上げること。時間は、一日に二十分から三十分程度で結構。
 この人間の体を支える足を使って歩くことによって、当然、足の衰えを防ぐことになる上、血液の循環がよくなり、血圧も調整されるばかりか、脳の働きも活性化する。
 歩く時には、足の筋肉の中にある感覚器の筋紡錘(きんぼうすい)から、しきりに信号が出て、私たちの大脳へ伝えられる。大脳のほうは、感覚器から網様体経由でくる信号が多いほどよく働き、意識は高まって、頭ははっきり、すっきりするようにできている。
 人間の若さは大脳に集約されて現れ、「足が衰えると長生きできない」などと、よくいわれるのも、足の筋肉から大脳へゆく信号が減り、弱くなるためである。
 歩くのに使われる筋肉、すなわち歩行筋と呼ばれているものだけで、我々の全身の筋肉の半分以上を占めている。歩くという単純な運動を続けるだけで、大脳ばかりか、体の多くの筋肉を鍛えることができるのである。
 言い換えれば、「足の筋肉が大脳を養っており、筋肉の衰えが大脳の衰えに直接つながる」ということ。
 人間の二本の足は、それが今どうなっているかという信号や情報を多量に、かつ盛んに大脳に送り続けている。つまり、足は末端から大脳へという求心性の制御機能を多く持っているのである。対して、手は大脳から末端へ指令が出る遠心性の制御機能を多く持っている。
 そのために、「脳は手を養い、足は脳を養っている」といわれたりするのだ。
 足や胴体に多い求心性に優れた筋肉には、遅筋線維が多く、物を投げたり、つかんだり、けったりする時に主に使われる遠心性に優れた筋肉には、速筋線維が多くある。速筋線維、すなわち相性筋線維は、年齢とともに委縮して大きな力は出せなくなるが、遅筋線維、すなわち緊張筋線維のほうは、速足歩き程度の運動をしていれば委縮することはない。
 そして、この遅筋線維を衰えさせないことが、脳のために重要なのである。というのも、遅筋線維は、立ち上がることや歩くことが減ると、筋線維の数を減らしてしまうからである。すると、脳の働きを活発にさせる働きが弱くなってしまう。
 このような足と脳の関係があるので、「足が衰えると長生きができなくなる」といわ.れるのである。
 不断の歩行により、大地に足を印することは、脳に微妙な刺激を与え、脳の疲労を除き、脳を健全にすることにも役立つことを忘れないでほしい。
 頭をはっきりさせるばかりか、歩くことの刺激によって、人体の横隔膜の下にある肝臓、胃、腸、脾(ひ)臓、すい臓、腎臓、膀胱(ぼうこう)、それに女性ならば子宮などの臓器において、停滞している機能が適度にほどけて、働きが活発になる。
 同時に、横隔膜の上位にある心臓も肺も、機能的に血液の循環をよくし、血液への酸素供給が盛んになるため、当然、意識はすっきり、気分はさわやかになってくるのである。血液の流れが速くなるので、管にたまった汚れを掃除する。血管が膨張して、若返る。しかも、刺激が強すぎることもない。
●歩きで精神的ストレスも軽減できる
 歩くことは、基本的に無害なトレーニングであり、運動なのである。この点、運動生理学者も、トレーニングによって体を練り上げ、鍛え上げられるだけでなく、精神的なストレスも軽減できると保証している。
 私たち人間の肉体はよくできたもので、外界から刺激や緊張などのストレスがかかると、これをはね返そうと働き、体を鍛える。トレーニングの原点は、ここにある。
 加えるに、運動によって、脳の中に天然の鎮痛剤であるエンドルフィンという物質が分泌される。モルヒネの数百倍とされる効き目があり、不安の痛みを鈍らせ、ストレスの影響を緩和するといわれている。
 しかしながら、ジョギングなどの強い運動をすると、攻撃性の強い酸素分子で、万病の元になる活性酸素が体内に発生するために、健康に有害な面もあるといわれる。歩くといった緩やかな運動の場合は、脳内ホルモンが出て活性酸素の害を中和してくれる。その意味でも、歩く運動は適している。
 走るより軽い歩行でもストレスを軽減できるし、さらに、歩くことによって下半身の筋肉の運動がなされて、腸の蠕動(ぜんどう)運動も順調になる。便秘というものは、腸の蠕動運動が鈍るために起きる現象なのである。
 このように、歩くという単純な運動でも、脳をも含めての内臓諸器官を調整し、強化することになるわけだ。このことは、とりもなおさず、一切の病苦に対する最良の防衛力を強化する手段となる。
 中高年時代に運動を続けていた人は、脳卒中で倒れた場合でも、その機能回復がスポーツゼロ族に比べ、はるかに早いことも実証されている。
 歩きが減量とか、体重維持に効果があることも、以前から実証されているところだ。
 すなわち、歩くことは、脂肪を燃やすための非常に優れた運動なのである。成人病の大きな原因が肥満、つまり体に脂肪をためすぎてしまう点にあることは、一般によく知られていることだろう。成人病世代である中高年には、過激な運動は向かない。脂肪を燃やすための、できるだけ緩やかな運動が適しているのである。その運動の筆頭が歩くことなのだ。
 やはり、私たちの体は頭と同様、上手に使うことが、その健康維持に大切。頭でも足でも使わないと、だんだん委縮する。機械化、自動化、省力化が進むにつれて、人間の体力は当然落ちていく。とりわけ下半身に力のない人は、概して感情や圧力を起こしやすく、ヒステリー的である。
 なるべく下半身を鍛えるためにも、二本足で歩くという人間の自然な、根源的な行為を大切に心掛けたいもの。私たち人間は足で立っている動物だから、体が大切ならば足の運動は欠かさずやるべきなのである。
 毎日の通勤、通学の際には一駅前で下車して歩く、買い物の時にはいつもより遠くの店へゆくなど、意識的に工夫をしたり、特別な運動プログラムを組んで、あなたも一日三十分以上、ないし一日一万歩を目指して努力してはいかがだろうか。
 一番よい歩き方は、ブラブラ歩きではなく、姿勢をよくして大きく手を振って、サッサと大股(おおまた)に歩くことである。できるなら、舗装した歩道でなく、地面から大地の磁気を受け得るような、土のにおいのする道を歩くこと。
 要するに、私たち人間の正しい生き方とは、肉体的に練り上げ、鍛え上げること。それが精神につながる道であり、精神の安定を得る道。誰もが、ハイキングや山登りを目的にした遠出や、日常の速足歩きなどで、無理をしない程度に運動することを、ぜひ心掛けていただきたいものである。

🟩心身を癒す

∥ストレスは心身への刺激∥ 

●精神と肉体が一体であることの認識

 本来、私たち人間が心身ともに健康的な日常生活を続けていくには、「気」がみなぎり、緑があふれる大自然の中で、穏やかに過ごすことが最善である。心が穏やかであれば、肉体も穏やかである。当然、気持ちは安らぎ、楽しい。ほほ笑みも浮かぶ。

 ところが、現代人は不幸なことに、あまりにも自然と無縁な生活を強いられている。科学万能で、目まぐるしく変転する高度文明社会のゆがみが、人間に不安や不自然さを感じさせ、人類史上かつてないような、過酷なストレス社会に生きているといえよう。

 私たちは、「気」が満ちる宇宙天地大自然という環境が生命の拠り所であることを、決して忘れてはならない。人間の目には見えず、人間の手に触れることもできないが、宇宙天地大自然に満ちあふれ、自らの肉体にも備わっている生体エネルギーたる「気」。この「気」エネルギーの吸収と発動が滞りなく行われれば、自らの心身の健康を維持して、病気を予防することができる。

 自らの心身を病んでしまった場合でも、肉体に備わる自然治癒力を発揮して、病んだ「気」を癒し、立ち直ることができる。現代人特有のストレスの多くは、大自然に触れ、大自然に返ることで解消できるものだ。自然に恵まれた中で、心穏やかに過ごすことができれば、ストレスに悩まされることはない。

 実際には、そういう生活を実践できる人は、真に少ない。ほとんどの人々は、ストレスのたまる人間社会の、人間的で、人工的で、人為的な環境の中で、生きていかなければならない。

 まずは一人ひとりが、このようなストレス社会の中で生きているということを自覚することが大切。加えて、自分自身の健康状態を知り、ストレスの実体を知り、ストレスとうまく付き合うことが、現代社会を快適に、楽に生きるための重要なポイントとなるのである。

 そもそも、私たち人間が生活している限り、ストレスというものが付いて回るのは、必然のこと。精神と肉体を両立させて素直に生きる人間が真に少なく、自我意識から抜け切れない人間ばかりで構成された社会では、戦争やテロの恐怖におびえたり、倒産やリストラの嵐に耐えたり、侵入盗に備えて防犯対策を整えたりしなくてはならない。こういう社会の中で暮らす以上は、誰もがストレスから逃げることはできないのである。

 ストレスを簡単にいえば、生体が外部から刺激を受けて反応する緊張とゆがみである。日常の仕事はもちろん、スポーツをしたり、人前で歌ったり、話したりする場合にも、人間はストレスを感じる。それ自体は、病気でも何でもない。むしろ適度な緊張を伴い、結果的に爽快(そうかい)感や充実感につながるものもある。

 さらに言い換えれば、ストレスは精神や肉体への刺激であり、生きている証拠である。また、ストレスは個人により、感じ方が異なるものである。同じ状況であっても、ある人は非常に負担で苦痛に感じ、別の人は全く苦痛に感じないということがある。個人個人によって、考え方や性格、経験、価値観などに違いがあるためである。

 現代人は各自、自分に適したストレス解消法を見付け、実践しているようだが、特に必要なのは、ストレスに負けぬ、しなやかな精神と肉体を備えることと、人間の精神と肉体は一体であるという確固とした認識を持つことである。

 元来、私たち人間の精神と肉体は、一体のものである。私たちは、精神と肉体がともに健康でなければならないし、そうなるように努力すべきであるということを強調しておく。

 精神が病んでいれば、必ず肉体に影響を及ぼす。その逆であっても同じことである。胃腸や肝臓が病むと、その人の性格も変わってしまうことが多い。苦しいから、痛いからということだけが原因ではなくて、体液を始めとするさまざまな体のバランスの変化が、人格を変えてしまうのである。

 感情の起伏で血管が収縮したり、膨張したりすることは、誰もが経験したことがあると思う。急変した精神状態が、器官に影響を与え、それに応じてホルモン分泌量が変化するからである。悲しみ、怒り、恐れ、嫉妬(しっと)などが頻繁に続くと、バランスが崩れ、病気になる危険性が増す。

●人間の心身の健康にかかわる「気」 

 多くの人は、「病気は憑(つ)き物だ」とか、「病気になることは災難、不幸だ」などと考えているようだ。まるで病気は外部からくるものだと思っているようであるが、それは大いなる錯覚である。

 実は、病気は人間自身が作り出す間違いであって、決して外来するものではない。本当に肉体が健康、健全に保持されているならば、病原菌などに侵されるものではない。同じく、精神が強固で、しなやかであれば、世の中の誘惑に巻き込まれ、その揚げ句の果てにストレスに悩むということもない。

 ここで、人間の精神と肉体は一体であることを改めて認識し、次に、精神と肉体をつないでいるのが「気」であり、人間の心身の健康ばかりでなく、すべての営みにかかわっているのが「気」であることを知ってほしい。

 病気とは、読んで字のごとく「気」が病んでいることにほかならない。「気」が弱っていれば、肉体も弱っていることになる。悲しみや怒りが肉体の内にたまると「気」を弱め、やがて精神や肉体に悪影響を及ぼすのである。

 昔は「四百四病」と言い習わしたものだが、今は二十四万余の種類があるという人間の病気、そのほとんどは生命の根源である「気」が不順、不調だったり、宇宙天地大自然の「気」を受けることを知らないために、精神や肉体までてきめんにむしばまれ、衰弱してしまう結果、起こっているのである。

 私たち人間というものは、地球を取り囲む大気圏内、さらには大宇宙空間を満たす「気」によって生かされて、生きているのであり、人間の体の中の諸器官は、すべて「気」によって働かされて、働いている。この「気」から作られる自然のエネルギーは、肉体を驚くほど充実させるものである。

 宇宙天地大自然の「気」は、肉体が正常な機能の営みを続けるために欠かせないものなのに、その「気」を養うことを知らず、気力の乏しい人には、生命の根源である元気が湧いてこない。とどのつまり、精神や肉体までむしばまれることにもなる。

 病気とは、文字通り「気」を病むことである。

“病は「気」から”が科学であることは、現代医学の脳神経学やホルモン生理学の理論によっても、立証されているところ。自らの肉体を信じ、肉体を主として生きれば、肉体がおのずから精神を調節し、「気」を統御するから、自然に病気にかからなくなるし、自然治癒力も高められる。

 本来、病気か否かを決定するのは肉体であるというのに、人間は自己意識や心で勝手気ままな想像をして、まさに“病は「気」から”という教訓的な短句のとおり、自分で病気を作り出してしまう。

 例えば、昔からよく経験するところでは、心労が重なると大病を招きやすいこと、受験生が風邪を引きやすいこと、憎しみなどが心筋梗塞(こうそく)に陥りやすくすること、抑うつ状態はガンの進行を速めること、孤独な人間は早く死ぬことなどがある。

 このような明らかに社会的環境や、人間関係の影響を受けた病気がなぜ発生するかという原因を探ると、現代人というものが宇宙天地大自然の力によって生かされていることを忘れ、自己意識を振りかざして「生きよう、生きよう」とする傾向が強いために、自然作用によって吸収される「気」が十分ではない、という結論に行き着く。

∥自然治癒力を活用する∥ 

●疲れた時は休養で生命の「気」を養う

 特に、自己意識が過剰な人、自我意識が強い人、社会性意識がたくましい人は、注意すべきである。彼らには、真の健康や真の安らぎを味わうことができない。

 自己意識や自我意識、感情などという人間の心が、心理から生理現象へと及んで、神経症やノイローゼというような病気を引き起こす、という事実を知らなければならない。病気、あるいは健康というものに対する心理的な影響は大きく、人間の心の作り出す間違いから肉体が影響を受けて、神経が過敏になったり、細胞自体が疲労こんぱいして、肉体の秩序性が狂ってくるために機能が弱まって、二十四万種以上もの諸病を引き起こすのである。

 現代社会に、心の病気が肉体に及ぶ心身症が激増したり、ストレスで倒れる人、自殺まではかる人が増えているのは、すべて自己意識や自我意識、感情などという心がありすぎるからである。

 こうした心の煩いや、「気」の疲れに、無理は禁物。疲れたら休むというエネルギーの転換法を実行することが、ぜひとも必要だ。

 “病は「気」”からと私が繰り返すのは、病気になるのも、治すのにも、生命の元なる「気」がいかに大切か、ということを指し示したいからである。

 疲れたら休んで生命の元であり、生命の根源たる「気」を養い、体の中の圧力を除くことが最善。たとえ肉体の圧力が微弱なものであろうと、度重なって加えられることによって内にこもると、機能障害や病気の原因になる。

 圧力は、なるべく小さいうちに取り除かなければならない。吐息をつくとか、あくびをするとか、放屁(ほうひ)をするとか、背筋を伸ばすとかすればいい。これらはすべて、肉体が自然に行う圧力の解消作用なのである。

 私たち人間の肉体にはおのずから、宇宙天地大自然に従ったリズムや、原則があり、「今、こうしないといけない」という規則があるから、それを活用して自分で病気を防ぐのである。

 わけても、疲労を回復する何よりの秘訣は、「疲れたら休む」、「早く寝る」ということに尽きるであろう。

 誰もが疲れたら休めば、働きと疲れが楽しく、休養の味も楽しく感じられるようになる。そうして早く寝床に入って、翌日の仕事や学業に精を出したら、楽しく楽に能力が発揮され、能率もぐんと上がる。日進月歩、人間はかくして伸びる。

 働く時には十分に働き、休む時には十分に休む。こちらも、宇宙天地大自然から「気」という他力を得るために必要な、そして重要な条件である。

 逆に、働きすぎて、ろくに休まない、眠らないというような状態においては、肉体の自然機能は働かず、自然作用は起こってこない。従って、他力もまた起こらない。「ゆっくりと休む、静かに休む」、「早く寝る、十分に寝て体力を練る」ということができない人間の性格は、己自身に対して日々、大変な無理、非道を積み重ねているのである。貴重な時間の無駄のみならず、大切な生命の消費でもある。

●病気の時は肉体の自然治癒力を高める 

 無理と非道の集積で病気にかかってしまった時は、医者も薬も大切には違いないが、この宇宙天地大自然界には医者を超えた医者、薬を超えた薬のあることに、ぜひとも気付いてもらいたい。

 すなわち自然治癒力。自然治癒力とは、人間を創造した根源の力であり、自然現象、自然機能、自然作用というものである。十全、完璧に治す力は、まさにこの力しかないのである。

 「病気を治す」のが医者の使命ではあるが、人間の生命の法則、患者の生きる法則に従って、「適切な手当てをする」、「最善の治療を施す」というのが、彼らの職分である。

 なぜなら、私たち人間の肉体には生まれながらにして、病気を治す力、病んだ体を治癒する力が、自然に備わっているからである。医者や医薬は、病人の治癒反応に触媒作用を及ぼし、治癒を妨げているものを取り除くことはできるが、最初から持っていないものを与えることはできない。肉体が備え、潜在させている霊妙不可思議な自然治癒の反応力、再生・復元力、適応力といったものを、何人も決して無視してはいけない。

 では、病人が自らの体に自然の力、自然現象、自然機能、自然作用を充実し、高めていくには、どうしたらよいのだろうか。 

 第一には、頭であれこれ取り越し苦労をしないこと。「私は本当に治るのだろうか。もう手遅れなのではないか」などと、よくない考えを捨てるように努めることだ。「私を癒す偉大な力は、私自身の体の中にある」と、達観していればよいだろう。体を投げ出して、「自然に任せ切る」という心境になれれば、泰然自若としていられるものだ。

 第二に大切なのは、呼吸を整えること。自然治癒力という自然現象を引き出す方法には、食事療法、物理療法、運動療法などがあるが、最も重要なのは、実はこの呼吸法である。

 簡単にいうと、深く、大きく、静かに息を吐き出す。出し切ったところで、吸うことを考えないでも、無限小の「気」を含む大気は自然現象、自然作用として、外から入ってくる。

 この呼吸を静かに行う。一分間に吐いて吸う呼吸が、五回程度がよいと思う。この場合、吐く時間が十秒ほど、吸い込むのが二、三秒で、一分間に五回程度の呼吸になる。

 生かす力も、治す力も、目には見えないが命の絆(きずな)である呼吸から、人体に運ばれる。最初は自分のペースの呼吸で、体質を考慮して苦しくないように加減しながら、次第に調子を整えて、常時、実行してほしい。

 病む人は何よりも、生かす力とともに生きる力を呼吸で充実することに専念し、回復の土台となすこと。そして、つまらぬことを気にしないで、ひたすら養生するのが、病む人の道ということになろう。

 それで元気になれるのは、この肉体に、あるいは肉体の中の諸器官に、すべて一つひとつ、別々な自然機能があるからこそである。

 自然機能は、私たちが生かされている宇宙天地大自然から与えられているものであるので、自然作用によって生きさえすれば、この機能が立派に働いて、はじめから病気をすることなどもないはずである。つまらないことに悩んだり、捕らわれたり、迷ったり、苦しんだりすることもないはずである。

 人間の肉体にある微妙な感覚というものが、この肉体に本当に働いているならば、いちいち神経を使わなくても、肉体の生命機能、すなわち生かされているという自然作用だけで、立派に生き抜くことができる。

 私たちは、自らの肉体の自然機能や自然作用が百薬に勝る働きをしている事実に、着眼すべきである。この人間の身体組織が持つ天性の復元力、つまり病気やけがを自然機能の働きで治してしまう不思議な能力について、もっと認識を深める必要がある。

 現代の医学で原因のわからぬ病気については、やはり宇宙天地大自然の力を借りて、治す以外にはない。人間の肉体は小宇宙、小天地であるといわれるように、身体組織は常に安定と平衡を指向しているもので、それこそ肉体に具現した宇宙天地大自然の摂理なのである。

∥宇宙に生かされ生きる∥ 

●生きがいがはつらつとした気力を生む

 日常生活において、人間生命の根源である「気」、宇宙天地大自然の他力である「気」で、精神と肉体を養いつつ、私たちが楽しく、健康的に生きるためには、仕事でも趣味でも勉強でも何でもいいから、積極的に生きがいを持つことも必要となる。

 積極的に生きがいを持ち、積極的な物の考え方をすると、人間は必ずよい結果が得られる。それは、自然作用によって「気」が十分に吸収され、気力が充実するからである。気力の充実は、生き生きとした精神と肉体があってこそ可能になる。積極的な考え方をすることで、心身に張りが生まれ、はつらつとして事に臨む気力が生まれるのである。

 「気」は、人間の生命力の源であり、精神と肉体のバロメーターでもある。人間の能力をフルに生かすためには、この気力を充実させなくてはならない。「運を含めて、人間のあらゆる可能性を開くのは「気」の強い、弱いにかかわる」といっても、決して過言ではない。

 精神と肉体のバランスが悪ければ、「気」は働かないし、「気」が入らない。人が飛躍する時、「気」が働かなければ、物事は成就しないのである。自信を持てず、半信半疑で行ったことが成功しないのは、「気」が入らないからである。

 自分で気力を出し、気合を入れるには、意識的にキビキビと動作を速くするよう試みてほしい。体にすぐに興奮が起こり、精神も興奮してくる。体のエネルギーが心のエネルギーに変換し、気力と気合が出るというものである。

 反対に、生きがいという生活目標を見失って気力がなくなれば、精神的に不安定になって、うつ病にかかりやすく、高齢者などは急速に老化する。精神が緩んでは、若い人でも多病必至。精神にたるみがあり、心に妄想や思い惑う憂いがある場合、肉体は自然に酸性に傾いて、発病寸前の状態になり、自ら寿命を縮めることにもつながる。

 一方、人間の生きがいの中でも、真の生きがいにつながる楽しさというものは、宇宙天地大自然の真善美楽・健幸愛和の原則に従い、人間自らの生命のうちにあるものだから、この真の楽しさを持っていれば、毎日の生活は特に意識的な努力をしなくても、自然の力でひとりでに推進される。これが、人間の生命を保持するための大きなエネルギーとなっている。

 言い換えれば、人間世界の楽しさにもいろいろあるが、宇宙天地大自然による楽しさが何より最高のものなのだ、ということである。

 宇宙から誰しもが、一人につき一つずつ生命をいただいている。「この素晴らしい生命をいただいた」という喜びを感じると、すべてが楽しくなり、それだけで幸福感が湧いてくる。

 最高の楽しさは、宇宙天地大自然の原則に従った生活の中から生まれるものである。楽しさ、あるいは楽しみによって推進される生活、宇宙の原則通りに生かされる日常生活は、その気になりさえすれば誰にでもできる。

 だが、楽しさというものは、一種の感覚である。感覚であるため、力としてはもともと強いほうではないが、人間には思い、考える前に、楽しさを感ずるごとく、肉体が感覚するという能力がある。

 楽しさということも感覚である以上、それについて思ったり考えたりしても、実際はどうにもならない。楽というものは、思ったり考えたりすることによって生まれるものではないのである。つまり、肉体が感覚した通りに素直に受け入れ、その同じ肉体がまた忠実に、それに応(こた)えたものということである。

●宇宙天地大自然の中に存在する楽しさ 

 その本当の楽しさを体で感じるためには、人間、己がただの一度、たった一回限りの人生において、くしくもこの宇宙天地大自然間に生まれ出たという事実を忘れて、いい加減に毎日を過ごしてはならない。

 一日一日、厚みのあるよき体験、経験を積み上げてゆく人の人生には、どれほど大きな楽しみや価値が与えられていくことであろうか。人生は時の計画である。時の上にしっかりと人生を積み上げ、自己を積み上げてゆくことである。

 では、人間は何を基準に、自らの人生の生き方を考えればよいのか。普遍的な基準、時間や空間を超えて一貫する基準は、宇宙の原則、自然の法則にのっとって、一日一日を生きること。それ以外にはない。

 宇宙天地大自然の原則、法則のままに生きれば、そこに人間の生き方を解決する道がある。すなわち、宇宙の真理にかなった生活をすれば、私たち人間はおのずから、人間としての理想像に達することもできる。

 真理はこの宇宙にあり、天地にあり、大自然の中にある。人間はこの宇宙天地大自然に創られ、天地の間に生かされて生きているのであるから、大自然の心を己の本当の心として生きるならば、人は本来の面目たる自己を完成することも可能なのである。

 人間にとって、真理に生きる以上の生き方はない。これ以上の生き方がほかにあるだろうか。この世には真理以上のものはないのである。スタートから百何十億年の歴史を刻む宇宙を貫く法則が、真理である。すべての現象は、この真理から生まれている。この世に真理のあるのは、ありがたい。

 宇宙天地大自然は、真理に動き、刻々に流転しながらも、少しの狂いもない。朝がくると、太陽が輝く。夜がくると、月が出る。春になれば、桜が咲く。冬になれば、雪が舞う。

 人間は、この真理の、ただ中から生誕し、真理そのものとして刻々を呼吸して、真理に生かされている。ありがたい極みである。

 物を物たらしめ、現象を現象たらしめている理(ことわり)、これが真理である。人間はまさに、この真理の結晶体である。

 宇宙の真理こそ、人類普遍の原理である。宇宙の真理は、宇宙精神であり宇宙エネルギーそのものである。また、真理は真、善、美、楽を内容とし、これに従えば、人間は理想的に生きることができる。人間の理想社会が実現する。

 まず、宇宙天地大自然の真理の内容をなす真善美楽のうち、真は絶対である。この宇宙に充満し、森羅万象、万有を統一、運行している真秩序である。それは、恒久、無限の過去から未来に渡って、いささかも狂わない。万物はさまざまに生かされ、依存し合い、生きている。その存在は、絶えず変化をするが、それでいて一定、不変である。一定、不変であって、毎日変化してとどまることがない。そこに、間違いがないのである。

 よって、宇宙の秩序、宇宙の真理に背くものは、一切のものと共存共栄することができない。宇宙には侵すことのできない、おきてが存在する。それが真なのである。

 私たち人間が住む地球は、らせん状に回る。同じ平面を同じように回っているようだが、この平等の中に差別を作る。巧妙至極である。これを賛美することは、楽しく、しかも利益に通ずる。利益のあるところに原理があり、原理のあるところに必ず利益がある。理と利、利と理は常に一対一で、誤らない。その存在性の中に、みな働きをもって価値を生じている。

 これが善である。しかし、善悪の善という相対的観念ではない。悪のない善一色の全である。それは全き姿であり、個々のものも個別的に全き姿である。

 全という素晴らしい仕組み、恵み、喜び、楽しさ、幸せという情操的なものを感ずるのが、善である。これが高等生物になって、情愛、愛情を感ずるようになれば、善は愛という受け取り方、感じ方に変わる。そして、愛は美しさ、楽しさに変化する。

 宇宙天地大自然に存在するものは、何を見ても美しく、その音は何を聞いても楽しい。美しいことは楽しいことに、美は楽に通ずる。

 結局、真なり、善なり、美しさなり、楽しさなりという真善美楽こそが、宇宙天来の仕組みなのであり、宇宙天地大自然の原則に従った生活の中からは、おのずから真の生きがいや楽しさを体覚できるわけである。

∥内発的な能力を利用する∥ 

●人間の笑いから湧き出るエネルギー

 私がいくら、「宇宙天地大自然の原則に従って、疲れたら休み、早く寝る生活によって、宇宙に生かされ生きる楽しさを体覚できれば、毎日が実に楽しいものである」と述べても、「それは特殊な、解脱したような境地にすぎない。自分にとって、人生は苦だ。生きがいも見付からない」という方には、試しに「アッハッハ」と笑ってみることをぜひお勧めしたい。

 宇宙天地大自然の創造の神は、美しいもの、優しいもの、本当のものを見れば、楽しくてならないように人間を創った。楽しくなかろうと、誰もが「アッハッハ」と笑ってみれば、腹の底から息が全部、吐き出せる。何となくすっきりとし、気分爽快で愉快になるはず。

 笑えば胸の内圧が下がり、肩も垂れ、上半身がリラックスすると同時に、七福神の布袋(ほてい)和尚のように下腹が突き出て、ヘソが天井を向き、腰がぐっと締まるという効果が、おのずから発揮されるのである。

 反対に、泣けば肩に力が入り、腹や腰は虚脱する。試しに、すすり泣きをまねてみれば、息を吸い込むばかりで、果ては胸苦しくなり、妙に寂しく、悲しくなるはず。

 なるほど、笑いは「百楽の王」。仏教でも「和顔施(わがんせ)」といって、何もなくとも笑顔が人に功徳を与えると説いている。笑いは人生の妙薬である。

 人間の感情には喜び、怒り、悲しみ、楽しみ、驚き、さらに憎悪や恍惚(こうこつ)などいくつかの種類があるが、このうち最も望ましいものは、当然ながら喜びと楽しみであり、そのポジティブな感情の主な表現が、この百楽の王で、人生の妙薬たる笑いの表情なのだ。

 私が奨励するまでもないかもしれない。私たち人間は人生の中で笑いを求め、他人にも笑顔を向け、他人と笑いを共有しようとしているはずだ。感情を表すあらゆる表情の中で、笑いや、ほほ笑みは最も頻度の高いものといえよう。

 人間誰もが、安心感を得て、喜と楽の感情の中で生きられる時、幸せを感じる。そういう時には、自然と笑いがこぼれ出るもの。

 しかし、普通の人の現実の生活の中では、なかなかそうもいかず、面白くないことや、悲しいこと、もめ事が尽きず、どちらかといえば、ネガティブな感情に捕らわれることが多いのが、現実かもしれない。

 ポジティブな感情のほうは、えてして長続きせず、ネガティブな感情に支配される時間のほうが、長いことだろう。

 だからこそ、人間が心身ともに健康に生きていくためには、消極的な状態に落ち込んだ時に、いかにして積極的な感情を注ぐことができるかが、真に重要となる。幸い、笑いがその役目を果たしてくれる。

 一般に、「泣きたい時、しんどい時にこそ、笑いを忘れてはいけない」といわれるのは、なぜか。笑ってしまえば、へばりついていた何か重たいものが落ちてしまって、本来の自己が現れ、エネルギーも湧いて出てくるからこそであろう。

 笑いというのは、人間が平衡状態を崩した時に、それを元に戻そうとするエネルギーなわけだ。

●本来的に備わった能力を活用しよう

 私たち人間というのは本来、自己の肉体内部に、心身のバランスをとって生きていこうとする力を宇宙天地大自然から与えられており、外界の毒素に対しても一定の抵抗力を内発させる免疫機能を与えられている。

 この内発的な抵抗力によって、言い換えれば内発的な自然治癒力を持つことによって、外界に適応できているわけである。

 その内発的な治癒力が崩れた時、私たちは病気になる。薬を必要とし、医者の世話になる。従来の西洋医学の研究は、病気になった人を治癒するために、いろいろな新薬を開発し、さまざまな治癒技術を開発してきた。東洋医学と異なり、人間が内発的な治癒力として蓄えている自然の能力を活用することに、熱心であったとはいえない。

 笑いも、人間に本来的に備わった内発的な能力、内発的なエネルギーなのである。誰もが、素晴らしい能力の活用をもっと積極的に、考えなければいけない。

 「笑ったら必ず救われる。病気も治る」というのは、無理な注文である。ここで私がいいたいのは、笑いがポジティブな感情を喚起する、という利点を持つことである。

 なぜ笑いがポジティブな感情を引き出してくれるのかについては、先にもいったように、笑うという行為は息を吐く行為であるから、心身の緊張を解いてくれることは、誰もが経験的にわかっていることだろう。

 人間が心身のバランスをとって健康、健全に生きていくための、自然の仕掛けとして湧出(ゆうしゅつ)してくるエネルギー、それが笑いではないかと思われるのである。

 だから、人間は笑いのエネルギーを活用し、肉体生理を活性化することによって、体で精神に方向がつけられる。体位から心のゆがみを是正できる。

 人間誰もが常に、楽に、楽しく生きよう。

 泣くも人生、笑って暮らすも人生。悲観するも人生、楽観して暮らすも人生。悄然(しょうぜん)とするも人生、泰然として暮らすも人生。

 くよくよしないで、何かあったら笑い飛ばして「カンラカラカラ」で過ごすがいい。

 この笑いに関連した生理的反応としては、自律神経系のうち副交感神経に由来するものが優位となることが多い。例えば、笑いの後では心拍と血圧は減少するか、他の情動と比べると低い状態になり、唾液や涙の分泌が生じやすくなる。

 また、この笑いというものは、ポジティブな感情を引き出すものであるから、人間のやる気を奮い立たせるきっかけとなり、刺激ともなる。

 まず、笑うことで不要な重苦しい緊張も解かれ、気分は明るい方向に進んでいく。この明るい気持ちが、「仕事も勉強をやりたくない」というマイナスの気持ちを抑え、「何とかやってみよう」という、やる気を呼ぶのである。

 わけても、瞬間的に大声を出して笑うならば、自分をやる気にさせるのに一層、効果的だ。

 この意味で、会社や家庭や学校の周囲を見回してみれば、大声で快活に笑う人物には仕事や勉強などの能率もよい人が多い、ということに気付くであろう。

 私たち人間とは不思議なもので、笑う習慣が身に着くと、自分が楽しい気分になれ、笑いたくなるような現象に敏感になってくるもの。進んで笑うことで、やる気を出して仕事や勉強に取り組めるのである。

 誰もが笑い上戸を見習って、憂うつな気分、落ち込んだ気分で物事に身が入らない時には、居直ってでもいいから、腹の底から「アッハッハ」、「ワッハッハ」と大笑いしてみたらよいだろう。

 楽ちん人生、気楽人生の妙は、心を天に預けて、笑って暮らすことと覚えたりだ。

 笑って太れ。笑っていれば、ひとりでに幸せが転げ込んでくる。笑いのあるところは、雰囲気も明るい。人の常として、笑いがあるところには、楽しいことがあるのではないかと気が引かれる。その人物に関心が向き、人も寄ってくることになる。笑いの誘引作用といえよう。

∥自分の表情を変えてみる∥ 

●ほほ笑みという微笑がもたらすゆとり

 もう一つ、楽に、楽しく、気楽に毎日を生きるために私が特に勧めたいのは、笑いというほどの大笑いではなく、ほほ笑みという、いわゆる微笑である。人間にとっては、ほほ笑み人生が最善。大笑いや高笑いまでいくと、楽しさがこぼれてしまうのが気掛かりとなるからだ。

 もともと、人間の赤ん坊が生まれて、最初から持っている表情は泣きの表情であり、その次に現れる表情はうれしそうな笑い、ないしは、ほほ笑みである。

 意味をなす言葉を発することのできない人間の子供や、そもそも言葉を持たない動物の子供が、母親に自分の状態を伝えることは重要である。自分の状態の最も大まかな分類は快、不快であり、子供は母親に快につながる行動を多くしてもらい、不快につながる行動を減らしてもらわなくてはならない。

 このような目的のために、快い場合はほほ笑みを、不快の場合は泣く行動をとるように、人間の赤ん坊が進化しているのは当然といえる。

 人間が喜んだ時に出る笑いは、このような原初的なほほ笑み行動に由来しているものだと考えられる。この赤ん坊の快信号の表情は、子供時代の遊びの笑いや、大人になった時の融和の笑いに、簡単に転化できる性質の表情である。

 そして、この人間のほほ笑みとは、楽しい体の感覚や、五官のほころびから作られる、天来自然のものである。そのほほ笑みの中には、すべての苦労も争いもみな融け込んで浄化されるから、人は一生涯、くつろぎと安らぎの生活態度で過ごせる。

 なぜなら、怒ったり、泣いたりするネガティブな感情生活には危険が多いが、ほほ笑みで暮らす人というのは、体に落ち着きがあるだけに、一切を眼耳鼻舌身の五官意識で選択し、善処してくれるから、真に安全なのである。

 体に落ち着きがあり、心にゆとりがあれば、喜怒哀楽を上手に表現し、セーブすることができる。感情というものは、人間の体や性格に微妙に影響を与えるものだ。プラスの感情とマイナスの感情をコントロールすることが、幸せにつながる。

 ほほ笑ましい、楽しい、喜ばしい、気分がいい、やる気が出るというプラスの状態は、感情の問題であると同時に、ホルモン分泌もかかわっている。

 大脳基底核、大脳新皮質の前頭葉、側頭葉、大脳辺縁系に分布するドーパミンが、前向きな快感をもたらす。ドーパミンが分泌することで、意欲的な精神状態を作り、プラスの方向に作用する。

 人間は通常、ホルモンをコントロールすることはできないが、精神の力で感情をコントロールすることは可能である。ドーパミンがプラスのホルモンであれば、当然マイナスのホルモンも存在する。恐怖のホルモンといわれるアドレナリン、怒りのホルモンといわれるノルアドレナリンである。逃避や不満の感情が高まった時は、必ずこれらのホルモンが分泌されている。

 怒りをほほ笑みに変え、マイナスのホルモンを分泌させないことも、幸せな人生を過ごすための秘訣の一つである。宇宙天地大自然の真理に生かされて、生きていることを喜び、楽しく感じ、そう努めることが、人生をより充実させるのである。

●リラックスから充実する「気」の生命力

 問題は、日常生活でいかに落ち着き、リラックスして、ほほ笑みで暮らせるかにある。リラックスの上手な人は、神経を無理に使わなくても臨機応変に、事に当たって的確に対応ができ、処置がとれるものである。

 現代人は意識過剰で、常に神経を緊張させ、酷使して生活している。ほほ笑み、くつろぎ、リラックス、あるいは気楽などというものを忘れているようであるが、この何でもないようなことが、人生にとって、真に大きな意味を持っている。

 人間はとかく頭ばかりで物事を考えすぎて、どちらかというと寝ても覚めても、あくせくしているのが現状である。このあくせくは神経の緊張となり、エネルギーの消耗となり、生命力を減退させ、その結果は寿命を縮める。

 反対に、くつろぎの姿からは余計な緊張が消え、緩和されて、エネルギーが回復するばかりではなく、刻々、全身に見えない世界からの、「気」という生命力が充実されるのである。

 気楽というのも、読んで字のごとく「気」が楽なこと、「気」を楽しむことで、楽しんでやることには緊張も生じないから、何でも身に着く。端から見ていても、ゆったりしていて、わざとらしさがない。やるふりや見せ掛け、ごますりなどの恥ずかしいことはしない。

 気楽、気まま、くつろぎによる緊張緩和は、そのまま家庭も、職場も、学校も、世の中も、世界の全体までも、人間関係を和やかな、安らいだものにする。すると、人間の表情も和らいで、安らぎ、明るく、ほほ笑みも表れるのであって、この微笑はそのまま、全身の細胞の一つひとつにも表れるのである。

 このように、くつろぎという、ただこの一事が、内は全身の細胞から外は全世界までも、和やかなくつろぎに導く。さらに、全身の緊張が解けてくると、肉体全体の働きは活発になり、神経も精神も正常に働くから、考えや判断も明確になってくる。

 くつろぎこそ、ほほ笑みこそは、自然であり、自然こそは真理である。

 かの道元禅師も、曹洞宗の根本聖典である「正法眼蔵」の中で「和顔愛語」を説き、穏やかな表情と温かみのある言葉の大切さを強調している。

 道元禅師のいう和顔愛語こそ、現代の混濁した人間関係と、すさんだ心を矯正する上に、最も望まれることであろう。現代人には品位を備えた言葉とともに、和顔という、ほほ笑みも必要なのである。

 言い換えれば、人間というものは、その心が顔の表情に出てくるものであるから、顔を軽んじてはいけないということになる。

 いつも苦り切った顔付きをしている人などは、できれば自分の表情を変えるために、和やかなほほ笑みや、明るい笑顔を習慣的に訓練してみるとよいだろう。これは整形手術などをするのではなく、ただ鏡を見て毎日練習するだけでよいし、ほほ笑む練習をやるだけでよい。

 従って、経費も税金もかからないし、おまけに心身の健康状態がよくなり、家庭内がパッと明るくなり、夫婦や子供の生活まで一変するはずである。

 私たち人間の中に、本来的に備わった自然力としての笑いの能力も、開発されないことには顕在化することがないと銘記して、ぜひ試してもらいたいものだ。

∥息を吐いて落ち着く∥ 

●圧力を体外に吐き出す呼吸

 「人間は笑う動物である」というのは、紛れもない事実である。だが、「人間は笑うことのできる唯一の生物だ」というわけでもない、と説く学者もいる。

 実際、知能に優れたチンパンジーやゴリラを観察すると、遊び顔をして仲間同士遊ぶし、くすぐられたりすると口を開け、「アハハ」と声を立てて笑うという。

 喜怒哀楽の四大感性の中で、最も表出しやすいのは怒りの感情のようだ。これは多くの動物が表現できるが、笑いに近い表情をとれる動物は、社会性に富んだものたちだ。笑いが表出できるのは、精神活動の発達の証拠でもある。

 すなわち、笑いの感情を示すことができるのは、高等動物の証明ということであり、その笑いの感情を人間は持っているのであるから、実に素晴らしいことである。

 怒りの感情は人間にもあるが、広く動物にも見られるわけであるから、怒ったからといって自慢できるものではない。笑いは人間が自慢できる、優れて人間的な能力といわなければなるまい。

 動物も当然、さまざまな感情を全身で表現するといっても、この人間の笑顔や、ちょっとしたほほ笑みとともに交わす一言には、はるかに及ばない。

 また、言葉による挨拶(あいさつ)はもちろん大切だが、たとえ言葉は通じなくても、心のこもったほほ笑みによって、人間同士の温かい気持ちや感謝を伝え、心を通わせることができる。笑顔は人間関係の潤滑油だ、と考えられる。

 動物はいうまでもなく、植物にも人間の心が通じ、言葉もある程度は通ずるのも事実。ただ植物には、動物に見られる表情というものがないから、通じたかどうかがこちら側によくわからない、という不便さが残る。

 しかし、人間はありがたいことに、豊かな言語と表情を持っている。これを使わず、まるで無表情に押し黙っていたり、「男は三年片頬(ほお)」といって、「男はめったなことで笑うな。三年に一回、片頬で笑うぐらいでよい」などと教えるのでは、いたずらに宝の持ち腐れを奨励しているようなものである。

 最近、海外でいわれているのは、「笑いは内側からのジョギングである」ということであり、笑いやユーモアのストレス対抗策としての効用が、特に注目されるようになったらしい。

 ユーモアのセンスを持つことは、職場で有効なリーダーシップを発揮するのにも役立つとされる。それは、職場でのストレスを減少させ、従業員に管理者の関心を理解させ、従業員のやる気を高めるという点で有益であるが、ユーモアは短く、会話的で、控えめで、謙虚なものがよい。不適切なユーモアは逆効果であるようだ。

 このようにユーモラスな状況を作る能力が求められていても、とりわけ日本人男性には、「おかしくもないのに笑えるか」というような厳格主義に取りつかれている人物が、今日でも少なくない。

 このような石部金吉は、企業や官庁、学校の管理職には結構おられようが、それでも不愉快な会議をしたり、部下や生徒に説教を垂れた後の眉間(みけん)にシワの寄った顔を鏡に映して、ニヤリと苦笑するくらいの余裕はほしいところだ。

 次に、ほほ笑みたくない時でも、「フーッ」と強く息を吐くだけで、ほほ笑んだり、笑った時と同じ調子が出ることも知っておいていいだろう。

 大事の時、「心を落ち着けろ」といっても、急に落ち着くものではないだろう。が、ただ「フーッ」と息を吐き、本来のリラックス状態を取り戻せばよい。

 このリラックスとは、生まれ変わることである。その時点まで身に着けていた心の垢(あか)を洗い流し、意識や感情のしこりやこだわりをほぐして、吐き出し、生まれ出た時のままの自然作用、自然感覚、自然機能をよみがえらせ、そこから再出発すること。これがリラックスの真意である。

 ジリジリ、イライラして頭に血が上った時にも、息を吐くこと。何回も何回も大きな息を吐いて、心を安らかに、平らかにすればよい。苦しい時や悲しい時にも、大きくため息をすれば、気持ちが楽になる。

 頭の圧力、胸の圧力、上半身の圧力がみな、呼吸とともに外に吐き出されてしまって、心が落ち着くからである。

 息を吐いて、吐いて、吐き抜けば、胸が真空になる。頭が軽くなる。心が落ち着く。心を落ち着かせようとするには、息を吐いて、吐いて、体内の圧力をなくせばよいのである。吐いたり、吸ったり自由に息ができないと、気詰まりがする。

 息を吐いて、常に楽に楽しく生きようではないか。

●笑いは人間にとって欠かせないもの

 ここまで、笑ったり、息を吐いたりすれば楽しくなれる肉体生理などを述べてきたが、人間の笑いについて考えた場合、人によって、よく笑う人、笑わない人という程度の差はあるにしろ、誰でもが笑う能力を持って生まれ出てくるのは、紛れもない事実。

 その素晴らしい天与の能力が、後において開発されて十分に顕在化するか、何らかの障害によって潜在化したままであるかの違いは付きまとうが、基本的には人間は誰でもが一人ひとり、笑いの能力を持っているということを確認しておきたい。

 遺伝子という言葉を使うならば、笑いの能力は人類のDNAの中に刷り込まれているとも考えられる。人類が長い歴史を通じて進化を遂げてきた中で、笑いの能力は生存していくのに必要だからこそ、今に残り続けてきたわけであろう。人間が生き物として生き続けていく限り、笑いの能力も生き続けることだろう。

 盲人の行動を研究したところでは、先天的な盲人にも、笑いやほほ笑みが普通の者と同じように観察されることが、見いだされている。先天的な盲人には、他者の表情を視覚的に模倣することはできないから、人間の笑いやほほ笑みが本能的な行動であることを示唆している。

 もし、人間が本能的な行動たる笑うことを忘れ、笑いの能力が開発されず、そのうちに退化するようなことが起こったとしたら、その時はもはや人間が人間でなくなる時を意味するのではないか。

 私たち人間が生きていくのに、なぜ笑いが必要なのか。

 一つには、個人が生きていくためには、心身ともに元気で過ごすこと、健康に毎日が暮らせるということが何よりも大事で、そのために笑いが欠かせないのである。

 私たちの祖先は、経験上の知恵から、笑いが健康によいということを知ってはいたが、医学的に立証することはできなかった。最近になって、精神的にも肉体的にも、笑うことが医学的な見地からして大切であるということが、証明されつつある。

 大いに笑うと、免疫担当細胞として働くNK細胞が増えるという知見も、その成果のうちの一つである。

 もう一つには、人間は共同生活を営んでこそ生きていけるわけで、その共同生活を営む上で、笑いが欠かせないということである。

 夫婦関係であれ、親子関係であれ、他人との接触や交渉に当たっても、互いの関係を親和的に取り結ぼうとすれば、笑いが必要となる。人間関係には、大なり小なり緊張が付きまとうのは宿命であり、そうした緊張を緩和させる仕掛けがないことには、共同生活を円滑に営むことはできない。

 人間の歴史を振り返れば、緊張を解くのに暴力が使われ、今もなお世界各地で、暴力が緊張解決の手段として使われている。暴力の延長上にあるのは、共同生活の破壊である。笑いには、緊張を解決できるだけの力はないとしても、緩和する働きはある。

 日常生活の中での個人と個人の話し合いでも、笑みを浮かべたり、相づちを打ったり、時には声を出して笑い合ったりして会話が進む。

 笑いの表情が全くない話し合いの場合、命令的か、けんかをしているか、いずれにしろ緊張をはらんだ関係ということになろう。協調としての笑いが交ざってこそ、円滑な人間関係が取り結ばれる。

 結局、人間にははじめから笑いの能力が与えられており、これなくしては、人間が人間として生きていくことはできないであろうと考えられるのである。笑いやほほ笑みなど、何でもないようなことが、私たちの人生にとって、まことに大きな意味を持っているわけだ。

🟩眠りの知恵

∥人生の三分の一を占める行為∥ 

●人間にとって睡眠とは何か

 なぜ、我々人間は毎日、毎晩、床の中で眠らなければならないか。取り立てて考えたことがあるだろうか。

 安眠できない不眠症者はともかく、一般の人間は日常生活において、特別に意識もせずに睡眠を迎え、睡眠に入ることができる。疲れたら眠って、疲労を回復する。つまり、人間にとって睡眠とは、日常生活を継続するためのごく当たり前の自然の行為ということなのである。

 それゆえか、昔から、覚醒(かくせい)時の人間の振る舞いや行動が礼儀作法とか、心得として関心を持たれていたのに対して、近代に至るまでは、人間の睡眠行為が研究の対象とされた様子がない。伝統的な日本のことわざや格言などを見ても、睡眠というものが空気や水のように身近な存在だったことがわかる。

 俗に「寝た間が極楽」という。夜、眠っている間は、誰でも無意識になれる。現実の心配事や苦労も、その時ばかりは忘れられ、極楽の境地を味わえるということである。

 顧みれば、封建時代、重い年貢に苦しめられ、朝から晩まで働きづめの毎日を送っていた農民は皆、このような心境にあったのだろう。武士のように刀は持てないけれど、商人のように晴れ着は着られないけれども、彼らと同様、農民も日が暮れれば睡眠だけはとれた。時間の長短はとにかく、睡眠はつかの間の幸せを運んでくれたのである。

 現代社会では、時によっては仕事で徹夜をする人もいるだろうし、広い世間には、夜と昼を取り違えたような暮らしをしている人もある。「町にネオンが輝き出すと急に元気が出てくるんだ」と、夜行性の動物みたいに、夜がくるのを待ち焦がれている人にも出会う。

 しかしながら、やはりこれは例外であって、本来、人間の眠りと目覚めは太陽のリズムに合わせて作られている。夜は眠り、昼は目覚めている。

 その肉体が宇宙天地大自然によって創られ、万有の法則に従って生かされている、いわば小宇宙である人間は、昼と夜という天の運行のリズムによって生命が支配されている存在であり、夜明けとともに起きて働き、日没とともに休み、夜の闇(やみ)に包まれて眠るということは、単なる生活上の習慣ではなく、宇宙の厳しいおきてであり摂理なのである。

 編集子にいわせれば、人間が十分眠れたということも、目の覚めたということも、みな自分の力ではない。我々を眠らせ、目覚めさせているのは大自然の力である。人の一生を支配するものは、昼夜にわたる天の運行リズムである。

 いかに文明が進もうとも、人間から睡眠を駆逐することはできないだろう。

 それどころか、一説には、すべての高等動物は、睡眠を奪われたら、ほぼ十日間で死ぬといわれている。

●人生の三分の一は眠り

 人間の天寿は百歳から百二十歳であるが、ある人の寿命を七十歳として考えても、一日ざっと八時間くらい眠る人間が多いことから、三分の一を床の中で過ごすとして、二十三年間は眠っている計算になる。十日間といえば、人間の一生の睡眠時間の中では、わずか〇・一パーセント程度にすぎない。

 いかに眠りが大切なものであるかがわかるだろう。

 生まれたばかりの赤ん坊のうちは、二十時間はたっぷり眠るものである。一日のうち、四時間しか目を覚ましていないわけだ。生後三週間になった赤ん坊は、一日二十四時間のうち、六十三パーセントの十五時間ぐらい眠るという。大人の睡眠時間は普通、八時間で、一日の割合はおよそ三十三パーセントだから、赤ん坊は倍も寝ていることになる。

 アメリカのクライトマンという学者の研究によると、新生児はいつでも眠り、いつでも気ままに目を覚ます。二十四時間を周期とする、覚醒と睡眠のサイクルが確立されるのは、生後六カ月ぐらいたってからだという。睡眠時間が七、八時間になるのは、十五、六歳頃からである。

 厳密にいうと、人生の三分の一以上は睡眠だから、もったいないからと省略するわけにもいかなければ、まとめてすます寝だめもできない。「デカンショ、デカンショで半年暮らす。後の半年や寝て暮らす」と歌にはあっても、実際に半年もの長い長い眠りがあったら大変。

 反対に全く眠らなかったら、これまた大変である。人間は発狂し、死んでしまう。

 断食ストはあるが、断眠ストにはお目にかかれないわけである。昔の中国には、断眠の刑という重い刑罰があったようだし、拷問に眠らせない方法があったのも、同じような理由からだろう。

 人間は、人生の三分の一を、眠りに当てなければならないようにできているのである。 大ざっぱにいって、目覚めが三分の二の十六時間、眠りが三分の一の八時間というリズムは、地球上どこへいっても変わりない。暗い夜が何カ月も続く冬の南極でも、やはり眠りと目覚めはこの割合で繰り返される。太陽が沈まない、つまり白夜のシーズンの北極圏でも同じである。

 我々人間は、これだけはどうすることもできないのである。

●生体のリズムを刻む体内時計

 人間は一日二十四時間の周期で、覚醒と睡眠を繰り返しているが、考えてみればこれも不思議な習性である。

 J・アショッフは、外の環境の変化による影響を遮断した地下壕に、四週間にわたって人を住まわせて、覚醒と睡眠のリズムに狂いが生じるかを実験した。もちろん、時計など時刻を知る手掛かりになるものは、携帯させていない。

 すると、真っ暗な部屋で生活した被験者が勘で決めた起床時間には、少しずつ遅れが生じ、約二週間で昼夜は逆転してしまった。

 この実験の結果、被験者は平均二十四・九時間で、一日のリズムを繰り返していたことがわかったのである。このズレは二週間も経過すると、昼夜が入れ替わるほどの長さになるが、時刻を知る手掛かりを全く失っているにしては、一日〇・九時間の誤差は驚くほど小さい。

 これが、人間が体内にあらかじめ、一日二十四時間を刻むリズムを備えていることの証明となった。

 このほか、人間の体温が二十四時間を周期として、規則正しく上昇と下降のカーブを描いていること、夜睡眠中は低く、午前四時頃が最低で、徐々に上昇していき、午後三、四時頃にピークとなって、また下がり始めることも実証されている。

 体温のほかにも、ホルモンの分泌量や血圧、脈拍や血液内の物質などにも、一日二十四時間のリズムがあることが認められている。

 人間と同様、動物も生まれつき、二十四時間のリズムを刻むというのもよく知られている。植物でもオジギソウは真っ暗な中に置いても、ほぼ二十四時間の周期で、葉を開いたり閉じたりする。

 こうした生体リズムをつかさどるのが生物時計(体内時計)で、地球の明暗サイクルに対して適応するためだ、と考えられている。植物はすべての細胞が時計を持っている。動物では脳に時計がある。核のない下等な単細胞生物でも、時間を計る時計を持っていることが確かめられたという。

 人間の場合、時差ボケや交代勤務の疲労だけでなく、肥満や薬の効きめなどにも、頭の奥で規則的な体のリズムを刻む生物時計が関与していることがわかってきた。

 その時計は、脳の視床下部の一部で、視神経が集まっている視交叉(さ)上核という一対の神経細胞群の中にある。その周期は先に述べた通り約二十五時間で、一日二十四時間とのズレを埋めるため、目から入る光を通して二十四時間のリズムを受け取り、視交叉上核が時計を同調させている。

 結局、宇宙の運行、太陽の光などに合わせて生きるように、生物は適応性ができている。だから、夜中の零時を中心にして、夜八時に寝て、朝四時に起きるべし、という私の主張は、立派に科学的な裏づけのある真理なのである。

 時差ボケの場合や、徹夜が続いて昼夜が逆転したりして、生活時間と体内時計がずれて生体のリズムが崩れると、睡眠障害、集中力や活動性の低下など、身体や気分に変調が起きてくる。

 こうした場合に、強力な光を朝、二時間程度浴びせて、生体リズムを元に戻そうという光療法が効果を上げている。冬季うつ病、つまり、日照の少ない冬場に、体内時計が順応できなくなる不眠症状などにも劇的な効果がある。強い光が体温のリズムを整える働きをするからだ、といわれる。

●さまざまに唱えられた睡眠学説

 睡眠については、「肉体から魂が抜け出るのが眠りである」という考えが信じられていた時代もあったが、十九世紀末になってようやく、睡眠のメカニズムの医学的な研究が始まった。以来、さまざまな睡眠学説が発表されている。主なものを紹介しておく。

 血行障害説は、夜になると脳を流れる血液が少ないため、大脳の血液循環が滞ることによる貧血、あるいは充血が原因で眠くなるとする考えである。しかし、調べてみると、起きている時も、眠っている時も、脳の血液量にはちっとも変わりがないことが明らかになった。

 疲労物質説は、フランスのH・ピエロンという研究者が、今世紀に入った一九一三年に唱えた説である。人間が活動を続けると、脳にピプノトキシンという特殊な疲労物質が発生する。それが脳細胞の働きを弱めて、眠くなるということを実験で証明し、世人の興味を集めたのである。睡眠中枢とでもいうべき脳の中の井戸から、あたかも水が湧き出すように眠くなる物資が現れて、我々を夢の国に誘うというものだった。

 睡眠中枢説は、脳幹部の間脳に、目覚めの中枢と眠りの中枢とがあって、目覚めと眠りをコントロールしていると考えたもので、睡眠中枢が刺激されて眠くなるという。この考え方によると、日本脳炎で、コンコンと眠り続けるのは、目覚めの中枢が壊れて働かなくなったためであるというわけであった。だが、近年の研究は、二つの中枢説を全く影の薄いものにしてしまった。

 抑制説は、大脳皮質のある一点が抑圧されると、これが大脳皮質全体に広がり、眠くなるとする説で、旧ソ連のパブロフが条件反射の実験から説明した。

 刺激遮断説は、アメリカ人生理学者クレイトマンが発表した説で、「生物は赤ん坊のようにいつまでも眠っているのが本来の姿で、起きているのは間脳中にある覚醒中枢が外側から刺激されるためだ」と唱えた。

 要するに、覚醒しているのは、外部のさまざまな刺激に不本意ながら反応している仮の姿で、夜暗く静かになって刺激も少なくなると、脳は本来の姿を取り戻そうとして、眠りに入るとするのである。

 この点、例えば朝がきて目覚める時、ただ何となく起きてしまうか、それとも何か刺激を受けて目覚めるかを考えてみると、大抵は何か思い当たる刺激がある。刺激は、窓から明るい太陽が差し込むとか、トイレにゆきたいとか、おなかが減ったとか、町の騒音とかである。

 反対に、眠ろうとする時はどうだろう。明かりを消すとか、ラジオのスイッチを切るとかする。トイレをすませておくことも欠かせない。

 つまり、目覚めと眠りは、体の内外から脳に送り込まれてくる感覚の信号によって、左右されているように思える。

 感覚の信号が強く出されている時、例えば「おなかがペコペコ、おなかがペコペコ、おなかがペコペコ……」という信号が、胃から脳へしきりにやってくる時は、覚ますまいとしても目覚めてしまう。反対に、眠りは信号が弱くなった時だ。

 ところが、さらに睡眠の研究が進むにつれて、このような感覚的刺激もリズム作りの本家とはいえず、せいぜいアクセサリー程度のものであることがわかってきた。

 その証拠には、眠り足りると、どんなに静かな暗い部屋でも、「もっと眠っていなさい」といわれても、眠れるものではない。床の中で、ただ漫然と目を閉じているか、あらぬことを考えたりしているのが関の山である。 

∥深い眠りと浅い眠り∥ 

●睡眠物質を探る研究は今に続く

 睡眠を促す要因として、睡眠物質の存在を証明しようという研究は、今に続けられてきた。前述の学説で触れたピエロンの疲労物質説が、一連の研究の先駆けとなって、モニエという学者は一九六三年にウサギを使った実験で、睡眠物質の存在を主張した。モニエの研究によると、睡眠物質は脳脊髄液ばかりでなく血液にも存在するという。

 ほかにも睡眠物質の発見に情熱を注ぐ学者、研究者は多い。

 昭和五十年代はじめには、ハーバード大学、東京大学の両研究グループの実験によって、その物質は脳組織から分泌されるもので、化学構造としては少なくとも一つのペプチド型のアミノ酸結合が認められたという。

 植物でも、睡眠物質の存在を探る研究が盛んだ。マメ科の植物オジギソウは夜、葉を閉じて眠るとされているが、日本の教授グループによって、それら睡眠物質の化学構造が発表されている。

 また、人間の眠りと目覚めの関係は、体内から分泌される覚醒ホルモンであるノルアドレナリンと、睡眠ホルモンであるセトロニンの相互作用だともいわれている。私たちは、覚醒ホルモンの分泌とともに目覚め、日中活動する。そして、覚醒ホルモンの減少とともに眠りに就く。もし、覚醒ホルモンが一日中分泌され続ければ、熟睡できず、不眠症になる。睡眠ホルモンの役割は、この覚醒ホルモンを調整し、眠りを促進させることであるという。

 最近の研究では、ラットやサルを用いた実験で、プロスタグランジンD2とE2と呼ばれる物質が脳の中で働き、それぞれ睡眠と目覚めをコントロールしていることがわかったともいう。大阪バイオサイエンス研究所の早石所長が明らかにした成果である。

 動物実験で、一兆分の数グラムのD2を脳に注入すると、動物はじきに眠り始めることが確認されている。D2によって誘起された睡眠は、普通の睡眠薬による不自然な眠りとは違い、脳波などから見て自然の睡眠と全く変わりのないこともわかっている。

 このように、科学的にも睡眠のメカニズムについて、諸説が出され、いくつかのことが解明されているが、まだまだ未知の部分の多い領域だといえる。

●脳細胞の疲労を回復する作業

 ただ、眠りとは脳と体の興奮や活動が低下した状態で、睡眠と覚醒をコントロールしているのが脳であることだけは明らかになっている。

 脳といっても、脳幹と呼ばれる部分が睡眠と覚醒を調節しているとされている。大脳の内部にあり、古い皮質に包まれた脳幹は「命の座」といわれ、生命を維持し、成長を促す重要なところ。自律神経系とホルモン系を調節する間脳、中脳、橋、延髄などで構成されている。

 さらに正確にいえば、その脳幹にある間脳の一部に、視床下部という手の親指ほどのところがあるが、視床下部の一部で、視神経が集まっている視交叉(さ)上核という一対の神経細胞群の中にある生物時計が、目覚めと眠りのリズムを支配しているのである。

 視床下部はちっぽけでも、支配力は絶対的なのが特徴だ。もし、この視床下部の働きがコントロールできれば、「今週は疲れたから眠るとしよう。仕事は来週回しだ」とか、「この秋は大不作なので、一億総冬眠を実施する」などということも可能になって、世の中は一段と暮らしやすくなろうというもの。

 もっとも、「今夜はどうしても眠っては困るんだ」という意志の力によって、睡眠の不変のリズムに抵抗することはできる。仕事や授業の最中に、コックリ、コックリしては上役や先生ににらまれると考えて、必死に眠気と闘った覚えのある人もいるだろう。

 ちなみに、これまでの人間の断眠の世界記録は二百六十四時間、実に十一日間で、アメリカの高校生が学校の科学祭で記録したものだという。

 だが、このような抵抗は、偉大なリズムの不変性に比べたら、物の数ではない。時間にしてもわずかなものである。とにかく、睡眠リズムは一生涯にわたって続くのである。睡眠はすべての物事の根本で、生命が培われるのも夜の眠りの中である。

 昔から「動物を長く眠らせないと、ついには死んでしまう」といわれていたが、動物実験で連続的に刺激を与え、絶対的に眠らせないようにすると、十日以内にことごとく死んでしまうというデータが残されている。

 それはなぜか。まさか人間を使って試してみるわけにはいかないが、子犬を使って眠らせない実験をすると、六日間の断眠で体温が四~五度も下がり、脳細胞は一週間もすると壊れ始める。

 つまり、脳細胞は鋭敏な代わりに、すこぶる疲れやすいものなのである。我々は、脳細胞の疲労回復のために、眠るわけである。「ああ、眠くなった」というのは、脳細胞が「もう疲れました」と、危険信号を発しているものと思っていいだろう。

 よく「眠れない、眠れない」とこぼしている人がいるが、脳細胞は疲労がぎりぎりのところまでくると、ちょうど食欲と同じように、必ず休息、睡眠を要求する。逆にいえば、眠くない人は眠る必要がないのだ、といってもよいくらいである。

 いずれにしても、脳細胞の要求は尊重したいものである。というのは、脳細胞は百五十億個もあるが、これは生まれた時から備わっていて、ほとんど増えないし、その上、一度壊れたら最後、いくら養生しても埋め合わせのきかない貴重なものだからである。

 手足の皮膚の細胞などは、少々の切り傷、擦り傷ではびくともしないが、脳細胞はちょっとわけが違う。眠りによって脳細胞を休ませる必要は、誰もが拒めない義務のようなものである。

 睡眠は、脳細胞の疲労を回復する大事な作業でもあるわけだ。手や足は使わないでいるだけで、ある程度、疲れをとることができる。だが、脳は目や耳から絶えず刺激を受けていて、機能し反応し続けているのである。起きている間は、脳に休息はない。脳を休ませるには、眠るしか方法がないのである。

 大脳の正常な働きを担っているのは、グルタミン酸を分解したガンマアミノ酪酸だとされている。人間が活動を続けると、次第にこのガンマアミノ酪酸が分解され、ガンマハイドロオキシ酸とアンモニアに分解されるのである。

 徹夜で仕事をしていて、頭がボーッとなり、集中力を失っていくのは、ガンマハイドロオキシ酸が脳に蓄積されるためである。

 これを取り除くには、睡眠をとるしかない。ほかに、特効薬はない。睡眠をとってはじめて、脳の疲労を回復、ひいては再びコンピューターに負けない脳力を取り戻すことができるというわけである。

●睡眠のパターンとサイクル

 さて、人間の睡眠は、脳波による測定が可能になってから、客観的に明らかにできるようになったのである。脳波というと、脳から発せられる微量の電波と思われがちだが、実際は脳の二点間の電位差の変動を示す。

 この人間の脳波は、一九二〇年代にドイツの精神医学者H・ベルガーによって発見された。脳波の発見から、はじめて本格的な睡眠研究が始まったといってよいだろう。脳波の波形の変化を捕らえることで、客観的に覚醒状態と睡眠状態との区別ができるようになり、また、睡眠の深さや経過を知ることができるようになったのである。

 以後、睡眠の研究は日進月歩で進んだ。一九五〇年代中頃には、睡眠にレム睡眠とノンレム睡眠という、二つの質の異なる眠りがあることが明らかにされた。

 その後、目覚ましいエレクトロニクスの発見のお陰で、驚くほどの発展を遂げる。脳波を記録して分析することによって、病気の診断と治療に役立つばかりではなく、精神医学は飛躍的に進歩したのである。

 その脳波を調べることで、眠りには、五段階のパターンがあることがわかっている。人間の場合、約九十分周期で、いくつかの脳波を組み合わせた五段階の睡眠パターンを経過するといわれている。

 まず、ノンレム睡眠が、第一度から第四度までの四つのパターンに分けられる。眠りの深さは、第一度は浅く、第四度で最も深い眠りに就く。この違いを明らかにするのが、脳波の波形だ。

 人間の脳波は、はっきりと目覚めている時には、ベータ波という非常に速い波が見られる。それが安息時に、リラックスしてきてぼんやりしてくると、波はだんだんと遅くなってアルファ波となり、さらに浅い眠りでシータ波に移行する。そして、眠りがいっそう深くなると、大きな振幅のデルタ波が見られるようになる。この波が遅くなるほど、眠りは深くなっていくのである。

 ノンレム睡眠が第四度まで到達すると、その後は第三、第二、第一と浅い眠りに戻り、レム睡眠へと向かう。この一連の変化でも明らかなように、普通、レム睡眠はノンレム睡眠の谷を経過した後で現れる睡眠である。

 そのレム睡眠の時には、眼球がキョロキョロと動くので、英語の頭文字をとってレム(REM=Rapid Eye Movement)睡眠という。もし、眠りに入ってすぐレム睡眠が起こるとしたら、異常である。

 専門家によっては、ノンレム睡眠を徐波睡眠、レム睡眠を逆説睡眠と説明する場合がある。徐波睡眠の命名の由来は、睡眠が進むにつれて脳波がゆっくりした波、つまり徐波になっていくからである。

 一方、逆説睡眠とは、脳波パターンでは目覚めているように見えても、その実やはり眠っているという逆説的、パラドックス的な現象に思えるために名づけられた。

 いずれも表現こそ違え、ノンレム睡眠、レム睡眠と質は変わらない。

 ちなみに、ノンレム睡眠を脳の眠り、レム睡眠を体の眠りと呼ぶこともある。睡眠中、脳波、眼球運動、筋電図、呼吸曲線などを測定、観察すると、ノンレム睡眠は脳を休め、レム睡眠が体の疲れをとっていると判断できるからである。

 一晩の睡眠の経過を図で描けばより明らかなことだが、人の睡眠の大半をノンレム睡眠が占める。だいたい一回のノンレム睡眠は三十分程度。人によっては、一時間以上も続く場合もある。

 眠りが深くなり第四度に達すると、名前を呼んだり、ちょっとつねったくらいでは目覚めない。この後、第三、第二、第一度と次第に眠りが浅くなり、寝入りばなと似たような脳波になる。すなわち、レム睡眠を迎えるわけだが、ノンレム睡眠の第一度とは眠りの質が全く違う。急速眼球運動を起こすが、多少の物音では目覚めない。強く揺すれば目は開けるものの、すぐまた眠り込んでしまうのである。

 普通、レム睡眠はほぼ九十分周期でやってくると見られている。要するに、ノンレム睡眠の第一度からレム睡眠までを睡眠の一つの周期として、このサイクルを約九十分、一時間半で繰り返しているのである。人間は、このサイクルを一晩に四~五回繰り返して、朝の爽快な目覚めを迎えるのが一般的である。

●宵型の深い眠りと朝型の浅い眠り

 よい睡眠とは、爽快な目覚めといい換えられるほど、密接な関係にある。よい睡眠がとれた時は、朝スキッと起きられるし、逆に爽快な目覚めを伴わない眠りは、長短にかかわらず睡眠時間に不満が残るものだ。

 要するに、よい睡眠とは、目覚めた時に満足感が得られることが条件になる。ぐっすり眠れたという感覚こそが、的確によい睡眠を表す言葉であろう。

 睡眠時間は足りているのに、どうもスッキリしないというのは、眠りの波が悪いということになる。眠りのリズムが正常であれば、目覚めは爽快であり、逆に眠りのリズムが狂うと、ストレスが解消されず心身の病気の原因にもなる。

この点で、一般的にいって、精神労働者に比較して、肉体労働者のほうがよい睡眠、爽快な目覚めを享受しているという。

 肉体労働者は単純な、身体的疲労から睡眠に入るケースが多く、床に入るとすぐ深い眠りに陥る人がほとんどである。明け方近くには浅い眠りに移り、しばらくして目を覚ます。もちろん、ストレスや精神的な興奮などがないことが前提である。

 反対に、精神労働者は、浅い眠りがしばらく続き、明け方近くになって熟睡するタイプの人が多い。身体的なものより、精神的な疲労がよりたくさん蓄積するためである。

 いわゆる、肉体労働者が宵型、精神労働者は朝型と大別できる。宵型の特徴である早寝早起きが健康にいいことは、昔からの常識だ。朝型は深い眠りに入るのが遅いこともあり、どうしても睡眠が浅くなりがちで、爽快な目覚めも期待できない。

 よい睡眠、爽快な目覚めは、生体リズムとの関係のほかに、レム睡眠にも大いに関係する。

 人間を含めた高等動物である哺(ほ)乳類は、眠りのパターンの中に、このレム睡眠という特殊な睡眠状態を持つことが知られている。レム睡眠は、覚醒時に近い脳波を出し、体は眠っているが、脳は起きているという状態に特徴がある。

 体の眠りとされるレム睡眠が十分だと、満足感の得られる睡眠がとれるのである。新生児や幼児は、レム睡眠が睡眠時間全体の半分以上を占める。この割合は成長とともに減少し、成人で全睡眠時間の約二十パーセント、五十歳代を超えると十五パーセントぐらいまで減ってしまう。高齢者が長時間の睡眠をとっても、満足感のある睡眠が得られない場合がよくある理由は、睡眠のリズムが変化し、レム睡眠が減ってしまうからだ。

 私たちの記憶に残る夢は、ほとんどこのレム睡眠時に体験している。レム睡眠についての全容は明らかではないが、人間が記憶した情報の整理整頓が大きな役割だといわれている。非常に不愉快な心理状態の時に、少しの時間でも眠るとかなり穏やかな精神状態になるのは、好ましくない記憶を排除するレム睡眠の働きによるものである。

 人間の眠りは、肉体の疲れをいやすだけではなく、不快な記憶を脳裏の奥にある記憶の押し入れに片づけ、新しい明日に備える働きをしているのである。

●動物や植物の眠りというもの

 動物の眠りについても少し触れておくと、魚類と両生類には眠りがなく、眠りは鳥類と哺乳類、つまり、大脳の発達した動物の特徴だといわれる。ネズミを断眠させると、摂食量は低下せず栄養面では問題がないのに、四週間で死亡する。高等な動物は、眠ることが絶対に必要なのだ。

 また、狩りをする動物は、長く眠るという。獲物を倒し、飽食の後、ぐっすり眠る。犬も猫も、眠り方を見ると、この部類に属することがわかる。一方、狩られる側の動物は反対である。おちおち寝てはいられない。眠り込む時間も短くなる。

 眠りの型はノンレムとレム睡眠による超日リズムによって決定されるが、二十四時間リズムとともに、高等動物は二つの内的リズムを持つ。前者は動物の生態進化により作られたという興味深い説もある。危険な環境に住むヒヒには、レム睡眠がない。レム睡眠は夢見る時だから、猫は夢を見るが、ヒヒは夢を見ないということになろう。

 面白いのは、長時間にわたって泳ぎ続けたり、飛び続けるイルカやカモメなどは、右脳と左脳を代わる代わる眠らせているという報告である。片方の脳に深い眠りをとらせながら、もう片方の脳を目覚めさせておき、おぼれたり、地上に落下するのを防いでいるわけだ。

 植物の眠りについてもいうと、すでに十八世紀の植物学者リンネが、植物にも眠りのあることを書いている。オジギソウのように、昼夜のリズムに従って、葉を開いたり閉じたりしている草もあるのは、前述した。

 最近では、平成二年に、うまい米として知られるコシヒカリが睡眠不足になった、という話題があった。福岡県のある市で、田んぼの隣に立っている水銀灯の光に照らされるところでは、稲の生育がおかしいと農家がいい、調べたらその通りで市が補償したのである。水稲は短日植物なのである。よく眠らせないと米が育たぬのは、事実のようである。

 稲ばかりでなく、もちろん、人間の身体的な成長も、睡眠によって促される。

 よく「寝る子は育つ」という。これは理にかなった言葉で、うそでもデタラメでもない。睡眠と発育を促す成長ホルモンとの間には、密接な関係があって、睡眠中に、脳の中の小指の先よりもっと小さい脳下垂体から、成長ホルモンが分泌されることはすでに知られている。

 睡眠中、成長ホルモンが特に活発に分泌されるのは、入眠直後のノンレム睡眠の時だという。普通の成人の場合、眠り始めて七十分ぐらいで、血液中の成長ホルモンの量が最高値に達する。この睡眠と成長ホルモンの相互関係はきわめて密接で、入眠の時期が遅れると、成長ホルモンの分泌も遅れてしまうということもわかっている。

 しかし、睡眠中の成長ホルモン分泌現象は、成長とともに変化を見せる。研究によると、こうした生理現象が認められるようになるのは、生後三カ月ほどからで、成人のように眠り始めた直後のノンレム睡眠で、成長ホルモンが最高値を記録するのは四~五歳からのことである。

 それが思春期に入ると、睡眠中だけでなく、覚醒時にも成長ホルモンが分泌されるのである。成年期になって、再び睡眠中だけの生理現象に戻り、五十歳を超える時期に入って、眠っている時にも成長ホルモンは分泌されなくなってしまう。

 発育過程の子供にとっては、睡眠はまさに成長の糧である。

 また、私にいわせれば、人間にとって眠りが長寿の根本でもある。五十歳をすぎて成長ホルモンの分泌はなくなっても、正しい眠りの中では、疲れが翌日のエネルギーと変わるものである。さらに、宇宙大自然の力によって肉体が浄化され、肉体機能が自然作用的に調整されるから、よく眠る老人も長生きすることになるのである。

∥現代人の眠りについて∥ 

●現代社会と人間の眠り

 現代の日本においては、科学技術が発達し、社会が複雑化した結果、睡眠研究も加速度的に進展している。日常生活において不眠を訴える人が増え、睡眠を切実な問題として捕らえる場面が多くなったからである。

 最近では、デパートやフィットネスクラブなどに快眠コーナーが設けられるほどで、不眠症者ばかりでなく、一般の健康な人も睡眠に関心を払うようになったようである。

 新聞やテレビの報道によると、会員制フィットネスクラブなどでは、安眠をいざなうさまざまな仕掛けを設けているという。カプセルの中でリクライニングのいすに身を横たえ、アルファ波が出るとされる音楽を聞くクラブが多い。

 中には、音響を振動に変える音響体感装置付きのいすで体の緊張をほぐしたり、信号音を出すヘッドホンと点滅光を発するゴーグルで、脳や体のストレスを取り除いたりするところもある。

 このような施設がある世の中だから、真夜中に働く職場が増えている。二十四時間、地球をネットするコンピューター。速報態勢の情報化社会で、マネー戦争の金融業界をはじめ、さまざまな職場で、昼と夜との境界線が薄れつつある。交代制勤務や残業をする労働者ばかりか、子供の生活まで、夜へ夜へと傾いていく。

 昼間は起きて働き、夜は寝る。人類はずーっとそうしてきて、今、ほんの最近、夜と昼を逆転させてしまった。生き物としての人間は変わらないのに、私たちの生活は人類の長い歴史から急にはずれてきたのである。

 現代人はどうしてこうも、コウモリのようになりたがるのだろう。

 実は、近代文明とやらのお陰で、人間が徐々に夜行性になり始めてから、世の中がひどく乱れ、腐敗し、悪化してしまったのは周知の通りである。ほんの少し「なり始めた」ぐらいで、この始末だから、もし本格的に夜行性になってしまったら、いったいどんな悲惨な有り様になるか。

 大人ばかりでなく、今の現代っ子の生き方、あり方も、あまりに大自然という偉大な造物主の真理に背いている。

 小中学生は、体はまず健康に育っているのに、本人たちの心身の自覚症状は半病人並みだともいわれている。「朝からだるさや疲れを感じる」、「頭や腹が痛くなる」、「めまいを起こしやすい」と訴える子供が三分の一近くもあり、精神のひ弱い現代っ子を如実に浮き彫りにしている。

 これが、中高校生の約三割が、教師を殴りたいと思っているとか、四割が親に対して暴力を振るいたいと思ったといった、調査結果となって表れている。まさしく今の青少年は心身症まがいであり、現代社会の病魔をそのままに投影していることは、恐ろしいばかりである。

 こうした原因も、大人の社会を反映した夜型生活にあり、テレビ、ラジオ、ファミコンや漫画本で夜更かしをするためだという。夜更かしをして生きていては、健全な人間にはなれない。

●短くなりつつある睡眠時間

 「寝る子は育つ」、と昔からいう。だが、当節では眠ることもままならぬ。首都圏を中心にした調査では、中学生のほぼ三人に一人が、「今最もやりたいこと」と聞かれて、「もっと寝たい」と答えた。かわいそうな気がするが、子供の世界も忙しいのだろう。

 現代の子供は、習い事や塾から遅く帰宅する。受験勉強、テレビなどで遅くまで起きて夜食、翌朝は朝飯抜き。だから子供に動脈硬化、高血圧、糖尿病などの小児成人病が増えているのである。

 最近は、大人も夜型の生活が都会では多い。ある調査では、三十年間で、主婦の睡眠時間が三十分減って七時間十一分になったという。会社員を対象にストレスの実態を調べ、解消法を尋ねたら、男女とも「十分な睡眠」が首位だった。

 会社員の中には週末に睡眠貯金をして、日々の短い睡眠時間のつじつまを合わせている人も多い。睡眠時間は平日六時間四十六分、土曜日八時間五分。明日からの仕事を考える精神的重圧のために、日曜日の夜は寝つけないという。これでは、すっかり疲労が回復して、すがすがしい気分で仕事に取り組む日は、一日たりとないわけだ。

 日本人の全体的な流れとしても、睡眠時間は以前に比べて、徐々に短縮化の傾向を示している。

 NHKが五年ごとに実施している「日本人の生活時間調査」でも、その点は明らかである。昭和四十五年、日本人の一日の平均睡眠時間は七時間五十七分で、ほぼ八時間睡眠だった。それが十年後の五十五年には、七時間五十二分になり、五分短くなっている。さらに六十年には、七時間四十三分と急速に短縮化が進んだ。平成十二年には、七時間二十三分となり、調査の開始以来四十年間で五十分も短くなったのである。

 二十一世紀には、七時間睡眠時代が到来するかもしれない。スポーツ、文化施設の営業時間の深夜化、テレビ放送のオールナイト化。現代人を取り巻く環境は、いっそう睡眠時間の短縮化を促進する方向にある。

●睡眠はどれくらい必要か

 では、私たち人間は、どのくらい眠ったら、脳細胞の要求を満たしたことになるのだろうか。

 一日に七、八時間ほど眠る人が多いからといって、誰もが七、八時間以下では睡眠不足だといい切れない。

 ナポレオンやエジソンが一日四時間という短眠家であったことは、あまりに有名である。発明王エジソンなどは、一日に約三十分ずつ仮眠、これを三、四回繰り返すだけだったともいう。特に一八八八年、世界ではじめて蓄音機を発明した時などは、超人的な断眠を続けている。五日間、仮眠もとらずに徹夜で発明に打ち込んだと聞く。

 それほど昔の例を持ち出さなくても、短眠家はたくさんいる。売れっ子の芸能人には、四、五時間しか眠る暇のない人がよくあるそうである。

 必要な睡眠の量は、時間の長さだけでは示せない。眠りの深さが問題になる。かなり十分眠ったつもりでも、なかなか目が覚めにくいとか、頭がすっきりしないことがあるのは、この深さが足りないということである。

 もっとも、『人間の眠りの科学』でも触れたように眠りにも型があって、午前五時頃から七時頃の明け方にかけて、ぐっすり眠る朝型の人に、こういうことが多いのは当然である。朝型はあまり健康でない人、神経質な人によく見られる。いい換えれば、寝つきが悪いと同時に、寝起きが悪いのが朝型の特徴。

 これに対して、床に入るとすぐ寝つけ、一、二時間で深く眠るのは宵型といい、健康な人に多い型であった。

 毎朝、目覚めとともに、頭がすっきりしているのと、ボーッとしているのとは、気分的に大きな違いがある。とにかく、深く眠ることこそが大切である。果たしてあなたは朝型か、宵型か。現在の健康度のバロメーターになることだから、自己診断してみてほしい。

 最近、医学的によくいわれているところでは、質のよい眠りをとっていれば、睡眠時間は五時間ぐらいあればいいそうだ。

 個人差はあるが、今まで一日八時間寝ていた人なら、訓練で五時間までは支障もなく、比較的簡単に減らすことができる。ところが、五時間を切ると快適な生活は送れない。四時間ぐらいに減らすと、つらくて、日中のミスも多くなる。睡眠は夜にまとめてとる必要はなく、合計で一日五時間あればいいともいう。

●早寝早起きがもたらす快さ

 しかし、大自然の摂理に従うならば、睡眠は単に何時間眠ればいいというものではない。

 夜中の零時を中心にした前後四時間、その八時間こそが安息の世界であり、零時という真夜中に、幸福の神が訪れてくるのである。幸福の神とは、生命の根源である。

 「早寝早起きする幼児は健康児、遅寝遅起き子は大脳の活動が低く、活動のリズムが乱れるぼんやりっ子」ということが、徳島大学の教授の研究によって証明されてもいる。

 三~五才児を対象にした研究では、午後九時半就寝、午前七時半起床といった「遅寝・遅起きグループ」は、午前中、大脳の働きが鈍く、夕方になってようやく働き出すが、その働きの乱れが大きく、これは自律神経失調状態だと、危険性を指摘している。

 ところが、午後八時半までに就寝、午前六時半までに起床する「早寝・早起きグループ」は、フリッカー値という大脳の働きの検査でも、体温測定でも、正常な働きをする。

 昼間の生活のリズムが、睡眠と表裏一体の関係にあり、特に育ち盛りの幼児の発達の上で重要だ、というこの研究は、きわめて大きな意義がある。

 今の子供を見ると、朝からあくびをする、背中がグニャッとしている。すぐ疲れたという、ぞうきんが絞れない、立ちくらみや、めまいを起こしやすい。そういった虚弱な子が多いといわれているが、その原因として、幼児時代から大自然の摂理に反した睡眠をとっていたのが大きいことが、証明されたわけである。

 睡眠がいかに生体のリズムに影響があるか、まして幼児の場合、異常な睡眠を続けると、ボケ人間になってしまうことも考えられる。若者の間で問題になっている起立失調症候群の原因の一端も、異常睡眠に由来するのではないか。

 子供は、宇宙大自然に生かされるままに、自然に、肉体的に育てるべし。正しい眠りは体の疲れをいやし、人生の苦悩までも浄化し、肉体と精神を宇宙に還元する作用があるのである。

●短眠奨励説への反論

 「早寝早起き」、とりわけ「早く寝る」という言葉に、ずいぶんと違和感を覚えるという方もおられよう。

 なぜなら、いわゆる成功法の本の中には、眠りを減らすためのノウハウ書が少なからずあり、その内容は一律に「とにかく活動の時間を物理的に増加させること、それが成功への近道であり、眠るのははっきりいって時間の無駄」というものだからである。

 こうした短眠のノウハウをいろいろ試したという人によると、どれも長続きするものではないようだ。

 「意志の力」などというが、我々の意識しない部分で肉体がちゃんと正しい方向に向かっている時は、意志と肉体は相まって大きな力となるが、肉体に逆らおうとして意志の力を使っても、結局は無理があり、長続きしないようである。

 肉体の本来持っている機能を自然なものに修正するため、「眠くなったら寝る」、「八時間寝る」という、単純な生活を実践してほしい。

 また、短眠法においては、時間を計量している。時間が量的な損得勘定のレベルで捕らえられていると思われる。

 だいたい、夜更かしや午前様になって睡眠が不足すると、その日の疲れは当然、翌日に残ることになり、この疲労の蓄積は、やがて健康にも、事業にもよくない結果を招来することになる。

 周囲からはあれほど頑健に見えた人や、働き盛りといわれる年齢の人が、突然ガンを発病し、心臓病に襲われて、この世を去るというようなことがしばしば起こるのも、これは例外なく眠りが不足していることが、大きな原因になっているものである。

 照明文化に幻惑されて、早寝早起きを忘れた現代人は、早く疲れて早く死ぬ。ガンも心臓病も中風も老衰も、みな睡眠不足の差引勘定と知るべきである。

 人間の体というのは、例えてみればバッテリーのようなものだ。生きるためには無論、放電が必要だから、睡眠というチャージが十分に行われないと、バッテリーが上がってしまうことはいうまでもない。

 そもそも、人間には一日八時間の睡眠が理想的とされているのであって、忙しくて時間がとれないということで睡眠不足の人は、万難を排して昼寝を実行されたい。

 昼は、自力で働く、生きるという面の社会的人生。夜は、静かに休むという生かされの面の他力世界である。人間は夜つくられ、夜育つ。宇宙生命の他力を仰ぐ睡眠時間を軽んずる者は、命を縮め、不幸になる。

 元来、人間の苦悩や病気は自己意識の作るもの。自己意識で働き、環境からも動かされ、経済生活などからも大きく左右されて、心労、過労に陥りやすく、生命の原則からいえば、その生活ぶりは実に乱暴も、はなはだしいものである。

 ことに現代人には、苦楽の感情や好き嫌いがありすぎるから、休養日にも遊び疲れて、病院と裁判所とは満員になる。そして、自ら裁き切れない人生の矛盾と不合理が、心のガンとなり、肉体に投影して病気のガンを作るのである。

 その心を真空の中で浄化し、肉体を宇宙生命の大プールに任せて、充電し変える睡眠の重要性を忘れてはならない。

 老子は「無為にして化す」といった。何にもしない働き、宇宙生命は人間の休んでいる時、一番よく働いて、疲れや病気を治してくれる。睡眠は、薬や栄養に勝る肉体への絶対条件である。

●過ぎたるは及ばざるがごとし

 安眠は、健康作りの大切な要件である。だが、うっかりすると長時間眠るほど健康によいと、錯覚しがちではないだろうか。

 人間は起きる必然性がなければ、いつまでも眠っていられるともいうが、成長時期の子供や少年少女には、発育を促す意味でも十分な睡眠時間が必要にしても、成人に関していえば、長ければいいというものでもないようだ。

 一九七九年、アメリカのD・ワリプケが報告したレポートは、睡眠時間の過少だけでなく、睡眠時間のとりすぎにも警鐘を鳴らし注目された。

 ワリプケはアメリカ・ガン学会の協力を得て、百万人を超える成人の睡眠時間を調査して、六年後の死亡率との関係に一つの相関関係を見いだした。睡眠時間が七~八時間の人の死亡率は最も低く、それより長くても短くても死亡率が高くなる、というU字型の関係を発見したのである。

 死亡率の高い病気を患っている人は、睡眠障害を引き起こしやすいことなども考えられるが、とりわけ睡眠過多と死亡率の関係は、原因がわかっていない。睡眠時間も、過ぎたるは及ばざるがごとしということだけは確かであろう。

 睡眠が多すぎるほうでも、睡眠不足と同様に、治療の必要な過眠症がある。この病的なものでなくとも、「何となく、長く寝ているほうが健康によいと思い込む」ことの危険もあるらしい。

 アメリカの空軍基地の航空宇宙医学研究所でも、八人の健康な青年男子について、長く安静に横たわる影響を調べた。すると、脳波に重症の知覚欠損に似た変化を起こしたという。

 この点はともかく、興味を引かれるのは、寝たきりで下肢の運動を全然させなかった群で、レム睡眠の割合がだんだん小さくなり、生理的な睡眠に変調をきたした点である。対して、寝たまま下肢運動を行わせたら、変化がなかったという。

 つまり、長時間睡眠は、横になる時間の長さの悪影響も入る危険がある。やることがないから体を横にしていたら、ウトウトと眠ってしまったというのが、癖になると問題だろう。

 一般的にいって、睡眠が長い人は、内向的で神経質な人に多い。すぐに考え込んで、脳細胞を酷使しているからである。逆に、くよくよしない人、責任をすぐに他人に押しつける人は、睡眠が短くてすむ。

 ともかく、睡眠時間の長い人も短い人も、できる限り、毎日規則正しい睡眠をとる努力はしたいものだ。

 「睡眠中、よく夢を見る」ということを悩んでいる現代人もいるようであるが、結論から先にいえば、夢を毎夜見ても、快眠でき体調がよければ安心である。

 夢というものは、誰でも一晩に一、二時間は見ている。芸術家、発明家などのように直観的なイメージを大切にしている人は、夢をよく覚えているものである。

 普通の人が見ていないと思うのは、目が覚めた時に忘れてしまうからである。睡眠は一晩のうちに、深くなったり浅くなったりを繰り返すが、脳の眠りとしては浅いレム睡眠という状態で、夢を見ているのである。

 なぜ忘れるのか。脳は、左脳と右脳に分かれていて、いわゆる読み、書き、ソロバンは左脳の働きである。それに対して、右脳は言葉であまり表現できない直観的な判断をしている。夢には主に右の脳が使われるので、起きてから左脳で言葉に翻訳しないと、スーッと消えてしまうのだ。

 では、なぜ忘れてしまう夢を見るのか。人間の体は巧妙にできており、昼間に意識されたものがみな、潜在性意識の中に記録されているものである。その記録されているものが、寝ている時に夢となって出てくるのである。

 とにかく、体や脳の健康の根底を培うには、夜、十分に、安らかに眠らなくてはいけない。夜、安らかに寝るということは、昼間の働きになる。昼間の働きはまた、夜の眠りに関係をする。これは、切っても切れない、大切なつながりを持つということがいえるわけである。

∥熟睡と不眠の因果関係∥

●睡眠と不眠の因果関係

 現代人の関心事はいろいろあるであろうが、その中でも、「どうしたらよく眠れるか」ということについて、苦心を払い、悩んでいる人は多い。

 もし、現代人に、薬剤以外に睡眠の可能な方法が講ぜられ得るならば、大半の疾病は影を没するであろうとさえ思われるほどである。

 睡眠が十分にとれれば、睡眠の間に疲労は完全にとれ、臓器の機能的なひずみは調整され、赤血球、血糖、血圧は安定され、目覚めて起きる生活の喜びを満喫することができるだろう。

 このたった一つのことから、その人の生活を明るくし、生活に対する生きがいある感激を覚えしめることになるのである。

 ところが、眠いのを我慢して夜中まで仕事をしたり、テレビを見たりなどしていると、いざ寝床に入っても、なかなか寝つけないものである。何しろ、嫌がる脳細胞を叱咤(しった)激励して、無理やり働かせていたわけだから、その余勢というか、余じんのようなほてりが続いていて、とてもすんなりと眠れるものではない。

 体はクタクタに疲れていて、本当は眠くてたまらないのに、神経だけがピリピリいら立っている状態というのはつらいものであろう。

 「さあ、早く眠らないと明日がきついぞ」などと思うと、意識が余計にさえ返って、ますます眠れなくなってしまう。展転反側を繰り返した揚げ句、ヒルティの「眠れぬ夜のために」の教訓に従い、そんな時は少しも頭に入りはしないのに、あたりが明るくなる頃まで本を読んでしまうことも多い、という人もいよう。これでは、自分の生命を自分で縮めているようなものである。

 世界的に著名な作家、詩人で、同時に不眠症者だった人物は実に多い。彼らがきわめて優れた感性の持ち主だった証拠でもあろうし、著名な文学者にとって、不眠が優れた作品を生み出すモチーフに変えられるなら、不眠との同居も、ある程度は許容できるだろう。

 しかし、平凡で、規則的な日常生活を送らなくてはならないサラリーマンからすると、不眠の悩みは深刻である。

 不眠は夜間、正常な睡眠を妨げ、熟睡感を得ることによる精神的、身体的安定を妨害するばかりか、決まって昼間の充実した生活を阻害する要因になるからだ。不眠が原因で、仕事に集中できない。一日中神経が高ぶって、イライラしている。客と接していても、どうかすると眠り込んでしまう。サラリーマンであれ事業主であれ、これでは職業人として失格である。

 断眠睡眠不足は、研究でもさまざまな精神不安を引き起こすことが報告されている。ある報告によると、断眠が気分の変化や作業能率の低下の原因になり、さらに過敏、猜(さい)疑的、注意集中困難などになると発表されている。とりわけ、気分の変化、注意集中困難、作業能力の低下は、何も長期にわたる全断眠で現れるわけではなく、一日から二日の短期間でも起こるとされている。

●眠りが足りないとどうなるか

 しかも問題なのは、情報化社会といわれる現代社会においては、不眠の引き金となる要因が身の回りにゴロゴロ転がっていることである。日の出とともに目覚め、太陽の沈むのを合図に床に就いていた原始社会と比べ、それは比較にならないほどの多さである。

 職場のOA化によるテクノストレスなどは、その端的な例だ。複雑な人間関係から生ずるストレスも、単純な原始生活からはおよびもつかなかったことかもしれない。

 このように、現代社会は高度で発達した文明と接する機会を我々人間にもたらした一方で、緊張や不安などさまざまなストレスを生み出す要因を作った。不眠の多くが日常生活でのストレスに起因するという分析結果からも、まさに不眠は現代人特有の悩みなのだということである。

 人間が自然のリズムに逆らっていると、ついに自然から見放されて、哀れな人間になるが、不眠症もその一つなのである。

 今、アメリカ人の三人に一人が不眠を訴え、そのうち半分はかなり重症だといわれる。アメリカに多いのは、個人主義が発達して、人間同士の競争が活発だからかもしれない。

 イギリス人も四人に一人、ドイツ人やフランス人も五人に一人が、不眠で苦しんでいるという。欧米の先進国を超えるほどの発達を遂げた日本も、同程度の五人に一人が不眠で悩まされていると見るのが一般的である。

 この不眠症の一つの特徴は、高齢者に多いことである。人間は年齢とともに、眠り方が下手になっていくともいう。年を取ると、眠りが浅くなる。さらに、リューマチやぜんそくなどの病気で、余計に眠れなくなる。何度も昼寝をして、夜になると眠れない人もいる。

 ある調査によると、老人の睡眠時間は、若い世代とそれほど違わなかったが、年齢とともに睡眠の効率が低下していた。夜中に目覚めることが多くなっており、浅い眠りが増える一方で、熟睡に当たる深い眠りが減っていたのである。

 若い頃の深い眠りが懐かしく、眠りに対する飢餓感が強い老人がいる。実際はよく寝ているにもかかわらず、「全然寝ていない」といい張ったりする。

 こういう不眠が重大な問題を内包しているのは、人生の三分の一を費やす睡眠をうまく管理できなくなってしまうばかりか、人生の三分の二を占める日常生活にも、支障をきたす性格のものだからだ。

 睡眠不足で、日常生活の判断力が鈍るなどというのは枝葉末節にすぎない。本当は、睡眠不足によって生命力が衰えるのである。生命の根源が枯れてしまうのである。判断力が鈍るなどというのは、その結果としての現象にしかすぎない。実相はそんな生やさしいことではないのだ。

 肉体の栄養を食物からとっているように、生命の栄養は眠りの中にこそあるというこの真理を、ぜひ認識していただきたいものである。

●睡眠障害のいろいろ

 「寝つきが悪くて眠れない」、「夜中に目が覚めて、それっきり寝つけなくなる」、「夢ばかり見て、寝た気がしない」など、不眠で悩む人の訴えは、実にさまざまだ。訴えにあるように、悪い夢ばかり見ているようでも、安らかな眠りにはほど遠い。

 その不眠の原因として考えられることは、寝る時に周りがうるさいといった環境の問題や、悩み事、ストレスが挙げられる。このほか、うつ病や分裂病などの精神疾患に伴うことがある。

 また、特定の原因は明らかでなく、眠れないことを悩み、寝る時に「今晩も眠れないのでは」と心配し、悪循環に陥っている人もいる。

 不眠を訴える人の中には、自分の睡眠時間を過小評価しているケースが案外あるのである。三、四時間しか眠らなくても、ぐっすり眠れたと感じる人がいるのに対し、脳波は八時間ほど眠っているのに、睡眠不足を感じる人がいる。

 実際、医者に相談にくるケースで最も多いのは、睡眠に異常が認められないのに、主観的に不眠を訴える、いわゆる偽不眠症者だという。床に入ると、「眠れない、だが眠りたい」と強く願望するあまりに、かえって眠れない精神状態を作り、熟眠感が得られないという具合である。

 まれには、夜中に息が止まる睡眠時呼吸障害という特殊な病気もある。睡眠時無呼吸症候群ともいい、起きている時は正常に呼吸しているのに、眠ると十秒から二分ぐらい、繰り返し呼吸が途切れる病気である。

 睡眠中の無呼吸は、健康な人でもよく見られるが、十秒以上の無呼吸状態が一時間の睡眠に五回以上ある時、この病気と診断される。

 脂肪が沈着するなど気道をふさぐ原因があって起きたりするもので、圧倒的に男性に多く、年を取るに従って増える。女性も閉経後に見られるので、性ホルモンが関係しているらしいといわれている。

 こういう病気の人たちは、睡眠時間をたっぷりとっているのに、昼間に眠気を感じる場合が多い。呼吸が再開する時は、覚醒時と同じ脳波が現れるので、無意識のうちに、夜中に何度も目が覚めているわけだ。酸素不足から、日中、頭の重さを訴える人も多く、高血圧や不整脈、赤血球の数の増加、心臓肥大など、さまざまな合併症も起こしやすい。これらが、睡眠中の突然死の原因の一部になっている可能性が指摘されている。

 さらに、睡眠相後退症候群という睡眠障害がある。普通、眠気は、体温が一日のうちで最も低い、午前二、三時頃に最大になる。この病気の人たちは、体温が最低になるのは夜が明けてからである。当然、眠くなるのも普通の人より遅い。

 夜なかなか寝つかれず、朝起きられないため、宵っ張りや朝寝坊になり、学校や会社に遅れる。次第に眠る時間がずれていき、通学や通勤する気持ちを失ってしまうと、普通の社会生活ができない。こうした症状を睡眠覚醒リズム障害ともいう。

 普通の人間は、二十五時間前後の体内時計のリズムを、朝の光に当たることや、朝の食事や動き出すことなどで、一日を自動的に測定、昼夜の変化に合わせた二十四時間の生活ができる。睡眠覚醒リズム障害の人は、この体を合わせる体内時計の微調整が大なり小なりできなくなった人たちだ。夜、眠れないとか、寝つきが悪いとかの不眠症とは違う症状である。

 だが、入院してリズム調整すると不登校児も直るといった例が、近年、学会に報告されているという。

●薬物使用による不眠の恐怖

 不眠症については、国際分類法によって種類が分類されているが、私が特に問題にしたいのは薬物使用やアルコール飲酒による不眠である。

 おそらく世界一の不眠国であろうアメリカでは、睡眠薬の売れ行きも大したもので、すでに一九六〇年には、年間三十三億六千万錠の睡眠剤が売れたというし、また別の統計によると、重量にして三千五百トン、金額にして一億二千万ドルの売り上げがあったそうである。

 そこで、あまり眠れないので、やけになって、マサチューセッツ州のある町では、住民が「不眠コンクール」を盛大にやり、新記録を作った人を表彰したという話まであった。

 しかし、これは決してアメリカだけの問題ではなく、我が国でもすでに昭和四十年代後半で、睡眠剤の売り上げが三億九千万円から五億に上り、睡眠剤および睡眠作用を有するトランキライザーが、五百五十四種も発売されていたそうである。

 それからも、睡眠薬の使用は年々増加の一途をたどり、平成四年には日本全国で約十億錠が処方されたと推定されている。全国民が十錠近く飲んだ勘定になる。

 睡眠薬や精神安定剤、アルコールの連用は、レム睡眠を抑制したり、ノンレム睡眠を減少させたりする。このため、睡眠障害を起こし、使用を中止すると、さらに重い不眠を起こすのである。

 つまり、睡眠薬服用やアルコール飲用の弊害は、睡眠パターンを変えてしまうことと、習慣性にある。習慣性というと聞こえはいいが、中毒症状を起こすことがあるという意味で、入眠効果を求めるには、次第に睡眠薬やアルコールの量を増やさなければならないということもある。

 睡眠薬というものは、多かれ少なかれレム睡眠やノンレム睡眠の第三度、第四度を抑制する。本来の睡眠は、ノンレム睡眠とレム睡眠を一晩に四、五回繰り返して、はじめて脳と体の疲労を回復するもの。その点、睡眠薬を服用すると、特に脳の正常な眠りを阻害してしまう。睡眠薬で眠った場合、目覚めが悪く、起きても頭がすっきりしないのはそのためである。

 こうした作用はアルコールを使用した時も同じで、レム睡眠を抑制し、泥酔状態では、レム睡眠が明け方まで現れないということもある。

 そういう睡眠薬やアルコールは、服用、飲用を中止した時の反動がまた怖い。例えば、睡眠薬の場合、服用をやめると、今度は逆にレム睡眠を増加させる傾向がある。レム睡眠の八十パーセントは夢を見ているとされているが、レム睡眠が極端に増加するために、始終夢を見ているような状態に陥ってしまう。

 このため、睡眠薬の服用を中止したことを契機に、睡眠は分断され、睡眠障害を起こすという具合である。

 もっとも、専門家にいわせると、従来の睡眠薬は脳の働きを抑える作用があり、服用を中断すると異常が起きたり、量が増えないと効かなくなるといった依存性が強いものもあったが、現在では、作用がやさしく、脳の緊張を和らげるような働きをし、依存性の弱い薬が出てきているという。

 薬を飲む場合の注意は、乱用は論外で、とにかく用法や用量をしっかり守ること。「今日は眠れそうだ」と飲まなかったり、「今日はぐっすり眠りたい」とたくさん飲んだりするようなことは慎むべきである。

 睡眠薬と違って、アルコールに関しては、入眠効果が全くないというわけではない。ナイトキャップの入眠効果は、研究で証明されているところである。

●眠気を催すからくり

 人間は心身が健康であれば、眠りは自然であり、自然な眠りによって健康も促進される。熟睡できないからといって、毎夜、薬や酒に頼っては、自然な眠りは得られない。それが習慣化すれば、体にも悪い。要するに、眠りの質が問題なのである。残念なことに、現代人は不眠症で悩む人が多いようである。

 不眠症に悩む現代人のために、いくつかの不眠症の克服法を紹介する前に、まずは、眠りのからくりから問うていく。

 人間の眠りは大脳皮質の疲労回復のためにとるものだが、この大脳皮質には、それぞれ異なった心の動きを営んでいる、新しい皮質と古い皮質があることがわかっている。新皮質は、脳の表面に覆いかぶさっており、古皮質は、その下に埋もれているものである。

 浅い眠りとは、新しい皮質だけの眠りで、深い眠りとは、二つの皮質が同時に眠ることである。

 電車の中で、ついウツラウツラ、これが新しい皮質の眠りである。新しい皮質が非常に眠りやすいということは、誰もがしばしば体験したり、目撃したりしているはずだ。例えば、会社で机の前に座って、ウトウトしている不届き者、学校で先生の講義を子守歌代わりに、気持ちよさそうに舟をこいでいる無作法者である。

 昼寝、居眠り、うたた寝、添い寝など新しい皮質の眠りは、しばしば行儀が悪くなりがちだが、この点さえ気をつければ、大いに有益なことはいうまでもない。

 新しい皮質はフルに働かせたら、二、三時間で疲れ果て、眠りたがるほどなので、眠らせることも比較的簡単である。

 かつて、猫の脳で、新しい皮質に密接な関係を持っているある部分に、電流で刺激を与えられるようにして実験を行ってみると、一秒間に数回継続する電流を三十秒間流して、三十秒間休み、これを繰り返しているうちに、猫は眠気を催してくるのか、首を垂れ、目を閉じ、やがてはゴロリと横になって眠り込んでしまう。犬でも、同じように眠り込ませることができる。

 外国には、脳の手術の最中に、猫や犬の実験で刺激を与えたのと同一の部分に、同じような電流を流したところ、患者が眠り始めたという報告がある。

 新しい皮質は、一定のリズムで繰り返している単調な刺激に弱い。電気刺激などという、物々しい方法によらず、我々人間はもっと手軽な手段で眠らしたり、眠らされたりしてきた。

 それは、音や振動によるリズミカルな刺激である。「コットン、コットン」という車が米をつく音に、水車小屋の番人は眠気を誘われ、よく居眠りをしたものだといわれる。そして、水車が止まり音がしなくなると、目が覚めたそうである。

 音があったほうが眠れ、静かになると目が覚めるとは不思議なようだが、単調でリズミカルな刺激を賢明に利用しているのは、世の母親たちだ。赤ちゃんを眠らせるのに、子守歌を歌いながら、揺すぶったり、背中のあたりを軽くたたいたりしない母親はないだろう。揺りかごの秘密もまた同じ。

 「坊やはよい子だ、ねんねしな……」と聞かされたからといって、まさか赤ちゃんが歌詞を理解して、眠るわけではない。母親たちは、自分のやっていることに、こんなに深遠な脳生理学的からくりが潜んでいようとは、思っていないかもしれない。

 世の中には、睡眠薬を飲まないと眠れないという人がたくさんいるが、それらの人は、もう一度、幼少の頃の母親の子守歌を思い出してもらいたいものである。

∥不眠症を克服するために∥

●眠くなる潮時に乗ずる

 「中年や独語おどろく冬の坂」。これは西東三鬼氏の句だが、現代社会を生き抜くための複雑な心理の屈折に耐えかねて、眠れない夜の床に思わず漏れる独語は、中年に差しかかる坂道では、ことにおどろおどろしいフィーリングを伴っているようだ。

 眠れない夜が多い不眠症には、大きく分けて二つのタイプがある。一つは生活パターンからくるもの。もう一つは、ある出来事や刺激が精神を動揺させ、眠れなくなる不眠症である。どちらのタイプにしろ、神経の高ぶり、イライラが原因であるから、それを排除しなければならないのは当然である。

 そして、不眠症を克服する一番のコツは、宇宙のリズムにのっとって寝よ、眠くなる潮時に乗じて寝よということに尽きる。

 我々は宇宙から創られた小宇宙ともいわれるもので、宇宙秩序に合うように、人体の自然作用が働くようになっているものである。その自然作用を狂わしているのが、自意識だ。

 この自意識の旺盛な人に限って、睡眠薬を使用しているようである。「決まった手順を踏むとスムーズに寝つかれる」といわれるのも、不眠症が自己意識のせいであることを物語っている。

 人間には、夜になると必ず眠くなる潮時がある。その潮時をはずしてはいけない。潮時に乗じて、夕日の落ち込むイメージのままに、体を投げ出していさえすれば、誰でも熟睡という名の宇宙ドックに入れる。これが眠りの極意である。

 せっかくまぶたが重くなったのに、見たいテレビ番組があるとか、仕事が残っているとかいっては、眠くなった潮時を故意にはずして寝そびれていると、それが習慣性になって、夜の眠りが順調にいかなくなり、不眠症にかかってしまうこともある。

 不眠症になるそもそもの原因は、夜、眠くなった時に、さっと眠らないからだ。現代人は、早死にをするために、不眠症が最も有効な手段であることも知らずに、とかく理屈をつけては夜更かしをし、夜更かしを美徳のように思っている。

 つまり、不眠症などというのは、肉体の自然のリズムの乱れから起こるのだが、そのリズムの乱れが生じるのは、夜になって自然に眠くなる潮時があるのに、素直に従わず、みすみすチャンスを逃がしてしまうことが多いからである。

 肉体には自然のリズムがあるのに、それを自意識で意識的に狂わしてしまうから、今度はなかなか寝つかれなくなる。その繰り返しが、いつしか習慣になって、不眠症という病気に取りつかれてしまうのである。肉体の自然機能に逆らった罰で、不眠症ということになるわけだ。

 眠くなる潮時などというと、いかにも非科学的なことのように聞こえるが、「人間の眠り科学」でも述べたように、動物の脳の中枢からは、自然に眠くなる睡眠物質が分泌されるわけだから、その分泌の時間帯をすぎると、また目がさえてしまうことになるのである。

 眠くてたまらない時には、素直に眠ることが自然の摂理で、そうすれば眠りも自然に深くなり、朝までぐっすり眠れるものである。

●眠りは「気」を養う時

 眠くなるということは天の摂理であり、自然のリズムである。それに背いてばかりいると、眠りに入る時にも、朝の目覚めにも自然作用が起こらず、大変な損をするものである。

 十分に寝足りないまま起きてしまうと、午前中から気力がなくなって、仕事が嫌になったりしてしまう。そうして一日を棒に振ってしまうことが多いのに、「眠るのは人生の無駄だ」などと、暴言を吐く人が多いのだから、さても人間というのは度しがたい存在である。

 「早起きは三文の得」などというが、まだあたりが真っ暗なうちから起きて働くのも考えものである。

 何事にも潮時というものがあり、起床するにもちょうどよい時間がある。夜が白々と明け始めてからでも決して遅くはない。

 人間は体が慣れるにつれ無理がきくようになり、ついには無理が通って道理が引っ込むことになる。これも人生の落とし穴の一つだ。

 目が覚めた時、まだ時間が早すぎたら、体を投げ出して、そのまま夜の状態にしておかねばならない。人間の体の状態には、きちんと昼夜の別が備わっているから、夜中に目が覚めても、自然に任せていれば、必ずまた眠くなるものである。

 何かの拍子で目が覚めても、すぐに意識的にならずに、体を投げ出して次の眠りの訪れを待つがよい。

 まだ、十分眠ってはいないのだから、再び眠りがやってくるはずである。それなのに、意識であれこれ思案することは禁物で、意識を使うと目がさえてしまう。

 年を取って睡眠時間が少なくなったりすると、体が自然に硬くなってくるものである。老人になって、気だけは確かでも、体のほうがいうことをきかなくなるのは、まず眠りが不十分だと思ってよい。毎日わずかずつの睡眠不足が、チリも積もれば山となるように、身体の機能を老化させてしまうのである。

 年寄りになっても、十分に睡眠をとって、身体機能をすっきり整えておけば、恍惚の人になる恐れはないものである。

 老人は眠りが浅いとよくいわれるが、気力が乏しくなると神経が興奮しやすくなって、すぐ目が覚めてしまい、今度はなかなか寝つかれないということになりがちなものだ。

 つまり、養生とは、「気」を養うことが根本なのである。

 貝原益軒の「養生訓」には、「つとめてねぶりをすくなくし、ならひてなれぬれば、おのづからねぶりすくなし。ならひて睡をすくなくすべし」とあるが、これは大変な間違いである。

 養生とは「気」を養うことなのに、飲食や色とともに、眠りを三欲に数えていることは、矛盾、撞着(どうちゃく)もはなはだしいといわねばならない。

●価値ある疲れが快眠を誘う

 さて、人間がよりよく睡眠をとるためには、ある程度の疲労も必要条件である。何もしないで怠惰に一日を空費していたのでは、夜は決して快適な眠りを与えてはくれない。現代人は疲れが翌日のエネルギーへと変わることを知らず、なるべく楽をして体を疲れさせないように心掛け、そのために不眠症で悩んでいる人がたくさんいるのである。

 ただ、その疲れは何でもよいというわけにはいかない。望ましい疲れは、スポーツの後のさわやかな疲れを思い浮かべれば、誰でも思い当たるであろう。

 このさわやかな疲れは、昼間、それぞれの職分において、快適に働いた後に得られるものである。精いっぱい、自己を完全燃焼させて残る疲れであり、それによって自らを高め得た疲れである。こういう価値ある疲労こそ、夜、眠りによって自己を充実させる源泉になるものだから、職業の選択もおろそかにしてはなるまい。

 次には、不眠症解消の初歩的な方法として、適度な運動も勧めたい。散歩、ゴルフ、自転車、水泳、ゲートボール、軽い運動なら何でもいい。適度な運動の後の心地よい疲れが、快眠を誘うだろう。用事がなければ、片付け物でも、草取りでも、何でも結構。

 特に高齢者は、昼間に外へ出て、散歩すること。体にメリハリのあるリズムを設けるべきである。だが、散歩も、物を考えながら歩いたのでは駄目である。ただせっせと、自然の世界を肉体が歩くという方法をとる。

 高齢者についていうと、誰しも年を取ると体の苦情が多く、なかんずく、睡眠がうまくとれないという人が多いもの。大抵の場合、午前二時、三時頃に目が覚めて、なかなか再度の眠りに入りにくいというのと、中にはそのまま目が覚めっぱなしで昼間ボンヤリしたり、あるいは、頭痛とまではいかないでも終日、重苦しい気持ちに閉ざされるという。

 しかし、中には「年寄りは睡眠時間の少ないのは当たり前だ」といって、達観して平気でいたり、平気を装っている人もいる。

 一方、寝つきの悪いという人もあるが、これは比較的に少ないようである。高齢者は寝つきはいいようで、昼でもテレビを見ながら、人の話を聞きながら、コックリ、コックリする者も決して少なくない。

 だから、床に入って寝つきはわずかの補助手段をとると、楽に成功するようである。その意味から、日中、せっせと歩く散歩を勧めるのである。

 こうして七十代の老人も十代の若者も、昼間は仕事や家事や勉強や散歩やスポーツで、目いっぱいに体を働かせて、寝床に入ったら直ちに熟睡のできる習慣を持つことである。眠る気に任せて、疲れたままの体を横たえれば、すぐにぐっすり眠れる。これが熟睡の秘訣である。

 病人の場合はそうはいかないだろうから、マッサージでもしてもらって、よい気持ちになりながらそのまま眠るとか、いろいろ工夫があるはずだ。

●就寝前の食事の工夫

 眠るための工夫として、飲み物、食べ物についても紹介していく。

 世上、寝つきをよくするために、最もよく用いられるのはいわゆる寝酒である。老人の就眠法の大部分はこれで、簡単で便利だが、全く問題がないとはいえない。幸いにして五体が比較的満足で、血圧も上が百四十内外で、下が九十よりさほど高くない程度なら、一応、許容範囲といえるが、百六十~百以上とあっては、結構だとはいえない。胃潰瘍(かいよう)、その他内臓疾患のある人はなおいけない。

 それに、寝酒といっても酒の種類も考慮を要する。なぜかというと、アルコールによって得られる眠りは、生理的な自然睡眠とはいえないからである。

 もちろん、私たちが必要とする眠りは、赤ん坊の眠りと同じく自然睡眠であるが、寄る年波とともに、程度の差こそあれ、中枢神経系統は十分な、ナイーブなというか、オーソドックスな眠りを与えることが困難になってくる。

 そこで、何らかの方法で、睡眠を勝ち取る必要が生じてくるわけだが、自然睡眠をとることは、なかなか難しい。

 アルコールのもたらしてくれるのは麻酔である。寝なければならないためとはいいながら、毎晩の麻酔は考えもの。万一やむを得ないとしても、最小限に食い止めるべきである。

 また、自然睡眠を麻酔とともにもたらす道があれば、人工睡眠としては理想に近いものといえるかもしれない。

 ある東洋医学者によれば、ホップとアルコールの混合物が眠りを誘う目的に用いられるとすれば、単なるアルコールのみの使用に比して優れていることは、理の当然として考えられるという。

 そこで、両者の共存するビールは、単なる睡眠誘発のためなら、比較的無害なものといえるかもしれない。ただし、ビールのホップ含有量は一パーセントにすぎない。酒を全く飲まない私には、当否は弁じがたいが、そのほうに詳しい知人の説によると、寝心地と朝の目覚めはビールが最良だというが、そうかもしれない。

 知人は小瓶一本をもって適量とするといっている。これは我が意を得ている。摂取する水の量が多きに失すれば、心臓に対しても、腎臓に対しても負担となる。

 就寝前は大量の水をとることは避けるべきで、この意味で知人の就寝前ビールの処方は、結構なものだろう。

 食事に関していえば、就寝前に食べたり、食べすぎたりするのは、眠りの妨げになる。眠くなる前に物をたくさん食べると、眠くなる作用はもう奪われてしまう。それだけ胃に負担がかかって、胃の働きが強くなればなるほど、他から出る機能は淡いものになるのである。

 そこで、食事時間を早くするか、夕食を軽めにして朝食の量を増やす配慮をするべきである。また、カルシウム不足は神経がいらつきやすくなるので、小魚類を食べるようにする。

 あまり空腹でも眠れないので、その時は温かい牛乳を飲むといい。食べ物については、残念ながら即効薬的な物はないといわれるが、それでも、牛乳、チーズなどの乳製品は、睡眠を誘う数少ない食べ物の一つといえるだろう。

 牛乳、チーズには、神経の興奮を静めるカルシウムもあり、消化、吸収が高いという長所がある。その上、牛乳、チーズ中に含まれるトリプトファンというアミノ酸の一種が、脳睡眠中枢を刺激して自然に眠りを誘うという働きもある。

 ノンレム睡眠は、セロトニンという物質と深いかかわりがあるとされている。不眠や睡眠障害を起こす時は、決まって脳内にセロトニンが減少しているからである。このセロトニンは、トリプトファンから作られるので、牛乳やチーズを勧めるのである。

 逆に、就寝前に濃いコーヒーや紅茶を飲むのは禁物。コーヒーや紅茶に含まれるカフェインが交感神経を刺激し、眠気を抑える働きがある。

●不眠症解消のさまざまな試み

 さらに、基本的な問題として、入眠の際、肉体的に変調を覚えるようでは寝つくこともできない。端的な例は痛みである。頭痛、歯痛、内臓の痛みなどがあれば、そちらに神経が奪われて安らかな睡眠どころではない。快眠を得ようとするならば、痛みの原因を取り除くこと。この点は、かゆみ、尿意などの刺激も同様である。

 よく、あまり熱くない風呂に入れば、寝つきやすくなるという。これは、血行をよくし、筋肉の緊張を和らげて、交感神経の働きを低下させるためである。手足を温める方法も、同じく交感神経の働きを抑制し、眠りを誘うためである。

 この点、寝る前に、刺激の強いものを避けることも必要である。テレビや刺激的な音楽、食べ物などを就寝の二時間前には避けるようにする。音楽は静かで、ゆったりした曲で、心が安らぐなら効果的。しかし、テレビはどんなものでも睡眠の妨げになる。セックスは可であるが、終わったらすぐに寝るようにする。

 眠りのパターンを作ることもよいだろう。物理的パターンは人それぞれだが、自分なりの小物を使用する方法である。例えば、枕、本、音楽、寝る姿勢、何かを手に持ったり抱く。あるいは、寝る前にトイレにゆくという行為でもいい。一種の自己暗示だが、こうすれば眠れるというパターンを作り、習慣にする。

 心理的パターンとしては、他のことは考えず、あることについてのみ考える。例えば、未来のこと、過去のこと。小よりは大、現実よりは空想、人間よりは自然。特に身近な人間のこと、金銭のことは考えないようにする。寝不足でも、朝は決まった時間に起きるようにしてほしい。

 こうして不眠症を防止しても、神経が高ぶり、どうしても眠れない場合は、無理に寝ようとせず起きる。眠れるまで心の中で、「ナムアミダブツ」を続けるのもよいし、静かに瞑想するのも効果的である。強い照明、たばこは避けて、リラックスできる場所を選ぶ。

 労働が精神労働のほうに片寄っていて、肉体は眠くなく精神だけが疲労していると、眠いようで眠れないという現象が起こることもあるが、この時は丹田呼吸が役立つ。

 眠る時に、眠りたいと考えたり、眠らなければならないと考えたりするから、眠れないのである。丹田に入っている息を、ゆっくりゆっくり鼻から吐いていると、眠れる。丹田に息があるわけもないのだが、そう錯覚して息を吐いていればよいのである。

 要は、落ち着きは体から出るもので、気持ちからは落ち着けないものだから、フーッと大きく息を吐いて体の力を抜き、肉体をゆったりとくつろがせること。体がピリピリと張り詰めていては、睡眠物質の分泌も止まってしまうだろうが、肉体が意識から解放されることによって、再び眠りの潮時が訪れてくるはずである。

 精神的条件についていうと、すでに述べた通り、睡眠に対する異常な執着から、まずは解き放たれることが肝心。何とかして眠らなければと、意識が焦れば焦るほど逆効果になってしまうもの。肉体も落ち着かず、ひとりでに緊張しているものである。人間は必要があれば眠れるものなのだという強い心、タフな精神を持つことである。

 その方法としてよく紹介されるのは、セルフコントロール法とか、マインドコントロール法などと呼ばれる自律訓練法である。自分の心を思い通りに律しようというわけである。自己催眠により、自らを眠りに誘導していく。

 環境条件については、眠りやすい状況を整えることが大切。マットの硬さを好みで選べる快眠ベッド、人気のウォーターベッド。通気性に優れ、しかも保温効果がある羽毛布団。そばがらなど天然素材の枕。果ては、快眠のためのBGMや香り製品もあるから利用したらどうだろう。

 最近は、快眠を得るために住宅建設に当たって、寝室の間取り、設計、インテリアに神経を払う傾向も強くなっているともいう。

∥眠りの質をよくする方法∥ 

●早寝早起き、正眠法の奨励

 ここまで、睡眠の科学的考察、現代人に特有の眠り現象、不眠症の分析と対策などについて述べてきたのに続いて、大自然の真理、原則にのっとった睡眠の仕方、いわゆる正眠法というものについて解説していくことにする。

 正眠法の第一の要諦は、早寝、そして早起きということにある。昔から「早起きは三文の得」などといって、早起きを奨励しているが、どうしたことか早寝については、それほどやかましく論じられていないようである。

 実は、早起きよりも早寝にこそ、人間の健康や運命をよくするカギがあるのである。

 なぜならば、いくら早起きが習慣になっていても、「早く寝るのはもったいない」などといって、夜が更けてから就寝したのでは結局、睡眠不足に陥り、寝ぼけた状態で一日を空費することになるからである。

 また、睡眠時間の長短よりも、睡眠の深さが問題であるともいわれ、それも確かに一理あるが、そういう人に限って早く永眠する傾向があるそうである。

 だからといって、ダラダラと朝寝坊をせよといっているのでもない。本来、人間の体には自然作用が働いており、早寝をすれば当然、早起きができるようになっているものなのだ。

 そこで、日暮れとともに就床し、夜明けとともに起床して働くというような、宇宙のリズムに合った生活をするならば、人間は誰でも健康で、賢明で、堅実な三拍子そろった人格者になれる。

 読者の方々には、実生活の上に体験、認証してみてほしいもの。そして、あなた自身が素晴らしい人格者となって、周囲の人たちを教導し、花も実もある日々是好日の人生の旅路を歩んでもらいたいものである。

 ところが実際、早寝ということは、簡単なことのようだが、これはまた現代人にとっては難事業ではないだろうか。夜遅くまで残業をしたり、深夜テレビを見たり、日が替わるまで酒を飲み歩いたりと、体に染みついてしまった長年の生活リズムを改革しなければならないからである。

 理屈では効用がよくわかるから、早く寝ようと思い思いしながら、なかなか暮らしのサイクルは変えられそうもない。ついつい十時になり、十一時になるという方もおられよう。

 ともかく百日続けてみることである。「石の上にも三年」というではないか。早く永眠する代わりに、毎日、日が暮れたら早く往生すべし、明日がある。遅くとも八時には寝るがよい。夏でも八時、冬は七時でもよい。

 現代は社会が華やかで、一人敢然と、落ち着いては眠れぬものである。それでも一日にわずかの努力が、三年で死ぬか三十年生きるかの交換条件となると聞いては、考えるまでもないこと、早寝と決めたのである。

 従って、数十年間にわたって、毎朝早く、はっきり、すっきりした心境、元気いっぱいな肉体で目が覚める。

●天地に定められた時間で眠る

 現代社会の人間は多く、習慣的に寝ることをする。これは間違いである。宇宙の原則、生命の原則からいえば、夜は八時に寝て、朝は四時に起きるのがよい。

 現代社会の時刻というのは便宜的な取り決めであり、夜が明けたら起き、日が暮れたら休むように、人間の体内時計は太古の昔からセットされている。

 つまり、標準時間というものが、天地に定められているわけだ。昼の正午には、どこの世界でも太陽が天の真ん中にくる。夜の午前零時は、夜の真ん中である。そして、方角に南北があるように、時間にも南北がある。南が正午で、北が夜の真ん中の午前零時。

 十二時を中心として、夜は八時に寝て、朝は四時に起きる。眠る時間は八時間。日本などは春夏秋冬がまことに正確に訪れる。この規則正しい自然の運行に恵まれた日本、それゆえにこそ日本民族は世界で一番優秀なのである。

 生理的に見ても、人間の体温は、午前二時から明け方の四時頃までが一番低い。代謝機能も低下しているわけで、最も休息を必要としているのだから、夜中の十二時前には眠るべきだ。

 昼の頂点が正午であるように、夜中の十二時は夜の頂点、夜気最も沈んで、人体というバッテリーに、明日のエネルギーが最高潮の状態で、チャージされている時である。従って、眠るのは遅くとも十時前でないと、せっかくのチャージの効率が悪くなってしまう。

 大自然によって決められた昼夜の「時」は機会であり、個人が自由に使えるものだが、自然の摂理に反すると、人間の生理に不都合が起きるわけである。

 冒頭で述べたように、正眠法では、早く寝る、十分に睡眠をとり、早起きすることを第一の要訣としている。自然のリズムを壊さぬようにすべきであろう。

 早く眠れば、睡眠もそれだけ深いはずである。その証拠に、夢をあまり見なくなるだろう。俗に、夢は「五臓六腑の疲れ」などといわれるから、早く寝るようになったお陰で、内臓の機能も生き生きしてくるはずである。ともかく、よく眠れるようになることは事実で、寝つきもよくなる。枕に頭をつけると、たちまち眠りの深淵にグングン引き込まれてしまうだろう。

 こうして熟睡した時、肉体全体が組織も器官も、機能も一致する。この時が生命、生活上には重要な問題、重大な時である。

 上手に熟睡すれば、たとえ眠る時間は少なくても、この間に体は安らぐ。眠りの中でエネルギーが作られる。バッテリーの充電ができるように、宇宙の生命エネルギーが肉体の中にみなぎる、到来するのである。眠りの中に体力、気力が作られるのである。

 この力のない人は、耐久力がない、病気にかかりやすい、身も心も健全でない。熟睡できる人は、弱そうでも強い。確かな人、善良な人、賢明な人たり得るのである。

 眠りは、絶対世界と相対世界を結ぶ第一の機会である。生かされ生きている、他力と自力を結ぶ素晴らしい方法である。

 眠りという自然作用は、今日一日の疲れを明日のエネルギーに切り替えられる。今日一日、命を懸けて一生懸命働くがよい。愚かな人も賢明になる。弱い人も丈夫になる。眠りの中においては、足らざるものが補われてくる。病人は病気が治る。愚かな人には知恵が出る。疲れた体には新しいエネルギーを与えて、翌日に備える。

●楽しい眠気に乗じて休む

 編集子が説く早寝をするということは、眠くなった潮時に乗じて寝るという意味でもある。そこで、正眠法の第二の要諦は、眠くなったら寝るということにある。

 人間誰もがせっかくの寿命を全うするには、眠くなったら寝るという原則に目覚めて、夜は早寝を心掛けるべきである。すでに述べたように、睡眠にも適当の時がある。入眠時間の最良は八時、次が十時、限度は十二時。時をはずした眠りは正眠とならない。

 夜は仕事をしないで体を休め、宇宙天地大自然に生かされているという自然の順序に任せて生きれば、誰でも、日が暮れたという宇宙の構造、仕組みからいえば、眠気を催すのが当然である。そうしたことに慣れると、非常に眠気を催してくるものである。

 眠気というものは、とてもよい気持ちで楽しいもの。眠くなった時にそのまま寝たら、どれだけよい気持ちかしれない。誰もそれは体験ずみであろう。

 床の中に入ってきちんと寝るのは、無論楽しみだけれども、眠くなったらそのままそこへ無造作にゴロリと寝る。それ以上の楽しいことはないだろう。

 また、居眠りというのも、案外楽しいものである。人間の楽しさというものは、意外とそんなところにあるものである。真の楽しさ、無上最高の楽しさ、一番楽しいというものは、そういうところにあるのである。

 ともかくも、心身の健康を保つためには、夜は眠気がきたら、その眠気がゆきすぎないうちに、その眠気に乗って眠るということに理がある。これは、宇宙からのお誘いであると考えなければならない。

 人間が自分の努力で性格の悪いのを直そうとしても駄目だし、精神的な悩みや苦しみ、つまらない気持ちを転換しようとしても、そう簡単に自分で自分の気分を転換することは難しい。

 しかし、その時に眠ることができたら、いっぺんに気分は転換する。だから、眠れないという人は、一番気の毒である。

 この眠くなったら寝ろということは、何でもないことのようであるが、潮時に寝て、十分に睡眠のとれた翌日には、実によく肉体の神経が働くのである。

 神経は大変な力を発揮するものであるが、神経の力ということを誰も知らないし、気がつかない。

 眠っているうちに、今日働いた疲れが明日のエネルギーに切り替わるということも、神経の働きによって見事に行われるものである。これが人間を成長、発展させる原動力であり、条件なのである。

 寝ている間に細胞が調整される。新しい活動力、エネルギーをいっぱいによみがえらせるということは、眠くなったら寝るという条件によってのみなされる。

 人間は、眠りが足りておりさえすれば、食べ物は何でもよい。「あれを食べよ、これがいい」などということは、二次的な問題である。季節の物を食べてさえいれば、人間の体は健康にならざるを得ないように、完全にできているものである。

●夜遊びは神経を損なうもと

 十分に眠れて体がすっきりしている人、神経が落ち着いてしっかり働く状態にある人は、五官がはっきりして、すべての物事が正確に受け取れる。

 このような人は、その体がそのまま他力を受けることができるから、他力の力で自己の意識、すなわち心と称するものの動揺、暴走を抑えて、静寂ならしめることができるのである。すなわち、他力によって、暴れやすい自己意識をくぎづけにすることができるということを知っておいてもらいたい。

 意識が暴れると、その結果、五官が乱れる。自己意識が強くて、欲望や感情に走ると、人間の五官作用というものは、正確に働かなくなるのである。

 人間の自己意識というものは、常に満足することがない。一つのことに満足すれば、すぐにまた次の欲望、野心を起こす。要らざること、間違ったことを次から次へと求めに求めて、果てしがないのである。人間の意識には果てもなく、道も法もない。

 毎日がつまらないから楽しさを求め、刺激を求め、夜遊びに興じるなどと、いろいろなことをしたがるが、それらがみな肉体を弱め、神経に負担をかけているのである。結局は、自己の運を悪くするのみである。

 神経がこの負担に耐え切れなくなると、それぞれの臓器に影響してくるようになる。精神的な面からの肉体への圧迫も、みな体に変化を起こしてしまうものである。人間が生きている以上は、どんな人にも多少の圧力はあるけれども、特に心からくる圧力の強い人は、人一倍、自己の圧力によって苦しみ、悩まされるものである。

 しかし、その圧力も、太陽が沈んだ後は、少し低くなる。

 昼間はブラブラしている人が、夜ともなれば自己の圧力が下火になって、いくらか気が楽になるために、意識がはっきりとして、いろいろな遊びを求めて歩くということになる。眠らねばならない時間に遊び歩く人の神経が、どれほど疲労するかは、想像以上のものがある。そして、明くる日はまたボンヤリしてしまう。

 こういう生活習慣を持つ人の人生は、毎日、圧力や感情に支配されて、常にイライラ、そわそわした、動揺常なき状態になってしまうものである。

 人間の肉体は、暑さや寒さ、昼と夜というように、気象的な条件にも影響されるが、物理的な面からも影響を受けている。その上に、感情や意識が体を責めさいなむのであるから、たまったものではない。

 従って、人間の一生というものは、知識があるとか、頭がいいとかいう問題とは別に、また、金力や権力を持っているという幸せとは別に、幸福への条件があるということをよく知って、計算に入れておかないと、それがやがて個人ばかりでなく、社会的な幸、不幸にも広がってゆくものである。

 ようやく社会的に価値を認められ、名を成した人が、もろくも五十歳、六十歳で死んでゆくなどという悲惨な結果になってしまうのは、この人生の計算不足のゆえである。

●睡眠中に浄化される老廃物

 物に恵まれた地位や立場が欲しいなどという意識的欲求は、誰でも実に根強いものがある。借金してまで遊びたいという欲望などは、次から次へと苦しみを作っていくばかりである。すべて、こういうことは意識がするのである。これが癖になると、なかなか直らないものである。

 一カ月や二カ月で作り上げた、こうした習慣を元に戻すために、一年も二年も時間がかかる。また、癖になってしまったら一生直らないという場合もあるから、恐ろしいことである。

 本当に自分を知り、自分を生かしていくためには、このことをしっかりと認識して、人生の計算をするべきである。

 それにはどうしたらいいか。眠くなったら寝よ。十分に休め。ただそれだけでいいのである。理屈をいわずに「なるほどそうか」と、素直な気持ちで実行すれば、必ず効果があるはずである。

 眠くなったら寝よ、早く寝よ、十分に寝よ。それが人間をつくり、維持するすべての基礎なのである。

 意識と体が一つになって、これを実行すれば、自分の幸せはもちろんのこと、その人には人がついてくるものだ。

 これをやるかやらないかは、聞く人の自由であるが、その差が大変な違いを作り出すのである。

 水をかぶれとか、断食をせよ、などというのではない。道徳、倫理を守れというのでもない。神や仏を信仰せよともいわない。いろいろな形式に従って、精神修養をせよというのでもない。

 この人間の第一課、第一の条件、この基礎が実行できたら、真理の話は素直に受け取れるものである。

 体は丈夫でも、神経が弱くなってしまうと、本当の力を発揮することができない。人間として与えられている力をフルに出すことができない。これは、体の機能の順序が狂っているからである。

 現代人は、意識を最高のものとして、精神至上主義などといっているが、その根底に肝心の肉体の力がないために、精神力も意識も、その能力を十分に発揮することができないのである。肉体の力が弱いということは、すべての基盤がもろいということである。

 しかし、力といっても、この場合、圧力や感情のみを使うような自力の働きでは、どうにもならないのである。

 現代人は、子供の時から、あまりにも早く意識を作りすぎており、自然から成り立ってくる力を無視してしまうから、本当の健康者が少ない。健康そうに見えても、本当に健康でないために、水とか食べ物などからの有害な影響をつい受けてしまう人が多いのである。

 睡眠時間を八時間とれば、神経が完全に働くから、体内の老廃物をそれぞれの場から体の外へ排出してくれるものである。呼吸からも、皮膚からも、気体として発散してしまうし、また尿にして排出する。朝の目覚めの時の尿には、色がついているのもこのためである。

 どんな健康な者でも、睡眠中に作られる小水には色がついていて当たり前。寝ている間に、自然の働きが、そうした素晴らしい浄化をしてくれるからである。神経を使いすぎた場合にも、尿に色がつく。病気で熱が出た時にも、色は違うものである。

 尿の色の具合で体の状態がわかるほどに、人間の体というものはうまくできている。これを完全、精密に検査することができれば、内臓の状態がわかるものである。それを本当に検査する方法ができれば、それだけで人間の健康状態はよくわかるはずである。

 人間の体の機能は、素晴らしい値打ちを持っているものである。そして、生かされているという条件の上に、成り立っている生命が人間である。体の器官、機能は、実に巧妙に働くようにできている。

 この働きをいかに故障なく運行せしめるかということが、生きていく面のすべてにかかってくるのである。

 生きていくことは、難しいことではない。眠りと呼吸を真理的に行い、暑さ、寒さに順応してゆきさえすれば、年を取ってもその働きが弱るということはない。

∥昼寝、仮眠、うたた寝の再認識∥

●「気」の充電は夜に行われる

 ここまで述べてきた睡眠というものは、「気」を肉体に吸収するという観点からも重要である。

 その意味でも、夜は十分に眠ることである。自然に任せて眠ると、肉体が眠っている間に、宇宙の「気」を吸収することができる。宇宙ドックに身を横たえて、眠りの中から宇宙の「気」を十分に体に受けるのである。

 この「気」を吸収するという時は、夜の大気によって肉体が吸収するものであり、昼間の太陽が出ている時には、「気」を吸収はしているけれども、絶対の「気」ではなく、調節しようとしている「気」なのである。

 逆に、夜というものは内容的な面の一切、「気」を充実させる「気」というものを蓄える。要するに、バッテリーに充電させているようなもので、昼間はそうはいかないものなのである。

 昼間も大切であるが、いかに夜が大切であるかということであり、それにしてはあまりにも、人間が夜というものに関心が薄すぎるというのは、重大なことである。

 夜は、眠っていて自己意識を伏せているから、特に「気」を吸収することが自然に、楽にできるわけだ。

 夜の「気」というものは、たとえ風があろうが、鉄筋の蔵の中であろうが、それは宇宙的な「気」であるから、別に窓を開けておくからいい「気」がくるというものではない。 夜のいい「気」の中においては、万物が完全に法則、原理に従って宇宙秩序、すなわち生命の生理的秩序に合わせて眠るのである。

 夕方、太陽が沈むとともに、地球上の「気」は変わってしまう。一日のうち、日の出と日の入りは「気」の変わり目、正午と夜中の零時にも境目がある。昼には昼、夜には夜の「気」があり、互いに異なる。空気の働きも違う。

 人間の肉体も、昼と夜とではまるで別物のように変わる。肉体は数え切れないほど多くの微小な細胞からなっているが、昼と夜とではその細胞のおのおのの働きが変わるからである。そのそもそもの原因は、これも「気」にある。

 肉体が変われば、その中に含まれるあらゆるものが変わる。目に見えるものも、見えないものも。神経も変わり、感覚も変わる。従って、昼と夜とでは人間の生き方も変わってくる。生き方というよりは、生かされ方といったほうが適切かもしれない。

 人間は夜の「気」に合わせて眠ることをせず、こうこうと電灯をつけ、夜まで昼の延長をやっているから、昼夜兼行で自らの命を燃やし切ってしまうのである。そして、病気になり、早死にする。あるいは、体の自然作用が狂って、健全に働かないから、年を取ると、ボケてしまうのである。

 よく眠ることが万事の根本である。眠りの足りない人は、気息が整わず、基礎工事のあやふやな建設と同じで、浮世の波風に耐えられぬこととなる。

 人間は一日にたとえ八時間であっても、起きて、動いたり、働いたりしていれば疲れるに決まっている。疲れない体というものは一つもない。子供でさえも、動けばくたびれるに決まっている。

 そのように、体というものは動いたり、働いたりして、疲れているわけだから、その疲れをいやして早く力にしなければならない。

 その疲れをいやし、力にしてくれるのは意識ではない。それは、夜の「気」というものが、今日の疲れを明日の力にしてくれるものなのである。

 また、人間は「気」の発動によって行動するから、気が乗れば気合が入って、五体にも「気」がみなぎってくるが、気落ちすると、気がくじけたり、めいったりして、万事に気後れしてしまう。毎日の生活の中で、四六時中「気」は働いているから、あまり気を使いすぎると、消耗して疲れるし、肝心の時に気が散って失敗するものである。

 「気」を入れ替え、気力を充実させるためにも、夜はできるだけ早く寝て、「気」を養うことに努めよう。せっかくの休日に遊びほうけて、疲れ果てるなどは、愚の骨頂である。

 「気」の乱れを静め、平静を取り戻すにも、眠ることが何よりの方法である。困ったことがあってもクヨクヨせずに、まず一眠りすることだ。「果報は寝て待て」といわれるように、十分に眠れば判断力も増し、勘もさえて、道はおのずから開けてくる。

 反対に、眠りをおろそかにしている人は、朝起きても気分がさわやかでなく、「気」によって生命力を躍動させることができない。眠気や疲れが肉体の中に残っていると、新しい「気」が入ってこないから、「気」はますます濁り、意気消沈してしまうことになる。

●健康にとって睡眠に勝る妙薬はなし

 風邪を絶対ひかぬ秘訣は、毎日早く寝て十分な睡眠をとって、肉体に「気」を充実させておくこと。風邪をひくというのは、体の中の「気」が張り詰めてなく、寒い風や、ばい菌を引き込むからで、体内に生気が充実していれば、風邪をひくことも病気になることもない。

 肺結核の病院の医師や看護婦は、何十年も患者と生活を共にしながら、病気に侵されることはない。

 それでも風邪ひきらしいと感じたら、早めに寝て、十分眠ること。眠れさえすれば一晩でケロリと治るだろう。

 このように睡眠が疲労をいやし、新たな活力の源となることは、私がここで改めていわずとも、誰でも経験的に知っている。例えば、風邪をひき、医者に診察してもらった場合、決まって「今晩は薬を飲んで、早めに休むことですね」とアドバイスされるはずである。

 風邪を早く治すには、風邪薬を飲むのと同様、十分な睡眠が必要である。また、いくら薬を飲んだからといって、睡眠不足では軽い風邪も治らない。

 睡眠は疲労を回復し、ひいては風邪を治す作用を有することは、生理学的にも証明されている。人間の体は、病気に対する自然の免疫力と、治癒力を備えているのである。その免疫力と治癒力は、睡眠中に作られる。病人で十分睡眠がとれる場合と、とれない場合とでは、回復に差異が生じるのはそのためである。

 日本には、昔から「早起きは三文の得」といって、早起きを奨励する気風があった。その反面、睡眠は何ももたらさない非生産的な行為のように思われがちである。

 しかし、それは誤解であり、人の睡眠は「気」を充実して疲労を回復し、病気を治すのである。

 眠りは万病の薬、体を寝床の上に投げ出して、生かされているという気持ちになり、すべてを宇宙生命の絶対力に任せ切れば、風邪ひきを機会に体を丈夫にし、人生観が一変し、悟りの開けるもとにもなる。禍福転換、常に真理の妙用を忘れてはならない。

●眠りは子供の「気」を養う

 睡眠に関することわざで、「早起きは三文の得」とともに、よく使われるものに「寝る子は育つ」がある。

 親の我が子に対する行き届いた管理は必要だが、独りで育つ子供のじゃまをしないで、よく見守って、十分に眠らせること。特に、子供は早く寝かすがよい。年齢にもよるが七時結構、八時以後では遅すぎる。

 子供も大人も早く寝ることによって、体の中に「気」の力が作られてゆく。その中から機能が発達してくる。その機能の中から、また能力が芽生えてゆくのである。そこへ必要なものを時に従って仕込んでゆきさえすれば、子供の体の中には、いくらでも力が出てくるのである。その力は成長という時期にあるだけに、なおさら素晴らしいのである。

 例えば、子供は全く純真であり、純粋であるから、ごはんを食べている間でも、眠くなるとハシを持ったまま、すぐにそこへ横になってしまう。それを起こしてはいけない。「ごはんを食べなさい」と、無理に食べさせるようなことは、絶対にしてはいけない。

 ごはんを食べることよりも、眠ることのほうが先であり、自然の原理であるから、それに従ったほうが利益は大きい。そのまま床に寝かせるなり、風邪をひかないように布団を掛けてやればよい。

 肉体のすべてが、完全に自然機能を発し、生涯百年の生命、百年の魂が用意できるまで、子供の自然発動に親が干渉してはならない。

 子供が自然に育ってゆく有り様をよく見ていると、特に新生児の場合は毎日、安らかに眠る。この眠りというものが、新生児にとって一番大切なものである。この眠りの中で、一生の「気」を養っているのである。

 新生児は、眠りの中では「気」を養っているが、目覚めの時には、何がだんだん意味されてゆくのか、わかってゆくのか、自然だけが知っていることである。親も知らない。科学の力でもまだわからない。親の気持ちで、親の判断で、親の一方的な考えで子供を育ててはならない。子供は自然が育てているのだから。

 自然が育てるということは、宇宙の生命を生命として生きる、ということである。宇宙の生命とは、宇宙の意思であり、法則であり、約束である。それを能力ということができる。この宇宙の能力のもとに、子供は生かされているのである。

 宇宙の能力の中心をなすものは、「気」である。「気」は空気の気とは区別する。「気」は人間の体に宿って気力となる。この気力がなかったら、肉体はヘナヘナとなえてしまうというほどのものである。

 特に、乳児の体は、宇宙の「気」を吸収しやすくなっているから、この時期は、静かにしておいてやるのが一番である。なるべく静かな場所に寝かせておけば、子供の体は常に健康に守られて育つ。「寝る子は育つ」という通り、寝ている間は成長ホルモンの分泌も盛んになっている。

 親は、子供が泣いたら、その泣き声で、「これはおなかがすいたのだな」とか、「おむつがぬれたのだな」とか、その原因を聞き分け、見分けて適宜、対処するだけでよい。

 親が乳児をあまりチヤホヤしすぎると、子供の神経は、いやがうえにも高ぶってくる。なぜなら、子供の神経系統は、口がきけないだけに、大変敏感な状態に置かれているからである。乳児を抱いて揺すぶることは、やたらに神経を刺激することになり、夜泣きの原因ともなる。

 乳児を寝かせるには、昼間は直射日光を避ける程度で、明るいところがよい。夜は暗いのが当然なのだから、テレビの音や電灯の光などの刺激に、いつまでもさらしておかないで、暗くして寝かせるべきである。

 昼間眠る乳児のために、眠りやすいようにと、わざわざカーテンで光を遮って部屋を暗くしてやる母親がいるが、これは間違いである。昼間は明るいところに寝かせておけばよい。

 こういうことをはっきりさせておくところに、自然な育て方のコツがある。自然の状態の中で、体の細胞組織が組織化され、神経の働きが健全化されてくるのである。

●睡眠法の工夫について

 乳児を寝かせるコツに続いては、大人自身がよく眠れる工夫を述べてみよう。

 眠る時は、夕日の落ち込むように、疲れたままの体を眠る「気」に任せて、さっさと寝ると、ぐっすり眠れる。これが熟睡の秘訣である。

 論より証拠、必ず一度は訪れるはずの、眠くなる自然感覚の潮時に早く眠れば、熟睡ができ、宇宙ドックの中の八時間に、生命は一新する。

 また、眠るために床に就いたら、姿勢を楽にして、全身の筋肉の緊張をゆるめるがよい。真の落ち着きというものは、心や意識からではなく、肉体をくつろがせることによって生まれるものである。

 せわしなく呼吸することもやめ、吸った息を足のつま先に回すようなつもりで、深い呼吸運動を繰り返す。その状態を続けていると、いつしかコンチュニアム(連続体)が自己の中に没入し、一体となったことが知覚される。

 マイステル・エックハルトのいうイスチヒカイト(如実)の境地であり、半意識の中で天地万有と自己が一体となる。

 そして、眠りに落ちる時には、自然に口を閉じるがよい。「養生訓」にも、「口をひらきてねむれば、真気を失ふ」とある。

 しかしながら、高齢者にとっては、春は眠くなるといっても必ずしも眠りは深くならないように、深い眠りを得るためには、もう一工夫したいものである。

 そこで、健康敷布、健康掛け布とでも名づけようか、木綿製の寝具を作って、真っ裸で寝ることを奨励したい。雪国の人は冬でも素っ裸で寝るが、それは自然の知恵で、そのほうが暖かくもあり、自分の体から出る放射熱で温まるという。それは、地球上における放射熱によって万物が健全に成長、繁茂し、あるいは発展する、宇宙の理と利にかなったことなのである。

 四季を通じて、敷布、掛け布はできれば毎日でも、日光や風にさらして、体温や湿気を除く。洗濯も頻繁にして、なるべく衛生的に保つようにしたい。その中で裸で寝る味は、まことによきものである。

 夏の寝床では、厚地のタオルケット一枚で、涼しく、温かく眠れるだろう。これは空気を着て寝る方法で、生理的にして合理的、よき方法だと思う。

 枕(まくら)については、パンヤやソバガラなど、中に入れる材質にはいろいろあるが、最近は自然志向に沿って、枕の中に植物や、その芳香を入れるのが目につくから、一度利用してみるのもいいだろう。芳香枕カバーや芳香シーツもあるという。

 実験によっても、芳香物質を入れた枕などを使うと、指先などの末しょう部分の温度が使用しない場合より高くなり、神経系がより鎮静化していることがわかった。芳香が睡眠に有効なことが確かめられているのである。

 静か、あまり明るくない、温かい布団といった環境に、もう一つ、枕も工夫して、気分のよい睡眠をとり、心と身体の健康を高めよう。

 老人になると、小用が近くなるから、寝床のそばへ小用のタンクを備えておくことも忘れずに。

●ごろ寝や昼寝を見直すべし

 最後に、夜の眠りばかりでなく、日中の昼寝、うたた寝、ごろ寝などの効用を述べて、「眠りの知恵」を締めくくる。

 例えば、休日のごろ寝は一番貧しい過ごし方とされているが、これは必要な睡眠しかとらない人には味わえない快楽。体もリフレッシュされるし、単なる怠惰ではない。

 電車の中での一眠りも捨てがたい。電車内で居眠りできるのは、日本社会が全体として安全であることが大きく、豊かな文化といえる。

 反面、外国にはある昼寝という習慣が制度化されていないから、日本人は自分で眠りを見つけているともいえる。日本では、夜眠ることが自明の理となっているが、人間はもともと、一日に何度か眠る多相性睡眠の傾向がある。世界的に見れば、昼寝をしないのは先進国の一部で、熱帯や地中海の地方など、昼寝をする国のほうがずっと多いともいう。だが、ペルーやスペインでも、シエスタ(昼寝)の習慣は廃れつつあるようだ。

 この昼寝を医学的に見ると、十五分ぐらいの短い昼寝が意外に効果的なのは、すでに実証されているところである。

 昼寝の効用を調べたある調査によると、十五分間の仮眠後、眠気の度合いや、刺激に対する反応時間を測って、寝る前と比較すると、眠気は約十五パーセント、反応時間は約二十パーセントも改善されていた。

 十五分以上の眠りは、深い眠りに導く。深い眠りから急に起こされると、しばらくボーッとして作業能力が低下したり、事故率が上がるという。

 また、短時間の仮眠が、タクシー運転手の疲労回復や、事務職の能率向上に有効との別の研究結果も出ている。機械は連続して動かしていたほうが効率がいいが、人間の脳は時々休ませたほうが能率が上がる。短時間眠ったほうが、ダラダラ仕事を続けているよりも、能率は圧倒的に改善されるのである。

 昼寝、仮眠、うたた寝は罪悪ではない。脳の疲れをとってくれるし、大切な行為なわけである。

 仕事をしている時は左脳を使うが、寝ている時には右脳の働きが相対的に活発になるもの。ウトウトしている状態などは、レム睡眠ではないのだが、夢と同じようなものを見る。ウトウトすると、右脳より先に左脳が休んでしまうからである。こうして右脳を使うと、直観、ひらめきが出てくることもある。

 考えあぐねて壁にぶつかった時は、意識的にウトウトして、右脳で発想の転換をするのも一つの方法である。寝た後は、いい企画が浮かびやすいから、企業はもっと仮眠室を設けるべきではないだろうか。

 果報を得んとする者は、まず体を投げ出して寝、自然に湧いてくる力の発動を待てということである。

 企業に勤める人ばかりでなく、誰もが眠気を催したら、昼間でもそこへゴロリと寝る癖をつけること。十分間、十五分間の眠りでもすっきり頭がさえ、はっきり体が澄んで元気になる。勉強中でも家事中でも、居眠りするより寝るがよい。体には睡眠以上の妙薬はない。

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