2022/10/04

🟩眠りの知恵

∥人生の三分の一を占める行為∥ 

●人間にとって睡眠とは何か

 なぜ、我々人間は毎日、毎晩、床の中で眠らなければならないか。取り立てて考えたことがあるだろうか。

 安眠できない不眠症者はともかく、一般の人間は日常生活において、特別に意識もせずに睡眠を迎え、睡眠に入ることができる。疲れたら眠って、疲労を回復する。つまり、人間にとって睡眠とは、日常生活を継続するためのごく当たり前の自然の行為ということなのである。

 それゆえか、昔から、覚醒(かくせい)時の人間の振る舞いや行動が礼儀作法とか、心得として関心を持たれていたのに対して、近代に至るまでは、人間の睡眠行為が研究の対象とされた様子がない。伝統的な日本のことわざや格言などを見ても、睡眠というものが空気や水のように身近な存在だったことがわかる。

 俗に「寝た間が極楽」という。夜、眠っている間は、誰でも無意識になれる。現実の心配事や苦労も、その時ばかりは忘れられ、極楽の境地を味わえるということである。

 顧みれば、封建時代、重い年貢に苦しめられ、朝から晩まで働きづめの毎日を送っていた農民は皆、このような心境にあったのだろう。武士のように刀は持てないけれど、商人のように晴れ着は着られないけれども、彼らと同様、農民も日が暮れれば睡眠だけはとれた。時間の長短はとにかく、睡眠はつかの間の幸せを運んでくれたのである。

 現代社会では、時によっては仕事で徹夜をする人もいるだろうし、広い世間には、夜と昼を取り違えたような暮らしをしている人もある。「町にネオンが輝き出すと急に元気が出てくるんだ」と、夜行性の動物みたいに、夜がくるのを待ち焦がれている人にも出会う。

 しかしながら、やはりこれは例外であって、本来、人間の眠りと目覚めは太陽のリズムに合わせて作られている。夜は眠り、昼は目覚めている。

 その肉体が宇宙天地大自然によって創られ、万有の法則に従って生かされている、いわば小宇宙である人間は、昼と夜という天の運行のリズムによって生命が支配されている存在であり、夜明けとともに起きて働き、日没とともに休み、夜の闇(やみ)に包まれて眠るということは、単なる生活上の習慣ではなく、宇宙の厳しいおきてであり摂理なのである。

 編集子にいわせれば、人間が十分眠れたということも、目の覚めたということも、みな自分の力ではない。我々を眠らせ、目覚めさせているのは大自然の力である。人の一生を支配するものは、昼夜にわたる天の運行リズムである。

 いかに文明が進もうとも、人間から睡眠を駆逐することはできないだろう。

 それどころか、一説には、すべての高等動物は、睡眠を奪われたら、ほぼ十日間で死ぬといわれている。

●人生の三分の一は眠り

 人間の天寿は百歳から百二十歳であるが、ある人の寿命を七十歳として考えても、一日ざっと八時間くらい眠る人間が多いことから、三分の一を床の中で過ごすとして、二十三年間は眠っている計算になる。十日間といえば、人間の一生の睡眠時間の中では、わずか〇・一パーセント程度にすぎない。

 いかに眠りが大切なものであるかがわかるだろう。

 生まれたばかりの赤ん坊のうちは、二十時間はたっぷり眠るものである。一日のうち、四時間しか目を覚ましていないわけだ。生後三週間になった赤ん坊は、一日二十四時間のうち、六十三パーセントの十五時間ぐらい眠るという。大人の睡眠時間は普通、八時間で、一日の割合はおよそ三十三パーセントだから、赤ん坊は倍も寝ていることになる。

 アメリカのクライトマンという学者の研究によると、新生児はいつでも眠り、いつでも気ままに目を覚ます。二十四時間を周期とする、覚醒と睡眠のサイクルが確立されるのは、生後六カ月ぐらいたってからだという。睡眠時間が七、八時間になるのは、十五、六歳頃からである。

 厳密にいうと、人生の三分の一以上は睡眠だから、もったいないからと省略するわけにもいかなければ、まとめてすます寝だめもできない。「デカンショ、デカンショで半年暮らす。後の半年や寝て暮らす」と歌にはあっても、実際に半年もの長い長い眠りがあったら大変。

 反対に全く眠らなかったら、これまた大変である。人間は発狂し、死んでしまう。

 断食ストはあるが、断眠ストにはお目にかかれないわけである。昔の中国には、断眠の刑という重い刑罰があったようだし、拷問に眠らせない方法があったのも、同じような理由からだろう。

 人間は、人生の三分の一を、眠りに当てなければならないようにできているのである。 大ざっぱにいって、目覚めが三分の二の十六時間、眠りが三分の一の八時間というリズムは、地球上どこへいっても変わりない。暗い夜が何カ月も続く冬の南極でも、やはり眠りと目覚めはこの割合で繰り返される。太陽が沈まない、つまり白夜のシーズンの北極圏でも同じである。

 我々人間は、これだけはどうすることもできないのである。

●生体のリズムを刻む体内時計

 人間は一日二十四時間の周期で、覚醒と睡眠を繰り返しているが、考えてみればこれも不思議な習性である。

 J・アショッフは、外の環境の変化による影響を遮断した地下壕に、四週間にわたって人を住まわせて、覚醒と睡眠のリズムに狂いが生じるかを実験した。もちろん、時計など時刻を知る手掛かりになるものは、携帯させていない。

 すると、真っ暗な部屋で生活した被験者が勘で決めた起床時間には、少しずつ遅れが生じ、約二週間で昼夜は逆転してしまった。

 この実験の結果、被験者は平均二十四・九時間で、一日のリズムを繰り返していたことがわかったのである。このズレは二週間も経過すると、昼夜が入れ替わるほどの長さになるが、時刻を知る手掛かりを全く失っているにしては、一日〇・九時間の誤差は驚くほど小さい。

 これが、人間が体内にあらかじめ、一日二十四時間を刻むリズムを備えていることの証明となった。

 このほか、人間の体温が二十四時間を周期として、規則正しく上昇と下降のカーブを描いていること、夜睡眠中は低く、午前四時頃が最低で、徐々に上昇していき、午後三、四時頃にピークとなって、また下がり始めることも実証されている。

 体温のほかにも、ホルモンの分泌量や血圧、脈拍や血液内の物質などにも、一日二十四時間のリズムがあることが認められている。

 人間と同様、動物も生まれつき、二十四時間のリズムを刻むというのもよく知られている。植物でもオジギソウは真っ暗な中に置いても、ほぼ二十四時間の周期で、葉を開いたり閉じたりする。

 こうした生体リズムをつかさどるのが生物時計(体内時計)で、地球の明暗サイクルに対して適応するためだ、と考えられている。植物はすべての細胞が時計を持っている。動物では脳に時計がある。核のない下等な単細胞生物でも、時間を計る時計を持っていることが確かめられたという。

 人間の場合、時差ボケや交代勤務の疲労だけでなく、肥満や薬の効きめなどにも、頭の奥で規則的な体のリズムを刻む生物時計が関与していることがわかってきた。

 その時計は、脳の視床下部の一部で、視神経が集まっている視交叉(さ)上核という一対の神経細胞群の中にある。その周期は先に述べた通り約二十五時間で、一日二十四時間とのズレを埋めるため、目から入る光を通して二十四時間のリズムを受け取り、視交叉上核が時計を同調させている。

 結局、宇宙の運行、太陽の光などに合わせて生きるように、生物は適応性ができている。だから、夜中の零時を中心にして、夜八時に寝て、朝四時に起きるべし、という私の主張は、立派に科学的な裏づけのある真理なのである。

 時差ボケの場合や、徹夜が続いて昼夜が逆転したりして、生活時間と体内時計がずれて生体のリズムが崩れると、睡眠障害、集中力や活動性の低下など、身体や気分に変調が起きてくる。

 こうした場合に、強力な光を朝、二時間程度浴びせて、生体リズムを元に戻そうという光療法が効果を上げている。冬季うつ病、つまり、日照の少ない冬場に、体内時計が順応できなくなる不眠症状などにも劇的な効果がある。強い光が体温のリズムを整える働きをするからだ、といわれる。

●さまざまに唱えられた睡眠学説

 睡眠については、「肉体から魂が抜け出るのが眠りである」という考えが信じられていた時代もあったが、十九世紀末になってようやく、睡眠のメカニズムの医学的な研究が始まった。以来、さまざまな睡眠学説が発表されている。主なものを紹介しておく。

 血行障害説は、夜になると脳を流れる血液が少ないため、大脳の血液循環が滞ることによる貧血、あるいは充血が原因で眠くなるとする考えである。しかし、調べてみると、起きている時も、眠っている時も、脳の血液量にはちっとも変わりがないことが明らかになった。

 疲労物質説は、フランスのH・ピエロンという研究者が、今世紀に入った一九一三年に唱えた説である。人間が活動を続けると、脳にピプノトキシンという特殊な疲労物質が発生する。それが脳細胞の働きを弱めて、眠くなるということを実験で証明し、世人の興味を集めたのである。睡眠中枢とでもいうべき脳の中の井戸から、あたかも水が湧き出すように眠くなる物資が現れて、我々を夢の国に誘うというものだった。

 睡眠中枢説は、脳幹部の間脳に、目覚めの中枢と眠りの中枢とがあって、目覚めと眠りをコントロールしていると考えたもので、睡眠中枢が刺激されて眠くなるという。この考え方によると、日本脳炎で、コンコンと眠り続けるのは、目覚めの中枢が壊れて働かなくなったためであるというわけであった。だが、近年の研究は、二つの中枢説を全く影の薄いものにしてしまった。

 抑制説は、大脳皮質のある一点が抑圧されると、これが大脳皮質全体に広がり、眠くなるとする説で、旧ソ連のパブロフが条件反射の実験から説明した。

 刺激遮断説は、アメリカ人生理学者クレイトマンが発表した説で、「生物は赤ん坊のようにいつまでも眠っているのが本来の姿で、起きているのは間脳中にある覚醒中枢が外側から刺激されるためだ」と唱えた。

 要するに、覚醒しているのは、外部のさまざまな刺激に不本意ながら反応している仮の姿で、夜暗く静かになって刺激も少なくなると、脳は本来の姿を取り戻そうとして、眠りに入るとするのである。

 この点、例えば朝がきて目覚める時、ただ何となく起きてしまうか、それとも何か刺激を受けて目覚めるかを考えてみると、大抵は何か思い当たる刺激がある。刺激は、窓から明るい太陽が差し込むとか、トイレにゆきたいとか、おなかが減ったとか、町の騒音とかである。

 反対に、眠ろうとする時はどうだろう。明かりを消すとか、ラジオのスイッチを切るとかする。トイレをすませておくことも欠かせない。

 つまり、目覚めと眠りは、体の内外から脳に送り込まれてくる感覚の信号によって、左右されているように思える。

 感覚の信号が強く出されている時、例えば「おなかがペコペコ、おなかがペコペコ、おなかがペコペコ……」という信号が、胃から脳へしきりにやってくる時は、覚ますまいとしても目覚めてしまう。反対に、眠りは信号が弱くなった時だ。

 ところが、さらに睡眠の研究が進むにつれて、このような感覚的刺激もリズム作りの本家とはいえず、せいぜいアクセサリー程度のものであることがわかってきた。

 その証拠には、眠り足りると、どんなに静かな暗い部屋でも、「もっと眠っていなさい」といわれても、眠れるものではない。床の中で、ただ漫然と目を閉じているか、あらぬことを考えたりしているのが関の山である。 

∥深い眠りと浅い眠り∥ 

●睡眠物質を探る研究は今に続く

 睡眠を促す要因として、睡眠物質の存在を証明しようという研究は、今に続けられてきた。前述の学説で触れたピエロンの疲労物質説が、一連の研究の先駆けとなって、モニエという学者は一九六三年にウサギを使った実験で、睡眠物質の存在を主張した。モニエの研究によると、睡眠物質は脳脊髄液ばかりでなく血液にも存在するという。

 ほかにも睡眠物質の発見に情熱を注ぐ学者、研究者は多い。

 昭和五十年代はじめには、ハーバード大学、東京大学の両研究グループの実験によって、その物質は脳組織から分泌されるもので、化学構造としては少なくとも一つのペプチド型のアミノ酸結合が認められたという。

 植物でも、睡眠物質の存在を探る研究が盛んだ。マメ科の植物オジギソウは夜、葉を閉じて眠るとされているが、日本の教授グループによって、それら睡眠物質の化学構造が発表されている。

 また、人間の眠りと目覚めの関係は、体内から分泌される覚醒ホルモンであるノルアドレナリンと、睡眠ホルモンであるセトロニンの相互作用だともいわれている。私たちは、覚醒ホルモンの分泌とともに目覚め、日中活動する。そして、覚醒ホルモンの減少とともに眠りに就く。もし、覚醒ホルモンが一日中分泌され続ければ、熟睡できず、不眠症になる。睡眠ホルモンの役割は、この覚醒ホルモンを調整し、眠りを促進させることであるという。

 最近の研究では、ラットやサルを用いた実験で、プロスタグランジンD2とE2と呼ばれる物質が脳の中で働き、それぞれ睡眠と目覚めをコントロールしていることがわかったともいう。大阪バイオサイエンス研究所の早石所長が明らかにした成果である。

 動物実験で、一兆分の数グラムのD2を脳に注入すると、動物はじきに眠り始めることが確認されている。D2によって誘起された睡眠は、普通の睡眠薬による不自然な眠りとは違い、脳波などから見て自然の睡眠と全く変わりのないこともわかっている。

 このように、科学的にも睡眠のメカニズムについて、諸説が出され、いくつかのことが解明されているが、まだまだ未知の部分の多い領域だといえる。

●脳細胞の疲労を回復する作業

 ただ、眠りとは脳と体の興奮や活動が低下した状態で、睡眠と覚醒をコントロールしているのが脳であることだけは明らかになっている。

 脳といっても、脳幹と呼ばれる部分が睡眠と覚醒を調節しているとされている。大脳の内部にあり、古い皮質に包まれた脳幹は「命の座」といわれ、生命を維持し、成長を促す重要なところ。自律神経系とホルモン系を調節する間脳、中脳、橋、延髄などで構成されている。

 さらに正確にいえば、その脳幹にある間脳の一部に、視床下部という手の親指ほどのところがあるが、視床下部の一部で、視神経が集まっている視交叉(さ)上核という一対の神経細胞群の中にある生物時計が、目覚めと眠りのリズムを支配しているのである。

 視床下部はちっぽけでも、支配力は絶対的なのが特徴だ。もし、この視床下部の働きがコントロールできれば、「今週は疲れたから眠るとしよう。仕事は来週回しだ」とか、「この秋は大不作なので、一億総冬眠を実施する」などということも可能になって、世の中は一段と暮らしやすくなろうというもの。

 もっとも、「今夜はどうしても眠っては困るんだ」という意志の力によって、睡眠の不変のリズムに抵抗することはできる。仕事や授業の最中に、コックリ、コックリしては上役や先生ににらまれると考えて、必死に眠気と闘った覚えのある人もいるだろう。

 ちなみに、これまでの人間の断眠の世界記録は二百六十四時間、実に十一日間で、アメリカの高校生が学校の科学祭で記録したものだという。

 だが、このような抵抗は、偉大なリズムの不変性に比べたら、物の数ではない。時間にしてもわずかなものである。とにかく、睡眠リズムは一生涯にわたって続くのである。睡眠はすべての物事の根本で、生命が培われるのも夜の眠りの中である。

 昔から「動物を長く眠らせないと、ついには死んでしまう」といわれていたが、動物実験で連続的に刺激を与え、絶対的に眠らせないようにすると、十日以内にことごとく死んでしまうというデータが残されている。

 それはなぜか。まさか人間を使って試してみるわけにはいかないが、子犬を使って眠らせない実験をすると、六日間の断眠で体温が四~五度も下がり、脳細胞は一週間もすると壊れ始める。

 つまり、脳細胞は鋭敏な代わりに、すこぶる疲れやすいものなのである。我々は、脳細胞の疲労回復のために、眠るわけである。「ああ、眠くなった」というのは、脳細胞が「もう疲れました」と、危険信号を発しているものと思っていいだろう。

 よく「眠れない、眠れない」とこぼしている人がいるが、脳細胞は疲労がぎりぎりのところまでくると、ちょうど食欲と同じように、必ず休息、睡眠を要求する。逆にいえば、眠くない人は眠る必要がないのだ、といってもよいくらいである。

 いずれにしても、脳細胞の要求は尊重したいものである。というのは、脳細胞は百五十億個もあるが、これは生まれた時から備わっていて、ほとんど増えないし、その上、一度壊れたら最後、いくら養生しても埋め合わせのきかない貴重なものだからである。

 手足の皮膚の細胞などは、少々の切り傷、擦り傷ではびくともしないが、脳細胞はちょっとわけが違う。眠りによって脳細胞を休ませる必要は、誰もが拒めない義務のようなものである。

 睡眠は、脳細胞の疲労を回復する大事な作業でもあるわけだ。手や足は使わないでいるだけで、ある程度、疲れをとることができる。だが、脳は目や耳から絶えず刺激を受けていて、機能し反応し続けているのである。起きている間は、脳に休息はない。脳を休ませるには、眠るしか方法がないのである。

 大脳の正常な働きを担っているのは、グルタミン酸を分解したガンマアミノ酪酸だとされている。人間が活動を続けると、次第にこのガンマアミノ酪酸が分解され、ガンマハイドロオキシ酸とアンモニアに分解されるのである。

 徹夜で仕事をしていて、頭がボーッとなり、集中力を失っていくのは、ガンマハイドロオキシ酸が脳に蓄積されるためである。

 これを取り除くには、睡眠をとるしかない。ほかに、特効薬はない。睡眠をとってはじめて、脳の疲労を回復、ひいては再びコンピューターに負けない脳力を取り戻すことができるというわけである。

●睡眠のパターンとサイクル

 さて、人間の睡眠は、脳波による測定が可能になってから、客観的に明らかにできるようになったのである。脳波というと、脳から発せられる微量の電波と思われがちだが、実際は脳の二点間の電位差の変動を示す。

 この人間の脳波は、一九二〇年代にドイツの精神医学者H・ベルガーによって発見された。脳波の発見から、はじめて本格的な睡眠研究が始まったといってよいだろう。脳波の波形の変化を捕らえることで、客観的に覚醒状態と睡眠状態との区別ができるようになり、また、睡眠の深さや経過を知ることができるようになったのである。

 以後、睡眠の研究は日進月歩で進んだ。一九五〇年代中頃には、睡眠にレム睡眠とノンレム睡眠という、二つの質の異なる眠りがあることが明らかにされた。

 その後、目覚ましいエレクトロニクスの発見のお陰で、驚くほどの発展を遂げる。脳波を記録して分析することによって、病気の診断と治療に役立つばかりではなく、精神医学は飛躍的に進歩したのである。

 その脳波を調べることで、眠りには、五段階のパターンがあることがわかっている。人間の場合、約九十分周期で、いくつかの脳波を組み合わせた五段階の睡眠パターンを経過するといわれている。

 まず、ノンレム睡眠が、第一度から第四度までの四つのパターンに分けられる。眠りの深さは、第一度は浅く、第四度で最も深い眠りに就く。この違いを明らかにするのが、脳波の波形だ。

 人間の脳波は、はっきりと目覚めている時には、ベータ波という非常に速い波が見られる。それが安息時に、リラックスしてきてぼんやりしてくると、波はだんだんと遅くなってアルファ波となり、さらに浅い眠りでシータ波に移行する。そして、眠りがいっそう深くなると、大きな振幅のデルタ波が見られるようになる。この波が遅くなるほど、眠りは深くなっていくのである。

 ノンレム睡眠が第四度まで到達すると、その後は第三、第二、第一と浅い眠りに戻り、レム睡眠へと向かう。この一連の変化でも明らかなように、普通、レム睡眠はノンレム睡眠の谷を経過した後で現れる睡眠である。

 そのレム睡眠の時には、眼球がキョロキョロと動くので、英語の頭文字をとってレム(REM=Rapid Eye Movement)睡眠という。もし、眠りに入ってすぐレム睡眠が起こるとしたら、異常である。

 専門家によっては、ノンレム睡眠を徐波睡眠、レム睡眠を逆説睡眠と説明する場合がある。徐波睡眠の命名の由来は、睡眠が進むにつれて脳波がゆっくりした波、つまり徐波になっていくからである。

 一方、逆説睡眠とは、脳波パターンでは目覚めているように見えても、その実やはり眠っているという逆説的、パラドックス的な現象に思えるために名づけられた。

 いずれも表現こそ違え、ノンレム睡眠、レム睡眠と質は変わらない。

 ちなみに、ノンレム睡眠を脳の眠り、レム睡眠を体の眠りと呼ぶこともある。睡眠中、脳波、眼球運動、筋電図、呼吸曲線などを測定、観察すると、ノンレム睡眠は脳を休め、レム睡眠が体の疲れをとっていると判断できるからである。

 一晩の睡眠の経過を図で描けばより明らかなことだが、人の睡眠の大半をノンレム睡眠が占める。だいたい一回のノンレム睡眠は三十分程度。人によっては、一時間以上も続く場合もある。

 眠りが深くなり第四度に達すると、名前を呼んだり、ちょっとつねったくらいでは目覚めない。この後、第三、第二、第一度と次第に眠りが浅くなり、寝入りばなと似たような脳波になる。すなわち、レム睡眠を迎えるわけだが、ノンレム睡眠の第一度とは眠りの質が全く違う。急速眼球運動を起こすが、多少の物音では目覚めない。強く揺すれば目は開けるものの、すぐまた眠り込んでしまうのである。

 普通、レム睡眠はほぼ九十分周期でやってくると見られている。要するに、ノンレム睡眠の第一度からレム睡眠までを睡眠の一つの周期として、このサイクルを約九十分、一時間半で繰り返しているのである。人間は、このサイクルを一晩に四~五回繰り返して、朝の爽快な目覚めを迎えるのが一般的である。

●宵型の深い眠りと朝型の浅い眠り

 よい睡眠とは、爽快な目覚めといい換えられるほど、密接な関係にある。よい睡眠がとれた時は、朝スキッと起きられるし、逆に爽快な目覚めを伴わない眠りは、長短にかかわらず睡眠時間に不満が残るものだ。

 要するに、よい睡眠とは、目覚めた時に満足感が得られることが条件になる。ぐっすり眠れたという感覚こそが、的確によい睡眠を表す言葉であろう。

 睡眠時間は足りているのに、どうもスッキリしないというのは、眠りの波が悪いということになる。眠りのリズムが正常であれば、目覚めは爽快であり、逆に眠りのリズムが狂うと、ストレスが解消されず心身の病気の原因にもなる。

この点で、一般的にいって、精神労働者に比較して、肉体労働者のほうがよい睡眠、爽快な目覚めを享受しているという。

 肉体労働者は単純な、身体的疲労から睡眠に入るケースが多く、床に入るとすぐ深い眠りに陥る人がほとんどである。明け方近くには浅い眠りに移り、しばらくして目を覚ます。もちろん、ストレスや精神的な興奮などがないことが前提である。

 反対に、精神労働者は、浅い眠りがしばらく続き、明け方近くになって熟睡するタイプの人が多い。身体的なものより、精神的な疲労がよりたくさん蓄積するためである。

 いわゆる、肉体労働者が宵型、精神労働者は朝型と大別できる。宵型の特徴である早寝早起きが健康にいいことは、昔からの常識だ。朝型は深い眠りに入るのが遅いこともあり、どうしても睡眠が浅くなりがちで、爽快な目覚めも期待できない。

 よい睡眠、爽快な目覚めは、生体リズムとの関係のほかに、レム睡眠にも大いに関係する。

 人間を含めた高等動物である哺(ほ)乳類は、眠りのパターンの中に、このレム睡眠という特殊な睡眠状態を持つことが知られている。レム睡眠は、覚醒時に近い脳波を出し、体は眠っているが、脳は起きているという状態に特徴がある。

 体の眠りとされるレム睡眠が十分だと、満足感の得られる睡眠がとれるのである。新生児や幼児は、レム睡眠が睡眠時間全体の半分以上を占める。この割合は成長とともに減少し、成人で全睡眠時間の約二十パーセント、五十歳代を超えると十五パーセントぐらいまで減ってしまう。高齢者が長時間の睡眠をとっても、満足感のある睡眠が得られない場合がよくある理由は、睡眠のリズムが変化し、レム睡眠が減ってしまうからだ。

 私たちの記憶に残る夢は、ほとんどこのレム睡眠時に体験している。レム睡眠についての全容は明らかではないが、人間が記憶した情報の整理整頓が大きな役割だといわれている。非常に不愉快な心理状態の時に、少しの時間でも眠るとかなり穏やかな精神状態になるのは、好ましくない記憶を排除するレム睡眠の働きによるものである。

 人間の眠りは、肉体の疲れをいやすだけではなく、不快な記憶を脳裏の奥にある記憶の押し入れに片づけ、新しい明日に備える働きをしているのである。

●動物や植物の眠りというもの

 動物の眠りについても少し触れておくと、魚類と両生類には眠りがなく、眠りは鳥類と哺乳類、つまり、大脳の発達した動物の特徴だといわれる。ネズミを断眠させると、摂食量は低下せず栄養面では問題がないのに、四週間で死亡する。高等な動物は、眠ることが絶対に必要なのだ。

 また、狩りをする動物は、長く眠るという。獲物を倒し、飽食の後、ぐっすり眠る。犬も猫も、眠り方を見ると、この部類に属することがわかる。一方、狩られる側の動物は反対である。おちおち寝てはいられない。眠り込む時間も短くなる。

 眠りの型はノンレムとレム睡眠による超日リズムによって決定されるが、二十四時間リズムとともに、高等動物は二つの内的リズムを持つ。前者は動物の生態進化により作られたという興味深い説もある。危険な環境に住むヒヒには、レム睡眠がない。レム睡眠は夢見る時だから、猫は夢を見るが、ヒヒは夢を見ないということになろう。

 面白いのは、長時間にわたって泳ぎ続けたり、飛び続けるイルカやカモメなどは、右脳と左脳を代わる代わる眠らせているという報告である。片方の脳に深い眠りをとらせながら、もう片方の脳を目覚めさせておき、おぼれたり、地上に落下するのを防いでいるわけだ。

 植物の眠りについてもいうと、すでに十八世紀の植物学者リンネが、植物にも眠りのあることを書いている。オジギソウのように、昼夜のリズムに従って、葉を開いたり閉じたりしている草もあるのは、前述した。

 最近では、平成二年に、うまい米として知られるコシヒカリが睡眠不足になった、という話題があった。福岡県のある市で、田んぼの隣に立っている水銀灯の光に照らされるところでは、稲の生育がおかしいと農家がいい、調べたらその通りで市が補償したのである。水稲は短日植物なのである。よく眠らせないと米が育たぬのは、事実のようである。

 稲ばかりでなく、もちろん、人間の身体的な成長も、睡眠によって促される。

 よく「寝る子は育つ」という。これは理にかなった言葉で、うそでもデタラメでもない。睡眠と発育を促す成長ホルモンとの間には、密接な関係があって、睡眠中に、脳の中の小指の先よりもっと小さい脳下垂体から、成長ホルモンが分泌されることはすでに知られている。

 睡眠中、成長ホルモンが特に活発に分泌されるのは、入眠直後のノンレム睡眠の時だという。普通の成人の場合、眠り始めて七十分ぐらいで、血液中の成長ホルモンの量が最高値に達する。この睡眠と成長ホルモンの相互関係はきわめて密接で、入眠の時期が遅れると、成長ホルモンの分泌も遅れてしまうということもわかっている。

 しかし、睡眠中の成長ホルモン分泌現象は、成長とともに変化を見せる。研究によると、こうした生理現象が認められるようになるのは、生後三カ月ほどからで、成人のように眠り始めた直後のノンレム睡眠で、成長ホルモンが最高値を記録するのは四~五歳からのことである。

 それが思春期に入ると、睡眠中だけでなく、覚醒時にも成長ホルモンが分泌されるのである。成年期になって、再び睡眠中だけの生理現象に戻り、五十歳を超える時期に入って、眠っている時にも成長ホルモンは分泌されなくなってしまう。

 発育過程の子供にとっては、睡眠はまさに成長の糧である。

 また、私にいわせれば、人間にとって眠りが長寿の根本でもある。五十歳をすぎて成長ホルモンの分泌はなくなっても、正しい眠りの中では、疲れが翌日のエネルギーと変わるものである。さらに、宇宙大自然の力によって肉体が浄化され、肉体機能が自然作用的に調整されるから、よく眠る老人も長生きすることになるのである。

∥現代人の眠りについて∥ 

●現代社会と人間の眠り

 現代の日本においては、科学技術が発達し、社会が複雑化した結果、睡眠研究も加速度的に進展している。日常生活において不眠を訴える人が増え、睡眠を切実な問題として捕らえる場面が多くなったからである。

 最近では、デパートやフィットネスクラブなどに快眠コーナーが設けられるほどで、不眠症者ばかりでなく、一般の健康な人も睡眠に関心を払うようになったようである。

 新聞やテレビの報道によると、会員制フィットネスクラブなどでは、安眠をいざなうさまざまな仕掛けを設けているという。カプセルの中でリクライニングのいすに身を横たえ、アルファ波が出るとされる音楽を聞くクラブが多い。

 中には、音響を振動に変える音響体感装置付きのいすで体の緊張をほぐしたり、信号音を出すヘッドホンと点滅光を発するゴーグルで、脳や体のストレスを取り除いたりするところもある。

 このような施設がある世の中だから、真夜中に働く職場が増えている。二十四時間、地球をネットするコンピューター。速報態勢の情報化社会で、マネー戦争の金融業界をはじめ、さまざまな職場で、昼と夜との境界線が薄れつつある。交代制勤務や残業をする労働者ばかりか、子供の生活まで、夜へ夜へと傾いていく。

 昼間は起きて働き、夜は寝る。人類はずーっとそうしてきて、今、ほんの最近、夜と昼を逆転させてしまった。生き物としての人間は変わらないのに、私たちの生活は人類の長い歴史から急にはずれてきたのである。

 現代人はどうしてこうも、コウモリのようになりたがるのだろう。

 実は、近代文明とやらのお陰で、人間が徐々に夜行性になり始めてから、世の中がひどく乱れ、腐敗し、悪化してしまったのは周知の通りである。ほんの少し「なり始めた」ぐらいで、この始末だから、もし本格的に夜行性になってしまったら、いったいどんな悲惨な有り様になるか。

 大人ばかりでなく、今の現代っ子の生き方、あり方も、あまりに大自然という偉大な造物主の真理に背いている。

 小中学生は、体はまず健康に育っているのに、本人たちの心身の自覚症状は半病人並みだともいわれている。「朝からだるさや疲れを感じる」、「頭や腹が痛くなる」、「めまいを起こしやすい」と訴える子供が三分の一近くもあり、精神のひ弱い現代っ子を如実に浮き彫りにしている。

 これが、中高校生の約三割が、教師を殴りたいと思っているとか、四割が親に対して暴力を振るいたいと思ったといった、調査結果となって表れている。まさしく今の青少年は心身症まがいであり、現代社会の病魔をそのままに投影していることは、恐ろしいばかりである。

 こうした原因も、大人の社会を反映した夜型生活にあり、テレビ、ラジオ、ファミコンや漫画本で夜更かしをするためだという。夜更かしをして生きていては、健全な人間にはなれない。

●短くなりつつある睡眠時間

 「寝る子は育つ」、と昔からいう。だが、当節では眠ることもままならぬ。首都圏を中心にした調査では、中学生のほぼ三人に一人が、「今最もやりたいこと」と聞かれて、「もっと寝たい」と答えた。かわいそうな気がするが、子供の世界も忙しいのだろう。

 現代の子供は、習い事や塾から遅く帰宅する。受験勉強、テレビなどで遅くまで起きて夜食、翌朝は朝飯抜き。だから子供に動脈硬化、高血圧、糖尿病などの小児成人病が増えているのである。

 最近は、大人も夜型の生活が都会では多い。ある調査では、三十年間で、主婦の睡眠時間が三十分減って七時間十一分になったという。会社員を対象にストレスの実態を調べ、解消法を尋ねたら、男女とも「十分な睡眠」が首位だった。

 会社員の中には週末に睡眠貯金をして、日々の短い睡眠時間のつじつまを合わせている人も多い。睡眠時間は平日六時間四十六分、土曜日八時間五分。明日からの仕事を考える精神的重圧のために、日曜日の夜は寝つけないという。これでは、すっかり疲労が回復して、すがすがしい気分で仕事に取り組む日は、一日たりとないわけだ。

 日本人の全体的な流れとしても、睡眠時間は以前に比べて、徐々に短縮化の傾向を示している。

 NHKが五年ごとに実施している「日本人の生活時間調査」でも、その点は明らかである。昭和四十五年、日本人の一日の平均睡眠時間は七時間五十七分で、ほぼ八時間睡眠だった。それが十年後の五十五年には、七時間五十二分になり、五分短くなっている。さらに六十年には、七時間四十三分と急速に短縮化が進んだ。平成十二年には、七時間二十三分となり、調査の開始以来四十年間で五十分も短くなったのである。

 二十一世紀には、七時間睡眠時代が到来するかもしれない。スポーツ、文化施設の営業時間の深夜化、テレビ放送のオールナイト化。現代人を取り巻く環境は、いっそう睡眠時間の短縮化を促進する方向にある。

●睡眠はどれくらい必要か

 では、私たち人間は、どのくらい眠ったら、脳細胞の要求を満たしたことになるのだろうか。

 一日に七、八時間ほど眠る人が多いからといって、誰もが七、八時間以下では睡眠不足だといい切れない。

 ナポレオンやエジソンが一日四時間という短眠家であったことは、あまりに有名である。発明王エジソンなどは、一日に約三十分ずつ仮眠、これを三、四回繰り返すだけだったともいう。特に一八八八年、世界ではじめて蓄音機を発明した時などは、超人的な断眠を続けている。五日間、仮眠もとらずに徹夜で発明に打ち込んだと聞く。

 それほど昔の例を持ち出さなくても、短眠家はたくさんいる。売れっ子の芸能人には、四、五時間しか眠る暇のない人がよくあるそうである。

 必要な睡眠の量は、時間の長さだけでは示せない。眠りの深さが問題になる。かなり十分眠ったつもりでも、なかなか目が覚めにくいとか、頭がすっきりしないことがあるのは、この深さが足りないということである。

 もっとも、『人間の眠りの科学』でも触れたように眠りにも型があって、午前五時頃から七時頃の明け方にかけて、ぐっすり眠る朝型の人に、こういうことが多いのは当然である。朝型はあまり健康でない人、神経質な人によく見られる。いい換えれば、寝つきが悪いと同時に、寝起きが悪いのが朝型の特徴。

 これに対して、床に入るとすぐ寝つけ、一、二時間で深く眠るのは宵型といい、健康な人に多い型であった。

 毎朝、目覚めとともに、頭がすっきりしているのと、ボーッとしているのとは、気分的に大きな違いがある。とにかく、深く眠ることこそが大切である。果たしてあなたは朝型か、宵型か。現在の健康度のバロメーターになることだから、自己診断してみてほしい。

 最近、医学的によくいわれているところでは、質のよい眠りをとっていれば、睡眠時間は五時間ぐらいあればいいそうだ。

 個人差はあるが、今まで一日八時間寝ていた人なら、訓練で五時間までは支障もなく、比較的簡単に減らすことができる。ところが、五時間を切ると快適な生活は送れない。四時間ぐらいに減らすと、つらくて、日中のミスも多くなる。睡眠は夜にまとめてとる必要はなく、合計で一日五時間あればいいともいう。

●早寝早起きがもたらす快さ

 しかし、大自然の摂理に従うならば、睡眠は単に何時間眠ればいいというものではない。

 夜中の零時を中心にした前後四時間、その八時間こそが安息の世界であり、零時という真夜中に、幸福の神が訪れてくるのである。幸福の神とは、生命の根源である。

 「早寝早起きする幼児は健康児、遅寝遅起き子は大脳の活動が低く、活動のリズムが乱れるぼんやりっ子」ということが、徳島大学の教授の研究によって証明されてもいる。

 三~五才児を対象にした研究では、午後九時半就寝、午前七時半起床といった「遅寝・遅起きグループ」は、午前中、大脳の働きが鈍く、夕方になってようやく働き出すが、その働きの乱れが大きく、これは自律神経失調状態だと、危険性を指摘している。

 ところが、午後八時半までに就寝、午前六時半までに起床する「早寝・早起きグループ」は、フリッカー値という大脳の働きの検査でも、体温測定でも、正常な働きをする。

 昼間の生活のリズムが、睡眠と表裏一体の関係にあり、特に育ち盛りの幼児の発達の上で重要だ、というこの研究は、きわめて大きな意義がある。

 今の子供を見ると、朝からあくびをする、背中がグニャッとしている。すぐ疲れたという、ぞうきんが絞れない、立ちくらみや、めまいを起こしやすい。そういった虚弱な子が多いといわれているが、その原因として、幼児時代から大自然の摂理に反した睡眠をとっていたのが大きいことが、証明されたわけである。

 睡眠がいかに生体のリズムに影響があるか、まして幼児の場合、異常な睡眠を続けると、ボケ人間になってしまうことも考えられる。若者の間で問題になっている起立失調症候群の原因の一端も、異常睡眠に由来するのではないか。

 子供は、宇宙大自然に生かされるままに、自然に、肉体的に育てるべし。正しい眠りは体の疲れをいやし、人生の苦悩までも浄化し、肉体と精神を宇宙に還元する作用があるのである。

●短眠奨励説への反論

 「早寝早起き」、とりわけ「早く寝る」という言葉に、ずいぶんと違和感を覚えるという方もおられよう。

 なぜなら、いわゆる成功法の本の中には、眠りを減らすためのノウハウ書が少なからずあり、その内容は一律に「とにかく活動の時間を物理的に増加させること、それが成功への近道であり、眠るのははっきりいって時間の無駄」というものだからである。

 こうした短眠のノウハウをいろいろ試したという人によると、どれも長続きするものではないようだ。

 「意志の力」などというが、我々の意識しない部分で肉体がちゃんと正しい方向に向かっている時は、意志と肉体は相まって大きな力となるが、肉体に逆らおうとして意志の力を使っても、結局は無理があり、長続きしないようである。

 肉体の本来持っている機能を自然なものに修正するため、「眠くなったら寝る」、「八時間寝る」という、単純な生活を実践してほしい。

 また、短眠法においては、時間を計量している。時間が量的な損得勘定のレベルで捕らえられていると思われる。

 だいたい、夜更かしや午前様になって睡眠が不足すると、その日の疲れは当然、翌日に残ることになり、この疲労の蓄積は、やがて健康にも、事業にもよくない結果を招来することになる。

 周囲からはあれほど頑健に見えた人や、働き盛りといわれる年齢の人が、突然ガンを発病し、心臓病に襲われて、この世を去るというようなことがしばしば起こるのも、これは例外なく眠りが不足していることが、大きな原因になっているものである。

 照明文化に幻惑されて、早寝早起きを忘れた現代人は、早く疲れて早く死ぬ。ガンも心臓病も中風も老衰も、みな睡眠不足の差引勘定と知るべきである。

 人間の体というのは、例えてみればバッテリーのようなものだ。生きるためには無論、放電が必要だから、睡眠というチャージが十分に行われないと、バッテリーが上がってしまうことはいうまでもない。

 そもそも、人間には一日八時間の睡眠が理想的とされているのであって、忙しくて時間がとれないということで睡眠不足の人は、万難を排して昼寝を実行されたい。

 昼は、自力で働く、生きるという面の社会的人生。夜は、静かに休むという生かされの面の他力世界である。人間は夜つくられ、夜育つ。宇宙生命の他力を仰ぐ睡眠時間を軽んずる者は、命を縮め、不幸になる。

 元来、人間の苦悩や病気は自己意識の作るもの。自己意識で働き、環境からも動かされ、経済生活などからも大きく左右されて、心労、過労に陥りやすく、生命の原則からいえば、その生活ぶりは実に乱暴も、はなはだしいものである。

 ことに現代人には、苦楽の感情や好き嫌いがありすぎるから、休養日にも遊び疲れて、病院と裁判所とは満員になる。そして、自ら裁き切れない人生の矛盾と不合理が、心のガンとなり、肉体に投影して病気のガンを作るのである。

 その心を真空の中で浄化し、肉体を宇宙生命の大プールに任せて、充電し変える睡眠の重要性を忘れてはならない。

 老子は「無為にして化す」といった。何にもしない働き、宇宙生命は人間の休んでいる時、一番よく働いて、疲れや病気を治してくれる。睡眠は、薬や栄養に勝る肉体への絶対条件である。

●過ぎたるは及ばざるがごとし

 安眠は、健康作りの大切な要件である。だが、うっかりすると長時間眠るほど健康によいと、錯覚しがちではないだろうか。

 人間は起きる必然性がなければ、いつまでも眠っていられるともいうが、成長時期の子供や少年少女には、発育を促す意味でも十分な睡眠時間が必要にしても、成人に関していえば、長ければいいというものでもないようだ。

 一九七九年、アメリカのD・ワリプケが報告したレポートは、睡眠時間の過少だけでなく、睡眠時間のとりすぎにも警鐘を鳴らし注目された。

 ワリプケはアメリカ・ガン学会の協力を得て、百万人を超える成人の睡眠時間を調査して、六年後の死亡率との関係に一つの相関関係を見いだした。睡眠時間が七~八時間の人の死亡率は最も低く、それより長くても短くても死亡率が高くなる、というU字型の関係を発見したのである。

 死亡率の高い病気を患っている人は、睡眠障害を引き起こしやすいことなども考えられるが、とりわけ睡眠過多と死亡率の関係は、原因がわかっていない。睡眠時間も、過ぎたるは及ばざるがごとしということだけは確かであろう。

 睡眠が多すぎるほうでも、睡眠不足と同様に、治療の必要な過眠症がある。この病的なものでなくとも、「何となく、長く寝ているほうが健康によいと思い込む」ことの危険もあるらしい。

 アメリカの空軍基地の航空宇宙医学研究所でも、八人の健康な青年男子について、長く安静に横たわる影響を調べた。すると、脳波に重症の知覚欠損に似た変化を起こしたという。

 この点はともかく、興味を引かれるのは、寝たきりで下肢の運動を全然させなかった群で、レム睡眠の割合がだんだん小さくなり、生理的な睡眠に変調をきたした点である。対して、寝たまま下肢運動を行わせたら、変化がなかったという。

 つまり、長時間睡眠は、横になる時間の長さの悪影響も入る危険がある。やることがないから体を横にしていたら、ウトウトと眠ってしまったというのが、癖になると問題だろう。

 一般的にいって、睡眠が長い人は、内向的で神経質な人に多い。すぐに考え込んで、脳細胞を酷使しているからである。逆に、くよくよしない人、責任をすぐに他人に押しつける人は、睡眠が短くてすむ。

 ともかく、睡眠時間の長い人も短い人も、できる限り、毎日規則正しい睡眠をとる努力はしたいものだ。

 「睡眠中、よく夢を見る」ということを悩んでいる現代人もいるようであるが、結論から先にいえば、夢を毎夜見ても、快眠でき体調がよければ安心である。

 夢というものは、誰でも一晩に一、二時間は見ている。芸術家、発明家などのように直観的なイメージを大切にしている人は、夢をよく覚えているものである。

 普通の人が見ていないと思うのは、目が覚めた時に忘れてしまうからである。睡眠は一晩のうちに、深くなったり浅くなったりを繰り返すが、脳の眠りとしては浅いレム睡眠という状態で、夢を見ているのである。

 なぜ忘れるのか。脳は、左脳と右脳に分かれていて、いわゆる読み、書き、ソロバンは左脳の働きである。それに対して、右脳は言葉であまり表現できない直観的な判断をしている。夢には主に右の脳が使われるので、起きてから左脳で言葉に翻訳しないと、スーッと消えてしまうのだ。

 では、なぜ忘れてしまう夢を見るのか。人間の体は巧妙にできており、昼間に意識されたものがみな、潜在性意識の中に記録されているものである。その記録されているものが、寝ている時に夢となって出てくるのである。

 とにかく、体や脳の健康の根底を培うには、夜、十分に、安らかに眠らなくてはいけない。夜、安らかに寝るということは、昼間の働きになる。昼間の働きはまた、夜の眠りに関係をする。これは、切っても切れない、大切なつながりを持つということがいえるわけである。

∥熟睡と不眠の因果関係∥

●睡眠と不眠の因果関係

 現代人の関心事はいろいろあるであろうが、その中でも、「どうしたらよく眠れるか」ということについて、苦心を払い、悩んでいる人は多い。

 もし、現代人に、薬剤以外に睡眠の可能な方法が講ぜられ得るならば、大半の疾病は影を没するであろうとさえ思われるほどである。

 睡眠が十分にとれれば、睡眠の間に疲労は完全にとれ、臓器の機能的なひずみは調整され、赤血球、血糖、血圧は安定され、目覚めて起きる生活の喜びを満喫することができるだろう。

 このたった一つのことから、その人の生活を明るくし、生活に対する生きがいある感激を覚えしめることになるのである。

 ところが、眠いのを我慢して夜中まで仕事をしたり、テレビを見たりなどしていると、いざ寝床に入っても、なかなか寝つけないものである。何しろ、嫌がる脳細胞を叱咤(しった)激励して、無理やり働かせていたわけだから、その余勢というか、余じんのようなほてりが続いていて、とてもすんなりと眠れるものではない。

 体はクタクタに疲れていて、本当は眠くてたまらないのに、神経だけがピリピリいら立っている状態というのはつらいものであろう。

 「さあ、早く眠らないと明日がきついぞ」などと思うと、意識が余計にさえ返って、ますます眠れなくなってしまう。展転反側を繰り返した揚げ句、ヒルティの「眠れぬ夜のために」の教訓に従い、そんな時は少しも頭に入りはしないのに、あたりが明るくなる頃まで本を読んでしまうことも多い、という人もいよう。これでは、自分の生命を自分で縮めているようなものである。

 世界的に著名な作家、詩人で、同時に不眠症者だった人物は実に多い。彼らがきわめて優れた感性の持ち主だった証拠でもあろうし、著名な文学者にとって、不眠が優れた作品を生み出すモチーフに変えられるなら、不眠との同居も、ある程度は許容できるだろう。

 しかし、平凡で、規則的な日常生活を送らなくてはならないサラリーマンからすると、不眠の悩みは深刻である。

 不眠は夜間、正常な睡眠を妨げ、熟睡感を得ることによる精神的、身体的安定を妨害するばかりか、決まって昼間の充実した生活を阻害する要因になるからだ。不眠が原因で、仕事に集中できない。一日中神経が高ぶって、イライラしている。客と接していても、どうかすると眠り込んでしまう。サラリーマンであれ事業主であれ、これでは職業人として失格である。

 断眠睡眠不足は、研究でもさまざまな精神不安を引き起こすことが報告されている。ある報告によると、断眠が気分の変化や作業能率の低下の原因になり、さらに過敏、猜(さい)疑的、注意集中困難などになると発表されている。とりわけ、気分の変化、注意集中困難、作業能力の低下は、何も長期にわたる全断眠で現れるわけではなく、一日から二日の短期間でも起こるとされている。

●眠りが足りないとどうなるか

 しかも問題なのは、情報化社会といわれる現代社会においては、不眠の引き金となる要因が身の回りにゴロゴロ転がっていることである。日の出とともに目覚め、太陽の沈むのを合図に床に就いていた原始社会と比べ、それは比較にならないほどの多さである。

 職場のOA化によるテクノストレスなどは、その端的な例だ。複雑な人間関係から生ずるストレスも、単純な原始生活からはおよびもつかなかったことかもしれない。

 このように、現代社会は高度で発達した文明と接する機会を我々人間にもたらした一方で、緊張や不安などさまざまなストレスを生み出す要因を作った。不眠の多くが日常生活でのストレスに起因するという分析結果からも、まさに不眠は現代人特有の悩みなのだということである。

 人間が自然のリズムに逆らっていると、ついに自然から見放されて、哀れな人間になるが、不眠症もその一つなのである。

 今、アメリカ人の三人に一人が不眠を訴え、そのうち半分はかなり重症だといわれる。アメリカに多いのは、個人主義が発達して、人間同士の競争が活発だからかもしれない。

 イギリス人も四人に一人、ドイツ人やフランス人も五人に一人が、不眠で苦しんでいるという。欧米の先進国を超えるほどの発達を遂げた日本も、同程度の五人に一人が不眠で悩まされていると見るのが一般的である。

 この不眠症の一つの特徴は、高齢者に多いことである。人間は年齢とともに、眠り方が下手になっていくともいう。年を取ると、眠りが浅くなる。さらに、リューマチやぜんそくなどの病気で、余計に眠れなくなる。何度も昼寝をして、夜になると眠れない人もいる。

 ある調査によると、老人の睡眠時間は、若い世代とそれほど違わなかったが、年齢とともに睡眠の効率が低下していた。夜中に目覚めることが多くなっており、浅い眠りが増える一方で、熟睡に当たる深い眠りが減っていたのである。

 若い頃の深い眠りが懐かしく、眠りに対する飢餓感が強い老人がいる。実際はよく寝ているにもかかわらず、「全然寝ていない」といい張ったりする。

 こういう不眠が重大な問題を内包しているのは、人生の三分の一を費やす睡眠をうまく管理できなくなってしまうばかりか、人生の三分の二を占める日常生活にも、支障をきたす性格のものだからだ。

 睡眠不足で、日常生活の判断力が鈍るなどというのは枝葉末節にすぎない。本当は、睡眠不足によって生命力が衰えるのである。生命の根源が枯れてしまうのである。判断力が鈍るなどというのは、その結果としての現象にしかすぎない。実相はそんな生やさしいことではないのだ。

 肉体の栄養を食物からとっているように、生命の栄養は眠りの中にこそあるというこの真理を、ぜひ認識していただきたいものである。

●睡眠障害のいろいろ

 「寝つきが悪くて眠れない」、「夜中に目が覚めて、それっきり寝つけなくなる」、「夢ばかり見て、寝た気がしない」など、不眠で悩む人の訴えは、実にさまざまだ。訴えにあるように、悪い夢ばかり見ているようでも、安らかな眠りにはほど遠い。

 その不眠の原因として考えられることは、寝る時に周りがうるさいといった環境の問題や、悩み事、ストレスが挙げられる。このほか、うつ病や分裂病などの精神疾患に伴うことがある。

 また、特定の原因は明らかでなく、眠れないことを悩み、寝る時に「今晩も眠れないのでは」と心配し、悪循環に陥っている人もいる。

 不眠を訴える人の中には、自分の睡眠時間を過小評価しているケースが案外あるのである。三、四時間しか眠らなくても、ぐっすり眠れたと感じる人がいるのに対し、脳波は八時間ほど眠っているのに、睡眠不足を感じる人がいる。

 実際、医者に相談にくるケースで最も多いのは、睡眠に異常が認められないのに、主観的に不眠を訴える、いわゆる偽不眠症者だという。床に入ると、「眠れない、だが眠りたい」と強く願望するあまりに、かえって眠れない精神状態を作り、熟眠感が得られないという具合である。

 まれには、夜中に息が止まる睡眠時呼吸障害という特殊な病気もある。睡眠時無呼吸症候群ともいい、起きている時は正常に呼吸しているのに、眠ると十秒から二分ぐらい、繰り返し呼吸が途切れる病気である。

 睡眠中の無呼吸は、健康な人でもよく見られるが、十秒以上の無呼吸状態が一時間の睡眠に五回以上ある時、この病気と診断される。

 脂肪が沈着するなど気道をふさぐ原因があって起きたりするもので、圧倒的に男性に多く、年を取るに従って増える。女性も閉経後に見られるので、性ホルモンが関係しているらしいといわれている。

 こういう病気の人たちは、睡眠時間をたっぷりとっているのに、昼間に眠気を感じる場合が多い。呼吸が再開する時は、覚醒時と同じ脳波が現れるので、無意識のうちに、夜中に何度も目が覚めているわけだ。酸素不足から、日中、頭の重さを訴える人も多く、高血圧や不整脈、赤血球の数の増加、心臓肥大など、さまざまな合併症も起こしやすい。これらが、睡眠中の突然死の原因の一部になっている可能性が指摘されている。

 さらに、睡眠相後退症候群という睡眠障害がある。普通、眠気は、体温が一日のうちで最も低い、午前二、三時頃に最大になる。この病気の人たちは、体温が最低になるのは夜が明けてからである。当然、眠くなるのも普通の人より遅い。

 夜なかなか寝つかれず、朝起きられないため、宵っ張りや朝寝坊になり、学校や会社に遅れる。次第に眠る時間がずれていき、通学や通勤する気持ちを失ってしまうと、普通の社会生活ができない。こうした症状を睡眠覚醒リズム障害ともいう。

 普通の人間は、二十五時間前後の体内時計のリズムを、朝の光に当たることや、朝の食事や動き出すことなどで、一日を自動的に測定、昼夜の変化に合わせた二十四時間の生活ができる。睡眠覚醒リズム障害の人は、この体を合わせる体内時計の微調整が大なり小なりできなくなった人たちだ。夜、眠れないとか、寝つきが悪いとかの不眠症とは違う症状である。

 だが、入院してリズム調整すると不登校児も直るといった例が、近年、学会に報告されているという。

●薬物使用による不眠の恐怖

 不眠症については、国際分類法によって種類が分類されているが、私が特に問題にしたいのは薬物使用やアルコール飲酒による不眠である。

 おそらく世界一の不眠国であろうアメリカでは、睡眠薬の売れ行きも大したもので、すでに一九六〇年には、年間三十三億六千万錠の睡眠剤が売れたというし、また別の統計によると、重量にして三千五百トン、金額にして一億二千万ドルの売り上げがあったそうである。

 そこで、あまり眠れないので、やけになって、マサチューセッツ州のある町では、住民が「不眠コンクール」を盛大にやり、新記録を作った人を表彰したという話まであった。

 しかし、これは決してアメリカだけの問題ではなく、我が国でもすでに昭和四十年代後半で、睡眠剤の売り上げが三億九千万円から五億に上り、睡眠剤および睡眠作用を有するトランキライザーが、五百五十四種も発売されていたそうである。

 それからも、睡眠薬の使用は年々増加の一途をたどり、平成四年には日本全国で約十億錠が処方されたと推定されている。全国民が十錠近く飲んだ勘定になる。

 睡眠薬や精神安定剤、アルコールの連用は、レム睡眠を抑制したり、ノンレム睡眠を減少させたりする。このため、睡眠障害を起こし、使用を中止すると、さらに重い不眠を起こすのである。

 つまり、睡眠薬服用やアルコール飲用の弊害は、睡眠パターンを変えてしまうことと、習慣性にある。習慣性というと聞こえはいいが、中毒症状を起こすことがあるという意味で、入眠効果を求めるには、次第に睡眠薬やアルコールの量を増やさなければならないということもある。

 睡眠薬というものは、多かれ少なかれレム睡眠やノンレム睡眠の第三度、第四度を抑制する。本来の睡眠は、ノンレム睡眠とレム睡眠を一晩に四、五回繰り返して、はじめて脳と体の疲労を回復するもの。その点、睡眠薬を服用すると、特に脳の正常な眠りを阻害してしまう。睡眠薬で眠った場合、目覚めが悪く、起きても頭がすっきりしないのはそのためである。

 こうした作用はアルコールを使用した時も同じで、レム睡眠を抑制し、泥酔状態では、レム睡眠が明け方まで現れないということもある。

 そういう睡眠薬やアルコールは、服用、飲用を中止した時の反動がまた怖い。例えば、睡眠薬の場合、服用をやめると、今度は逆にレム睡眠を増加させる傾向がある。レム睡眠の八十パーセントは夢を見ているとされているが、レム睡眠が極端に増加するために、始終夢を見ているような状態に陥ってしまう。

 このため、睡眠薬の服用を中止したことを契機に、睡眠は分断され、睡眠障害を起こすという具合である。

 もっとも、専門家にいわせると、従来の睡眠薬は脳の働きを抑える作用があり、服用を中断すると異常が起きたり、量が増えないと効かなくなるといった依存性が強いものもあったが、現在では、作用がやさしく、脳の緊張を和らげるような働きをし、依存性の弱い薬が出てきているという。

 薬を飲む場合の注意は、乱用は論外で、とにかく用法や用量をしっかり守ること。「今日は眠れそうだ」と飲まなかったり、「今日はぐっすり眠りたい」とたくさん飲んだりするようなことは慎むべきである。

 睡眠薬と違って、アルコールに関しては、入眠効果が全くないというわけではない。ナイトキャップの入眠効果は、研究で証明されているところである。

●眠気を催すからくり

 人間は心身が健康であれば、眠りは自然であり、自然な眠りによって健康も促進される。熟睡できないからといって、毎夜、薬や酒に頼っては、自然な眠りは得られない。それが習慣化すれば、体にも悪い。要するに、眠りの質が問題なのである。残念なことに、現代人は不眠症で悩む人が多いようである。

 不眠症に悩む現代人のために、いくつかの不眠症の克服法を紹介する前に、まずは、眠りのからくりから問うていく。

 人間の眠りは大脳皮質の疲労回復のためにとるものだが、この大脳皮質には、それぞれ異なった心の動きを営んでいる、新しい皮質と古い皮質があることがわかっている。新皮質は、脳の表面に覆いかぶさっており、古皮質は、その下に埋もれているものである。

 浅い眠りとは、新しい皮質だけの眠りで、深い眠りとは、二つの皮質が同時に眠ることである。

 電車の中で、ついウツラウツラ、これが新しい皮質の眠りである。新しい皮質が非常に眠りやすいということは、誰もがしばしば体験したり、目撃したりしているはずだ。例えば、会社で机の前に座って、ウトウトしている不届き者、学校で先生の講義を子守歌代わりに、気持ちよさそうに舟をこいでいる無作法者である。

 昼寝、居眠り、うたた寝、添い寝など新しい皮質の眠りは、しばしば行儀が悪くなりがちだが、この点さえ気をつければ、大いに有益なことはいうまでもない。

 新しい皮質はフルに働かせたら、二、三時間で疲れ果て、眠りたがるほどなので、眠らせることも比較的簡単である。

 かつて、猫の脳で、新しい皮質に密接な関係を持っているある部分に、電流で刺激を与えられるようにして実験を行ってみると、一秒間に数回継続する電流を三十秒間流して、三十秒間休み、これを繰り返しているうちに、猫は眠気を催してくるのか、首を垂れ、目を閉じ、やがてはゴロリと横になって眠り込んでしまう。犬でも、同じように眠り込ませることができる。

 外国には、脳の手術の最中に、猫や犬の実験で刺激を与えたのと同一の部分に、同じような電流を流したところ、患者が眠り始めたという報告がある。

 新しい皮質は、一定のリズムで繰り返している単調な刺激に弱い。電気刺激などという、物々しい方法によらず、我々人間はもっと手軽な手段で眠らしたり、眠らされたりしてきた。

 それは、音や振動によるリズミカルな刺激である。「コットン、コットン」という車が米をつく音に、水車小屋の番人は眠気を誘われ、よく居眠りをしたものだといわれる。そして、水車が止まり音がしなくなると、目が覚めたそうである。

 音があったほうが眠れ、静かになると目が覚めるとは不思議なようだが、単調でリズミカルな刺激を賢明に利用しているのは、世の母親たちだ。赤ちゃんを眠らせるのに、子守歌を歌いながら、揺すぶったり、背中のあたりを軽くたたいたりしない母親はないだろう。揺りかごの秘密もまた同じ。

 「坊やはよい子だ、ねんねしな……」と聞かされたからといって、まさか赤ちゃんが歌詞を理解して、眠るわけではない。母親たちは、自分のやっていることに、こんなに深遠な脳生理学的からくりが潜んでいようとは、思っていないかもしれない。

 世の中には、睡眠薬を飲まないと眠れないという人がたくさんいるが、それらの人は、もう一度、幼少の頃の母親の子守歌を思い出してもらいたいものである。

∥不眠症を克服するために∥

●眠くなる潮時に乗ずる

 「中年や独語おどろく冬の坂」。これは西東三鬼氏の句だが、現代社会を生き抜くための複雑な心理の屈折に耐えかねて、眠れない夜の床に思わず漏れる独語は、中年に差しかかる坂道では、ことにおどろおどろしいフィーリングを伴っているようだ。

 眠れない夜が多い不眠症には、大きく分けて二つのタイプがある。一つは生活パターンからくるもの。もう一つは、ある出来事や刺激が精神を動揺させ、眠れなくなる不眠症である。どちらのタイプにしろ、神経の高ぶり、イライラが原因であるから、それを排除しなければならないのは当然である。

 そして、不眠症を克服する一番のコツは、宇宙のリズムにのっとって寝よ、眠くなる潮時に乗じて寝よということに尽きる。

 我々は宇宙から創られた小宇宙ともいわれるもので、宇宙秩序に合うように、人体の自然作用が働くようになっているものである。その自然作用を狂わしているのが、自意識だ。

 この自意識の旺盛な人に限って、睡眠薬を使用しているようである。「決まった手順を踏むとスムーズに寝つかれる」といわれるのも、不眠症が自己意識のせいであることを物語っている。

 人間には、夜になると必ず眠くなる潮時がある。その潮時をはずしてはいけない。潮時に乗じて、夕日の落ち込むイメージのままに、体を投げ出していさえすれば、誰でも熟睡という名の宇宙ドックに入れる。これが眠りの極意である。

 せっかくまぶたが重くなったのに、見たいテレビ番組があるとか、仕事が残っているとかいっては、眠くなった潮時を故意にはずして寝そびれていると、それが習慣性になって、夜の眠りが順調にいかなくなり、不眠症にかかってしまうこともある。

 不眠症になるそもそもの原因は、夜、眠くなった時に、さっと眠らないからだ。現代人は、早死にをするために、不眠症が最も有効な手段であることも知らずに、とかく理屈をつけては夜更かしをし、夜更かしを美徳のように思っている。

 つまり、不眠症などというのは、肉体の自然のリズムの乱れから起こるのだが、そのリズムの乱れが生じるのは、夜になって自然に眠くなる潮時があるのに、素直に従わず、みすみすチャンスを逃がしてしまうことが多いからである。

 肉体には自然のリズムがあるのに、それを自意識で意識的に狂わしてしまうから、今度はなかなか寝つかれなくなる。その繰り返しが、いつしか習慣になって、不眠症という病気に取りつかれてしまうのである。肉体の自然機能に逆らった罰で、不眠症ということになるわけだ。

 眠くなる潮時などというと、いかにも非科学的なことのように聞こえるが、「人間の眠り科学」でも述べたように、動物の脳の中枢からは、自然に眠くなる睡眠物質が分泌されるわけだから、その分泌の時間帯をすぎると、また目がさえてしまうことになるのである。

 眠くてたまらない時には、素直に眠ることが自然の摂理で、そうすれば眠りも自然に深くなり、朝までぐっすり眠れるものである。

●眠りは「気」を養う時

 眠くなるということは天の摂理であり、自然のリズムである。それに背いてばかりいると、眠りに入る時にも、朝の目覚めにも自然作用が起こらず、大変な損をするものである。

 十分に寝足りないまま起きてしまうと、午前中から気力がなくなって、仕事が嫌になったりしてしまう。そうして一日を棒に振ってしまうことが多いのに、「眠るのは人生の無駄だ」などと、暴言を吐く人が多いのだから、さても人間というのは度しがたい存在である。

 「早起きは三文の得」などというが、まだあたりが真っ暗なうちから起きて働くのも考えものである。

 何事にも潮時というものがあり、起床するにもちょうどよい時間がある。夜が白々と明け始めてからでも決して遅くはない。

 人間は体が慣れるにつれ無理がきくようになり、ついには無理が通って道理が引っ込むことになる。これも人生の落とし穴の一つだ。

 目が覚めた時、まだ時間が早すぎたら、体を投げ出して、そのまま夜の状態にしておかねばならない。人間の体の状態には、きちんと昼夜の別が備わっているから、夜中に目が覚めても、自然に任せていれば、必ずまた眠くなるものである。

 何かの拍子で目が覚めても、すぐに意識的にならずに、体を投げ出して次の眠りの訪れを待つがよい。

 まだ、十分眠ってはいないのだから、再び眠りがやってくるはずである。それなのに、意識であれこれ思案することは禁物で、意識を使うと目がさえてしまう。

 年を取って睡眠時間が少なくなったりすると、体が自然に硬くなってくるものである。老人になって、気だけは確かでも、体のほうがいうことをきかなくなるのは、まず眠りが不十分だと思ってよい。毎日わずかずつの睡眠不足が、チリも積もれば山となるように、身体の機能を老化させてしまうのである。

 年寄りになっても、十分に睡眠をとって、身体機能をすっきり整えておけば、恍惚の人になる恐れはないものである。

 老人は眠りが浅いとよくいわれるが、気力が乏しくなると神経が興奮しやすくなって、すぐ目が覚めてしまい、今度はなかなか寝つかれないということになりがちなものだ。

 つまり、養生とは、「気」を養うことが根本なのである。

 貝原益軒の「養生訓」には、「つとめてねぶりをすくなくし、ならひてなれぬれば、おのづからねぶりすくなし。ならひて睡をすくなくすべし」とあるが、これは大変な間違いである。

 養生とは「気」を養うことなのに、飲食や色とともに、眠りを三欲に数えていることは、矛盾、撞着(どうちゃく)もはなはだしいといわねばならない。

●価値ある疲れが快眠を誘う

 さて、人間がよりよく睡眠をとるためには、ある程度の疲労も必要条件である。何もしないで怠惰に一日を空費していたのでは、夜は決して快適な眠りを与えてはくれない。現代人は疲れが翌日のエネルギーへと変わることを知らず、なるべく楽をして体を疲れさせないように心掛け、そのために不眠症で悩んでいる人がたくさんいるのである。

 ただ、その疲れは何でもよいというわけにはいかない。望ましい疲れは、スポーツの後のさわやかな疲れを思い浮かべれば、誰でも思い当たるであろう。

 このさわやかな疲れは、昼間、それぞれの職分において、快適に働いた後に得られるものである。精いっぱい、自己を完全燃焼させて残る疲れであり、それによって自らを高め得た疲れである。こういう価値ある疲労こそ、夜、眠りによって自己を充実させる源泉になるものだから、職業の選択もおろそかにしてはなるまい。

 次には、不眠症解消の初歩的な方法として、適度な運動も勧めたい。散歩、ゴルフ、自転車、水泳、ゲートボール、軽い運動なら何でもいい。適度な運動の後の心地よい疲れが、快眠を誘うだろう。用事がなければ、片付け物でも、草取りでも、何でも結構。

 特に高齢者は、昼間に外へ出て、散歩すること。体にメリハリのあるリズムを設けるべきである。だが、散歩も、物を考えながら歩いたのでは駄目である。ただせっせと、自然の世界を肉体が歩くという方法をとる。

 高齢者についていうと、誰しも年を取ると体の苦情が多く、なかんずく、睡眠がうまくとれないという人が多いもの。大抵の場合、午前二時、三時頃に目が覚めて、なかなか再度の眠りに入りにくいというのと、中にはそのまま目が覚めっぱなしで昼間ボンヤリしたり、あるいは、頭痛とまではいかないでも終日、重苦しい気持ちに閉ざされるという。

 しかし、中には「年寄りは睡眠時間の少ないのは当たり前だ」といって、達観して平気でいたり、平気を装っている人もいる。

 一方、寝つきの悪いという人もあるが、これは比較的に少ないようである。高齢者は寝つきはいいようで、昼でもテレビを見ながら、人の話を聞きながら、コックリ、コックリする者も決して少なくない。

 だから、床に入って寝つきはわずかの補助手段をとると、楽に成功するようである。その意味から、日中、せっせと歩く散歩を勧めるのである。

 こうして七十代の老人も十代の若者も、昼間は仕事や家事や勉強や散歩やスポーツで、目いっぱいに体を働かせて、寝床に入ったら直ちに熟睡のできる習慣を持つことである。眠る気に任せて、疲れたままの体を横たえれば、すぐにぐっすり眠れる。これが熟睡の秘訣である。

 病人の場合はそうはいかないだろうから、マッサージでもしてもらって、よい気持ちになりながらそのまま眠るとか、いろいろ工夫があるはずだ。

●就寝前の食事の工夫

 眠るための工夫として、飲み物、食べ物についても紹介していく。

 世上、寝つきをよくするために、最もよく用いられるのはいわゆる寝酒である。老人の就眠法の大部分はこれで、簡単で便利だが、全く問題がないとはいえない。幸いにして五体が比較的満足で、血圧も上が百四十内外で、下が九十よりさほど高くない程度なら、一応、許容範囲といえるが、百六十~百以上とあっては、結構だとはいえない。胃潰瘍(かいよう)、その他内臓疾患のある人はなおいけない。

 それに、寝酒といっても酒の種類も考慮を要する。なぜかというと、アルコールによって得られる眠りは、生理的な自然睡眠とはいえないからである。

 もちろん、私たちが必要とする眠りは、赤ん坊の眠りと同じく自然睡眠であるが、寄る年波とともに、程度の差こそあれ、中枢神経系統は十分な、ナイーブなというか、オーソドックスな眠りを与えることが困難になってくる。

 そこで、何らかの方法で、睡眠を勝ち取る必要が生じてくるわけだが、自然睡眠をとることは、なかなか難しい。

 アルコールのもたらしてくれるのは麻酔である。寝なければならないためとはいいながら、毎晩の麻酔は考えもの。万一やむを得ないとしても、最小限に食い止めるべきである。

 また、自然睡眠を麻酔とともにもたらす道があれば、人工睡眠としては理想に近いものといえるかもしれない。

 ある東洋医学者によれば、ホップとアルコールの混合物が眠りを誘う目的に用いられるとすれば、単なるアルコールのみの使用に比して優れていることは、理の当然として考えられるという。

 そこで、両者の共存するビールは、単なる睡眠誘発のためなら、比較的無害なものといえるかもしれない。ただし、ビールのホップ含有量は一パーセントにすぎない。酒を全く飲まない私には、当否は弁じがたいが、そのほうに詳しい知人の説によると、寝心地と朝の目覚めはビールが最良だというが、そうかもしれない。

 知人は小瓶一本をもって適量とするといっている。これは我が意を得ている。摂取する水の量が多きに失すれば、心臓に対しても、腎臓に対しても負担となる。

 就寝前は大量の水をとることは避けるべきで、この意味で知人の就寝前ビールの処方は、結構なものだろう。

 食事に関していえば、就寝前に食べたり、食べすぎたりするのは、眠りの妨げになる。眠くなる前に物をたくさん食べると、眠くなる作用はもう奪われてしまう。それだけ胃に負担がかかって、胃の働きが強くなればなるほど、他から出る機能は淡いものになるのである。

 そこで、食事時間を早くするか、夕食を軽めにして朝食の量を増やす配慮をするべきである。また、カルシウム不足は神経がいらつきやすくなるので、小魚類を食べるようにする。

 あまり空腹でも眠れないので、その時は温かい牛乳を飲むといい。食べ物については、残念ながら即効薬的な物はないといわれるが、それでも、牛乳、チーズなどの乳製品は、睡眠を誘う数少ない食べ物の一つといえるだろう。

 牛乳、チーズには、神経の興奮を静めるカルシウムもあり、消化、吸収が高いという長所がある。その上、牛乳、チーズ中に含まれるトリプトファンというアミノ酸の一種が、脳睡眠中枢を刺激して自然に眠りを誘うという働きもある。

 ノンレム睡眠は、セロトニンという物質と深いかかわりがあるとされている。不眠や睡眠障害を起こす時は、決まって脳内にセロトニンが減少しているからである。このセロトニンは、トリプトファンから作られるので、牛乳やチーズを勧めるのである。

 逆に、就寝前に濃いコーヒーや紅茶を飲むのは禁物。コーヒーや紅茶に含まれるカフェインが交感神経を刺激し、眠気を抑える働きがある。

●不眠症解消のさまざまな試み

 さらに、基本的な問題として、入眠の際、肉体的に変調を覚えるようでは寝つくこともできない。端的な例は痛みである。頭痛、歯痛、内臓の痛みなどがあれば、そちらに神経が奪われて安らかな睡眠どころではない。快眠を得ようとするならば、痛みの原因を取り除くこと。この点は、かゆみ、尿意などの刺激も同様である。

 よく、あまり熱くない風呂に入れば、寝つきやすくなるという。これは、血行をよくし、筋肉の緊張を和らげて、交感神経の働きを低下させるためである。手足を温める方法も、同じく交感神経の働きを抑制し、眠りを誘うためである。

 この点、寝る前に、刺激の強いものを避けることも必要である。テレビや刺激的な音楽、食べ物などを就寝の二時間前には避けるようにする。音楽は静かで、ゆったりした曲で、心が安らぐなら効果的。しかし、テレビはどんなものでも睡眠の妨げになる。セックスは可であるが、終わったらすぐに寝るようにする。

 眠りのパターンを作ることもよいだろう。物理的パターンは人それぞれだが、自分なりの小物を使用する方法である。例えば、枕、本、音楽、寝る姿勢、何かを手に持ったり抱く。あるいは、寝る前にトイレにゆくという行為でもいい。一種の自己暗示だが、こうすれば眠れるというパターンを作り、習慣にする。

 心理的パターンとしては、他のことは考えず、あることについてのみ考える。例えば、未来のこと、過去のこと。小よりは大、現実よりは空想、人間よりは自然。特に身近な人間のこと、金銭のことは考えないようにする。寝不足でも、朝は決まった時間に起きるようにしてほしい。

 こうして不眠症を防止しても、神経が高ぶり、どうしても眠れない場合は、無理に寝ようとせず起きる。眠れるまで心の中で、「ナムアミダブツ」を続けるのもよいし、静かに瞑想するのも効果的である。強い照明、たばこは避けて、リラックスできる場所を選ぶ。

 労働が精神労働のほうに片寄っていて、肉体は眠くなく精神だけが疲労していると、眠いようで眠れないという現象が起こることもあるが、この時は丹田呼吸が役立つ。

 眠る時に、眠りたいと考えたり、眠らなければならないと考えたりするから、眠れないのである。丹田に入っている息を、ゆっくりゆっくり鼻から吐いていると、眠れる。丹田に息があるわけもないのだが、そう錯覚して息を吐いていればよいのである。

 要は、落ち着きは体から出るもので、気持ちからは落ち着けないものだから、フーッと大きく息を吐いて体の力を抜き、肉体をゆったりとくつろがせること。体がピリピリと張り詰めていては、睡眠物質の分泌も止まってしまうだろうが、肉体が意識から解放されることによって、再び眠りの潮時が訪れてくるはずである。

 精神的条件についていうと、すでに述べた通り、睡眠に対する異常な執着から、まずは解き放たれることが肝心。何とかして眠らなければと、意識が焦れば焦るほど逆効果になってしまうもの。肉体も落ち着かず、ひとりでに緊張しているものである。人間は必要があれば眠れるものなのだという強い心、タフな精神を持つことである。

 その方法としてよく紹介されるのは、セルフコントロール法とか、マインドコントロール法などと呼ばれる自律訓練法である。自分の心を思い通りに律しようというわけである。自己催眠により、自らを眠りに誘導していく。

 環境条件については、眠りやすい状況を整えることが大切。マットの硬さを好みで選べる快眠ベッド、人気のウォーターベッド。通気性に優れ、しかも保温効果がある羽毛布団。そばがらなど天然素材の枕。果ては、快眠のためのBGMや香り製品もあるから利用したらどうだろう。

 最近は、快眠を得るために住宅建設に当たって、寝室の間取り、設計、インテリアに神経を払う傾向も強くなっているともいう。

∥眠りの質をよくする方法∥ 

●早寝早起き、正眠法の奨励

 ここまで、睡眠の科学的考察、現代人に特有の眠り現象、不眠症の分析と対策などについて述べてきたのに続いて、大自然の真理、原則にのっとった睡眠の仕方、いわゆる正眠法というものについて解説していくことにする。

 正眠法の第一の要諦は、早寝、そして早起きということにある。昔から「早起きは三文の得」などといって、早起きを奨励しているが、どうしたことか早寝については、それほどやかましく論じられていないようである。

 実は、早起きよりも早寝にこそ、人間の健康や運命をよくするカギがあるのである。

 なぜならば、いくら早起きが習慣になっていても、「早く寝るのはもったいない」などといって、夜が更けてから就寝したのでは結局、睡眠不足に陥り、寝ぼけた状態で一日を空費することになるからである。

 また、睡眠時間の長短よりも、睡眠の深さが問題であるともいわれ、それも確かに一理あるが、そういう人に限って早く永眠する傾向があるそうである。

 だからといって、ダラダラと朝寝坊をせよといっているのでもない。本来、人間の体には自然作用が働いており、早寝をすれば当然、早起きができるようになっているものなのだ。

 そこで、日暮れとともに就床し、夜明けとともに起床して働くというような、宇宙のリズムに合った生活をするならば、人間は誰でも健康で、賢明で、堅実な三拍子そろった人格者になれる。

 読者の方々には、実生活の上に体験、認証してみてほしいもの。そして、あなた自身が素晴らしい人格者となって、周囲の人たちを教導し、花も実もある日々是好日の人生の旅路を歩んでもらいたいものである。

 ところが実際、早寝ということは、簡単なことのようだが、これはまた現代人にとっては難事業ではないだろうか。夜遅くまで残業をしたり、深夜テレビを見たり、日が替わるまで酒を飲み歩いたりと、体に染みついてしまった長年の生活リズムを改革しなければならないからである。

 理屈では効用がよくわかるから、早く寝ようと思い思いしながら、なかなか暮らしのサイクルは変えられそうもない。ついつい十時になり、十一時になるという方もおられよう。

 ともかく百日続けてみることである。「石の上にも三年」というではないか。早く永眠する代わりに、毎日、日が暮れたら早く往生すべし、明日がある。遅くとも八時には寝るがよい。夏でも八時、冬は七時でもよい。

 現代は社会が華やかで、一人敢然と、落ち着いては眠れぬものである。それでも一日にわずかの努力が、三年で死ぬか三十年生きるかの交換条件となると聞いては、考えるまでもないこと、早寝と決めたのである。

 従って、数十年間にわたって、毎朝早く、はっきり、すっきりした心境、元気いっぱいな肉体で目が覚める。

●天地に定められた時間で眠る

 現代社会の人間は多く、習慣的に寝ることをする。これは間違いである。宇宙の原則、生命の原則からいえば、夜は八時に寝て、朝は四時に起きるのがよい。

 現代社会の時刻というのは便宜的な取り決めであり、夜が明けたら起き、日が暮れたら休むように、人間の体内時計は太古の昔からセットされている。

 つまり、標準時間というものが、天地に定められているわけだ。昼の正午には、どこの世界でも太陽が天の真ん中にくる。夜の午前零時は、夜の真ん中である。そして、方角に南北があるように、時間にも南北がある。南が正午で、北が夜の真ん中の午前零時。

 十二時を中心として、夜は八時に寝て、朝は四時に起きる。眠る時間は八時間。日本などは春夏秋冬がまことに正確に訪れる。この規則正しい自然の運行に恵まれた日本、それゆえにこそ日本民族は世界で一番優秀なのである。

 生理的に見ても、人間の体温は、午前二時から明け方の四時頃までが一番低い。代謝機能も低下しているわけで、最も休息を必要としているのだから、夜中の十二時前には眠るべきだ。

 昼の頂点が正午であるように、夜中の十二時は夜の頂点、夜気最も沈んで、人体というバッテリーに、明日のエネルギーが最高潮の状態で、チャージされている時である。従って、眠るのは遅くとも十時前でないと、せっかくのチャージの効率が悪くなってしまう。

 大自然によって決められた昼夜の「時」は機会であり、個人が自由に使えるものだが、自然の摂理に反すると、人間の生理に不都合が起きるわけである。

 冒頭で述べたように、正眠法では、早く寝る、十分に睡眠をとり、早起きすることを第一の要訣としている。自然のリズムを壊さぬようにすべきであろう。

 早く眠れば、睡眠もそれだけ深いはずである。その証拠に、夢をあまり見なくなるだろう。俗に、夢は「五臓六腑の疲れ」などといわれるから、早く寝るようになったお陰で、内臓の機能も生き生きしてくるはずである。ともかく、よく眠れるようになることは事実で、寝つきもよくなる。枕に頭をつけると、たちまち眠りの深淵にグングン引き込まれてしまうだろう。

 こうして熟睡した時、肉体全体が組織も器官も、機能も一致する。この時が生命、生活上には重要な問題、重大な時である。

 上手に熟睡すれば、たとえ眠る時間は少なくても、この間に体は安らぐ。眠りの中でエネルギーが作られる。バッテリーの充電ができるように、宇宙の生命エネルギーが肉体の中にみなぎる、到来するのである。眠りの中に体力、気力が作られるのである。

 この力のない人は、耐久力がない、病気にかかりやすい、身も心も健全でない。熟睡できる人は、弱そうでも強い。確かな人、善良な人、賢明な人たり得るのである。

 眠りは、絶対世界と相対世界を結ぶ第一の機会である。生かされ生きている、他力と自力を結ぶ素晴らしい方法である。

 眠りという自然作用は、今日一日の疲れを明日のエネルギーに切り替えられる。今日一日、命を懸けて一生懸命働くがよい。愚かな人も賢明になる。弱い人も丈夫になる。眠りの中においては、足らざるものが補われてくる。病人は病気が治る。愚かな人には知恵が出る。疲れた体には新しいエネルギーを与えて、翌日に備える。

●楽しい眠気に乗じて休む

 編集子が説く早寝をするということは、眠くなった潮時に乗じて寝るという意味でもある。そこで、正眠法の第二の要諦は、眠くなったら寝るということにある。

 人間誰もがせっかくの寿命を全うするには、眠くなったら寝るという原則に目覚めて、夜は早寝を心掛けるべきである。すでに述べたように、睡眠にも適当の時がある。入眠時間の最良は八時、次が十時、限度は十二時。時をはずした眠りは正眠とならない。

 夜は仕事をしないで体を休め、宇宙天地大自然に生かされているという自然の順序に任せて生きれば、誰でも、日が暮れたという宇宙の構造、仕組みからいえば、眠気を催すのが当然である。そうしたことに慣れると、非常に眠気を催してくるものである。

 眠気というものは、とてもよい気持ちで楽しいもの。眠くなった時にそのまま寝たら、どれだけよい気持ちかしれない。誰もそれは体験ずみであろう。

 床の中に入ってきちんと寝るのは、無論楽しみだけれども、眠くなったらそのままそこへ無造作にゴロリと寝る。それ以上の楽しいことはないだろう。

 また、居眠りというのも、案外楽しいものである。人間の楽しさというものは、意外とそんなところにあるものである。真の楽しさ、無上最高の楽しさ、一番楽しいというものは、そういうところにあるのである。

 ともかくも、心身の健康を保つためには、夜は眠気がきたら、その眠気がゆきすぎないうちに、その眠気に乗って眠るということに理がある。これは、宇宙からのお誘いであると考えなければならない。

 人間が自分の努力で性格の悪いのを直そうとしても駄目だし、精神的な悩みや苦しみ、つまらない気持ちを転換しようとしても、そう簡単に自分で自分の気分を転換することは難しい。

 しかし、その時に眠ることができたら、いっぺんに気分は転換する。だから、眠れないという人は、一番気の毒である。

 この眠くなったら寝ろということは、何でもないことのようであるが、潮時に寝て、十分に睡眠のとれた翌日には、実によく肉体の神経が働くのである。

 神経は大変な力を発揮するものであるが、神経の力ということを誰も知らないし、気がつかない。

 眠っているうちに、今日働いた疲れが明日のエネルギーに切り替わるということも、神経の働きによって見事に行われるものである。これが人間を成長、発展させる原動力であり、条件なのである。

 寝ている間に細胞が調整される。新しい活動力、エネルギーをいっぱいによみがえらせるということは、眠くなったら寝るという条件によってのみなされる。

 人間は、眠りが足りておりさえすれば、食べ物は何でもよい。「あれを食べよ、これがいい」などということは、二次的な問題である。季節の物を食べてさえいれば、人間の体は健康にならざるを得ないように、完全にできているものである。

●夜遊びは神経を損なうもと

 十分に眠れて体がすっきりしている人、神経が落ち着いてしっかり働く状態にある人は、五官がはっきりして、すべての物事が正確に受け取れる。

 このような人は、その体がそのまま他力を受けることができるから、他力の力で自己の意識、すなわち心と称するものの動揺、暴走を抑えて、静寂ならしめることができるのである。すなわち、他力によって、暴れやすい自己意識をくぎづけにすることができるということを知っておいてもらいたい。

 意識が暴れると、その結果、五官が乱れる。自己意識が強くて、欲望や感情に走ると、人間の五官作用というものは、正確に働かなくなるのである。

 人間の自己意識というものは、常に満足することがない。一つのことに満足すれば、すぐにまた次の欲望、野心を起こす。要らざること、間違ったことを次から次へと求めに求めて、果てしがないのである。人間の意識には果てもなく、道も法もない。

 毎日がつまらないから楽しさを求め、刺激を求め、夜遊びに興じるなどと、いろいろなことをしたがるが、それらがみな肉体を弱め、神経に負担をかけているのである。結局は、自己の運を悪くするのみである。

 神経がこの負担に耐え切れなくなると、それぞれの臓器に影響してくるようになる。精神的な面からの肉体への圧迫も、みな体に変化を起こしてしまうものである。人間が生きている以上は、どんな人にも多少の圧力はあるけれども、特に心からくる圧力の強い人は、人一倍、自己の圧力によって苦しみ、悩まされるものである。

 しかし、その圧力も、太陽が沈んだ後は、少し低くなる。

 昼間はブラブラしている人が、夜ともなれば自己の圧力が下火になって、いくらか気が楽になるために、意識がはっきりとして、いろいろな遊びを求めて歩くということになる。眠らねばならない時間に遊び歩く人の神経が、どれほど疲労するかは、想像以上のものがある。そして、明くる日はまたボンヤリしてしまう。

 こういう生活習慣を持つ人の人生は、毎日、圧力や感情に支配されて、常にイライラ、そわそわした、動揺常なき状態になってしまうものである。

 人間の肉体は、暑さや寒さ、昼と夜というように、気象的な条件にも影響されるが、物理的な面からも影響を受けている。その上に、感情や意識が体を責めさいなむのであるから、たまったものではない。

 従って、人間の一生というものは、知識があるとか、頭がいいとかいう問題とは別に、また、金力や権力を持っているという幸せとは別に、幸福への条件があるということをよく知って、計算に入れておかないと、それがやがて個人ばかりでなく、社会的な幸、不幸にも広がってゆくものである。

 ようやく社会的に価値を認められ、名を成した人が、もろくも五十歳、六十歳で死んでゆくなどという悲惨な結果になってしまうのは、この人生の計算不足のゆえである。

●睡眠中に浄化される老廃物

 物に恵まれた地位や立場が欲しいなどという意識的欲求は、誰でも実に根強いものがある。借金してまで遊びたいという欲望などは、次から次へと苦しみを作っていくばかりである。すべて、こういうことは意識がするのである。これが癖になると、なかなか直らないものである。

 一カ月や二カ月で作り上げた、こうした習慣を元に戻すために、一年も二年も時間がかかる。また、癖になってしまったら一生直らないという場合もあるから、恐ろしいことである。

 本当に自分を知り、自分を生かしていくためには、このことをしっかりと認識して、人生の計算をするべきである。

 それにはどうしたらいいか。眠くなったら寝よ。十分に休め。ただそれだけでいいのである。理屈をいわずに「なるほどそうか」と、素直な気持ちで実行すれば、必ず効果があるはずである。

 眠くなったら寝よ、早く寝よ、十分に寝よ。それが人間をつくり、維持するすべての基礎なのである。

 意識と体が一つになって、これを実行すれば、自分の幸せはもちろんのこと、その人には人がついてくるものだ。

 これをやるかやらないかは、聞く人の自由であるが、その差が大変な違いを作り出すのである。

 水をかぶれとか、断食をせよ、などというのではない。道徳、倫理を守れというのでもない。神や仏を信仰せよともいわない。いろいろな形式に従って、精神修養をせよというのでもない。

 この人間の第一課、第一の条件、この基礎が実行できたら、真理の話は素直に受け取れるものである。

 体は丈夫でも、神経が弱くなってしまうと、本当の力を発揮することができない。人間として与えられている力をフルに出すことができない。これは、体の機能の順序が狂っているからである。

 現代人は、意識を最高のものとして、精神至上主義などといっているが、その根底に肝心の肉体の力がないために、精神力も意識も、その能力を十分に発揮することができないのである。肉体の力が弱いということは、すべての基盤がもろいということである。

 しかし、力といっても、この場合、圧力や感情のみを使うような自力の働きでは、どうにもならないのである。

 現代人は、子供の時から、あまりにも早く意識を作りすぎており、自然から成り立ってくる力を無視してしまうから、本当の健康者が少ない。健康そうに見えても、本当に健康でないために、水とか食べ物などからの有害な影響をつい受けてしまう人が多いのである。

 睡眠時間を八時間とれば、神経が完全に働くから、体内の老廃物をそれぞれの場から体の外へ排出してくれるものである。呼吸からも、皮膚からも、気体として発散してしまうし、また尿にして排出する。朝の目覚めの時の尿には、色がついているのもこのためである。

 どんな健康な者でも、睡眠中に作られる小水には色がついていて当たり前。寝ている間に、自然の働きが、そうした素晴らしい浄化をしてくれるからである。神経を使いすぎた場合にも、尿に色がつく。病気で熱が出た時にも、色は違うものである。

 尿の色の具合で体の状態がわかるほどに、人間の体というものはうまくできている。これを完全、精密に検査することができれば、内臓の状態がわかるものである。それを本当に検査する方法ができれば、それだけで人間の健康状態はよくわかるはずである。

 人間の体の機能は、素晴らしい値打ちを持っているものである。そして、生かされているという条件の上に、成り立っている生命が人間である。体の器官、機能は、実に巧妙に働くようにできている。

 この働きをいかに故障なく運行せしめるかということが、生きていく面のすべてにかかってくるのである。

 生きていくことは、難しいことではない。眠りと呼吸を真理的に行い、暑さ、寒さに順応してゆきさえすれば、年を取ってもその働きが弱るということはない。

∥昼寝、仮眠、うたた寝の再認識∥

●「気」の充電は夜に行われる

 ここまで述べてきた睡眠というものは、「気」を肉体に吸収するという観点からも重要である。

 その意味でも、夜は十分に眠ることである。自然に任せて眠ると、肉体が眠っている間に、宇宙の「気」を吸収することができる。宇宙ドックに身を横たえて、眠りの中から宇宙の「気」を十分に体に受けるのである。

 この「気」を吸収するという時は、夜の大気によって肉体が吸収するものであり、昼間の太陽が出ている時には、「気」を吸収はしているけれども、絶対の「気」ではなく、調節しようとしている「気」なのである。

 逆に、夜というものは内容的な面の一切、「気」を充実させる「気」というものを蓄える。要するに、バッテリーに充電させているようなもので、昼間はそうはいかないものなのである。

 昼間も大切であるが、いかに夜が大切であるかということであり、それにしてはあまりにも、人間が夜というものに関心が薄すぎるというのは、重大なことである。

 夜は、眠っていて自己意識を伏せているから、特に「気」を吸収することが自然に、楽にできるわけだ。

 夜の「気」というものは、たとえ風があろうが、鉄筋の蔵の中であろうが、それは宇宙的な「気」であるから、別に窓を開けておくからいい「気」がくるというものではない。 夜のいい「気」の中においては、万物が完全に法則、原理に従って宇宙秩序、すなわち生命の生理的秩序に合わせて眠るのである。

 夕方、太陽が沈むとともに、地球上の「気」は変わってしまう。一日のうち、日の出と日の入りは「気」の変わり目、正午と夜中の零時にも境目がある。昼には昼、夜には夜の「気」があり、互いに異なる。空気の働きも違う。

 人間の肉体も、昼と夜とではまるで別物のように変わる。肉体は数え切れないほど多くの微小な細胞からなっているが、昼と夜とではその細胞のおのおのの働きが変わるからである。そのそもそもの原因は、これも「気」にある。

 肉体が変われば、その中に含まれるあらゆるものが変わる。目に見えるものも、見えないものも。神経も変わり、感覚も変わる。従って、昼と夜とでは人間の生き方も変わってくる。生き方というよりは、生かされ方といったほうが適切かもしれない。

 人間は夜の「気」に合わせて眠ることをせず、こうこうと電灯をつけ、夜まで昼の延長をやっているから、昼夜兼行で自らの命を燃やし切ってしまうのである。そして、病気になり、早死にする。あるいは、体の自然作用が狂って、健全に働かないから、年を取ると、ボケてしまうのである。

 よく眠ることが万事の根本である。眠りの足りない人は、気息が整わず、基礎工事のあやふやな建設と同じで、浮世の波風に耐えられぬこととなる。

 人間は一日にたとえ八時間であっても、起きて、動いたり、働いたりしていれば疲れるに決まっている。疲れない体というものは一つもない。子供でさえも、動けばくたびれるに決まっている。

 そのように、体というものは動いたり、働いたりして、疲れているわけだから、その疲れをいやして早く力にしなければならない。

 その疲れをいやし、力にしてくれるのは意識ではない。それは、夜の「気」というものが、今日の疲れを明日の力にしてくれるものなのである。

 また、人間は「気」の発動によって行動するから、気が乗れば気合が入って、五体にも「気」がみなぎってくるが、気落ちすると、気がくじけたり、めいったりして、万事に気後れしてしまう。毎日の生活の中で、四六時中「気」は働いているから、あまり気を使いすぎると、消耗して疲れるし、肝心の時に気が散って失敗するものである。

 「気」を入れ替え、気力を充実させるためにも、夜はできるだけ早く寝て、「気」を養うことに努めよう。せっかくの休日に遊びほうけて、疲れ果てるなどは、愚の骨頂である。

 「気」の乱れを静め、平静を取り戻すにも、眠ることが何よりの方法である。困ったことがあってもクヨクヨせずに、まず一眠りすることだ。「果報は寝て待て」といわれるように、十分に眠れば判断力も増し、勘もさえて、道はおのずから開けてくる。

 反対に、眠りをおろそかにしている人は、朝起きても気分がさわやかでなく、「気」によって生命力を躍動させることができない。眠気や疲れが肉体の中に残っていると、新しい「気」が入ってこないから、「気」はますます濁り、意気消沈してしまうことになる。

●健康にとって睡眠に勝る妙薬はなし

 風邪を絶対ひかぬ秘訣は、毎日早く寝て十分な睡眠をとって、肉体に「気」を充実させておくこと。風邪をひくというのは、体の中の「気」が張り詰めてなく、寒い風や、ばい菌を引き込むからで、体内に生気が充実していれば、風邪をひくことも病気になることもない。

 肺結核の病院の医師や看護婦は、何十年も患者と生活を共にしながら、病気に侵されることはない。

 それでも風邪ひきらしいと感じたら、早めに寝て、十分眠ること。眠れさえすれば一晩でケロリと治るだろう。

 このように睡眠が疲労をいやし、新たな活力の源となることは、私がここで改めていわずとも、誰でも経験的に知っている。例えば、風邪をひき、医者に診察してもらった場合、決まって「今晩は薬を飲んで、早めに休むことですね」とアドバイスされるはずである。

 風邪を早く治すには、風邪薬を飲むのと同様、十分な睡眠が必要である。また、いくら薬を飲んだからといって、睡眠不足では軽い風邪も治らない。

 睡眠は疲労を回復し、ひいては風邪を治す作用を有することは、生理学的にも証明されている。人間の体は、病気に対する自然の免疫力と、治癒力を備えているのである。その免疫力と治癒力は、睡眠中に作られる。病人で十分睡眠がとれる場合と、とれない場合とでは、回復に差異が生じるのはそのためである。

 日本には、昔から「早起きは三文の得」といって、早起きを奨励する気風があった。その反面、睡眠は何ももたらさない非生産的な行為のように思われがちである。

 しかし、それは誤解であり、人の睡眠は「気」を充実して疲労を回復し、病気を治すのである。

 眠りは万病の薬、体を寝床の上に投げ出して、生かされているという気持ちになり、すべてを宇宙生命の絶対力に任せ切れば、風邪ひきを機会に体を丈夫にし、人生観が一変し、悟りの開けるもとにもなる。禍福転換、常に真理の妙用を忘れてはならない。

●眠りは子供の「気」を養う

 睡眠に関することわざで、「早起きは三文の得」とともに、よく使われるものに「寝る子は育つ」がある。

 親の我が子に対する行き届いた管理は必要だが、独りで育つ子供のじゃまをしないで、よく見守って、十分に眠らせること。特に、子供は早く寝かすがよい。年齢にもよるが七時結構、八時以後では遅すぎる。

 子供も大人も早く寝ることによって、体の中に「気」の力が作られてゆく。その中から機能が発達してくる。その機能の中から、また能力が芽生えてゆくのである。そこへ必要なものを時に従って仕込んでゆきさえすれば、子供の体の中には、いくらでも力が出てくるのである。その力は成長という時期にあるだけに、なおさら素晴らしいのである。

 例えば、子供は全く純真であり、純粋であるから、ごはんを食べている間でも、眠くなるとハシを持ったまま、すぐにそこへ横になってしまう。それを起こしてはいけない。「ごはんを食べなさい」と、無理に食べさせるようなことは、絶対にしてはいけない。

 ごはんを食べることよりも、眠ることのほうが先であり、自然の原理であるから、それに従ったほうが利益は大きい。そのまま床に寝かせるなり、風邪をひかないように布団を掛けてやればよい。

 肉体のすべてが、完全に自然機能を発し、生涯百年の生命、百年の魂が用意できるまで、子供の自然発動に親が干渉してはならない。

 子供が自然に育ってゆく有り様をよく見ていると、特に新生児の場合は毎日、安らかに眠る。この眠りというものが、新生児にとって一番大切なものである。この眠りの中で、一生の「気」を養っているのである。

 新生児は、眠りの中では「気」を養っているが、目覚めの時には、何がだんだん意味されてゆくのか、わかってゆくのか、自然だけが知っていることである。親も知らない。科学の力でもまだわからない。親の気持ちで、親の判断で、親の一方的な考えで子供を育ててはならない。子供は自然が育てているのだから。

 自然が育てるということは、宇宙の生命を生命として生きる、ということである。宇宙の生命とは、宇宙の意思であり、法則であり、約束である。それを能力ということができる。この宇宙の能力のもとに、子供は生かされているのである。

 宇宙の能力の中心をなすものは、「気」である。「気」は空気の気とは区別する。「気」は人間の体に宿って気力となる。この気力がなかったら、肉体はヘナヘナとなえてしまうというほどのものである。

 特に、乳児の体は、宇宙の「気」を吸収しやすくなっているから、この時期は、静かにしておいてやるのが一番である。なるべく静かな場所に寝かせておけば、子供の体は常に健康に守られて育つ。「寝る子は育つ」という通り、寝ている間は成長ホルモンの分泌も盛んになっている。

 親は、子供が泣いたら、その泣き声で、「これはおなかがすいたのだな」とか、「おむつがぬれたのだな」とか、その原因を聞き分け、見分けて適宜、対処するだけでよい。

 親が乳児をあまりチヤホヤしすぎると、子供の神経は、いやがうえにも高ぶってくる。なぜなら、子供の神経系統は、口がきけないだけに、大変敏感な状態に置かれているからである。乳児を抱いて揺すぶることは、やたらに神経を刺激することになり、夜泣きの原因ともなる。

 乳児を寝かせるには、昼間は直射日光を避ける程度で、明るいところがよい。夜は暗いのが当然なのだから、テレビの音や電灯の光などの刺激に、いつまでもさらしておかないで、暗くして寝かせるべきである。

 昼間眠る乳児のために、眠りやすいようにと、わざわざカーテンで光を遮って部屋を暗くしてやる母親がいるが、これは間違いである。昼間は明るいところに寝かせておけばよい。

 こういうことをはっきりさせておくところに、自然な育て方のコツがある。自然の状態の中で、体の細胞組織が組織化され、神経の働きが健全化されてくるのである。

●睡眠法の工夫について

 乳児を寝かせるコツに続いては、大人自身がよく眠れる工夫を述べてみよう。

 眠る時は、夕日の落ち込むように、疲れたままの体を眠る「気」に任せて、さっさと寝ると、ぐっすり眠れる。これが熟睡の秘訣である。

 論より証拠、必ず一度は訪れるはずの、眠くなる自然感覚の潮時に早く眠れば、熟睡ができ、宇宙ドックの中の八時間に、生命は一新する。

 また、眠るために床に就いたら、姿勢を楽にして、全身の筋肉の緊張をゆるめるがよい。真の落ち着きというものは、心や意識からではなく、肉体をくつろがせることによって生まれるものである。

 せわしなく呼吸することもやめ、吸った息を足のつま先に回すようなつもりで、深い呼吸運動を繰り返す。その状態を続けていると、いつしかコンチュニアム(連続体)が自己の中に没入し、一体となったことが知覚される。

 マイステル・エックハルトのいうイスチヒカイト(如実)の境地であり、半意識の中で天地万有と自己が一体となる。

 そして、眠りに落ちる時には、自然に口を閉じるがよい。「養生訓」にも、「口をひらきてねむれば、真気を失ふ」とある。

 しかしながら、高齢者にとっては、春は眠くなるといっても必ずしも眠りは深くならないように、深い眠りを得るためには、もう一工夫したいものである。

 そこで、健康敷布、健康掛け布とでも名づけようか、木綿製の寝具を作って、真っ裸で寝ることを奨励したい。雪国の人は冬でも素っ裸で寝るが、それは自然の知恵で、そのほうが暖かくもあり、自分の体から出る放射熱で温まるという。それは、地球上における放射熱によって万物が健全に成長、繁茂し、あるいは発展する、宇宙の理と利にかなったことなのである。

 四季を通じて、敷布、掛け布はできれば毎日でも、日光や風にさらして、体温や湿気を除く。洗濯も頻繁にして、なるべく衛生的に保つようにしたい。その中で裸で寝る味は、まことによきものである。

 夏の寝床では、厚地のタオルケット一枚で、涼しく、温かく眠れるだろう。これは空気を着て寝る方法で、生理的にして合理的、よき方法だと思う。

 枕(まくら)については、パンヤやソバガラなど、中に入れる材質にはいろいろあるが、最近は自然志向に沿って、枕の中に植物や、その芳香を入れるのが目につくから、一度利用してみるのもいいだろう。芳香枕カバーや芳香シーツもあるという。

 実験によっても、芳香物質を入れた枕などを使うと、指先などの末しょう部分の温度が使用しない場合より高くなり、神経系がより鎮静化していることがわかった。芳香が睡眠に有効なことが確かめられているのである。

 静か、あまり明るくない、温かい布団といった環境に、もう一つ、枕も工夫して、気分のよい睡眠をとり、心と身体の健康を高めよう。

 老人になると、小用が近くなるから、寝床のそばへ小用のタンクを備えておくことも忘れずに。

●ごろ寝や昼寝を見直すべし

 最後に、夜の眠りばかりでなく、日中の昼寝、うたた寝、ごろ寝などの効用を述べて、「眠りの知恵」を締めくくる。

 例えば、休日のごろ寝は一番貧しい過ごし方とされているが、これは必要な睡眠しかとらない人には味わえない快楽。体もリフレッシュされるし、単なる怠惰ではない。

 電車の中での一眠りも捨てがたい。電車内で居眠りできるのは、日本社会が全体として安全であることが大きく、豊かな文化といえる。

 反面、外国にはある昼寝という習慣が制度化されていないから、日本人は自分で眠りを見つけているともいえる。日本では、夜眠ることが自明の理となっているが、人間はもともと、一日に何度か眠る多相性睡眠の傾向がある。世界的に見れば、昼寝をしないのは先進国の一部で、熱帯や地中海の地方など、昼寝をする国のほうがずっと多いともいう。だが、ペルーやスペインでも、シエスタ(昼寝)の習慣は廃れつつあるようだ。

 この昼寝を医学的に見ると、十五分ぐらいの短い昼寝が意外に効果的なのは、すでに実証されているところである。

 昼寝の効用を調べたある調査によると、十五分間の仮眠後、眠気の度合いや、刺激に対する反応時間を測って、寝る前と比較すると、眠気は約十五パーセント、反応時間は約二十パーセントも改善されていた。

 十五分以上の眠りは、深い眠りに導く。深い眠りから急に起こされると、しばらくボーッとして作業能力が低下したり、事故率が上がるという。

 また、短時間の仮眠が、タクシー運転手の疲労回復や、事務職の能率向上に有効との別の研究結果も出ている。機械は連続して動かしていたほうが効率がいいが、人間の脳は時々休ませたほうが能率が上がる。短時間眠ったほうが、ダラダラ仕事を続けているよりも、能率は圧倒的に改善されるのである。

 昼寝、仮眠、うたた寝は罪悪ではない。脳の疲れをとってくれるし、大切な行為なわけである。

 仕事をしている時は左脳を使うが、寝ている時には右脳の働きが相対的に活発になるもの。ウトウトしている状態などは、レム睡眠ではないのだが、夢と同じようなものを見る。ウトウトすると、右脳より先に左脳が休んでしまうからである。こうして右脳を使うと、直観、ひらめきが出てくることもある。

 考えあぐねて壁にぶつかった時は、意識的にウトウトして、右脳で発想の転換をするのも一つの方法である。寝た後は、いい企画が浮かびやすいから、企業はもっと仮眠室を設けるべきではないだろうか。

 果報を得んとする者は、まず体を投げ出して寝、自然に湧いてくる力の発動を待てということである。

 企業に勤める人ばかりでなく、誰もが眠気を催したら、昼間でもそこへゴロリと寝る癖をつけること。十分間、十五分間の眠りでもすっきり頭がさえ、はっきり体が澄んで元気になる。勉強中でも家事中でも、居眠りするより寝るがよい。体には睡眠以上の妙薬はない。

🟩笑ってリラックス

∥笑い、そして、ほほ笑み∥ 

●人間の笑いから湧き出るエネルギー

 編集子がいくら、「宇宙天地大自然の原則に従って、疲れたら休み、早く寝る生活によって、宇宙に生かされ生きる楽しさを体覚できれば、毎日が実に楽しいものである」と述べても、「それは特殊な、解脱したような境地にすぎない。自分にとって、人生は苦だ。生きがいも見付からない」という方には、試しに「アッハッハ」と笑ってみることをぜひお勧めしたい。

 宇宙天地大自然の創造の神は、美しいもの、優しいもの、本当のものを見れば、楽しくてならないように人間を創った。楽しくなかろうと、誰もが「アッハッハ」と笑ってみれば、腹の底から息が全部、吐き出せる。何となくすっきりとし、気分爽快で愉快になるはず。

 笑えば胸の内圧が下がり、肩も垂れ、上半身がリラックスすると同時に、七福神の布袋(ほてい)和尚のように下腹が突き出て、ヘソが天井を向き、腰がぐっと締まるという効果が、おのずから発揮されるのである。

 反対に、泣けば肩に力が入り、腹や腰は虚脱する。試しに、すすり泣きをまねてみれば、息を吸い込むばかりで、果ては胸苦しくなり、妙に寂しく、悲しくなるはず。

 なるほど、笑いは「百楽の王」。仏教でも「和顔施(わがんせ)」といって、何もなくとも笑顔が人に功徳を与えると説いている。笑いは人生の妙薬である。

 人間の感情には喜び、怒り、悲しみ、楽しみ、驚き、さらに憎悪や恍惚(こうこつ)などいくつかの種類があるが、このうち最も望ましいものは、当然ながら喜びと楽しみであり、そのポジティブな感情の主な表現が、この百楽の王で、人生の妙薬たる笑いの表情なのだ。

 事新しく奨励するまでもないかもしれない。私たち人間は人生の中で笑いを求め、他人にも笑顔を向け、他人と笑いを共有しようとしているはずだ。感情を表すあらゆる表情の中で、笑いや、ほほ笑みは最も頻度の高いものといえよう。

 人間誰もが、安心感を得て、喜と楽の感情の中で生きられる時、幸せを感じる。そういう時には、自然と笑いがこぼれ出るもの。

 しかし、普通の人の現実の生活の中では、なかなかそうもいかず、面白くないことや、悲しいこと、もめ事が尽きず、どちらかといえば、ネガティブな感情に捕らわれることが多いのが、現実かもしれない。

 ポジティブな感情のほうは、えてして長続きせず、ネガティブな感情に支配される時間のほうが、長いことだろう。

 だからこそ、人間が心身ともに健康に生きていくためには、消極的な状態に落ち込んだ時に、いかにして積極的な感情を注ぐことができるかが、真に重要となる。幸い、笑いがその役目を果たしてくれる。

 一般に、「泣きたい時、しんどい時にこそ、笑いを忘れてはいけない」といわれるのは、なぜか。笑ってしまえば、へばりついていた何か重たいものが落ちてしまって、本来の自己が現れ、エネルギーも湧いて出てくるからこそであろう。

 笑いというのは、人間が平衡状態を崩した時に、それを元に戻そうとするエネルギーなわけだ。

●本来的に備わった能力を活用しよう

 私たち人間というのは本来、自己の肉体内部に、心身のバランスをとって生きていこうとする力を宇宙天地大自然から与えられており、外界の毒素に対しても一定の抵抗力を内発させる免疫機能を与えられている。

 この内発的な抵抗力によって、言い換えれば内発的な自然治癒力を持つことによって、外界に適応できているわけである。

 その内発的な治癒力が崩れた時、私たちは病気になる。薬を必要とし、医者の世話になる。従来の西洋医学の研究は、病気になった人を治癒するために、いろいろな新薬を開発し、さまざまな治癒技術を開発してきた。東洋医学と異なり、人間が内発的な治癒力として蓄えている自然の能力を活用することに、熱心であったとはいえない。

 笑いも、人間に本来的に備わった内発的な能力、内発的なエネルギーなのである。誰もが、素晴らしい能力の活用をもっと積極的に、考えなければいけない。

 「笑ったら必ず救われる。病気も治る」というのは、無理な注文である。ここで私がいいたいのは、笑いがポジティブな感情を喚起する、という利点を持つことである。

 なぜ笑いがポジティブな感情を引き出してくれるのかについては、先にもいったように、笑うという行為は息を吐く行為であるから、心身の緊張を解いてくれることは、誰もが経験的にわかっていることだろう。

 人間が心身のバランスをとって健康、健全に生きていくための、自然の仕掛けとして湧出(ゆうしゅつ)してくるエネルギー、それが笑いではないかと思われるのである。

 だから、人間は笑いのエネルギーを活用し、肉体生理を活性化することによって、体で精神に方向がつけられる。体位から心のゆがみを是正できる。

 人間誰もが常に、楽に、楽しく生きよう。泣くも人生、笑って暮らすも人生。悲観するも人生、楽観して暮らすも人生。悄然(しょうぜん)とするも人生、泰然として暮らすも人生。

 くよくよしないで、何かあったら笑い飛ばして「カンラカラカラ」で過ごすがいい。

 この笑いに関連した生理的反応としては、自律神経系のうち副交感神経に由来するものが優位となることが多い。例えば、笑いの後では心拍と血圧は減少するか、他の情動と比べると低い状態になり、唾液や涙の分泌が生じやすくなる。

 また、この笑いというものは、ポジティブな感情を引き出すものであるから、人間のやる気を奮い立たせるきっかけとなり、刺激ともなる。

 まず、笑うことで不要な重苦しい緊張も解かれ、気分は明るい方向に進んでいく。この明るい気持ちが、「仕事も勉強をやりたくない」というマイナスの気持ちを抑え、「何とかやってみよう」という、やる気を呼ぶのである。

 わけても、瞬間的に大声を出して笑うならば、自分をやる気にさせるのに一層、効果的だ。

 この意味で、会社や家庭や学校の周囲を見回してみれば、大声で快活に笑う人物には仕事や勉強などの能率もよい人が多い、ということに気付くであろう。

 私たち人間とは不思議なもので、笑う習慣が身に着くと、自分が楽しい気分になれ、笑いたくなるような現象に敏感になってくるもの。進んで笑うことで、やる気を出して仕事や勉強に取り組めるのである。

 誰もが笑い上戸を見習って、憂うつな気分、落ち込んだ気分で物事に身が入らない時には、居直ってでもいいから、腹の底から「アッハッハ」、「ワッハッハ」と大笑いしてみたらよいだろう。

 楽ちん人生、気楽人生の妙は、心を天に預けて、笑って暮らすことと覚えたりだ。

 笑って太れ。笑っていれば、ひとりでに幸せが転げ込んでくる。笑いのあるところは、雰囲気も明るい。人の常として、笑いがあるところには、楽しいことがあるのではないかと気が引かれる。その人物に関心が向き、人も寄ってくることになる。笑いの誘引作用といえよう。

●ほほ笑みという微笑がもたらすゆとり

 もう一つ、楽に、楽しく、気楽に毎日を生きるために私が特に勧めたいのは、笑いというほどの大笑いではなく、ほほ笑みという、いわゆる微笑である。人間にとっては、ほほ笑み人生が最善。大笑いや高笑いまでいくと、楽しさがこぼれてしまうのが気掛かりとなるからだ。

 もともと、人間の赤ん坊が生まれて、最初から持っている表情は泣きの表情であり、その次に現れる表情はうれしそうな笑い、ないしは、ほほ笑みである。

 意味をなす言葉を発することのできない人間の子供や、そもそも言葉を持たない動物の子供が、母親に自分の状態を伝えることは重要である。自分の状態の最も大まかな分類は快、不快であり、子供は母親に快につながる行動を多くしてもらい、不快につながる行動を減らしてもらわなくてはならない。

 このような目的のために、快い場合はほほ笑みを、不快の場合は泣く行動をとるように、人間の赤ん坊が進化しているのは当然といえる。

 人間が喜んだ時に出る笑いは、このような原初的なほほ笑み行動に由来しているものだと考えられる。この赤ん坊の快信号の表情は、子供時代の遊びの笑いや、大人になった時の融和の笑いに、簡単に転化できる性質の表情である。

 そして、この人間のほほ笑みとは、楽しい体の感覚や、五官のほころびから作られる、天来自然のものである。そのほほ笑みの中には、すべての苦労も争いもみな融け込んで浄化されるから、人は一生涯、くつろぎと安らぎの生活態度で過ごせる。

 なぜなら、怒ったり、泣いたりするネガティブな感情生活には危険が多いが、ほほ笑みで暮らす人というのは、体に落ち着きがあるだけに、一切を眼耳鼻舌身の五官意識で選択し、善処してくれるから、真に安全なのである。

 体に落ち着きがあり、心にゆとりがあれば、喜怒哀楽を上手に表現し、セーブすることができる。感情というものは、人間の体や性格に微妙に影響を与えるものだ。プラスの感情とマイナスの感情をコントロールすることが、幸せにつながる。

 ほほ笑ましい、楽しい、喜ばしい、気分がいい、やる気が出るというプラスの状態は、感情の問題であると同時に、ホルモン分泌もかかわっている。

 大脳基底核、大脳新皮質の前頭葉、側頭葉、大脳辺縁系に分布するドーパミンが、前向きな快感をもたらす。ドーパミンが分泌することで、意欲的な精神状態を作り、プラスの方向に作用する。

 人間は通常、ホルモンをコントロールすることはできないが、精神の力で感情をコントロールすることは可能である。ドーパミンがプラスのホルモンであれば、当然マイナスのホルモンも存在する。恐怖のホルモンといわれるアドレナリン、怒りのホルモンといわれるノルアドレナリンである。逃避や不満の感情が高まった時は、必ずこれらのホルモンが分泌されている。

 怒りをほほ笑みに変え、マイナスのホルモンを分泌させないことも、幸せな人生を過ごすための秘訣の一つである。宇宙天地大自然の真理に生かされて、生きていることを喜び、楽しく感じ、そう努めることが、人生をより充実させるのである。

∥和顔愛語の勧め∥ 

●リラックスから充実する「気」の生命力

 問題は、日常生活でいかに落ち着き、リラックスして、ほほ笑みで暮らせるかにある。リラックスの上手な人は、神経を無理に使わなくても臨機応変に、事に当たって的確に対応ができ、処置がとれるものである。

 現代人は意識過剰で、常に神経を緊張させ、酷使して生活している。ほほ笑み、くつろぎ、リラックス、あるいは気楽などというものを忘れているようであるが、この何でもないようなことが、人生にとって、真に大きな意味を持っている。

 人間はとかく頭ばかりで物事を考えすぎて、どちらかというと寝ても覚めても、あくせくしているのが現状である。このあくせくは神経の緊張となり、エネルギーの消耗となり、生命力を減退させ、その結果は寿命を縮める。

 反対に、くつろぎの姿からは余計な緊張が消え、緩和されて、エネルギーが回復するばかりではなく、刻々、全身に見えない世界からの、「気」という生命力が充実されるのである。

 気楽というのも、読んで字のごとく「気」が楽なこと、「気」を楽しむことで、楽しんでやることには緊張も生じないから、何でも身に着く。端から見ていても、ゆったりしていて、わざとらしさがない。やるふりや見せ掛け、ごますりなどの恥ずかしいことはしない。

 気楽、気まま、くつろぎによる緊張緩和は、そのまま家庭も、職場も、学校も、世の中も、世界の全体までも、人間関係を和やかな、安らいだものにする。すると、人間の表情も和らいで、安らぎ、明るく、ほほ笑みも表れるのであって、この微笑はそのまま、全身の細胞の一つひとつにも表れるのである。

 このように、くつろぎという、ただこの一事が、内は全身の細胞から外は全世界までも、和やかなくつろぎに導く。さらに、全身の緊張が解けてくると、肉体全体の働きは活発になり、神経も精神も正常に働くから、考えや判断も明確になってくる。

 くつろぎこそ、ほほ笑みこそは、自然であり、自然こそは真理である。

 かの道元禅師も、曹洞宗の根本聖典である「正法眼蔵」の中で「和顔愛語」を説き、穏やかな表情と温かみのある言葉の大切さを強調している。

 道元禅師のいう和顔愛語こそ、現代の混濁した人間関係と、すさんだ心を矯正する上に、最も望まれることであろう。現代人には品位を備えた言葉とともに、和顔という、ほほ笑みも必要なのである。

 言い換えれば、人間というものは、その心が顔の表情に出てくるものであるから、顔を軽んじてはいけないということになる。

 いつも苦り切った顔付きをしている人などは、できれば自分の表情を変えるために、和やかなほほ笑みや、明るい笑顔を習慣的に訓練してみるとよいだろう。これは整形手術などをするのではなく、ただ鏡を見て毎日練習するだけでよいし、ほほ笑む練習をやるだけでよい。

 従って、経費も税金もかからないし、おまけに心身の健康状態がよくなり、家庭内がパッと明るくなり、夫婦や子供の生活まで一変するはずである。

 私たち人間の中に、本来的に備わった自然力としての笑いの能力も、開発されないことには顕在化することがないと銘記して、ぜひ試してもらいたいものだ。

●息を吐くだけでも心を落ち着けられる

 「人間は笑う動物である」というのは、紛れもない事実である。だが、「人間は笑うことのできる唯一の生物だ」というわけでもない、と説く学者もいる。

 実際、知能に優れたチンパンジーやゴリラを観察すると、遊び顔をして仲間同士遊ぶし、くすぐられたりすると口を開け、「アハハ」と声を立てて笑うという。

 喜怒哀楽の四大感性の中で、最も表出しやすいのは怒りの感情のようだ。これは多くの動物が表現できるが、笑いに近い表情をとれる動物は、社会性に富んだものたちだ。笑いが表出できるのは、精神活動の発達の証拠でもある。

 すなわち、笑いの感情を示すことができるのは、高等動物の証明ということであり、その笑いの感情を人間は持っているのであるから、実に素晴らしいことである。

 怒りの感情は人間にもあるが、広く動物にも見られるわけであるから、怒ったからといって自慢できるものではない。笑いは人間が自慢できる、優れて人間的な能力といわなければなるまい。

 動物も当然、さまざまな感情を全身で表現するといっても、この人間の笑顔や、ちょっとしたほほ笑みとともに交わす一言には、はるかに及ばない。

 また、言葉による挨拶(あいさつ)はもちろん大切だが、たとえ言葉は通じなくても、心のこもったほほ笑みによって、人間同士の温かい気持ちや感謝を伝え、心を通わせることができる。笑顔は人間関係の潤滑油だ、と考えられる。

 動物はいうまでもなく、植物にも人間の心が通じ、言葉もある程度は通ずるのも事実。ただ植物には、動物に見られる表情というものがないから、通じたかどうかがこちら側によくわからない、という不便さが残る。

 しかし、人間はありがたいことに、豊かな言語と表情を持っている。これを使わず、まるで無表情に押し黙っていたり、「男は三年片頬(ほお)」といって、「男はめったなことで笑うな。三年に一回、片頬で笑うぐらいでよい」などと教えるのでは、いたずらに宝の持ち腐れを奨励しているようなものである。

 最近、海外でいわれているのは、「笑いは内側からのジョギングである」ということであり、笑いやユーモアのストレス対抗策としての効用が、特に注目されるようになったらしい。

 ユーモアのセンスを持つことは、職場で有効なリーダーシップを発揮するのにも役立つとされる。それは、職場でのストレスを減少させ、従業員に管理者の関心を理解させ、従業員のやる気を高めるという点で有益であるが、ユーモアは短く、会話的で、控えめで、謙虚なものがよい。不適切なユーモアは逆効果であるようだ。

 このようにユーモラスな状況を作る能力が求められていても、とりわけ日本人男性には、「おかしくもないのに笑えるか」というような厳格主義に取りつかれている人物が、今日でも少なくない。

 このような石部金吉は、企業や官庁、学校の管理職には結構おられようが、それでも不愉快な会議をしたり、部下や生徒に説教を垂れた後の眉間(みけん)にシワの寄った顔を鏡に映して、ニヤリと苦笑するくらいの余裕はほしいところだ。

 次に、ほほ笑みたくない時でも、「フーッ」と強く息を吐くだけで、ほほ笑んだり、笑った時と同じ調子が出ることも知っておいていいだろう。

 大事の時、「心を落ち着けろ」といっても、急に落ち着くものではないだろう。が、ただ「フーッ」と息を吐き、本来のリラックス状態を取り戻せばよい。

 このリラックスとは、生まれ変わることである。その時点まで身に着けていた心の垢(あか)を洗い流し、意識や感情のしこりやこだわりをほぐして、吐き出し、生まれ出た時のままの自然作用、自然感覚、自然機能をよみがえらせ、そこから再出発すること。これがリラックスの真意である。

 ジリジリ、イライラして頭に血が上った時にも、息を吐くこと。何回も何回も大きな息を吐いて、心を安らかに、平らかにすればよい。苦しい時や悲しい時にも、大きくため息をすれば、気持ちが楽になる。

 頭の圧力、胸の圧力、上半身の圧力がみな、呼吸とともに外に吐き出されてしまって、心が落ち着くからである。

 息を吐いて、吐いて、吐き抜けば、胸が真空になる。頭が軽くなる。心が落ち着く。心を落ち着かせようとするには、息を吐いて、吐いて、体内の圧力をなくせばよいのである。吐いたり、吸ったり自由に息ができないと、気詰まりがする。

 息を吐いて、常に楽に楽しく生きようではないか。

●笑いは人間にとって欠かせないもの

 ここまで、笑ったり、息を吐いたりすれば楽しくなれる肉体生理などを述べてきたが、人間の笑いについて考えた場合、人によって、よく笑う人、笑わない人という程度の差はあるにしろ、誰でもが笑う能力を持って生まれ出てくるのは、紛れもない事実。

 その素晴らしい天与の能力が、後において開発されて十分に顕在化するか、何らかの障害によって潜在化したままであるかの違いは付きまとうが、基本的には人間は誰でもが一人ひとり、笑いの能力を持っているということを確認しておきたい。

 遺伝子という言葉を使うならば、笑いの能力は人類のDNAの中に刷り込まれているとも考えられる。人類が長い歴史を通じて進化を遂げてきた中で、笑いの能力は生存していくのに必要だからこそ、今に残り続けてきたわけであろう。人間が生き物として生き続けていく限り、笑いの能力も生き続けることだろう。

 盲人の行動を研究したところでは、先天的な盲人にも、笑いやほほ笑みが普通の者と同じように観察されることが、見いだされている。先天的な盲人には、他者の表情を視覚的に模倣することはできないから、人間の笑いやほほ笑みが本能的な行動であることを示唆している。

 もし、人間が本能的な行動たる笑うことを忘れ、笑いの能力が開発されず、そのうちに退化するようなことが起こったとしたら、その時はもはや人間が人間でなくなる時を意味するのではないか。

 私たち人間が生きていくのに、なぜ笑いが必要なのか。

 一つには、個人が生きていくためには、心身ともに元気で過ごすこと、健康に毎日が暮らせるということが何よりも大事で、そのために笑いが欠かせないのである。

 私たちの祖先は、経験上の知恵から、笑いが健康によいということを知ってはいたが、医学的に立証することはできなかった。最近になって、精神的にも肉体的にも、笑うことが医学的な見地からして大切であるということが、証明されつつある。

 大いに笑うと、免疫担当細胞として働くNK細胞が増えるという知見も、その成果のうちの一つである。

もう一つには、人間は共同生活を営んでこそ生きていけるわけで、その共同生活を営む上で、笑いが欠かせないということである。

 夫婦関係であれ、親子関係であれ、他人との接触や交渉に当たっても、互いの関係を親和的に取り結ぼうとすれば、笑いが必要となる。人間関係には、大なり小なり緊張が付きまとうのは宿命であり、そうした緊張を緩和させる仕掛けがないことには、共同生活を円滑に営むことはできない。

 人間の歴史を振り返れば、緊張を解くのに暴力が使われ、今もなお世界各地で、暴力が緊張解決の手段として使われているが、暴力の延長上にあるのは、共同生活の破壊である。笑いには、緊張を解決できるだけの力はないとしても、緩和する働きはある。

 日常生活の中での個人と個人の話し合いでも、笑みを浮かべたり、相づちを打ったり、時には声を出して笑い合ったりして会話が進む。

 笑いの表情が全くない話し合いの場合、命令的か、けんかをしているか、いずれにしろ緊張をはらんだ関係ということになろう。協調としての笑いが交ざってこそ、円滑な人間関係が取り結ばれる。

 結局、人間にははじめから笑いの能力が与えられており、これなくしては、人間が人間として生きていくことはできないであろうと考えられるのである。笑いやほほ笑みなど、何でもないようなこが、私たちの人生にとって、まことに大きな意味を持っているわけだ。

🟩下半身の健康情報

∥下半身の出物が発する健康情報(1)∥

∥大便をチェックする∥

●腸の働きと選択力の妙について

 人体の下半身からの出物として最初に取り上げるのは、腸からの大便という固形物、すなわちウンコである。

 この大切な排泄物の出具合が悪くて、朝からやれ下痢だ、便秘だと、腹を抱えてうずくまったり、苦しんでいたのではいただけない。人間が健康を手に入れるには、やはり内臓の正常な働きが必要なわけである。

 そこで、腸の仕組みについて、まず探ってみよう。

 人間の体は、腸の上に位置する臍を中心にして、下半分が宇宙世界からくる他力と通じるところ、上半分が生きているという自力の働くところである。

 その臍のある腹は、柔らかいもので、骨も何にもないようなものに思えるだろう。が、この腹を中心に存在する細胞の働きは、実に見事なものである。あらゆるものを感じ取り、想像し、判断をするという力が、腹の細胞の一つひとつに見事に備わっている。

 目に見えないものがこの腹によって感じ取られると、その力が五官に送られ、五官の素晴らしい働きとなる。

 同時に、腹というものは、「気」そのものを力として蓄えておく場所でもある。その中心はといえば腸である。腸は生理的な器官であるが、感覚意識、精神的能力もあるから、その本来の働きは二つの使命、機能を持っているといえるのである。

 この腸は非常に吸収力の強いところであって、食べ物を吸収することが専門であるが、空意識から入ってくる「気」を蓄えて肉体の力とする中心である場合には、非常に大きな働きをするものである。

 そういう人間の腹の働きは、驚くべき力を持っている。機能をなしている。例えば、内臓器官の胃や腸はもとより有能、有効のものである上、胃をとってしまっても腸を食道につないでおけば、やがて腸は胃の働きをするほど大変な力を持っている。

 胃は胃液を分泌して消化をするのに対して、腸は消化と吸収を同時にするといってよいほど、最終的である。胃は食べ物を消化してもまだ形を残しているが、腸はその形の中から吸収する。後は残滓(ざんし)ばかりだが、吸収という力において、腸は素晴らしい働きを持っている。便に元の姿で出てきても、内容物は腸で吸収されているから、その力は強いものである。

 まずい物を食べて吐くというのは、腸の力によって、胃が吐き出すのである。こうした微妙な、不思議な感覚と働きは、空意識から入ってくる「気」の働きである。

 そして、腸の感覚の強さ、選択力の強さにも驚くべきものがある。目・耳・鼻・舌・皮膚の五官だけが感覚器官ではない。この腸の微妙な、不思議な働きは、胃にはできない。

 腸の感覚というものは非常に微妙なものであり、機能もまた優れた力を持っている。また、生理作用、精神作用、意識作用といったものの選択力、識別力などに至る場合は、素晴らしい人間の機能、働きとなるのである。

 私たちの気力はいったいどこから出るものかといえば、胃に食べ物のあるうちは、気力は出ない。胃が空になって腸に力が蓄えられる時に、腸から気力が出るのである。

●人間の「気」の中心は下腹にあり

 腹と腰というものは、生まれてから死ぬまで肉体の底力となり魂となって、一生働き続けるものである。

 すなわち、腹と腰の細胞というものが生命の基礎、根本となって、人の一生をコントロールする中心、基盤となるのである。年を取ればそこは円熟し、頑固性なるものがあれば、穏やかになるなどという調節ができる。

 人間の精神的、意識的調整というようなものも腹がやり、腰がやる。そこに空意識器官(生殖機能)が存在するから、肉体全身の調節、調和が下腹でできるということになり、魂の存在するところとなるゆえんである。

 空意識から入ってくる「気」は、腸で一応、止められる。下腹部、下半身の腹、腰という他力と無意識の力が上半身に作用する時、自力の力が働きというものになり、自力がさまざまに働き出すのである。

 腸の吸収力、働きというものは若い時から十分に活達にさせ、働きを十分にさせておけば、一生涯を通じて気も若く、あらゆる問題に働く。

 知るべきことは、人間の体の「気」の中心は臍下丹田、下腹部、つまり腰にあり、腸にあり、下腹にあるということである。

 生命の元なる中心、中核は、腸であり、もう一つは宇宙の空意識器官という生殖器官である。腸を中心とする吸収力は、食べ物のような生理的なものや、あるいは精神的、意識的なものを蓄積したり確かめたりして、その力を生きるという人間の中心とする。空意識器官の生殖器官は、ここから生命が到来するという事実がある。

 無意識の世界が上半身に上って意識のある世界に流通する時には、意識的なものは五官で見る。無意識的なものは、臍下丹田、下腹部で見る、行う、感ずるのである。

 この肉体の下半身から自然にエネルギーが湧き上がってくるような気合の人は、疲れるなどということはない。倦怠を覚えるとか、飽きるとかいうようなこともない。当然、何らの障害を外部から受けることもなく、スムーズに人生を送ることができる。

 こういう人間になれば、腸が活発に働くだけでなく胃も丈夫だから、頭脳も明敏になり、体全体がバランスよく、すべてが当たり前に働くような人になる。

 続いて、生理学的に腸の仕組みを探っていこう。

 最近の生理学の教えるところによると、人間の小腸という消化器官は、取り出せば、七~八メートルにもなるという、とんでもなく長い管状の臓器である。自分の腹に手を当ててみても信じられないほどだろうが、通常、体の中では、およそ三メートルほどの長さに縮んで収まっている。

 なぜそんなに長いかといえば、人間が生きていくためには、胃で消化された食物から栄養やエネルギーを摂取、吸収しなければならないからである。

 しかも、小腸の内側は、絨毛(じゅうもう)の表面をまた絨毛でおおうという、無数の絨毛で埋め尽くされた構造で、必死に表面積を稼いでいる。その表面積は、何とテニスコート二面分に相当するという。さらに、一本の絨毛は約五千個の栄養吸収細胞からできており、小腸全体で千五百億個と推定される。驚くべきは、人体の機能、働きの素晴らしさである。

 こうした構造を持つ消化管である小腸は、胃から、かゆ状となって送り込まれた食物を、改めて消化したり、栄養を吸収し、大腸へ送り出す重要な役割を持つ。

 詳しくいうと、胃のほうから十二指腸、空腸、回腸に、小腸は大きく分けられる。それぞれが消化酵素を多量に含んだ腸液を分泌し、あるいは膵臓(すいえき)からの膵液、胆嚢(たんのう)からの胆汁も一緒に合わせて、最終的には、かゆ状食物から栄養を取り入れていくのである。

●栄養を吸収する小腸、便を形作る大腸

 かゆ状の食物が栄養のほとんどを吸収され、小腸を後にするのは、食後四~六時間といわれている。身ぐるみはがされた残滓、液状のカスとなって、大腸に到達する。

 盲腸から始まる大腸は、時計回りに上行結腸、横行結腸、下行結腸、S状結腸、そして直腸に区別できる。

 この大腸の大きな役割は、先の液状のカスから水分と電解質を吸収し、固形物、すなわちウンコを作ることである。

 ウンコは、下行結腸からS状結腸にとどまる。その後、ある一定の量にウンコが達した場合や、胃に食物が入った刺激で起こる大きな蠕動(ぜんどう)運動があると、ウンコは直腸に送られる。この時の圧力を自律神経が察知して大脳に伝えると、便意を催すという仕組みだ。

 この間、およそ二十四時間から七十二時間。口にした食物がようやく、腸の末端の肛門(こうもん)から出てくるのである。

 このようにして、我々日本人は、一日に平均で百五十グラムから二百グラムほどのウンコを出すのである。一日当たり百五十グラムとして、八十年間生きれば、単純計算で五トン近くの排出となる。

 では、出てきた我々人間のウンコは、なぜ一様に臭いのであろうか。実はみな、腸に住む細菌のせいである。

 特別な環境で出生、飼育された無菌動物のウンコは、栄養を吸収された食べ物の残りカスだけだから、臭くない。一方、我々のするウンコは普通、三分の一から二分の一が腸内細菌ともいわれており、特有のにおいは腸内細菌の分泌物が原因なのである。言い換えれば、人間のウンコは細菌のウンコによって臭い、ともいえるのである。

 ところで、人間は誰でも、一生に一度だけ臭くない通じをする。生まれて一番最初にするウンコが、それである。

 胎内で、母親の免疫系に守られている胎児は、いわば無菌状態で、腸にも細菌がいない。そのため、赤ちゃんが胎内でためていて、生まれてすぐするウンコは、臭くないのである。しかし、生まれた翌日のウンコには、すでに大腸菌を始め、腸球菌や乳酸桿菌(かんきん)など、一グラム当たり一千億個の菌が見られるのである。

●便という体からの情報は役に立つ

 先に、日本人の一日のウンコの量は平均で、百五十グラムから二百グラムと述べたが、アメリカ人はせいぜい百五十グラムである。

 これは、日本人のほうが植物繊維を含む食べ物を多くとっているからなのだ。人間の腸は、植物繊維を分解する酵素を持っていない。だから、植物繊維はそのままカスとして出てくるのである。「便秘気味の人は野菜を食べよ」といわれるのは、繊維質が残ったほうが便がかさばって出やすくなるからなのだ。

 よって、便秘も日本人よりアメリカ人のほうが多いのである。植物繊維を多くとっているアフリカ原住民には、一日に七百五十グラムもの便をする種族がいるとのこと。

 比較ついでに、日本人とアメリカ人の一物はどちらが臭いかというと、ずばり答えはアメリカ人である。

 一般の日本人の食事は、低蛋白、低脂肪、高炭水化物、高食塩、高繊維。欧米人はその逆で、高蛋白、高脂肪、低炭水化物、低繊維。ウンコのにおいで特に臭いインドールや硫化水素は、みな蛋白質のアミノ酸が細菌によって代謝されてできるのである。また、植物繊維には、腸内のビフィズス菌などの善玉菌を増やし、同時に悪玉菌が繁殖する前に排泄をうながすという働きも期待できる。加えて、ウンコの量を増すということは、薄めるということでもあるから、蛋白を多く摂取するアメリカ人のほうが一物が濃い。すなわち臭いといえるだろう。

 しかし、最近は日本人の食生活も急速に欧米化しているから、排泄物もどんどん臭くなっているはずである。

 もう一つ比較すると、動物はみんな排泄行為をするのに、お尻(しり)をふくのは人間だけである。が、動物も人間も、消化器官の仕組みはたいして変わらない。

 コロコロとした丸いウンコができるウサギは、腸が長いために、水分を絞りとってしまうのである。我々人間も、便秘をすると固くてコロコロした一物が出るのは、徹底的に大腸で水分を絞りとられた結果のようである。

 さて、体内で不要になって排泄された大便も、実は、体外に出た後も役に立つ存在なのである。今、世の中はリサイクル・ブームであるが、ウンコも負けてはいない。自然農法やウンコを飼料にした豚や牛の飼育が見直されているし、リンやビタミンB12を大量に含む資源としても注目されている。

 リサイクルの極端な例は、先のウサギのコプロファジー(食糞症)である。ウサギは一日一回、普通の便とは違うコプロファジー用の便をするが、それを食べられないようにしてしまうと、衰弱して死んでしまう。ウサギは草や木の葉を一度体内のバクテリアで発酵させ、出てきたウンコを食べることで、不可欠な蛋白質やビタミンを補っているようだ。

 人間の場合はそういう極端なリサイクルは無理にしても、体からの黄金の出物は健康の指標として役に立つのである。

 ウンコはいわば食べ物の残滓であり、カスであるが、二十四~七十二時間にわたる自分の体の情報、とりわけ胃腸のメカニズムがはっきりと現れる。

 体からのメッセージの解読法を心得ておくのは、誰にとっても決して無駄にはならないはずである。

 基本となる正常便の量は、一日に百~二百五十グラム。形は太めのバナナ状で、色は黄褐色が理想的だ。水洗便所の水に浮けば、もういうことはない。一日にちょっと茶色いバナナ二、三本も出ていれば、内臓はたいそう健康である証拠。

 平均百五十~二百グラムといわれる便の組成は、約七十五パーセントが水分、残り二十五パーセントが固形成分であり、意外なことに便の大部分は水分なのである。

∥下半身の出物が発する健康情報(2)∥

∥便秘と下痢をチェックする∥ 

●厄介な下痢が起こるメカニズム

 健康の証(あかし)の正常便に対して、誰もが経験したことがある便のトラブルは、便秘と下痢であろう。

 二つの厄介な症状は、大腸の機能が正常に働かなくなった時に起こる。食べ物の栄養の約九割を吸収してしまう小腸に、トラブルはほとんど見当たらないといわれ、問題が生じるのは残りカスをウンコにして排泄する大腸なのである。

 まず、いわゆる下痢の原因は、大腸が水と酸・アルカリ・塩類の電解質を正しく吸収できないことによる。正常な便は七十五パーセント程度の水分を含んでいるが、この割合がさらに高くなると泥状になったり、液状になったりするのである。水分を大量に含んだままでは、便は固まらないという単純な理屈だ。

 しかしながら、下痢に至る過程は、主に二つが挙げられる。

 一つは、ストレスなどが原因で、腸の蠕動運動が激しくなり、水分を吸収し切れないまま内容物が直腸に向かってしまうもの。試験の前になると決まって、トイレにゆきたくなったなどという経験がある人も、多いことだろう。

 二つ目は、膵臓疾患などで、腸粘膜からの水分吸収が妨げられた時に起こるもの。二日酔いの下痢もこれに当たり、アルコールの作用によって、膵液の分泌が後退し、脂肪が分解されずに大腸へ送られるために、水分の吸収が妨げられるのである。

 牛乳を飲むと下痢をしてしまう人も、多いだろう。これは乳糖不耐症と呼ばれ、日本人では五人に一人の割合で存在する。牛乳に含まれる乳糖は、小腸で分泌されるラクターゼという消化酵素によって分解され、吸収される。乳糖不耐症の人は、このラクターゼが少ないため、乳糖は大腸で細菌によって分解される。この時に作られた乳酸や炭酸ガスが、腸を刺激して、腹痛や下痢を引き起こしてしまう。

 ともあれ、アルコールや牛乳によるものはじきに治ってしまうが、下痢をともなった腹痛が起こったら食中毒、左下腹部が痛み、頻繁に下痢をする場合は急性大腸炎の疑いがあるので、注意をうながしておきたい。専門医の診断を仰ぐのが賢明である。

 また、激しい下痢などのため脱水症になったら、常識にこだわらず大いに水を飲むことを勧めたい。体の水分が尿になって排出されるのは健康な生理的現象であるが、この下痢をしたり、吐いたりというのは、脱水作用といって非生理的なものであるといわれる。ことに子供の体には水分の予備が少ないから、十回ぐらい下痢をすると脱水症状を起こしてしまうことが多い。下痢の時には、余計に水を飲ませるべきである。

●便秘を極度に気にする必要はない

 一方の便秘の原因を探ろう。例えば、消化のいいものばかりを食べて、繊維が足りない場合、材料不足のためになかなか便にならない。排泄まで時間がかかるのである。それでも、腸は水分をとれるだけとろうと律義に働く。結局、水分のないカチカチウンコになってしまうのである。

 トイレにゆくのを我慢して、便意を無視し続けることも原因。おおげさにいうと、しまいには便意の感覚がマヒする。せっかくウンコの元が直腸まで到達しても、便意が起こらなければ、ウンコはそのまま滞ってしまうわけである。

 この便秘には、個人差がある。仮に二日、三日出なくても、便が硬くなく、不快感がなければ正常といえる。私の場合も、昔から三、四日に一回の通じを習慣にしてきたが、全く不都合を感じないし、ずっと内臓の健全と体の健康を維持し続けている。

 河野十全氏が主宰していた日本百歳会が、平成五年に新百歳人になった四百六十五人を対象に実施したアンケート調査で、便通についての有効回答を見ると、「毎日」が百八十六人、「一日置き」が七十一人、「二、三日に一回」が二十七人。「便秘がち」の人も九十八人いた。

 高齢になるにつれて、食事の量も運動の量も減り、従って排便の回数も少なくなるのは当然としても、若い頃からずいぶん間遠な百歳人もいた。一般に、排便は毎日、一定の時間にあったほうがいいようにいわれるが、それは望ましい形であって、必ずしもそうでなくてもいいようである。

 女性の中には、一週間くらいウンコが出なくても平気な人さえいる。それでも本人が苦痛でないならば、便秘とはいえない。少ししか食べなければ、内容物は少ないわけだから、なかなか出ないということもあるのだ。

 極端な例を挙げれば、宇宙食のような無駄を省いた食べ物を食べると、便の量は二分の一から四分の一に減るという。

 俗に、便秘を長く続けると、糞便が腐敗して毒素が吸収されるというようなことがいわれるが、必ずしもそうではないようである。

 むしろ、便秘をすると体に悪いとか、おなかに汚いものがたまっているという気持ちそのものが、精神に悪影響を与え、さらに便秘が続くということもある。

 皮膚などは精神の影響を大きく受けるから、便秘はいけない、便秘で毒素が体に回ると肌が汚くなるなどと気にすること自体が、肌を悪くしていて、不健康でザラザラした皮膚の感じを与えるようにも思われる。

 事実、誰にとっても、快便というのは気持ちのよいものであるし、体の汚いものが一気に出ていったような気分がする。しかし、便秘気味でも、極度に気にするのはかえって体を不健康にしたり、社会生活、対人関係に悪い影響を与え、いろいろなことがうまくゆかない原因になったりすることは、よく覚えていただきたい。

●便の色と形で内臓の機能障害を知る

 世の中で、こういった便秘の悩みを持つ人は、男性より女性に多いようである。女性は生殖のために子宮と卵巣という器官を抱えているが、けっこう重さがある上に、生理時には多少膨張したりするので、隣り合った腸の蠕動運動を圧迫して便秘につながるのである。

 男性の精子を作るための生殖器官は、性器周辺にコンパクトにまとまっているのに対して、女性の生殖器官は形も大きく、メカニズムも複雑になっている。従って、腸に影響があるのも致し方ないことかもしれない。生理的には、ホルモンバランスも影響してくることなのである。

 ただ、医師たちは女性たちの便秘に対して、心理的な理由もあると指摘している。特に、働く女性に多い「独特な羞恥(しゅうち)心」だというのだ。朝、ろくに朝食もとらずに家を出る。朝食をとったとしても、トイレの時間をゆっくりと確保できない。実際、何よりも化粧を優先させる女性が多いのである。

 仕事場では、便意を催しても、会社のトイレでは嫌なのである。男性から見たら不可解なことかもしれないが、「ウンチしている」というのは同性にも悟られたくないのだという。我慢していると、そのうち便意が消える。そんなことを繰り返しているうちに、習慣性の便秘になることも少なくないというわけだ。

 習慣性の便秘はともかくとして、一般の人の便秘の主要原因は、結局、水分の吸収異常であった。このトラブルを防ぎ、大腸の機能を正しく保つには、食物繊維と乳酸菌が不可欠である。

 食事で野菜や海草を多くとるように心掛け、広く出回っているヤクルト菌、ビフィズス菌などの乳酸菌を含む飲料やヨーグルトも利用したらよいだろう。乳酸菌は乳酸や酢酸を作り出し、腸内を酸性に保つ。この酸性の刺激が腸の蠕動運動を盛んにし、感染予防にも一役買う。

 大腸の調子が整えば、立派な便が規則正しく出る。踏ん張れる。快調な毎日を送れるのである。

 さて、下痢や便秘のほかにも、自分の体からの黄金の出物は、その色や形で胃腸のメカニズムの異常を知らせてくれる。自分の便を見れば、病気を発見できる場合もあるのだ。

 ふだんの正常便と違う白っぽい便が出たら、肝臓や胆嚢などの異常によって、胆汁が腸に送られなくなったことを意味する。要するに無着色のウンコだ。

 次に、脂肪分をとりすぎれば、すっぱいにおいのベタベタした便になるし、白いブツブツがあり、しかもプカプカ浮くウンコが出たら、脂肪便である。これは、膵臓から分泌され脂肪を分解する膵液の不足によるもので、特に高カロリー食を好む美食家は用心が必要。

 ほかに、肉眼で見る便の色で注意したいのが、血の混ざった便。これには二種類あって、一つは真っ赤な血便。これは肛門に近いところの出血によるもので、粘液便なら直腸ガン、それ以外なら痔(じ)の疑いがある。

 もう一つは、同じ出血でも黒い便が出る場合。こちらは胃や小腸、大腸が出血し、それが腸管を通過するうちに酸化して黒色になるというパターンである。その他、黒い便は、肉食を好む人にも多いという。

 形で注意したいのは、大腸ガンで腸狭窄(きょうさく)を起こせば、便が細くなること。

 いきなり病院に担ぎ込まれる前に、毎日自分の目で、便からのメッセージを読み取る能力を養っておくのが、内臓へのいたわりというものである。

∥下半身の出物が発する健康情報(3)∥

∥オナラをチェックする∥ 

●放屁の効用で健康長寿が可能

 大便と同じ肛門からの出物に、オナラ、いわゆる放屁(ほうひ)がある。ことわざに「屁(へ)ひとつは薬千服に向こう」というが、オナラは健康に効果があるという意味であり、私がいう全身呼吸を行えば面白いように出るものである。

 そもそも、屁と長息とは相関関係にある。大きな深い全身呼吸をすれば、誰でも、体内の細胞や血液中の悪ガスが放屁となるのは、生理の原則である。私たち人間の体は、それほど見事にいらないものは捨て去る力を持っている。

 「百日の説法、屁一つ」などといって軽蔑し、「オナラをしては失礼だ」などという常識が災いして、意識をもってこれを止めてばかりいると、放屁という肉体本来の自然作用の恩恵にあずかれなくなる。

 現代人のように食事をとりすぎると、体内に不消化物が残って、不完全燃焼のために栄養にもならず、かえって濃厚なガスを発生するのが道理。体内にたまった有毒ガスを放出するオナラの効用は、もっと大きく認められてよい。

 日本人は屁を隠すが、外国人は生理現象として割り切り、人前でも平気でやりまくるともいう。屁は下品ではない。

 糞尿屁は自然作用で、正常人には当然なのである。論より証拠、真の長命者に聞くがよい。屁をよく出さないと健康長寿は保証しがたい。老人で屁をたくさんする人は、必ず長命である。

 アクビも居眠りもみな、自然作用の現れである。体の調子が兆候に現れたら注意が肝要。居眠りは睡眠不足、アクビは無理か倦怠かの原因、理由を知る機会になる。放屁にも、正常体からのと異常体からのものがあり、数と音と臭気とで調子とその内容がわかる。

 ある研究によれば、健康な人が一日にオナラをする量は二百~三千七百CC、回数にして八~二十回だというから、誰もが知らず知らずのうちに、オナラをしていることもありそうである。

 オナラの正体は、胃腸内にあるガス。正常な胃腸には、空腹時で百~百五十CCのガスが常に存在している。ガスが増えてくると、一部は腸管の毛細血管から吸収されるが、残りはオナラやゲップとして、体外に排出される。

 その腸内ガスは、どうして発生するのか。原因は二つで、一つは口からの空気の飲み込み、もう一つは小腸で消化されなかった食物が大腸で発酵、腐敗するためである。

 腸内ガスの主な成分は、窒素、水素、炭酸ガス、メタン、酸素などであり、そのうち最も多いのは窒素で、口から空気を飲み込んでしまうために増える。一般的には、腸内ガスの二十三~八十パーセントが、口から飲み込んで下まで通ってきてしまった窒素、すなわち空気なのである。

 食事を急いで食べたり、丸飲みにしたりすると、一緒に空気も飲み込んでしまいがち。炭酸飲料のかぶ飲みも同様だ。また、精神的な影響も強く、人によってはショックや興奮、怒りを覚えた時に、空気を飲み込んでしまう。

 窒素に次いでは、炭酸ガスが五~二十九パーセントといったあたりである。面白いのは、メタンと水素が含まれているから、オナラが燃えること。腸の手術をしようとして電気メスを使ったら、その火花がオナラに引火して爆発、手術する前に腸の一部をすっ飛ばした例が、いくつも報告されている。ただし、自分のオナラが燃える人は、三人に一人くらいしかいない。遺伝と生活環境の関係で、メタンを作らない家系、逆に大量に作る家系と、さまざまなためである。

●オナラの臭い時は体調に留意せよ

 さて、オナラの元になる食物は繊維質だ。小腸には繊維質を消化する酵素がないため、繊維質は大腸で腸内細菌によって発酵し、分解される。その際に、炭酸ガス、メタン、水素、酸素が発生する。

 といっても、繊維質によるガスと空気の飲み込みによる窒素は無臭で、このままならば、オナラは臭くも何ともない。臭くなるのは、ガス成分の一パーセントにもならないアンモニアや硫化水素、インドール、スカトール、揮発性アミン、揮発性脂肪酸などのガスが含まれている場合である。これら悪臭ガスは、蛋白質を分解する嫌気性菌や、大腸菌などの腐敗菌によって生み出されている。

 つまり、オナラというものは、人間だけでは作り出せないわけで、腸内細菌の仕業があずかっているのである。

 人間の腸内、特に大腸から直腸にかけてには、約百種類、百兆個の細菌が住み、常に増殖しているのであり、糞便の約三分の一から二分の一は細菌の固まりともいわれる。

 腸内細菌が住みついているメリットは、飼い主である人間にはほとんどない。せっかく消化液によって吸収しやすくした糖質、脂肪、蛋白質などを、勝手に分解してしまう。その過程では有害物質もできるが、ガスも生まれる。このガス成分の集まりがオナラというわけなのだ。だから、彼らがいなければ、オナラは出ない。

 何せ百種類もの菌が寄ってたかってガスを作るのだから、人間によって成分も違えば、においも異なる。また、同じ人間であっても、食べ物によって変化するなどということは、十分に経験済みのことであろう。

 とりわけ、胃腸の弱い人、あるいは体調を崩している人は、オナラが臭くなりやすい。蛋白質が小腸で消化されず、そのまま大腸に回り、そこで分解される際に腐敗し、アンモニアや硫化水素など臭い成分が発生するからである。

 オナラを減らすには、食事をよく噛んで、ゆっくりと食べ、一気に飲み込んだり、がぶ飲みは避けること。精神的な安定と肉体的な健康を保つために、規則正しい睡眠と休息をとることが大切である。

 しかしながら、オナラが出るのは健康な証拠として、むしろ歓迎すべきである。臭いオナラが出た場合だけは、消化不良を起こしている可能性が強いので、注意すること。

 スカンクまがいのすかしっぺをする人は、ガンになりやすい。体調不良か、食べすぎか、宿便か、運動不足か、いずれにしても血液がひどく濁り、酸性の強い証拠には違いない。

 放屁をどんどんやればガンにかからないし、自然作用に任せていれば、見事に面白いほどガスはできる。それだけ血液が浄化され、大腸でガス化されているということである。

 このガスをたくさん発生させて、この際オナラにして放出してしまわないと、何百CCものガスをしまっておいたのではたまらない。調子が悪くなってしまうから、このガスを出たとこ勝負で外部に出してしまわねばならない。

●自由自在に出すには全身呼吸に限る

 人前をはばかるエチケットの心配なら、トイレで思う存分やればいい。屁こそ健康の基。屁とも思わず、ひり出すがよい。ガンにかかりたくないのなら、うんと放屁することが最善。

 ちなみに、もしオナラを我慢したらどこへゆくだろうか。腸から血液へゆき、尿中に出る。窒素や水素は肺や皮膚から出る。当然、においはない。いくら我慢しても、幽門括約筋というガードのため、胃に出てしまうことはない。

 ともあれ、屁をこらえると腹が痛くなるのが常である。屁はとにかく、悪ガス、メタンガスのようなものに変わりはない。こんなスモッグを体内に温存していては体によくないことは、どんな素人にも否定できまい。

 昔、浜口雄幸首相が東京駅で右翼の凶弾に倒れ、手術の結果、ガス一発が出ぬために命を終わった話は有名である。まさに、百日の療養より屁一つが実際に勝敗を決する例であった。

 人間の腸の運動は、手術などで、周りの臓器が安静を必要とする時、あまり激しくないほうがよいわけである。腸は多くの臓器とさまざまな促進、抑制の反射を持っているが、例えば膀胱や腹膜との間にも、このような反射がある。

 虫垂炎などで腸を手術した時は、腸の運動は起こらなくなる。ところが、手術がうまくいって、感染も腹膜炎もないことがわかると、腹膜と結腸を結ぶ抑制反射などがなくなってきて、腸は徐々に運動を始める。

 すると、大腸が動き出し、これとともに、オナラが出たりする。腸の手術の時、オナラが出たといって皆が喜ぶのは、順調に回復している証拠だからである。

 日常、この放屁を自由自在にするためには、全身呼吸をするに限る。精神が落ち着かない時に、全身呼吸をして放屁をすれば、必ず心身ともにしゃんとして、商談が成功するという体験者もいるくらい、空気の呼吸とガスの放出のご利益は多大である。

 ヨガの秘伝のうちで、空腹を直すのに空気を胃に吸い込む方法がある。空気の中には「気」、プラナがある。呼吸を肺で行わず大腸で行え。口で吸って屁に出せ。古来、真人はかかとで息をするといったのは、こういうことである。

 人間の生理は、新陳代謝の連続である。呼吸の役割は、新鮮な酸素および宇宙の「気」を自由自在に受け入れて、それと引き替えに老廃物を確実に放出することにある。呼吸作用は同時に、血液の浄化作用をもつかさどる。

 私は、上からの呼吸と、下への排気ガスをもっと奨励したい。全身呼吸という、上下両半身を一貫、連係して、全身全霊をもって徹底的に行う呼吸法では、排便、排ガスも見事に調整され、肉体内部は完全に生理作用化されて、健全体となる。

 そこで、毎日何回でも、体の力を抜いて、大きく息を吐き、伸び、アクビをして、自然作用、自然機能の回復をはかろう。体の圧力をゼロにすれば、面白いほど放屁ができ、一日が二日に使えるだろう。

 また、もっと水をたくさん飲めば、ガスは自然に分解されて、放屁一発とともに体の圧力が雲散霧消することも、付け加えておきたい。

 屁は生理的現象である。本来、屁には何の悪気もないばかりか、人間の生理の違和を浄化して下された神の恩顧である。

 屁は恥ずかしいものではない。神が身代わりとなって、人間生理のスモッグをすり替えて下されたものである。

 屁よ、よくぞ、お出まし下された。屁よありがとう。もう一発、屁よお出まし下さい。屁よありがとう、だ。 

 体の調子がよいと、思わず冗談も出る。ユーモアも出る。顔もほころび、心が温かく、愛も情も豊かになるので、自然と人格も高まってくる。

∥下半身の出物が発する健康情報(4)∥

∥小便を分析する∥ 

●血液中の老廃物や水分が尿に変わる

 人間が排泄することは、上から入れれば下へ出るのが天の理、糞尿屁という出物は生理自然にほかならない。健康長寿のためには、便と屁に続く小便、いわゆるオシッコの快調にも、常日頃から留意したいものである。

 自分の両手を握ってほしい。目の前の片方のこぶしが、ほぼ片方の腎臓(じんぞう)のサイズである。形はソラマメ状で、一つの腎臓の重さはおよそ百二十グラム。この小さな双子の臓器が、せっせと尿を作り出しているのである。

 腎臓には、体の中で最も太い大動脈から、絶えず血液が流れ込んでいる。その血液量は一日に約一・五トンと、すごい量であるが、糸球体と呼ばれる毛細血管の網でろ過され、血中の老廃物や水分が尿に姿を変えるのである。

 このオシッコを作る器官であり、人体の浄水器である腎臓が、血液の中から老廃物と水分をこし出したものを、原尿という。

 もちろん、いきなりこれが排出される尿になるわけではない。尿細管で何度も何度も吸収され、本当に役に立たないものだけが、尿として尿管に送られるのである。

 原尿が再吸収され、尿として排泄される量は、原尿の約百分の一、一日に一・五リットルほどで、牛乳パック一・五本と、かなりの量だ。これを一日五、六回に分けて排出する。だから、一回のオシッコの量は、二百五十~三百ミリリットルほどとなる。

 詳しくいうと、尿として排泄される一日の量は、男女で少し違いがある。成人男性では一・五~一・八リットル、女性では一・四~一・六リットルとされるが、〇・五~二リットル程度の枠内なら正常といえる。

 こうした人間の尿の量は、脳下垂体から分泌される抗利尿ホルモンによって調節されている。抗利尿ホルモンの分泌が増えると、尿細管からの水分の再吸収が高まり、尿の量が減る。逆に、分泌が減った場合は、尿量が増える。誰もが夏場に汗をかくと、尿の量が減って色が濃くなるのは、ホルモンの分泌が増加して、固形成分の比率が高まるためである。

 ところで、腎臓でおよそ五秒ごとに、タラリタラリとこし出された尿は、尿管を通じて膀胱(ぼうこう)に送られる。尿管は直径四~七ミリ、長さ二十八~三十センチ。筋層で圧力をかけられているため、粘膜がしわしわになっている。

 つまり、尿の流れる穴は真円ではなく、きんちゃくみたいで、尿の通るすき間は細く、薄いから、内臓中にできた結石が引っ掛かりやすい。とはいえど、尿の量が増えれば、その勢いできんちゃくは内側から広げられ、結石は流れやすくなる。よく「結石はビールを飲んで流してしまえ」というのは、真実なのである。

 この尿管の先が膀胱である。オシッコを一定期間ためておく貯水池たる膀胱は、尿のたまっていない時の形は三角形で、立体的にいうと逆さまの杯の形をした筋肉でできた袋であるが、まさにゴムの袋に例えられる。ゴムやポリエチレンがなかった時代には、氷のうといえば、薄くて丈夫な牛の膀胱を使ったそうである。人間のも同じで、空っぽの状態では壁の厚さが十五ミリだけれど、ぱんぱんにため込むと、その厚さ三ミリになるという素晴らしい膨張率を有しているから、最大容量四百五十~五百ミリリットルと、牛乳パック半分のけっこう重たいオシッコが入ることになる。

●健康な尿が出てくる人体メカニズム

 実際には、こんなにたまることはめったにない。尿が二百五十~三百ミリリットルくらいになると、尿意を感じて排尿が始まるからだ。

 一説によると、膀胱の最大容量の五分の四までは尿意は催さず、最後の五分の一がたまっていく時に感じるもので、最後の五分の一がたまる時間は、三十分から一時間ぐらいという短時間なのだという。

 尿が出る仕組みを説明すると、膀胱の内圧が高まって、膀胱壁の受容器を刺激し、受容器は脳に信号を送るから、脳は尿意を発動する。

 この尿意を感じた脳から指令があると、同じ脳にある抑制中枢を刺激して、抑制を取り外しにかかる。ふだん尿道口が閉まって、尿が飛び出さないようにできているのは、この抑制中枢があるお陰である。

 で、この抑制がとれると、膀胱の出口、つまり尿道とのつながり部分にある、伸縮自在の尿道括約筋などがゆるむ。次いで、抑制中枢の近くにある排尿中枢が奮い起こされ、その刺激で膀胱それ自身の筋肉収縮が始まり、そこで尿が尿道という通路から外に飛び出す、という二段階システムになっているわけだ。

 膀胱から飛び出してゆく一回当たり、二百五十~三百ミリリットルという量は、五、六回繰り返せば一日分のオシッコを排出できるという、ためるによし、出すによしのちょうどいい量なのである。

 実は、尿意にこたえて括約筋をゆるめ、膀胱を収縮させる排尿システムは、膀胱が満タンにならなくとも働いてしまう。人間の脳というのは心理的な変化に左右されやすいところだから、何かで興奮したり、緊張したりした場合にも、抑制中枢がマヒするか、排尿中枢が強く刺激されすぎる。そのため、膀胱には尿が少ししかたまっていないのに、試験前などになると尿意を催してトイレにゆきたくなったり、驚いて思わず漏らしてしまうということにもなるわけだ。

 また、てんかんや一時的なショックなどで、意識を喪失した場合も、抑制中枢がマヒして同様の尿漏れが起こる。

 これに対して、ビールやコーヒーなどを飲むと尿が近くなるというのは、水やカフェインが腎臓を刺激して利尿作用を起こすためで、先の場合とはメカニズムが違う。

 とにかく、脳の抑制中枢というのは、特に人間で発達した部位であり、下等動物になるに従って働きが弱くなる。動物では、犬や猫などのペットで発達している。場所的にも、性欲、物欲を抑える部位の近くにあって、かなり高度な機能であることがわかる。

●排尿にまつわるトラブルは女性に多い

 そして、この抑制中枢は、感情の影響を受けやすいところでもある。一般的に、男性よりも女性のほうが感情に敏感だといわれているように、感情が激して抑制中枢がマヒし、その結果尿失禁という不如意を起こすことは、女性に多いということになる。

 この点、腹圧性尿失禁で病院を訪れる女性患者も、最近は増えているという。腹圧、つまりセキやクシャミをした時、笑った時などに、おなかに圧力がかかって、膀胱が圧迫され、尿が漏れてしまう病気である。漏れる尿の量はさまざま。

 普通、尿道にもオシッコの漏れを止める筋肉があって、外尿道括約筋という。これは男性で発達し、排尿を中断することもできるが、女性にはないので、その代用を肛門括約筋や骨盤底筋群がしている。加えて、男性の尿道が十六~二十センチで、屈曲しているのに対して、女性の尿道は四~五センチと短く、ストレートという構造的な面から、元来女性のほうが漏れやすい形態になっているのである。

 そこへ加齢、出産が加わると、先の代用筋にゆるみが出て、膀胱と尿道の位置関係に狂いが生じてくる。平たくいえば、尿道がおなかのほうへ持ち上がっていたのが、年がかさみ、子供を産むうちに次第に下がっていき、ついには真っすぐ下方に垂れ下がってしまうのである。こうして一直線に流れ落ちてしまう尿失禁を止めるには、相当に強力な括約筋が必要というわけだ。

 また、失禁を呈するようになったと訴えるのは、肥満女性に目立つ。肥満の人というのは食っちゃ寝タイプが多いので、下腹部には脂肪がたまるばかりで、筋肉が発達しなくなり、尿道を締める力が弱まるからである。

 従って、治療はこれを強制してやればよいわけで、尿道を腹壁のほうへ持ち上げる手術は簡単、確実で、効果も抜群だという。

 それにしても、どうして男性よりも女性のほうが、オシッコが漏れやすく、途中で止められないか、人類学的に推理してみよう。

 元来、男には攻撃本能があり、狩猟に出掛けたり、敵からの攻撃も防がなければならない。とすると、排尿を長時間我慢するとか、排尿しても敵が現れるとすぐ中断して、攻撃体勢に素早く移れるということは、自己防衛につながる。だから、長い年月の間に、人類の男は防衛的見地から、こうした機能を獲得していったのではないだろうか。対して、女は攻撃の必要性もなかったので、こんなものを発達させなくてもよかったのではないだろうか。

 しかしながら、しばらく前から、アメリカのキャリアウーマンたちの間に、インフリークェント・ボイダーと称する女性が激増して問題になっている。たまにしかトイレにゆかないものだから、膀胱炎を患う人たちである。彼女たちの膀胱はたいてい伸び切って、倍ぐらいにふくれ上がっているそうだ。以前はバスガイドやスチュワーデス、タクシー運転手などの職業病として知られていたものだが、それがどんどん広がったわけである。

●正常人の出立ての尿はにおわない

 さて、話を進めてきた尿は一般に、「臭い、汚い、不潔」などと嫌われているものではあるが、故事をひもといてみると、案外に愛好されてきていることがわかる。

 中国では、尿で顔や手足を洗った古代部族がいたと、「三国志」に書かれている。秦の始皇帝が若返りのために、処女のオシッコの風呂(ふろ)に入っていたという逸話も、まことしやかに伝わっている。

 インドでは、古くから自分のオシッコを飲む民間治療法があったという。この尿療法の教えは、ヒンズー教の教本に百七項目にわたって記されており、現代でもヨガの聖者は自分のオシッコを飲むといわれている。

 日本でも、沖縄には古くから、自分のオシッコを飲む尿療法があったという。

 尿という小水はその昔、健康飲料として飲まれたこともあったし、化粧水であったこともあるという不思議な液体なのである。現代社会においても、尿健康療法を実践する人たちがおり、体の故障個所の痛みがとれるなどの効用があるという。

 しかし、現代医学の最先端をいく科学者たちは、尿は飲めるとしながらも、一様にその積極的効能は認めない。いわく、確かに微量ホルモンは含まれているが、飲むと腸でアミノ酸に分解されてしまって、意味がない。あまりにも微量すぎて、有効量を得るためには、何十リットルも飲まなければいけない。生体の自然の摂理に反する。

 この人間の小水を現代医学で説明するなら、先に述べた通り血液中の老廃物となる。私たち人間は飲食物を摂取するが、その必要なものを化学変化させて肉体にとり入れ、血液に乗せて全身に運ぶ。そして、不必要になってきたものは、腎臓でろ過して排泄する。尿は腎臓でできた老廃物、というわけであった。

 ちなみに、人間の肉体の中でエネルギーになる物質には、糖質と脂質、蛋白質の三つがあるが、これらの燃えカスは捨てなくてはいけない。糖質と脂質が燃えると、主として水と炭酸ガスになり、炭酸ガスは息を吐くたびに肺から外に出ていく。蛋白質の燃えカスは、尿素、クレアチン、尿酸などになって血液中に溶け、腎臓でろ過されて排泄される。これが尿の主な成分というわけである。

 そのほかに、尿にはナトリウムやカリウムなどの電解質も含まれている。人間の体液の組成は海水と同じで、この組成の濃度を一定にする役目をしているのも腎臓なのであり、体内に余分な電解質があれば排出するし、足らなくなれば水分だけを出すなどして調節しているためである。

 結局、ここに挙げた以外の成分が最終的な尿に含まれている場合は、体に何らかの異常が認められるわけだ。

 ともかく、尿が血液の老廃物、体液の不要品といっても、健康な人から出たものなら、不潔きわまりないというわけではない。

 見方によっては、細菌に感染していない正常な人の尿は、血液よりきれいといえるかもしれない。腎臓で繰り返し、ろ過され、排出されてくる液体であるからだ。

 心理的な嫌悪感はつきまとうにしろ、ジャングルで遭難したとか、海で漂流したとかして、きれいな飲料水ない場合は、海水や汚水よりオシッコのほうが絶対に安全といえるだろう。

 一般に、尿は臭いと思われているが、それも大きな事実誤認。正常な人の出来立てのホヤホヤは、ほとんどにおわない。尿に多く含まれている尿素が体外に出た後、それに取りついた細菌によって分解され、アンモニアが発生してはじめてにおい出すのである。

∥下半身の出物が発する健康情報(5)∥

∥小便をチェックする∥ 

●心身の健康度がわかる臨床検査の花形

 さらに、人間の体からの出物である尿の中に混じっているホルモンは、実は貴重品であり、ミラクルパワーの源泉でもある。

 そもそも、人体の多くのホルモンは、血管を通って目標とする器官や細胞に運ばれ、その細胞に働き掛けたり、逆に働きを抑えたりする。これらのホルモンの一部は、血管の中を巡っているうちに、肝臓や腎臓で化学変化を起こす。これを代謝というのだが、この代謝物が尿中に出されるわけであり、そのほとんどは本来の働きを失っているといえど、少しは活性のあるものも排泄されている。

 最近の医療分野においては、測定機器の技術進歩によって、ごく微量の物質も簡単に測定できるようになっており、ほとんどの病気の状態が、検尿で判定できるようになってきている。精神病の患者でも、副腎髄質から分泌されるカテコールアミンといわれる物質の量の増減で、早期に発見できる可能性があるといわれている。ガンにしても、腫瘍(しゅよう)マーカーといわれるポリアミンを測定することで、ある種のガンの早期発見や、抗ガン剤の効き具合がわかるようになってきている。

 今や、尿は臨床検査の花形なのである。人間の精神状態も、生化学的に見れば、脳での神経伝達物質の化学反応でしかない。排泄されてくる微量ホルモンや、その代謝産物を調べることで、人間の心のバランスが正常か否かもわかるということになる。

 ガンの治療では、患者当人の尿からガンウィルスの抗原を見いだし、ワクチンを作ろうという研究、実践が進められているそうだ。

 このように、体からの出物のミラクルパワーが解明でき、その生体での働きもわかってくれば、尿から人間に必要な物質を抽出し、薬品を作ろうとする試みが当然出てくる。実際、男性ホルモンや女性ホルモンの一部は、尿から取り出され、薬として販売されている。

 例えば、よく四つ子、五つ子が誕生して、世間をにぎわす原因となる排卵誘発剤は、女性の尿から抽出されたホルモン剤である。脳卒中や血栓症に使われるウロキナーゼという薬も、尿から抽出される薬としてよく知られているものだ。

 このほかにも、オシッコにはまだまだ未知の生理活性物質が数多く含まれているそうである。生体に対する有効物質を見つけるための宝の山かもしれない。

●尿の量や色やにおいで変調を察知する

 本人は健康だと信じているのに、いつの間にか病気にむしばまれ、気づいた時にはもう手遅れとならないために、朝晩の自分の体からの小水という、貴重な出物を観察することをぜひ勧めたい。

 尿は毎日姿を変え、自らの体の調子を告げているものであり、非常に役に立つ健康のバロメーターなのである。特に、腎臓、尿道関係の病気は、素人にも判断しやすいものである。

 もし異常があったら、病院にいって精密検査を受けてほしいもの。確かに、血尿、尿蛋白などでも、一過性のものもあり、尿の異常がすべて病気というわけではないものの、本当の病気だったら、早期発見できるのである。

 まず、健康な人の尿量は、普通、男性で一・五~一・八リットル、多くても二リットル、女性で一・四~一・六リットルであるが、一日の量はどうであろうか。

 一般に、一日の尿量が〇・四~〇・五リットル以下を乏尿、二・五リットル以上では多尿となる。ビールなどのアルコールを飲まないのに、五リットルも十リットルも出る場合は、尿崩症などの疾患が疑われる。

 また、多量の水分を飲まないのに、異常に尿量が多かったら、慢性腎不全の初期か、糖尿病の可能性もあり。反対に、尿量が異常に少ないのも病気の一種で、急性腎炎の中期やネフローゼ症候群の初期、慢性腎炎や腎硬化症の末期、急性腎不全の可能性ありだ。

 次に、オシッコの回数は普通、日中が五、六回といったところであるが、異常に回数が多いことはないだろうか。尿の量があまり出ないのに、回数が増えるのは、膀胱炎の疑いがあるし、初老の人だと前立腺肥大症やガンの可能性もある。

 放尿する時に痛みがある場合は、尿結石などの膀胱、尿道などの排泄路の病気である。排尿の後に不快感がある時は、腎盂(じんう)炎、膀胱炎、膀胱の腫瘍の疑いがある。夜遊びの覚えがある人で、放尿した時に痛みがあったり、下着に膿(うみ)が付いていたら、梅毒、淋病(りんびょう)、クラミジアなどの性病に感染されている恐れがある。

 尿の色も、大切なチェック項目。膀胱から出てくるオシッコは普通、いわゆる麦わら色をしている。古くなった赤血球が壊れてできた黄色い色素や、使われた蛋白質が分解されてできた黄色い色素が混じっているからだ。これらの色素のできる量は、だいたい決まっている。

 だから、水分を多くとって、排尿の回数や量が増えると、色素は薄められ、ほとんど透明な尿になる。ところが、風邪などで熱を出してやたらに汗をかくと、当然ながら尿の量が減るから、相対的に色は濃くなる。同時に、蛋白質の分解による色素の量も増えるから、オシッコは黄色くなる。

 風邪でもないのに、麦わら色か透明に近い通常色から、血が混じったワインレッド色になっていることはないだろうか。激しい運動をして赤くなったり、食べた物で色が変化することもあるが、そうでないと腎臓ガン、膀胱ガン、尿結石かもしれない。この血尿は、腎炎、膀胱の炎症で出ることもある。

 オシッコが白く濁っているのも、要注意。疲れていても濁るし、リン酸塩やマグネシウム塩などが析出して白濁することもあるが、腎臓、尿管、膀胱、尿道が感染して炎症を起こしていたり、ガンの疑いもある。

 さらに、モコモコした泡が立ち、なかなか消えないということがあったら、オシッコに蛋白が出ている証拠である。ネフローゼ症候群や腎炎などで、蛋白が混入するとよく泡立ち、なかなか消えない。肝臓病の場合は、黄色い泡が立ち、長く残る。

 オシッコに変なにおいがしたり、異常に臭くないかも、チェック項目の一つである。食べ物によっても、オシッコのにおいが変わるが、糖尿病だと甘く、果実のような芳香が漂ってくる。

 お酒の飲みすぎでもにおうし、魚の腐ったようなにおいがすれば、細菌に感染している疑いがある。ビタミンB1 などの栄養剤を服用すると、ニンニクのにおいがするが、これは気にすることはない。

●呼吸と睡眠が快調な排泄に役立つ

 ちなみに、男性の場合、オシッコの飛び方を観察すると、性器の勃起(ぼっき)力がわかる。年を取ると、膀胱や尿道の筋肉が硬くなって勢いがなくなる。特に、男性はそうなのである。

 そこで、年配の男性はどうしたら快通ができるかというと、丹田呼吸で不必要な物を捨てるということをやるとよい。両足の親指に力を入れて、つま先立って小用を便ずると、おのずから丹田に力が入るので、快小便ができる。これは、前立腺肥大を克服する非常にうまい方法でもある。

 ここでも、人間は絶えず行っている呼吸の意味の重要性を、改めて認識する必要があるわけだ。

 呼吸とともに、男女両方に勧めたい尿の快通法は、十分に眠ることである。誰もが一日使ったら、夜は肉体を疲れさせないように、軽く食事をとり、風呂に入り、肉体を温め、血液の循環をよくして、湯冷めしないうちに寝るがよい。

 早く寝て、十分に眠ることを毎日の習慣にしている人は、よく眠るだけで肉体の神経が完全に働くから、体内の老廃物をそれぞれの場から体の外へ排出してくれるものである。 例えば、脳の疲労物質を体内から取り除くには、睡眠をとるしかない。人間の大脳の正常な働きを担っているのは、グルタミン酸を分解したガンマアミノ酪酸だとされている。人間が活動を続けると、次第にこのガンマアミノ酪酸が分解され、ガンマハイドロオキシ酸とアンモニアに分解されるのである。

 徹夜で仕事をしていて、頭がボーッとなり、集中力を失っていくのは、ガンマハイドロオキシ酸が脳に蓄積されるためである。

 この老廃物を取り除くには、睡眠をとるしかないわけである。ほかに、特効薬はない。睡眠をとってはじめて、脳の疲労を回復、ひいては再びコンピューターに負けない能力を取り戻すことができるのである。

 寝ている間に、私たち人間の肉体は、ガンマハイドロオキシ酸を始めとした体内の老廃物を、呼吸からも、皮膚からも、気体として発散してしまうし、また尿にして排出する。朝の目覚めの時の尿には、色がついているのもこのためである。

 どんな健康な者でも、睡眠中に作られる小水には色がついていて当たり前。寝ている間に、自然の働きが、そうした素晴らしい浄化をしてくれるからである。神経を使いすぎた場合にも、尿に色がつく。病気で熱が出た時にも、色は違うものである。

 尿の色の具合で体の状態がわかるほどに、人間の体というものはうまくできている。これを自分で毎日観察していれば、内臓の健康状態がよくわかるはずである。

 人間の体の機能は、素晴らしい値打ちを持っているものである。そして、生かされているという条件の上に、成り立っている生命が人間である。体の器官、機能は、実に巧妙に働くようにできている。

 この働きをいかに故障なく運行せしめるかということが、生きていく面のすべてにかかってくるのである。

 生きていくことは、難しいことではない。眠りと呼吸を真理的に行い、暑さ、寒さに順応してゆきさえすれば、年を取ってもその働きが弱るということはない。

 ところで、睡眠中の子供の寝小便がなかなか治らぬ時には、寝る前にタップリ水を飲ませるとよい。パラドキシカルな方法のようだが、水を飲むことによって身体機能が調和するから、自然に夜尿症も治ってしまうものである。

∥下半身の出物が発する健康情報(6)∥

∥精液をチェックする∥ 

●男性の聖なる出物の扱いは慎重に

 下半身からの出物として、男性の性器から出る精液について簡単に触れ、男女の性生活の望ましいあり方を述べておこう。

 最近、医学分野で人間の精子の保存が注目を浴びているが、精子は西洋梨(なし)状の頭と、長い糸状の尾を持ち、長さは約六十ミクロン、すなわち千分の六十ミリである。この精子を多数含む精液について、男性一人の生涯の生産量は決まっているなどというのは、根拠のない俗説であり、単純にいえば、精液を多く使う人ほど生産され、あまり使わない人は生産量も少ないことになる。

 しかし、あまり酷使しては生産が追いつかない。私の考えは、性器を神聖に扱い、精液という出物の使用をほどほどに慎めということである。

 なぜなら、古来、臍下丹田という腹の底に、微妙、不思議な魂が潜んでいるようにいわれてきたが、その丹田の下にあって、生命の元になる力、悟りの力、力と知恵の原因になる「気」を絶えず発動している実体こそ、性器だからである。

 現代人はこの事実に気づかず、性生活を粗末にしている。性器は命の根源、精神の発動器官だから、性を軽率にする人は性格が乱れ、運命に恵まれることがない。

 性器は、生命を新しく産み出す生殖器官であるほかに、さらに大切なことは、人間の生命を一生涯維持する力を、宇宙から与えられている根本器官ということなのである。

 この性器の内部というものは、絶えず収縮運動を続けている。心臓などと違い、その運動を我々の意識で知ることはできないが、これは生命の自然活動であり、実は生殖作用というものも、本来はこの自然作用、自然運動からなってくるものなのである。

 性器は聖器であり、聖機、生機である。人間の一生涯にわたり、常に宇宙から生気を吸入し、生命の根源として働いていることは、意識によって捕らえることのできない厳然たる事実である。

 そういう生殖器官から作り出される言い知れぬ神秘な力は、目にも見えず、意識にも上らぬ本能的なものであるから、肉体の根本摂理や五官の力で調節しないと人間の心情に支配されては、ゆきすぎることが多いものである。

 その調節が正しく行われている時、人間は働けば働くほど、いくらでも働く力が出るもの。この生命の根本たる性器から作り出される力は、肉体の自然運動的鍛錬によって無限の力となるのである。

 それは生殖細胞というものが本来、実に強いものであるからである。生殖細胞は、宇宙の生命と全く変わらぬ性格を持ち、働きをし、絶えず宇宙の生命と同じように存在しているのである。

 今日のような化学的影響を受けぬ限り、突然変異などは起こりにくい。地球上に争いがなく、また人為的変化のない限りは、人間の生殖細胞はいつも正しく、きれいに存在し得るものである。

 ところが、現代人はさまざまな自然破壊を行ってきたし、今や、人間が作った突然変異誘起物質は六千種類以上にも上っているという。その結果、男性の生殖器官は最も代謝の活発な細胞を含んでいて有害物質の影響を受けやすいために、精子の数が減り、不妊症になるなど、子孫への影響は計り知れない。それが今、真剣に憂慮されるところである。

 性器を、「せがれ」だの「息子」だのというが、とんでもない。一生涯の親元である。毎日、毎時、宇宙からここを通して生命のくる大関門なのである。

●性器こそ人間生命の根源である

 男性に限らず、女性の生殖器も生命の制作所である。構造や機能は巧妙至極なもので、人の体は宇宙の神が何億年、何十億年もかかって創っただけに、実にうまくできているものである。

 巧妙、微妙な機械だけに、取り扱いが粗雑だと悪い子ができて親を悩まし、苦しめる。まじめな和合と仲のよい夫婦生活こそ肝要である。

 具体的にいうと、意識的に性欲を起こすと妄想の人となって煩悩という、悩みや煩いに捕らわれて性欲のとりこになってしまう。

 性の本義は、人間が宇宙生命の一分身として、しかも宇宙のすべての性能を与えられて、万物の最後に最高位をもって無限の発展を遂げてゆく使命をいうのであるから、この性を人間性の中心として、性の自重と、性器の尊重を心掛けねばならぬのである。

 元来、私たち人間も、宇宙によって創られた単純細胞の集団であった。それが分化に分化を重ね、今に見る素晴らしい肉体組織を形成してきた。人類の歴史は考古学的には約三、四百万年としても、その前に動物としての歴史が長く、生物としての源はさらに深い。

 その発展の経過の中で、くしくも人間となってきた万物と違う細胞の存在が偶然であるにもせよ、何億年の長い間、必然、偶然に宇宙の目的を目的として向上、発展をしてきた人間の歴史の上で、存在の中で、その繰り返しの中心をなしてきたものは、この生殖細胞の遺伝子の働きなのである。

 どうすれば、その遺伝子の形を整えることができるか。子供を宇宙の目的としての人間の理想像者とするには、完全な形を、その親が形の上で整えておかねばならない。

 悪ふざけをして、性の享楽などにうち興じている親があるとすれば、たくさんの生殖細胞の中から、つまらぬやからが飛び込む。

 一度に三~四億もの精子が、自分の育つことのできる神の宮に向かって飛び込んでいく時に、乱暴者が飛び込むか、ならず者が飛び込むか、反対に、賢明で落ち着いた、すでに神に選ばれたような素晴らしい種が選ばれて、そこに迎えられるかという境目である。落ち着いて神の導きを受けねば、そうしたよき種子を自然に選んでもらうことはできないということは想像できよう。

 性生活においては静かに、静かに形のごとく、儀式のごとく、人間の意識などを用いるものではない。ここでは、男女間の技巧などというようなばかばかしいことも行われるべきではない。

 この厳かな神わたりの儀式というものは、本当の神の子、仏の種を、三~四億という数の中から選び出す唯一の機会なのである。

 性とは生殖のためのみのものではない。快楽にふけるためのものでもない。性とは人間を鍛錬するために設けられた道場であり、教材であり、人間を改造し高めるためのものでなくてはならない。また、性は男女の真愛の上に立脚した、人間の厳かな営みでなければならない。

 改めて強調しておくが、生殖器は生殖もつかさどるが、生命の根本、中心に相当する器官。神聖にして犯すべからざるところ。生命根源の機能をつかさどる大切な器官なのである。

🟩上半身の健康情報

∥上半身の出物が発する健康情報(1)∥

∥自分の顔をチェックする∥ 

●自分の顔を見れば病気がわかる

 人相、容貌がその人の性格や経歴との一致率が高いことは、すでに述べてきたことであるが、この人間の顔というものはその人の健康状態を判断する場合にも、非常に役立つものである。

 外形的な目鼻立ちのほか、表情、顔色、黒目、白目、唇、皮膚の状態など、まことに多くを教えてくれる。精神状態をよく教えてくれるのも顔で、とりわけ表情と目の状態が多くを語る。

 医者の臨床診断や健康診断に際しても、顔はきわめて有力な情報源となる。患者の顔を見て病気を判断するのは、西洋医学で「視診」、東洋医学で「望診」といって、東西両医学がともに行っていること。顔から病気を見て取ろうとするのは、ごく日常的な診察法の一つなわけだ。

 名医といわれる人なら、顔を見ただけで、患者の病気と、その症状をピタリと見抜くという。

 昔の名医には、糸脈で診断できる人がいたそうだ。いくら名医でも、腕に糸を巻いて、その先を隣の部屋で持っただけで病気の診断をすることは、眉唾物である。しかし、十数年間も臨床検査を行って病人の顔を見ているうちに、いつの間にか顔の変化を見ただけで診断がつくようになったという名医は、実際に存在する。

 人間の顔には、健康状態を示すシグナルが表れており、経験を積み重ねた医者はそれを的確に読み取り、病気の状態を認知できるようになるためである。

 治療の方法は違うが、西洋医学であろうと、東洋医学であろうと、これは同じであり、名医といわれるほどの医師は同じ能力を備えているはずだ。

 西洋医学の診察法の一つである視診は、体付き、動作、顔などから、患者の健康状態を判断する診察法。視診は、患者が診察室に入ってきた瞬間から始まり、動作が緩慢ではないか、一方に片寄った歩き方をしていないか、前かがみになって歩いていないかなどを見る。

 例えば、動きがぎこちなく、ゆっくりしていると、パーキンソン病の可能性があり、一方に片寄った歩き方をしていると、脳卒中や小脳の異常などが疑われる。歩き方が緩慢で、前かがみになっている時には、うつ病、筋力の低下、パーキンソン病、内耳疾患などが疑われるようだ。

 わけても、内科では主に、患者の顔の色を重要視する。青白いか、紅潮しているか、黄だんがあるか、紫はんがあるかなどである。そのほか、顔では髪の毛の状態、目、唇、舌、歯肉なども、注意して視診される。

 もちろん、西洋医学の診察では、視診とともに、問診、触診、打診、聴診も行って、身体的検査や、脈拍・体温などの生命力データのチェックに加え、血液や尿の検査により循環、排泄(はいせつ)機能などを調べて、総合的に病気を判断する。

●顔で病気を予測する東洋医学

 西洋医学に対し、東洋医学の漢方は、検査機器の少なかった古代中国で確立された医療である。そのため、西洋医学とは異なり、診察は患者の顔や体の状態を見たり、聞いたりすることだけで判断される。

 基本となるのは望、聞、問、切の四診といわれる方法で、西洋医学の視診に相当するのは、この四診の中の望診に当たり、陰陽、虚実、表裏、寒熱の基準によって判断する。人間の体力の充実度については、虚、実という尺度で表され、体力があり、病気に対する抵抗力がある状態を実証とし、その逆の体力のない状態を虚証と見なす。

 人間の健康状態を、どの時点で問題があるとするかについても、東洋医学は西洋医学と大きく異なっている。病気というのは本来、顔を見ただけで病名がわかったり、検査で異常値が出たりした状態になってからではもう手遅れだとして、病気になる前に前兆を予測し、対策を講ずることが大切と考えるのである。東洋医学は西洋医学と比べて、病気にならないようにすることを特に重要視するわけだ。

 望診で注意するのは、西洋医学と同様、自律神経などの神経が多く表面に表れている顔と手。顔では輪郭、顔色、髪の毛、眉毛、目、耳、鼻、口などの状態を詳しくチェックする。

 そのほかには、姿勢、声、呼吸の仕方などにも注意を払い、それぞれ実証か虚証かを判断していく。例を挙げれば、顔色は青白いのが虚で、赤みがあるのが実、口はつい開いてしまうのが虚で、締まっているのが実といった具合である。

 その際、人間の顔は艶や張りがあり、赤みを帯びた状態が一般的には良好とされているが、東洋医学では、それのみを重要視するわけではない。

 健康を長いサイクルで判断し、天寿を全うできることを最大の目標としているため、顔の色艶がよく、脂ぎっていて、活力にあふれた状態は実証とされ、問題も抱えていると見られる。バイタリティーがあり、元気すぎるほどの人は、四、五十代で疲れてしまい、途中で高血圧症などの病気になりやすく、突然死んでしまうことも多いからだ。

 反対に、顔色が青白く、弱々しい人は虚証とされるが、世間で考えられるほど問題があるとは見なされない。体が弱い人は、体力がなくて無理をしないので、逆に長生きをすることが多いからである。

 東洋医学では、実証と虚証の中間の状態が、最もいいとされている。

 また、東洋医学には昔から平田氏帯という研究があり、これは顔の部分の変化によって、疾患を診断する方法である。

 この要点を略記してみると、男性ホルモンの過剰な人は頭がはげてくるし、婦人に子宮の疾患があると、前額に局限してニキビができることがある。便秘症の人は、鼻の付近に湿しんができる。

 観相術で見ても額は生まれつきの相というが、この部分が赤くテカテカ光っていれば、糖尿病である。

顔の中央は中年相で、このあたりがどす黒くなったり、頬にチョウ型の染みができたりしている人は、肝臓障害である。

 下顎のあたりが貧弱で、吹き出物ができていれば、胃腸障害、唇に水疱(すいほう)が生じて、治らない時は心臓が悪い、といった具合である。

●目の色や声に表れる「気」を診る

 かくのごとく、顔から病気を認知する方法が確立されているのは、人相が病気とつながりがあるからこそである。

 観相のほうから調べてみても、下顎は晩年の相を表し、下顎が発達し、円満な人は長寿であるとされている。漢方医のほうでも、下顎の貧弱な人は胃腸が弱く、短命であると考えている。

 言い換えれば、下顎がよく発達し、胃腸が丈夫な人はいわゆる福相で、「胃腸の丈夫な人に病なし」の格言の通りである。

 昔から「エビス、ダイコク、福の神」という言葉があるが、いつもニコニコしている人は、おおむね長生きである。私たちの周囲を見回しても、七十歳以上生き永らえている健康な人は、福相が多いはずである。

 つまり、楽しく、愉快な生活を送っているから、自然と人相まで福々しい顔になったものと思われる。

 これに反し、怒りっぽい人に胃潰瘍(いかいよう)が多かったり、ヒステリーの女性が神経系統の病気にかかりやすいのも、そのためである。

 その点、もしも既婚者が改めてお嫁さんをもらうなら、オカメの面のような下膨れをした、ニコニコしている娘さんを選ぶのもよいだろう。

 ともあれ、東洋医学でも、西洋医学でも、その診察に際しては、患者の顔や体から病気を判断するとともに、顔や体に表れる精神力をも判断しようとするものである。目に見えないエネルギーというか、生命力、東洋医学では「気」という概念で表現されているものである。

 同じ病気でも、患者の顔から「気」が出ている場合と出ていない場合とでは、大きく違う。「気」が出ていると、顔に生気が戻り、表情が明るくなって、病気は次第に治っていくのである。

 東洋医学では、「気」は目の色や、話す声に表れるとされている。目の動きが活発で、輝き、声に張りがある状態が、「気」が充実した状態である。

 実は、望診で一番むずかしいのは、この「気」を診ること、患者のエネルギー、生命力を見抜くことなのだ。

 ここまでの説明で、医者の視診、望診という顔から認知する病気判断の必要性がわかったことと思う。また、こうした面接や問診の場合は、じっくりと聞くという医者側の姿勢が、患者の苦しみや病像を知る上で、基本的に大切なのである。

 だが、最近の西洋医学においては、検査データばかりを見て、患者の顔をしっかりと見ない医者が少なくない。病棟回診の医者が「お変わりないですね」と、おざなりに声を掛けるだけで、サッといってしまうだけでは、患者の心にも不満が残ってしまうというものだ。

●自分の顔を鏡に映し、よく点検

 一般家庭における健康管理の問題についても、同じ傾向が見られる。昔の家庭では、母親たちが家族の顔色、表情に注意し、健康点検に役立たせたものだが、最近の母親は世情の慌ただしさの影響を受けてか、家族の顔をあまり注意しない兆候があるのは残念だ。

 また、テレビの影響のためか、夫婦でさえも、お互いの顔をちゃんと見る機会が少なくなり、お互いの健康状態のチェックがなされない傾向が強い。

 一般に、日本では健康管理の仕事を、医師や保健婦といった医療の専門家たちの仕事と割り切り、あなた任せの風潮が強い。

 この点、西欧諸国の人たちのように、健康は人生の幸福と考え、ヘルスケアは自分自身でやる仕事で、自分で手に負えない場合に専門家の指導を受ける生活態度を、私たちは学ぶ必要がある。

 少なくとも、毎朝一分間でよいから、自分の顔を鏡に映し、顔色、顔の表情、目、鼻、口の状態を点検してほしい。

 コンピューター会社に勤めるOLのA子さんは、毎朝自分の顔の点検を続けていたお陰で、ある朝白目が何となく黄色っぽいのに気づいた。約一カ月残業が続き、疲れがたまり気味で体もだるい。会社の健康管理室を訪ねたところ、急性の肝臓炎と診断され、緊急入院をした。幸い早期発見のため、約一カ月の入院で回復できた。

 大阪にある大学のB教授は、ある朝、目尻の上に米粒大の腫瘤(しゅりゅう)があるのに気づいた。早速、大学の付属病院の友人に診察してもらったところ、血液中のコレステロールが異常に高く、黄色腫と呼ばれる脂肪の塊ができたことが判明し、約二カ月間の厳しい食事療法でやっと高脂血症状態から脱出し、黄色腫をなくすことができたのである。

 誰もが毎朝、自分の顔を鏡に映し、数分間の点検を心掛けよう。睡眠不足や二日酔いの時は、何ともさえない顔が鏡に映る。

 こんな場合は健康の危険信号で、必ずそこには健康を損ねる原因が潜んでいる。早く、その原因を取り除き、その回復に努めてもらいたい。

 また、このようにして、その朝、その時、その日の人間の表情や、血色、気分、健康状態について考えてみると、それはよいにつけ、悪いにつけ、そのままが天の印でないものは一つもないことに気づくであろう。

 寝不足をすると、すぐ翌日の疲れとなり、顔の表情にも活気がなくなるというような一事にも、人間を生かしてくれている宇宙天地大自然の営みに反した印が、すぐその翌朝の表情に出ることを知る。

 従って、人間の今日、ただいまの表情に、私たちは天の印を見ると同時に、その人がどれだけ天の営みにのっとっているかどうかも、その表情からうかがい知ることができるのである。

 人間の一生涯は、片時も天の営みから離れてはならず、人間は何よりも、その営みに従うことを心しなくてはならない。

 だから、人間が生涯にわたって、その時々に応じての美を満喫したければ、常に天の営みにのっとって最高度の健康を保持するがよい。十分睡眠が足りて、心の平らかな健康そのもののような朝は、気分がよいのみか、自己の顔にほれぼれするような頼もしさを感じるだろう。

 顔の美の根源は睡眠にあり、健康にある。肉体にある。体の中から本質的に美が発動してくれば、心は健となり幸となる。血色はよくなり喜色がみなぎり、能力が出る。健が賢に通じ、康が幸となるということがよくわかる。

∥上半身の出物が発する健康情報(2)∥

∥耳をチェックする∥ 

●耳垢は汗腺の分泌物などからなる

 人間の目や鼻が前頭部にあるのに対して、側頭部にあるものといえば二つの耳である。この耳は、外耳、中耳、内耳の三つに分けられている。

 俗に「福耳の人はお金が授かる」といわれるが、この場合の福耳というのは、耳の中で最も外側にある耳介を指している。先の鼻の重要性を認識していない人が多いように、「耳ごとき」と思われる人も多いことだろうが、耳は他人には意外に目立つ個所であるし、自己の肉体内部に対しても調節、調和作用をしている大事なところだけに、おろそかにはできない。

 実は、耳の働きというものは、目以上に人間の肉体作用、精神作用に大きな役割を果たしているのである。世間の人は、その耳の働きをあまり知らないし、気がつかないようだ。

 人によって耳介の大きさが違うとともに、形もさまざまである中で、一般には、耳介が大きく、耳輪の渦も深いのがよしとされている。確かに、耳介というのは聴覚器の外へ向けられた集音器で、すべてのものの音はここで捕らえられ、耳の奥へと伝えられていくのであるから、大きかったりするほうが集音能力は優れていると思われるだろうが、現実に、耳介の大小によって、聴力が影響を受けるということはほとんどない。

 この耳介は、全体には軟骨が基盤をなし、下部の女性がイヤリングをつける一帯だけは軟骨がなくて軟らかく、下方に垂れ下がっているので耳たぶという。

 耳介の前方下部には、耳珠という小さな高まりがあり、その後方の陰に外耳孔がある。この外耳孔から鼓膜までの道を外耳道といい、外耳道と耳介を合わせて、外耳と呼んでいるのである。

 外耳道は成人でほぼ二・五センチの長さで、軽くS状に曲がっている。お陰で、外からのぞいただけでは鼓膜は見えない。これを見るためには、耳介を後ろ上方に引っ張り上げなければならない。

 さて、外耳道には柔らかい毛があり、耳道腺という汗腺の一種が開いている。耳からの出物である耳垢は、この汗腺からの分泌物と、表面の皮膚のはげたのが混じったものなのである。

 耳垢は体質的に、たまりやすい人と、そうでない人がいて、たまりやすい人は耳道腺からの分泌が活発な人に多く、中にはそれがすぎて、耳の中がいつもぬれた感じの人がいる。この種の、いわゆる猫耳は西欧人に多いようだ。

 外耳と内側にある中耳を境する鼓膜は、〇・一ミリの薄い膜でほぼ長円形をなし、その長径は一センチ弱である。この面はよく見ると、中央部がラッパ状にへこみ、臍の形をしているので、臍と呼ぶ。この部分の内側には、ツチ骨の柄が接し、ここから音の振動が内部に伝わる仕掛けになっている。

 鼓膜は薄く、外側からこれらの骨の形が透けて見える。それでも、膜の中には神経や血管が走っていて、耳垢をとる時など、誤って触れると激しい痛みを覚えることは、誰もが経験済みのことであろう。

 そのように耳の鼓膜はとても敏感で、表面をわずか百億分の一センチ動かす振動でも捕らえることができるという。そして、鼓膜の振動圧は、鼓膜のすぐ裏側にあるツチ骨など三つの耳小骨で、何と二十二倍の圧力に増幅される。

●中耳炎は咽頭や喉頭の炎症から起きる

 その三つの耳小骨に囲まれた空間が中耳で、鼓室と、ここと咽頭(いんとう)をつなぐ耳管とからなっている。いずれも表面は粘膜でおおわれ、中は咽頭から流入してきた空気で満たされている。

 鼓室の内側は、ツチ骨、キヌタ骨、アブミ骨という三つの耳小骨が互いに、関節をもって連なり、前記の鼓膜の臍から伝えられた音を増幅しながら、ツチからキヌタ、アブミ骨の順で、内耳へ送られていく。

 中耳炎は、この骨を取り巻く粘膜の炎症で、悪化すると音の伝達がうまくいかなくなり、難聴からやがて失聴に至ることもある。中耳は耳管によって咽頭と通じているため、咽頭や喉頭(こうとう)の炎症から起きる場合が多い。

 内耳は中耳のさらに内側にあって、硬い骨に囲まれ、小部屋の中に、蝸牛(かぎゅう)管、三半規管、前庭などが収められている。いずれも複雑な形をしているので、この一帯を骨迷路といい、この内側の粘膜を膜迷路と呼んでいる。

 このうち、カタツムリの形をした蝸牛管の中には、一種のリンパ液が満たされていて、ここまでやってきた音はリンパ液に波を起こし、その波紋がそこにいっぱい生えている繊毛(有毛神経)を動かし、その信号が聴神経を経て脳に伝達されるという仕組みになっているのである。

 一方、三半規管には前庭神経の一部がきて、体の平衡感覚をコントロールする働きをする。幼い子が車や船に酔うのは、この三半規管が未発達のため。耳は音の情報を得る感覚器官であると同時に、人間の直立姿勢の保持、つまり体の平衡を保つ平衡器官なのである。

 三半規管が発達していない乳児の場合も、音の情報を得る聴覚は発達しており、だいたい毎秒十六サイクルから三万サイクルの範囲の音まで聞こえる。だが、六十歳になると一万サイクル前後にまで落ちてしまう。人間は老いてくると、耳が遠くなるのである。

 耳で聞こえなくなると、鼻や口で聞こうとして、つい口を開ける。ポカンと口を開けた顔は、何ともだらしなく、締まりなく見えるものだ。

 現代の文明人たちは、テレビを見る、ラジオを聞く。無用な雑言にも似たくだらない音で、やたらと耳を煩わす。

 「聴、甚だしければ即ち耳聡ならず」と「韓非子」にあるが、無理に不必要な音で耳を刺激したり、耳がそれを聞こうとして焦ると、耳がだんだん本来的な働きを失い、いうことをきかなくなる。〃不感症〃というやつになってしまうから心すべきだ。

 それにしても、人間の耳というものは、まこと巧妙にできているものと、つくづく思うことがある。

 電車のような大きな騒音が聞こえるところにいても、慣れれば、ちっとも耳障りにならなくなるから不思議である。

 ちゃんと耳が調節、ろ過して、体に無益な刺激を与えないような機能が働く。一般には知られていない耳のもう一つ大事な働きは、肉体の内部、内臓の器官に対して、素晴らしい調節、調和作用をしていることなのである。

 さらに、耳から無意識につながってでき上がる勘というものは、肉体の深部にまで到達する。例えば、犬がぐっすり寝こんでいるようでも、耳だけはちゃんとアンテナを張っていて、ちょっとした物音にも敏感に動く。目は閉じていても、耳や鼻は外のほう、つまり生かされているという世界に向けて開いている。

●耳を澄ますと奥深い世界に通ずる

 この耳は聞くだけでなく、耳で見ることもできる。目は確かに事実を誤りなく見るが、それはあくまで表面的な状態だけで、内容を見ることのできるものは耳である。人を本当に見ることができるのは、耳なのである。耳は、目で見た印象と合わせて、物事の本質を間違いなく感覚することができる。

 結局、耳も目も、外界のものを捕らえるという点で、同じような働きをしているようであるが、本質的に違うものである。

 目は平面的であるから、表面的で浅いところを広く見る性質を持っている。耳は深いところにあるから、力というものを把握することができる。目に見えない世界を把握できる力を持っているから、耳を澄ますと奥深い世界に通ずることができる。耳で落ち着くということができる。だから、耳がしゃんとしていると、目がキョロキョロするようなことはなくなるわけだ。

 この力を活用すれば、難行苦行をするまでもなく、人間性を成就することができる。真に健康、賢明になり、病気もせず心に悩みを持つこともない。難病、業病を治すこともできるのである。

 目に見える物や、耳に聞こえる音はまず潜在性意識の中に入る。目と口は現象界に直接し、直面して頭脳に記憶させるし、耳と鼻は目に見えぬ世界のものを捕らえて体内に入れる。

 鼻で嗅げないものや、目に見えない物や、耳に聞こえないものは、一種の光となって無意識の中に入っていく。

 人間は目に見える物、音として聞こえるものだけが、ものだと思っている。けれども、それ以外に、それ以上に素晴らしいものがあるということを知らない。こうした力が無意識に入っていくと、下のほうの空意識から入ってくるものと、二つの力が合流して、大変な能力を生み出すのである。

 こういう力は誰にでもある。平等に生かされている世界に生きている人間の、素晴らしい能力である。しかし、このことを知る人がない。この力が肉体のあらゆる器官、機能に重要な力を与え、大きな能力を発揮させる力であることを人は気づかない。

 つまり、見えない物、聞こえないものが、この空の世界に、空の形で存在している。それを体で受け取り、我が力とする方法ができたならば、その人は達人になれる。

 耳は音を音波として聞き、目は光を吸収して万物を見る。同時に、耳や目からいろいろな物事を発動し、発揮していく力を持っている。人間の行う芸術、科学もそうした働きによるものである。

 耳や目はものを吸収するが、それが目に見える陽の面に働く時と、目に見えない陰の面に働く時とがある。目は光を捕らえ、光の中で陽の面に働き、耳は目に見えない世界のものを音として受け取るわけである。

 古来、「耳を信じて目を疑う」とか、「耳に入り心に著(つ)く」といって、耳から聞いた学問、知識などが、よく身につくもの。

 賢い人のことを聡明(そうめい)といい、耳ヘンである。聡明といえば、精神が立派で、物事の判断力が確かな人だ。その元はといえば、耳が優れていて、もののよしあしを判断する機能が、十二分に働くということである。

 徳をもって人に分かつ、これを聖という。財をもって人に分かつ、これを賢という。人に恵む時、徳を人に分けてやるのが一番尊い。それが聖。財産を分けてやる賢はその次。こう荘子もちゃんと教えている。

 聖という字にも、耳が付いている。やはり、最高の人間たるには、耳が正しくないといけない。そのあたりは、昔の人も心得て、字を作ったものだと感服するばかりである。

∥上半身の出物が発する健康情報(3)∥

∥目の疲れをチェックする∥ 

●目から出る涙は酸素と栄養の供給源

 本人は健康だと信じているのに、いつの間にか病気にむしばまれ、気付いた時にはもう手遅れとならないために、毎日、自分の体からの貴重な出物を観察することをぜひ勧めたい。

 いろいろな出物は毎日姿を変え、体の調子をはっきり告げているものであり、非常に役に立つ健康のバロメーターで、素人にも判断しやすい健康の指標なのである。

 もし色や形、量、におい、音などに異常が発見されたら、病院にいって精密検査を受けてほしい。確かに、一過性の違和もあり、出物の異常がすべて病気というわけではないものの、本当の病気だったら、早期発見できる場合もあるのだ。

 いきなり病院に担ぎ込まれる前に、体からのメッセージを自分の目で読み取る能力を養っておくのが、内臓をはじめとした心身へのいたわりというもので、誰にとっても決して無駄にはならないはずである。

 メッセージの解読法とともに、肉体各部の異常な出物を正常な出物に変える対処法や、日常生活において根本的に肉体を調整、浄化する健康法をお伝えしていく。この健康法も、誰にも有効で、大いに活用できるものである。

 現代の日本人の肉体の中で、最も酷使されているものの一つに、両の目が挙げられるだろう。

 もとより、宇宙には音が存在するから人間の耳が作られたように、光があるから人間に目が与えられたのであるが、目の網膜には光に反応する視細胞が一億三千七百万個もあり、そのうちの一億三千万個で明暗を感じ、七百万個が色彩を感じているという精巧な器官なのである。だからこそ、目の視覚機能は、最も多くの外界の情報を瞬時に判別、認識する。

 この目からの出物、腫れ物といえば、涙、目やに、ものもらいが考えられる。

 最初の涙に関して、感極まって涙を流す動物は人間だけだといわれているが、実をいうと、我々人間は別に悲しくなくても、常に、一定の量の涙を出し続けているのである。人前で泣くものではないと教育されて成人した男性でもだ。

 それは涙の基礎分泌と呼ばれている。この涙の分泌が一瞬でも止まれば、角膜が乾燥してしまうため、我々は目を開けていられなくなる。

 角膜というのは、眼球の黒目の部分をおおう透明な膜で、直径はほぼ一センチである。角膜の外側はいわゆる白目で、表面は透明な結膜、その下には強膜という白色、不透明の丈夫な膜がある。鏡をのぞいて、自分の目をよく見ると、その表面には細かな血管が張り巡らされていることに気づく。目が疲れてくると、血管が充血して目立つようになるのは、目に酸素と栄養をたくさん送り込むための反応なのである。

 この張り巡らされた血管は、白目が角膜に接するところで途切れてしまう。よくできたもので、角膜の中に入り込む血管は一本もない。透明な角膜に血管が入り込んでいては、視界のじゃまになってしまうからである。

 しかしながら、角膜を構成しているのは生きた細胞であるから、酸素と栄養の補給を欠かすことはできない。そこで、血液の代わりに使われるのが、まばたきの刺激で基礎分泌される涙というわけなのである。

 意外に感じるかもしれないが、毛も、皮膚も、表面の部分は、新陳代謝を終えて死んだ細胞である。人間は、体を死んだ細胞でおおうことによって、水分の蒸発を防いでいる。生きた細胞は空気に触れると、すぐに乾燥してしまうからだ。

 この点、角膜のように生きた細胞が直接大気にさらされているのは、人体では珍しいケースなのだ。それが乾燥せずにいられるのも、涙が常に目の表面をおおっているお陰なのである。

 目をおおっている涙の量は、きわめて少量だ。およそ七マイクロリットル、千分の七ミリリットルという量である。

 涙は目の表面に、ごく薄い層となって、延び広がっている。本当に薄い層であるが、細かく見るといくつかの層に分かれている。外側から油層、漿液(しょうえき)層、ムチン層と呼ばれる三つの層だ。この三層が正常に機能して、はじめて涙としての役割を果たしているのである。

 最外層の油層は、脂肪分に富んだ液体だ。これが涙全体をおおっているために、涙は普通の液体よりもはるかに蒸発しにくい。油層はまつげの生え際に一列に並ぶ、マイボーム腺(せん)と呼ばれる器官で作られる。皮膚の脂腺が詰まってニキビができるように、マイボーム腺が詰まるとまぶたが赤くはれる。これが目の出物、腫れ物、いわゆる、ものもらいである。

 油層の内側の漿液層が、涙の本体。ここに、酸素や目に必要な栄養などの成分が含まれ、目の健康を保つのである。主に、上まぶたの裏の耳側にある涙腺で作られている。

 その内側、眼球の表面と接しているのが、ムチン層。ムチンは粘着性の高い蛋白(たんぱく)質で、涙が目の表面に安定してくっつきやすいようにする。外部から侵入した異物や細菌を目の外へ出し、まぶたの動きをなめらかにするという働きもする。このムチンは、白目の表面にあるゴブレット細胞で作られている。朝起きた時に、目の隅などに目やにがついていることがあるが、これがムチンである。

 このように三層をなす涙は、目を正常に機能させるために欠かせない液体なのである。

●目を酷使すると生理的機能を痛める

 その涙が、人間の感情の高まりと一緒に、大量に分泌されるのはなぜだろうか。この疑問に対する明確な医学的解答はいまだ得られていないが、感情的涙についての仮説で有力なのは、人間がストレスを受けている時に体内に発散した有害物質を取り除く働きがあるというものである。この感情的涙には、刺激で出る涙より高い濃度の蛋白質が含まれているそうだ。

 また、目から出る感情的涙というのは、ボディーランゲージの一種であることも確かだ。悲しさと涙とが条件反射的に結びつけられていく過程は、新生児を観察するとよくわかる。

 多くの人は悲しいから涙が出るのだと思っているが、「涙が出るから悲しい」のも側面的真理であって、心の悲しみは体ごと表現されるものである。

 そのような人の動きをよく見る力を養うと、人柄がわかり、性格もつかめるようになる。これも目の働きである。

 眼光紙背に徹するほどに鍛えられれば、相手の運命や将来性まで、五官(五感)意識で直観することもできるようになるものであるし、そういう達人の目はゆったりしている。なぜなら、古人が「胸中正しければ、眸子(ぼうし)明らかなり」と喝破しているように、体が正常であれば目もゆったりしているものなのだ。

 残念なことに、たいがいの現代人の目は落ち着きがなく、視点が定まらないでキョロキョロしている。物事に対する鑑定も、全く当てにならないものである。

 言い古された言葉であっても、「目は心の窓」というのは千古不易の真理である。自己意識の強い人は、内面を映す目が濁って妄想が渦を巻いている。

 一方、五官意識でスッキリと生きている人の目は、まるで新生児や乳幼児のように、自ら澄んで美しく、青空のようにすがすがしい。

 実は、そのような目をした新生児の五官のうち、真っ先に働くのは口と鼻である。目や耳は少し遅れるものだ。

 目という器官は、もともと物を映すようにできているから、教えなくとも自然に見ることができる。意識的に見るように教え込まれなくても、天地万物のほうから新生児の目に飛び込んでくるわけである。

 つまり、目は与えられれば何でも見る。目からは、自然の心が入ってくる。恐ろしい害毒も飛び込んでくる。刺激の強い、つまらないテレビの画像も、子供の目に飛び込んでくる。こうした映像が、すべて先入観念となって肉体に蓄積され、人間の一生を支配するのである。

 子供のうちから、やたらに目や耳を使うと、人間性の根本が狂ってしまう。

 ビジュアルに教え込むことはやさしいから、人はやたらに視覚教育を尊重するが、そのために自己意識や誤った先入観を子供に詰め込むことになる。その害毒の大きさは、テレビについてだけ考えてもよくわかることだ。テレビの見すぎは、子供の精神に「心」という錆(さび)をこびりつかせるばかりでなく、目の生理的機能をも痛めてしまうものである。

●心の窓たる目の疲労の治し方

 子供に限らず、現代人は目を酷使しすぎる。用のない時は目を閉じていたほうがよい。 目を自己意識で酷使していると、疲労のために頭痛がしたり、吐き気やめまいを生じることもある。

 とりわけ、人間の目の疲れで最近多いのがドライアイで、涙が少ないために目が疲れる一種の現代病である。先に述べたように、その涙は泣く時に出る涙とは全く別で、目が正常に働くための最低限必要な潤いとしてのものであり、この基礎分泌の涙が少ないと、ドライアイと診断される。

 では、涙が少なくて目の表面が乾くとどうなるのか。角膜の表面には、きわめて細かい凸凹が誰にでもある。凸凹は、本来なら涙によっておおわれ、なだらかな曲線になっているのであるが、涙が不足するとそのまま露出し、表面組織がはがれてしまう。

 そこに光が乱反射してまぶしさを感じ、視神経を疲れやすくしてしまうのである。特に、一日中コンピューターに向かって仕事をしている人、つまりVDT作業をしている人は要注意。じっと画面を見つめる作業なので、まばたきの回数が減る。通常の涙はまばたきの刺激によって出るものだから、その回数が減れば自然に涙の量も減って、ドライアイになりやすいわけだ。

 対策としては、涙に近い成分の目薬を頻繁にさし、目を休めることしか手立てはない。ことに目を酷使する作業をする時には、一時間を一クールとして、その中に必ず十分くらいの休憩をすること。

 その時に、遠くの緑を見るといいとか、星を数えるといいとかいうけれども、一生懸命見ようとするのはかえってよくない。ボーッとするとか、同僚とおしゃべりをするとか、少しでも寝るとか、とにかくあまり物を見ないことが、目にとっては必要なことである。何より血行をよくすることも大切だから、首や腕を回したり、社内をうろつくのもいい。目のためには、見るな、そして動けである。

 もちろん、ドライアイの人の仕事休みの時は別にして、ふだんから遠い地平線を凝視したり、強くまばたきを繰り返したりするのは、疲れ目に効果がある。ヨガの古い文献によると、トラータカと称する一点を凝視する方法は、視神経を強め、眼疾を治癒させる効果があるという。

 また、光が目の保健に役立つことは生理学的な事実で、漠然と遠くの一点を見つめたり、天上に輝く日や星を注視することは、肺が清浄な空気によって元気づけられることと、同じような効果を持つことになる。日の出や日没の時の、まぶしくない太陽を注視するのは、スーリーヤディヤーナと呼ばれるヨガの保健法でもある。

 しかし、日中のまばゆく、強い太陽光線では、逆に目に炎症を起こす恐れがあるから、みだりに注視することは好ましくない。

 目が疲れたなと思ったら、まぶたを閉じて親指の腹で軽く摩擦をするのもよい。目の体操としては、首をしゃんと伸ばして、自分の鼻先を注視する方法や、上目使いに眉間(みけん)を見つめる運動がある。顔を動かさず、視線だけを左右の肩先に移動させると、眼球をコントロールしている筋肉の鍛錬になる。

 そして、目の疲れに何よりいいのは、十分に寝て目を休めること。誰もが夜の眠りに入る前に、空の世界に目を遊ばせ、目に見えないものを見るようなつもりで寝ると、肉体に蓄えられた「気」の作用で自然に精神が統一され、宇宙大自然と一体の境地に到達できるものである。もちろん、目の疲れも回復する。目薬よりも寝薬なのである。

∥上半身の出物が発する健康情報(4)∥

∥鼻をチェックする∥ 

●イビキは眠りや健康を損なうことがある

 人間の目の下にある鼻は、顔の中心、中核である。この鼻や口から発せられる出物の一種に、イビキがある。眠っている時に呼吸とともに出るイビキの音ほど、本人平気、はた迷惑という図式がはっきりしている現象も珍しいのではないか。

 対処法として、よく「姿勢を変えてやれば止まる」といわれるが、そうとも限らない場合もある。

 口を開けて寝ると舌が下がるため、口から喉(のど)への通路が狭くなる。その上、鼻腔(びこう)と口との境界にある、口蓋垂(こうがいすい)や軟口蓋と呼ばれる部分がゆるんでいると、ここが振動する。それがイビキになるのであるが、体が疲れている時ほど、そのあたりの筋肉のゆるみが激しく、イビキもひどくなるのが道理。

 一見、安眠の印のようにも見えてしまうイビキが、本人の眠りや健康を損なうこともあるし、病気の症状として出ることもあるから、注意をうながしておきたい。

 その病気の代表が、夜中に息が止まる睡眠時呼吸障害という特殊な病気である。睡眠時無呼吸症候群ともいい、起きている時は正常に呼吸しているのに、眠ると十秒から二分ぐらい、繰り返し呼吸が途切れる病気である。

 睡眠中の無呼吸は、健康な人でもよく見られるが、十秒以上の無呼吸状態が一時間の睡眠に五回以上ある時、この病気と診断される。

 脂肪が沈着するなど気道をふさぐ原因があって起きたりするもので、圧倒的に男性に多く、年を取るに従って増える。女性も閉経後に見られるので、性ホルモンが関係しているらしいといわれている。

 こういう病気の人たちは、睡眠時間をたっぷりとっているのに、昼間に眠気を感じる場合が多い。呼吸が再開する時は、覚醒(かくせい)時と同じ脳波が現れるので、無意識のうちに、夜中に何度も目が覚めているわけだ。酸素不足から、日中、頭の重さを訴える人も多く、高血圧や不整脈、赤血球の数の増加、心臓肥大など、さまざまな合併症も起こしやすい。これらが、睡眠中の突然死の原因の一部になっている可能性が指摘されている。

 睡眠時無呼吸症候群の人でなくても、イビキをかく人は周りへの迷惑を気にするだろうから、イビキ対策を述べよう。

 一番いいのは、鼻や喉に異常がないか、耳鼻咽喉科で診てもらうこと。扁桃(へんとう)がはれていれば、切除することもある。鼻づまりなら、治したほうがいいだろう。

 ただ、重症でなければ、生活面の工夫である程度は改善できる。太った人は、日頃から減量を心掛ける。お酒を飲む人は、飲酒をなるべく控える。アルコールというものは、喉の筋肉をゆるめ、イビキをかきやすくするからだ。

 鼻の粘膜が乾燥して荒れると、イビキをかきやすくなるので、部屋の湿度を保つことも必要。仰向けに寝ると、喉が狭められるので、横向きに寝るのもよい。枕(まくら)の下に本などを置いて、傾斜を作るのも効果があるそうである。

●鼻はホコリを排出する浄化機能も持つ

 さて、人間の鼻は顔の中核で、大切な顔面を引き立てる美の象徴でもあるとともに、人間の生死も、宇宙大自然との交渉も、鼻から始まって鼻に終わるといえよう。鼻は人間が死ぬ時には、一番最後まで残る。呼吸が止まれば、鼻の存在も終わる。鼻は最初で最後である。

 この鼻というのは、人間の腹部における臍(へそ)と同じように、五官の要になる大切な器官である。

 そして、鼻は宇宙からの「気」を受信し、発信するアンテナでもあるが、それは外部環境に対しての広がりを意味するだけではなく、肉体内部のあらゆる器官にも四通八達しているものである。

 鼻は五官の中央にあって、鋭敏な感覚力を持っている。五官と潜在性意識、無意識と空意識を一貫して、すべての感覚を調整し、神経を上手に制御したりする。

 こういうと、鼻といえば嗅覚(きゅうかく)をつかさどるだけが役目と思っている人がほとんどに違いないから、意外な機能にびっくりすることだろう。

 人間の鼻は、においを嗅(か)ぐだけではない。生きる上では、鼻腔の上部の粘膜上皮に約五百万個ある嗅細胞でにおいを嗅ぐ器官とされているが、生かされの世界では、鼻が素晴らしい感覚の中心となっているのである。わからぬものが、わかるという力さえもある。

 これは鼻とか、臍とか、生殖器官という神秘的なところに、空意識、無意識という意識できない大きな力が潜んでおり、発揮できるからなのである。

 一般的に知られているところでは、感覚器官としての鼻には、嗅覚機能のほかにも、呼吸作用を効率よく行うための役割がある。まず、冷たい空気がそのまま肺に入るとよくないので、鼻甲介の血管の収縮によって、空気を吸い込んだ瞬間に三十度くらいまでに温度を上げる暖房の機能、加温機能がある。

 その次は加湿機能で、鼻の中の粘膜は水分が九十五パーセント前後あり、入ってきた乾燥した空気に湿り気を与え、喉などの粘膜を保護するわけだ。

 また、鼻腔内の数百万本も生えている繊毛によって、外から侵入するホコリを体外へ排出する浄化機能という役目も果たしている。

 人間の鼻は、霊妙な五官作用の働きのシンボルといえよう。

●頭脳の疲労素も排出する鼻水

 鼻の感覚機能が訓練されて高まると、においのあるものだけを嗅ぎつけるだけでなく、目に見えない世界にあって、まだ香りになってこないものまで嗅ぎつける能力を持つようになる。

 例えば、夜、眠っている時は目と口は現象世界と交通遮断をしているが、耳と鼻とは、生かされているという世界において、開けっ放しになっている。

 といって、無用、不要なことは聞きもしないし、嗅ぎつけもしないが、泥棒が入ったり火事のような時には、その不審な物音に気づく。異常を察知した時には、耳と鼻が協力をして、かすかなものでも聞きつけ、嗅ぎつけるのである。

 最近は、人の鼻も耳もマヒしているから、そういう微妙な問題に対処する力がない。社会の雑音の多い生活の中にいるから、必要な音さえ聞こえないのである。

 この鼻に力を入れると腹も締まるし、全身も、「気」も、心も締まってくる。鼻から下の顎(あご)まで軽く力を入れると、魂が落ち着くものである。

 さらに、鼻に「気」を集中して物事を考えると、無心のうちに真相が解けるものである。精神集中も、鼻に「気」を集めることが要領である。坐禅の時にも、鼻を中心に静寂、空寂になれる秘訣があり、人生のポイントがある。

 鼻は空気だけではなく、宇宙の生気、「気」というものを吸い込み、吐き出している。

 「気」とは、エネルギーとか、単なる働きではない。生命である。この宇宙生命という「気」の存在、働きは万物万象のすべてに現れているが、その「気」を吸収するところも、発揮するところも、頭部では鼻が主なのである。

 だから、「気」が生じ、力がある時、鼻が何かと感じる。しっかりした鼻からは、着想や名案が出てくる。

 人間は五官の中で、鼻というものをすっかり忘れている。目と耳と口があって、その中央に位する鼻のアンテナが、まるっきり遊んでいる。無視されているのである。人間の体には、まだ忘れられている大切なものがある。

 鼻のよい人、完全な人は、頭脳にも関係がある。そこで、鼻腔の呼吸で頭脳を内部から冷やすこともできる。大きな徹底呼吸をしたならば、鼻からの空気で、頭脳を養うこともできる。

 頭脳の排泄物などは、鼻に下ってくる。鼻には、頭脳の疲労素を鼻水という出物に変えて、排出する機能があるわけである。ヨガでは、鼻の浄化によって頭脳が爽快となり、視神経が強くなるという。

 これも巧妙に仕組まれた自然作用の一つだが、自己意識がのさばってこの自然作用を妨げると、鼻づまりや蓄膿(ちくのう)症にかかることになる。

 また、唾液や胃液が気化されて熱に変わった時も、鼻が詰まったり、詰まり加減になったりする。鼻は「気」神経の集まるところだから、鼻にさしたる故障がない時でも、鼻づまりで困ることがあるし、体に水分が不足したり、エネルギーの燃焼や気化に異常があると、すぐ鼻に現れる。

 簡単なことながら、意外な原因で意外なところに現象が起こるものである。その影響もまた無視できない。

 そこで、変わった健康法として、毎朝の洗面の時、冷たい水を手にすくって、鼻に七十回から百回ぐらいかけるのを習慣にすると、真冬でも風邪を引くことがない。少々の鼻づまりなども、てきめんに治ってしまうから妙である。

 朝の洗面の時に、鼻から薄い塩水を吸い込むことも、鼻の健康法としては抜群の効果がある。

 鼻づまりを治すもう一つの方法は、昔から言い伝えられてきた頭寒足熱で、足を温めることである。足は鼻ばかりではなく、目とも関連があって、フクロウの足を折ると瞳孔(どうこう)の周囲の光彩に傷が現れるというデータもある。目の悪い人は、多くの場合、足も弱い例が多いことを付け加えておこう。

∥上半身の出物が発する健康情報(5)∥

∥口からの出物をチェックする∥ 

●口などから出るゲップ、クシャミ、セキ

 耳の次は、人間の口からの出物についてである。いうまでもなく、人間の口は、消化器官の一部であり、声帯と一連の発声器官でもあり、その周りには表情筋を張り巡らした表現器官でもある。もちろん、呼吸器系統にも属している。

 この口から発する言葉を主にして、私たちは互いの意思を伝え合っている。実は、そういう人間の言葉というものの根源は音(おん)である。その音の発生を追求すると、宇宙大自然の中に逆上ることになる。音も光も宇宙エネルギーの具現だが、それを感覚で受け止めた肉体が体の中で「気」に変え、自己のエネルギーに変換する力は素晴らしいものである。

 人間が生かされている下半身の無意識、空意識が、上半身の潜在性意識、五官意識に通じてくる時に、肉体の働きとして音というものが発生する。すなわち、音は無意識、空意識という他力から発生して、上半身のほうへ上がってくる途中で、潜在性意識の中を通ってくると、さまざまな編集、組み合わせができて、言葉というものとなって、五官意識から発動するのである。

 音が言葉になる。音が声になる。音声、声が言葉になる。音が歌になる。思えばなかなかに面白い肉体の仕組みである。

 上半身にある口から言葉を上手に発する人は、その言葉の根が空意識、無意識という下半身、下腹にある。無意識層のよくできている人、発達している人の言葉は整然として、内容が立派である。

 本当によい声を出そうとするならば、下腹の無意識、空意識という世界を鍛錬して、腰と腹に力を持ちながら、上半身は空虚にして楽に声を発する、歌を歌うようにすべきである。上半身で力んで、努力して一生懸命歌おうとすれば、かえって楽に声が出ない。色も艶(つや)も味もない歌になってしまう。

 人間の声も、もっと美しく微妙に、立派に出す工夫が必要である。そのためには、呼吸作用を上手にしなければならないし、「気」が浮ついている時には、大きな腹式呼吸をして舌を落ち着かせることである。

 さて、口からの出物の話に移って、まずは胃から口を通って発せられるゲップについてだ。ゲップというと、何となく上からのオナラという感じがすることだろう。しかし、両方の成分を比べてみると、ゲップはほとんど大気と同じで、窒素、酸素、炭酸ガスからなる。オナラとは大違いなのである。

 人間は話したり、歌ったり、食べたり、飲んだり、タバコを吸ったりと口を開閉するたびに、空気を飲み込んでしまっている。普通の場合、食道に比べて胃の内部のほうが少し内圧が高いのだが、食道括約筋によってふたをされているので、逆流しない。ところが、空気がたまりすぎたり、ビールとかコーラの炭酸ガスが入りすぎたりすると、「あんまりじゃないか」と胃が苦しがって、放出してしまう。それがゲップというわけである。

 人によっての違いはほとんどないけれど、その時、胃の中のにおいを持ってくる。欧米ではオナラよりもゲップのほうが失礼になるというのは、食物のにおいを感じさせることが一因であろう。

 ゲップと同様に、口や鼻から音をともなって出てくるものに、クシャミとセキがある。冬には、両方に悩まされる人も多いが、前者のクシャミは、鼻粘膜に異物が付いたり、刺激が加わった時に、これを飛ばそうとする運動である。後者のセキは、気管粘膜の異物や刺激を除こうとする運動である。

 このように、出口は違うのだが、ものすごい速さの呼気を作るという点では、ほぼ同じ動作なのだ。

 もう少し詳しくいうと、クシャミは、呼吸中枢のすぐ近くにあると思われるクシャミの中枢の指令によって起こる。思い切り吸い込んだ息を、鼻腔を目掛けて吐き出す。この時、当然、口にも息が押し寄せるから、もし口を開いたりすると、ツバキまで飛び散ってしまうわけである。

 一方、セキの場合は、セキの中枢の指令で出る。こちらの指令には、「声門と鼻腔を閉じておけ」という内容が入っている。息の吐き出し方はクシャミと同じで、息の流れが声門にぶつかった途端、声門が開かれるということになる。

 声門は意思で開閉できるから、空セキなどという芸当ができるが、鼻腔はいうことを聞いてくれないので、空クシャミはできない。

 普通の呼吸と比べてみると、クシャミやセキでは、吐く息のパワーが全く違う。普通の呼吸に使う筋肉は、横隔膜が主で、外肋間(ろっかん)筋と内肋間筋が肋骨を広げたり、狭めたりというアシストをしている。

 これがクシャミやセキとなると、がらりと態度を変えてしまうのである。まず、使う筋肉では、補助呼吸筋と呼ばれ腹壁周辺の筋肉七種以上が助っ人する。場合によっては、足腰の筋肉まで使うという物々しさなのである。クシャミをしたら腰を痛めた、などという人がいる理由が納得できるだろう。

 深く息を吸った後、これらの筋肉が力任せに収縮して、肺は猛烈に圧迫される。その結果、吐き出される呼気のスピードは、秒速二百~三百メートルという亜音速なのである。

●アクビは大いに奨励すべきもの

 口から出るものの一つとして、アクビという吐息、深呼吸もある。人間なら誰もが、長い会議に出席したり、退屈な講演や授業を聞かされると、アクビが出そうになるもので、、一般には「眠い」、「疲労」、「退屈」と、ろくなイメージがないことだろう。

 人間工学の立場から、単調労働とアクビの関係について研究した大学教授もおられる。工場の組み立てラインや検査ラインに働いている人たちを観察したところ、仕事開始から三十分くらいは変化がないが、三十分すぎる頃から注意力が落ちてきて、能率が落ち始める。そこで何とかカバーしようとして、姿勢を変えたり、隣の人と短いおしゃべりをして、気持ちをしっかりとさせている。

 ところが、開始六十分頃になると、もう、そんな努力ができなくなって、姿勢も動かなくなり、アクビが出始めるという。新幹線の運転手のデータをとった時も、六十分でアクビが出てしまったという。

 その結果からわかったのは、人間が大きな変化のない仕事を続ける場合の限界は六十分とみられることだ。つまり、「これ以上続けても、大脳生理学からいって効率はよくない」とサインしているのが、アクビだというわけだ。

 六十分やってアクビが出た時は、二十分休憩というのが理想で、これでほとんど能率が回復する。少なくとも、十分は休憩したほうがいいようだ。

 一方、「アクビは深呼吸の一種であって、特別な意味はない」という医学関係者もいる。

 それによると、疲れた時だけでなく、緊張が続いてもアクビが出そうになる。緊張した時も、「息を詰めた」状態なので、血液に酸素の借りができる。あまりに借りると「返せ」といわれるのはどこでも同じで、それがアクビというわけである。しかも、このアクビという深呼吸の後は、しばらく無呼吸状態になるので、派手なアクションのわりに返済額は大したことがないというのである。

 授業や会議中にアクビが出そうになったら、何回かに分けて大きめの深呼吸をすれば同じことだが、緊張すべき時が終わったら、なるべく派手なアクションをすれば、リラックス効果があるそうだ。

 編集子にいわせれば、アクビは体内の悪疲、悪ガス、圧力の放出法である。アクビは疲れを「気」に変えて、体外に放出する自然作用だから、大いに奨励すべきものである。

 誰もが仕事に飽きたら、アクビをせよ。これが前夜の睡眠不足が原因では怠け者の象徴となるが、気分転換、心機一転の機会ごとに、着想が新しく、新しくと進んでゆくのがよい。そうすれば、意識は前向きで元気が出る。

 こうするために、お茶を飲んだり、タバコを吸ったりするが、一番簡単で無害有効なのは、伸びとアクビである。単調労働に従事している人や、事務仕事の多い人は人工的に、時々、伸びやアクビをする癖をつけておくと、習慣的に、条件反射運動的に、疲れがたまると、すぐに伸びやアクビが出るようになる。努めて、このような自然機能が発動するような体勢、体調にしておくことである。

●筋肉を伸ばせば頭がはっきりする

 俳人高浜虚子は、「五十ばかりアクビをすると一句浮かぶ」という特技を持っていたそうである。

 頭の働きに活を入れようと思ったら、筋肉を引き伸ばすことが一番なのであるが、人間が無意識に実行している典型的な例が、アクビなのである。

 筋肉が引き伸ばされた時、その中にある感覚器の筋紡錘からは、しきりに信号が出て大脳へ伝達される。大脳は感覚器から網様体経由でくる信号が多いほどよく働き、意識は高まって、頭ははっきりするようにできている。

 アクビも、咬筋(こうきん)といって、上顎と下顎の間に張っており、食べ物を噛(か)むのに必要な筋肉を強く引き伸ばすものであることを思えば、俳人の特技ももっともな話だ。

 アクビは「血液の中の炭酸ガスを追い出すための深呼吸」だと説いている書物が圧倒的だが、アクビは「頭をはっきりさせるための運動の一つ」でもあるのである。

 それでも納得いかないという方にも、わかってもらえるような例を挙げる。

 今まで眠っていた猫が目を覚まして、行動を起こそうという間際には、決まってアクビをし、続けて背伸びをしている。我々も、これから起き出そうという際には、伸びをしたり、アクビをする。

 ともに筋肉を伸ばすことによって、頭をはっきりさせる効果があることは、ご承知の通りである。

 退屈な講演や授業を聞かされた時のアクビが、頭をはっきりさせて、何とか目を覚ましていようという、無意識の努力の現れだとしたら、ただ「行儀が悪い」としかりつけたり、腹を立てたりはできなくなる。

 アクビは自然の覚醒剤。したい時には、いつでも堂々とやりたいものである。先のゲップや放屁と同様、エチケットに反することになるのは、いかにも残念だが。

 ついでながら、咬筋の収縮を繰り返しても、同じような効果があるので、ガムを噛むのは結構なこと。アメリカの野球選手は、例外なくガムを噛みながらプレーしている。

 同じ意味で、パソコンやワープロに向かう際には、立ったままで仕事をするのもいいだろう。人間が立っている時も、意識には上らないけれども、百くらいの筋肉が働いているから、腰掛けて筋肉をダラッとさせている時より、頭はずっとさえるはずである。

 だから、学校の朝礼において、「気をつけ」と不動の姿勢をとらせての訓示は、休みの姿勢で聞くより効果的なのだ。疲れて電車に乗っても、立ったままではなかなか眠れない。それが腰掛けると眠ってしまうのも、同じような理由によるのである。

 では、腰掛けるのと座るのとは、どちらが頭の働きをよくするかというと、太股(ふともも)の筋肉がより強く引き伸ばされるようになる座り方だろう。説明してきた通り、筋紡錘からの信号は、筋肉が引き伸ばされた時に、しきりに出るものだからである。

 また、座りっ放しで仕事をしている人にとっては、体の伸びを取り入れた簡単な運動が気分転換に大いに役立つだろう。

 椅子(いす)に腰掛けるたびに、腕を精いっぱい伸ばし、深呼吸をする。十分か十五分おきに、きちんと椅子に座り直して、肩を回し、体をリラックスさせる。三十分おきに、椅子の背にもたれて、十分に体を反らせる。電話を手元におかず、少し離しておく。当然ながら、電話のたびに手を思い切り伸ばさなければならないので、腕の運動になる。立ち上がるたびに、前かがみになって、足先をつかむようにするなどだ。

 それぞれ本当に簡単な運動ながら、これらを習慣的に実行すれば、緊張を解きほぐし、やる気を呼び起こす上できわめて効果的である。

∥上半身の出物が発する健康情報(6)∥

∥シャックリをチェックする∥ 

●シャックリは横隔膜のケイレン信号

 人間の口から発せられる音の出物の一種に、シャックリがあることも忘れてはならない。シャックリの医学上の名は、吃逆(きつぎゃく)という。

 そのメカニズムを一口で解明すれば、横隔膜のケイレンである。人体の横隔膜は、呼吸中枢からの指令によって上下動し、呼吸のための重要な筋肉となっているもの。これが、何らかの拍子にケイレンを起こすわけだ。

 横隔膜はオワンを伏せたような形をしている。呼吸中枢から「息を吸え」という命令が下ると、横隔膜の筋肉が収縮して、横隔膜は平らになる。そのぶんだけ胸腔が広くなるから、胸腔内の内圧がより陰圧になる。そこで、胸腔に収まっている肺がふくらむ。ふくらんだぶんだけ、空気は声門を通って肺に流れ込んでくる。

 そのような仕組みで、我々はふだん呼吸しているわけだが、横隔膜が何かの原因でケイレンを起こすと、空気の出し入れと声門の開閉がうまく合致しないで、めちゃくちゃになる。そのために、例の「ヒック」という音が出るのである。

 そのケイレンを起こす原因について説明しよう。横隔膜は、呼吸中枢→横隔神経→横隔膜→迷走神経→呼吸中枢と結ぶループによって支配されており、このループのどこかに刺激が与えられると、シャックリが起こると考えられているのである。すなわち、頭部、咽頭部、胸部、腹部などに何かトラブルが起こると、シャックリが出るというわけで、食べすぎ、飲みすぎはその代表的な原因である。

 俗に「シャックリが三回続くと命が危ない」というが、シャックリが続いただけでは、死ぬことはない。世の中には、四億回以上もシャックリをし続けて、ギネスブックに出ている人もいるそうだ。

 しかし、「出たら止めたい」というのが人情で、世の中には、実にいろいろなシャックリの止め方が流布している。いわく、「驚かす」、「水を飲む」、「紙袋の中で呼吸する」、「舌を引っ張る」、「眼球を手で押す」、「クシャミをする」、「柿のヘタを煎(せん)じて飲む」。

 それらは本当に効き目があるのかといえば、それなりに理由はあって、単なるおまじないとはいえない。なぜなら、呼吸中枢を安定させてやる方法であったり、横隔神経や迷走神経をブロックしてしまって、シャックリ情報が呼吸中枢や横隔膜まで行き着かないようにしてやろうという方法だからだ。

●肺と心臓の働きを促す横隔膜

 さて、ここで私が強調しておきたいのは、何かの原因でシャックリというトラブルを起こす横隔膜が、呼吸作用による肺のガス交換と同時に、心臓を助けて血液循環にも重要な役割を果たしていることである。

 横隔膜という膜は、人間の上半身と下半身の境目にあって、あたかも波に漂うクラゲのように動きながら、肺の活動をうながして呼吸の出入りをつかさどり、しかも血液循環という重要な仕事に参加している。だから、無意識の呼吸でも丹田にまで行き届く呼吸を行っている人の場合は、横隔膜を活性化しており、血液循環を活発にし、体細胞の新陳代謝を健全に営ませているのである。

 そこで、横隔膜を中心とした腹筋の運動が、健康増進に大変な効果を発揮することになる。

 昔から、「腹のしっかりした人間は病気をしない」といわれた。腹とは腹筋のことである。腹筋の力強い運動は、横隔膜の動きに連係しており、呼吸を深く力強いものにしてくれる。いわゆる精神、気力の充実も、この腹の力によって達成できる。

 腹を訓練するにはジョギングやマラソンもいいが、心臓や肉体の負担が大きく、病人やお年寄りには無理である。寝床の中で仰臥(ぎょうが)したままで、私の開発した真呼吸、腹式全身の呼吸を行うのが一番よい。

 一日のうち何回でも、体を投げ出して全身の力を抜き、意識を放下して大きな息を吐き出し、吐いて吐いて吐き抜けば、次には思い切り腹いっぱい吸い込むことになる。全身で吸い込み、そして全身で吐き続ける。こうして、腹筋は鍛えられ、横隔膜は力強く活動する。

 呼吸法のポイントは、上半身と下半身の境目を作っている横隔膜の運動を力強く行うことである。これによって、腹腔内の内臓諸器官から静脈血を心臓に効率的に送り、同時に冠血流も活発にするので、心筋および内臓全体の収縮強化にも役立つ。

 横隔膜の活発な収縮運動にともない、内臓全体の収縮運動が行われるので、自然に腹が鍛えられることになるのである。

 これは、横隔膜という呼吸筋の自在な働きが、内臓諸器官の健全な活動を保障し、併せて精神の充実にも寄与しているからである。

 ところで、横隔膜というのは、少し変わった筋肉集団である。その位置は、すでに述べたように胸腹両腔を横に隔てる境界をなしており、絶えず上下に移動運動を繰り返している。固定した境界膜ではなく、クラゲが漂うように上下に波打ちながら移動する境界筋、といったほうが適切である。

 この横隔膜は収縮と弛緩(しかん)の上下運動を繰り返して、胸腹両腔に減圧、加圧のダブルプレーを行い、両腔内臓に巧妙至極なマッサージを施して、血流をうながし、活性化をうながしているのも特徴の一つだ。

 横隔膜が、呼吸作用によってこのように巧妙至極な働きをしていることを知れば、私たちの健康や生命の維持の保障人の役割を、果たしてくれていることに気づくであろう。

 横隔膜が第二の心臓として働いていることも、詳しく説明しておこう。横隔膜の収縮上下運動は、もっぱら静脈血ポンプの役割も担っているのである。

 いうまでもなく、血液循環系においてダイナミックな仕事を絶えず繰り返しているのは心臓である。それは、肺動脈および大動脈へのポンプとしての役割で、肺に対しては静脈血を、全身の動脈へは動脈血を送るポンプである。

 この心臓の働きで最も重要なことは、栄養分と酸素を多く含んだ血液を全身の体細胞に送り届けることである。

 だが、心臓自体は、体細胞が使い古した血液を、栄養分と酸素を多く含んだ血液に再生することはできない。とはいえ、使用済みの血液をその都度捨て去るほど、人間の肉体はぜいたくにはできていない。そこで再生産が必要である。そのためには血中の不足物を補い、不要物を捨てた新鮮な血液を再生産し、絶えず全身から静脈血が集められ、心臓へ送り返されなくてはならないのである。

 そういう全身の静脈血をかき集め、心臓へ送り届ける重要な仕事を助けているのが、横隔膜である。その収縮上下運動は、もっぱら静脈血ポンプの役割を果たしている。つまり、横隔膜は第二の心臓として働いているのである。

 だから、横隔膜の活動が鈍いと、心臓も十分にその機能を果たすことはできないのである。横隔膜の働きは、直ちに心臓の働きとなるからである。

 この点、腹を使った腹式呼吸をすると、横隔膜を上下して内臓諸器官をマッサージすることになるばかりか、意識的な呼吸によって大脳の前頭葉を使い、脳幹で発動される本能的な雑念は制御されることになる。エネルギーは上昇し、ますます精神がさえわたるのである。

 ここで、内臓と脳との関係についても触れておくと、人間は内臓が衰えると、脳の働きが鈍ってくる。脳が内臓を支配していることは、誰でも知っていることだが、内臓も脳を支配していることは、あまり知られていない。精神的なストレスですぐ胃炎になったり、胃炎がひどくなると気がふさいだり、とっぴな行動をとったりするようになるのは、脳と腹が密接な関係にあるからである。

 実は、腹の中に脳の兄弟ともいえる神経節、つまりリトルブレインと称する小さな塊があり、それが人間の気力や体力に影響を与えているのである。

私たちは一般的に、脳だけが考えることを行う器官だと思っている。しかし実際は、脳とすべての器官を使って考えているのである。頭脳明敏であるためには、心身ともに健康でなくてはならない。どこかに痛いところや悪いところがあれば、名案も浮かんでこない。特に、内臓機能の衰えは、気力、体力だけでなく、思考をゆがめやすいので、注意しなければならない。

 内臓を鍛えるには、内臓機能の中枢である小さな脳、リトルブレインを強化することが大切だ。ここを鍛えれば、頭も体も心もすっきりする。

 このリトルブレインは、臍(せい)下丹田、臍の下にあるから、ぜひ毎日の日課の一つとして、腹式全身呼吸法によって鍛え、その能力をさらに高めることをお勧めする。

🟪小中学生の体力調査、中学生男子はコロナ感染拡大前を上回る

 全国の小学5年生と中学2年生を対象に、50メートル走など8つの項目で体力や運動能力を調べる今年度の国の調査で、中学生の男子の合計点は新型コロナウイルスの感染拡大前を上回りました。一方で、小学生の男女は低下傾向にあり、スポーツ庁は運動の機会を増やす取り組みに力を入れていく方針で...