2022/10/05

🟩男の器量を磨く

∥器量人とは「気」の量が多い人∥ 

●人間の命の本体は宇宙に遍満する「気」

 私たち日本人は、日常の会話で、何気なく「気」という言葉を使っている。

 「よい天気だね」を始めとして、「大気」、「気候」、「寒気」、「元気」、「病気」、「病は気から」、「気宇壮大」、「雰囲気」、「気品」、「景気」、「平気」、「勇気」、「気持ち」、「気質」、「生気」、「香気」。あるいは、「人生が味気なくなった」、「気が滅入ってしようがない」、「あいつは、山気が多すぎる」。

 さらに、「気が早い」、「短気」、「気まぐれ」、「浮気」、「気心が知れない」、「気が晴れた」、「気分がいい」、「気分を出す」、「気の毒」、「気のせい」、「気に食わない」、「お気に入り」、「気のない返事」、「やる気がない」、「気後れ」、「気がもめる」、「気がきく」、「気勢を上げる」。

 「気」がつく言葉を全部挙げるには、相当な根気がいる。それほど、ちょっとした一日の会話の中に、「気」という言葉が限りなく使われているのである。

 あなたは、こんなに使われている「気」とはいったい何か、じっくり考えたことがあるだろうか。

 「気」というのは、大宇宙の生成、発展と、万物の発生、進化の根源であり、悠久なる太古から現在に至るまで宇宙天地大自然界に遍満し続けながら、万事万物を存在させているものである。

 私たち人間の肉体も、そのまま小宇宙、小天地であり、宇宙天地大自然と同じ「気」によって支配されているのである。

 すなわち、私たち人間は宇宙の「気」によって創られ、生かされ、生きている存在であり、はるかな昔の宇宙創造の根源であり、今も宇宙いっぱいに満ちみちている「気」そのものが、人間の命の本体ということである。

 生命は「気」であり、宇宙生命も、人間生命も同じ「気」である。人間の体は、「気」で生かされ、「気」で生きている。人間の肉体は、「気」を吸収し、「気」を発する。

 行き着くところ、その「気」を全身に充実するか、しないかで、人間の人生の成否は決定するといっても過言ではない。

 「気」は風と似ていて、見ることも、手に取ることもできないし、香りも味もないが、自らの生命を生かしている宇宙天地大自然の「気」に気づいて、「気」を土台として生きるということが、最も正しい人生のあり方ということになるだろう。

 「気」の充実した人と、「気」の抜けた人。全力を打ち込んで、やる「気」のある人と、やる「気」のない人。肉体に「気」があるか、「気」がないかで、人間の値打ちは大いに違ってくる。

 宇宙に遍満する「気」は、すべての根源であるとともに、人間の知・情・意の源泉なのである。私たちの心、精神、体など、「気」はすべてを包んでいる。「気」というものは、私たちの日常生活に密接な関係を持っているわけだ。

●「気」の量が多い人こそ器量人である

 「気」は宇宙天地の創造、生成の根源であり、風のように大自然の現象であるばかりでなく、私たちにも内在するものであるために、人間における「気」はより個性的なものとなる。

 個人、個人の「気」には、落ち込んだ「気」もあれば、やがては浮かれてくる「気」もある。「気が大きい、小さい」、「陽気、陰気」、「気が強い、弱い」、「気がきく、きかない」というように、大小、陰陽、強弱、質量、形、濃淡、軽重、柔剛、開閉など、人間の「気」は、百面相のような変幻ぶりを示す。

 そして、この個人、個人の「気」というものは、対人関係においても重要な働きをする。人間対人間において、「気」の大小や量は、人間の値打ちや格まで決めるものとなるのである。あだやおろそかに考えてはならない。

 取引相手などと向かい合っていて、何となく気後れする場合、これは「気」ですでに負けているのである。

 「技術も知識も、こっちが上だ」、「語学も自分のほうがうまい」、「金もたくさん持っている」というのに、「どういうわけか相手にかなわない」という気にさせられる。「不思議なことだ」と、イライラしながら首をひねる。

 何も不思議なことはない。「気」で負けているのである。

 「あの人にはかなわない」と、腹の底から思わせるのには、「気」のパワーが大いにあずかっている。「気」のパワーとは、その人間の持っている「気」量ということだ。「気」量とは、器量に通じるものである。

 反対に、「あの人にはかなわない」と相手に思わせるということは、こちらが戦わずして「気」量、すなわち器量で勝ったということである。

 では、こうした人間の格まで決定する「気」を蓄えておく器は、どこにあるのであろうか。頭ではない。もちろん、腰でも、手でも、足でもない。実は、腹にある。

 あなたが「よし、やるぞ」と気合を入れる時、どこに力が入るか。臍下丹田(せいかたんでん)に、力が入るはずだ。肉体のヘソの下にある丹田が、「気」を育てる田んぼであり、「気」をプールする器でもあるのだ。

 この「気」の器こそ、「あの人は大器だ。器の大きい人物だ」などという場合の器のことである。

 器の大きさというのは、その人の人品骨柄に表れ、にじみ出てくる。世の中に、会った途端、何となく圧倒されるような人物がいるのは、その人の器からあふれ出る「気」に、気圧(けお)されるからである。

 こういう人を器量人という。「気」の量が多い人である。

●重要なのは収容した「気」の十分な循環

 辞書を引くと、器量とは、1.人間の才徳、すなわち才能と人徳、2.人間の備えている才能、力量、3.器量の「器」は材の在る所、「量」は徳の満つる所の意、などと説明されている。

 よって、器量人とは、才能と人徳に優れた人のことであり、才能や力量に優れた人のこととなる。知情意、知性と感情と意志に優れた人のことともいえよう。

 この点、昔から世間ではよく、「器量」、あるいは「社長の器」などということが取りざたされているところで、その実体については、「心が広いこと」、「七情をよく統制していること」といった人間性の面からの解釈が行われている。

 また、努力して身につけたものではなく、生まれながらして与えられた才、まさに天性のものを「人間の器」とか、「器量」と呼ぶ場合もあり、もちろん、その器量は天性のものでありながら、現実に生きることにおいて、常に磨きをかけておかなければならないもの、とされる。

 私はここで、人間の器量とはその人物の持つ「気」の量のことにほかならず、器量人とは器に「気」が充実されて豊かに存在する人物である、という解釈を加えたいのである。

 東洋では古来より、人間のことを「気」を収める器といっており、人間の器量、器の大小というものは「気」の器の大小、そして「気」の吸収量と排出量の多寡のことだ、と考えるのは自然である。

 人間の器を、生体エネルギーや、知情意の源泉である「気」が入る器のことであると見たほうが、話の理解も早いだろう。

 人間の大きさに、これほど関係してくる「気」量。重要なのは、その器が大きく、その量が多いというだけでなく、それが十分に体内を循環していることである。

 「気」を肉体に充実し、循環するか、しないかで、人間の値打ちが大いに違ってくるし、人生の成否が決定するといっても過言ではない。

 たとえ小柄な人でも、どっしり構えて泰然自若、すがすがしい目をした人がいる。そして、周囲の人からは、「あの人は腹のできた人だ」と、一種の尊敬を得ている。これが、器量人というものだろう。

 「器量人」、「社長の器」などといわれる人は、生気、胆力、迫力、元気、気迫、陽気などという「気」を十分に収容し、循環させている大きな器の持ち主なのである。人間集団の中で

 抜きんでるためには、大変な統率力が入り用なのであり、そのパワー源こそが多数を抑え、治める「気」の大小や人間的迫力の大小であることは、社会の現実が示している。

 反対に、元気はつらつとして、精気にあふれてはいるけれども、どこかこせついていて、落ち着かない。こんなタイプに器量人はいない。

 いずれにせよ、器量人であろうと、器量人でなかろうと、人間というものは各自、それぞれの「気」を放ち、独特の気配を漂わせている、不思議な存在といえる。

 例えば、器量人とまでは評されていなくても、組織の長や幹部という指導者の立場にある人間は、特別な気配、雰囲気、オーラなどといったものを放っているもの。 

∥向上心や信念が器を大きくする∥ 

●西洋の見えるオーラ、東洋の感じる「気」

 こうした人間の持っているエネルギーが形になったオーラについては、特定の能力者の目に見えるといわれているが、オーラが見えない一般の人々でも、リーダーたちから強い圧力を感じたことがあるにちがいない。

 この圧力こそが、彼らの人格的な強さと、生体エネルギーの強さの現れなのである。

 しかし、この強さは必ずしも、性格からくるものではない。穏やかな性格のリーダーであっても、どこか、とりわけ目から強い圧力を放っている。目からのオーラ放射現象である。

 いわゆる眼力というやつである。この言葉には、文字通り理非や善悪を見抜く力を指すほか、目からパワーを放つという意味もある。「目がキラリと光る」などという。これは、事態の重さや真実に気づいた場合、一時的に強力なオーラが放射することを示したものだ。

 おおよそ、リーダーと呼ばれる人たちならば、たとえ彼らが日頃おとなしい性格であっても、いったん事の判断を迫られたり、何かを見極めようとする時、目からパワーを放つ。

 この時、特定の能力者は彼らの目から発するオーラを見、気配敏感者は緊張した気配と圧力を感じるのである。

 オーラという概念は西洋で特に重視され、多くのオカルティストたちと、近代の何人かの科学者によって研究されてきた。彼らは「見える」という事実にこだわり、その存在を証明しようと試みてきたのである。

 一方、東洋では、見えることよりも「感じる」という面に気づき、「気」や「気配」をさまざまな言葉の表現で伝承してきた。だから、中国の古書には、「土気」、「地気」、「霊気」、「天の気」などといった「気」の変化形が記されているのだ。

 西洋の絵画が色鮮やかに塗り込められているのに対して、東洋の絵は水墨画のように、におうような感じが込められているのは、こうした彼我の感性の相違に由来していると考えられる。

 ともかく、人間は器量人や指導者に限らず、各自が独特の気配を漂わせ、「気」を放つ不思議な存在なのであり、特別の能力を備えた人には、それが見えたり、感じられるのである。

 この場合の「気」は、人間が発散する見えざる手といってもよいだろうし、人間の肉体から外へ向かって発せられている波長のようなもので、一種の目に見えない触手、触角の機能を果たしているものなのである。

 例えば、普通の人であっても、後ろから見つめられていたり、ソッとつけられたりしているのを、微妙な気配によって気づくことがあるはず。相手の姿こそ見えなくとも、相手が発する「気」を感じられるという、自らの「気」の感覚作用である。

 こういう働きができるのは、宇宙が巨大な電磁体であり、太陽が目に見える熱核反応体であるとともに、目に見えない拡散する放射体であるように、人間の肉体もまた、目に見えない「気」の放射体であり、さらにいえば「気」の受容体だからこそである。

 目に見えない肉体作用の話を加えれば、愛し合っている恋人同士は、寄り添っているだけで楽しいものである。逆に、憎しみ合っている相手だと、鳥肌が立ったり寒気がするだろう。

 これは、シェイクスピアがいみじくもいっているように、他人の隣に数分間でも座っているだけで化学的に反応、変化をするのが、人間の肉体というものだからである。

 人間の肉体を「気」の放射体だといったが、それは電磁波の固まり、「気」の結晶体と言い換えてもよく、肉体から常に放射され、プラズマのように肉体を包み込んでいるものなのである。

●自己を磨けば誰でも器量人に近づける

 人間誰もが、自己の内実を表す「気」を放射しているのであるから、「気」を収める器である自己というものを、あだやおろそかに考えてはいけない。

 「気」の充実した器量人、大器、大人物などと称される人間を目指して、自己を磨かなければいけないということである。

 私は、人間性の面からは、心身両面で充実しながら、自律した強い個人になることを器量人になることと表現したい。

 器量人や大器とは、一部に解釈されているような歴史上の英雄、豪傑というような存在ではなく、普通の個人でも、勇気を持って自己啓発を怠りなく続ければ、次第に近づいていける存在と考えたいわけだ。

 大きな器量を持った人物を表す言葉の一つ、「大器」について考察してみると、中国の古典「老子」の第四十一章にある「大器は晩成す」という文が出所である。

 一般的に、この成句は、「鐘や鼎(かなえ)のような大きな器は早くはできないように、人も大きな器、すなわち大人物は才能の現れるのは遅いけれども、徐々に大成する」というように捕らえられている。

 若い時にちょっと薄ぼんやりしたようなタイプの人は、冗談で「君は大器晩成だよ」などといわれたのを真に受けて、「本当に自分はそうかも」と思ったりする。しかし、薄ぼんやりした人物が時間がかかって大人物になるケースは、実際にはほとんどないだろう。

 歴史上でも、そんな例は少ない。あるとすれば、それまで認められず埋もれていた人物が、何かの機会に表面に浮上した場合である。

 何となく大器晩成の代表といった雰囲気の西郷隆盛でも、二十代から頭角を現し、三十代はじめで明治維新の大業を実現した敏腕家であった。百キロを超える体の持ち主だったから、そのようなイメージができてしまったにすぎない。

 大器、器量人にふさわしい吉田松陰にしても、坂本竜馬にしても、二十代から三十代ちょっとで、歴史に名を残す大事業を行った。

 そこで、「老子」の著者である老子はどんなつもりで、大器晩成という言葉を書いたのか、第四十一章の前後の文脈を引用してみよう。

 「大方は隅無し、大器は晩成す、大音は希声なり、大象は形無し」。

 老子という人は二千数百年前の中国の哲学者で、儒教と並ぶ東洋精神史上の二大潮流をなす老荘思想の祖と伝えられるが、実在した人物であるかどうかは疑問が持たれている。

 しかし、こういう思想家がいたことは確かで、盛んに「大」という字を用いている。これは広大無遍な宇宙天地大自然の道理を表し、「大」は「道」であるという意味である。

 大方、つまり大きな宇宙を表す四角の箱は、あまりにも大きいのでその四隅は見えず、なきに等しい。大きい器量は、ゆっくり出来上がる。大きな音は、それがあまりにも大きいと、ささやくように聞こえる。象、すなわち形は、あまりにも大きいと、目に入らない。

 従って、「天地の道は凡俗な人間には認識できない」という意味で、ちっぽけな人間のあさましさを笑っているのである。

 立派な人物はへりくだっているため、見掛けはあほうのように見える。つまり、あまりにも大きいものは、大きいがために俗人には感知できないというわけだ。「大賢は愚なるがごとし」という、ことわざもある。

 しかして、「大器は晩成する」と老子がいった意味は、俗に解釈されているように「十で神童、十五で才子、二十すぎればただの人」の逆であるというニュアンスではなく、本当に優れた人は完成するということはあり得ず、生涯修行。学べば学ぶほど奥が深いことがわかり、人間は少しずつ器が大きくなっていくだけである。

 より器が大きくなった人物は、まだまだ自分は未熟者だという謙虚な気持ちを持っているために、腰が低く、普通の人がちょっと見ただけでは、その人が大きな器の人であるというようには感じない。

 だが、大器とは、まさにこのような人物のことをいうのである。

 人間の器の大きさには限りがなく、死ぬまでこれで終わりだということもない。ゆえに、大きな器の人物はなかなか出来上がらないのだ、ととるべきである。

 だから、少しくらい早熟だろうと、晩熟だろうと、関係ないということだ。

●向上心や信念が自己の器を大きくする

 「人間は生涯修行、学べば学ぶほど奥が深いことがわかり、少しずつ器が大きくなっていくだけである」と老子の言は解されるわけだが、私がいう器量人を目指すという観点からいえば、器量人なり、大器になれる資格の一つは、自己啓発を生涯にわたって永続できる向上心ということになる。

 人間の器は、知識や経験、情報をため込んでおく入れ物でもある。この器が小さいと、ため込む知識や経験も少なくなるが、怠りなく学び、自己を磨き続けて器を大きくすれば、たくさん入るようになる。

 今の日本は、学歴だけでは通用しない時代になってきている。大学を出れば誰もが、部下を導く管理職になれるという時代ではない。中小の企業にもデパートの店員にも、大学出はゴロゴロしている。

 逆の見方をすれと、大学を出なくても能力や知識、経験を向上させていければ、十分出世できる可能性があるということである。もちろん、女性の場合も、それなりの地位に就くこともできる。

 といっても、自分の能力なり知識というものを、冷静に分析できる人間は、世の中になかなかいない。どちらかというと、上司などの周囲が自分の能力を過小評価していると思っている。自分で仕事ができると思い込んでいる人ほど、実際は無能であることが多い。

 「まだまだ自分は未熟者だ」という気持ちを持ち続け、自己の能力を磨き上げて器量人に近づいていける人であれば、謙虚に振る舞っていても、おのずと光ってくるものである。

 組織の中にいる人の出世に関していえば、誰が決めるともなしに人望を集め、昇進ともなると暗黙の了解によって取り立てられてゆく人々がいるものである。

 これらの人がトップに立った時には、「新入社員の時から他と違っていた」とか、「若い頃(ころ)から、友人たちの信望を集めていた」などという言葉が、決まり文句のように語られる。

 社長の器を持った人は、若い頃から定まっているのであろうか。多くの大学生に接しているような識者によると、それらの青年のうち将来、企業の中で順調にトップへの階段を上ってゆくだろう人物の見分けは、そう困難ではないという。

 彼が陽性人間であることと、その陽気の発散が周囲の状況に合わせてコントロールされているという特徴が、共通して見られるようだ。

 陽気の出しっ放し型と陰性人間は、まず社長の器ではないようである。陰性人間が昇進するケースもあるが、この場合は、あくまで技術系企業のトップに限られる傾向が認められる。

 また、こういう出世する器を持った人は、不思議と若い頃から何らかの信念を強く持っているのである。たとえ「素直に生きよう」などという単純なものであっても、彼らは信念なり、精神的原理を積極的に護持しているのだ。

 以上のような自己啓発を続ける向上心や信念とともに、器量人を目指す人に求められる才能としては、一般によくいわれている統率力が挙げられる。

 統率力は、現代に求められている指導者の資格の一つである。いや、一つといっては小さすぎるかもしれない。もっと大きな人間の資格である。

 歴史の上から考えると、統率力、あるいは統率という言葉は、その時代を引きずってゆくくらいの力を持ったものである。

 しかし、ここで断っておかなければならないのは、それが決して特異なものではないということである。

 織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった英雄のみが持つ不思議な才能ではないということだ。まねをして、まねることのできないものではないという気がする。普通の個人でも努力すれば、ある程度までは、それを身につけることができるというものである。

 はじめから特異なものであり、普通の人間にはできないようなものだったら、このような問題を持ち出す必要はないだろう。

 例えば、「家康になれ」というのは無理な話であっても、彼が持っていた忍耐とか寛容とかいうような徳目は、誰でも努力すればできるであろう。いや、身につけることができるはずである。

 そうした忍耐、寛容を通じてはじめて、人間としての成長があり、機会をものにすることができるのだ。統率者は、そのなすべきか、なさざるべきかの機会を知っている。

 統率ということを考える際、大切な条件として思い浮かぶのは、与謝野鉄幹の有名な詩句「友を選ばば書を読みて、六分の侠気(きょうき)、四分の熱」である。

 指導者がその統率力を発揮しようとする時、六分の侠気、すなわち男気がなくて、誰が奮起してついてゆこうか。そして、それが四分の熱気なくして、行われるであろうか。

 加えて、よく書を読むということは、平素から常に仁義の道を志しているということで、それが周囲の共感を誘うのである。

∥目指すべきは人間性の完成∥ 

●器量人を目指す人に求められる包容力

 器量人、大器を目指す人に求められる徳目、資格として、編集子が挙げた寛容な精神、すなわち包容力というものについて詳しく述べてみよう。

 包容力に関しては、昔から「窮鳥、懐に入れば猟師もこれを殺さず」という言葉がある。人間は誰でも、このことわざを知っているし、それができるのが正常な人物だと思っている。

 できないことではない。しかし、食わんがために自己意識を働かせ、現実を生きている目が、それを忘れさせるのである。

 器量人は、それを忘れず、いつも心の中に、その包容力を保っているのである。といっても、包容力があるということは、誰でも無差別に抱き込むということではない。包み込む人物が公正で、私欲がないという精神の裏づけがなければならぬ。

 ここで、包容力がある器の大きな人について、次の四つを指摘したい。

1.異質なものを寛大に受け入れる。

2.異質なものへの対応を知っている。

3.物事を大きく考え、公正、謙虚である。

4.正直、温順で自分だけの利益を考えない。

 反対に、包容力がない人、器の小さい人を思い浮かべれば、包容力がある人、器の大きい人はその逆であることがわかる。狭量な人、器の小さい人を見ていると、

1.えり好みが激しく、異質なものを受け入れない。

2.異質なものを警戒して、排除しようとする。

3.物事を自己中心的に考え、小胆、憶病である。

4.自尊心が異常に高く、感情的で心が冷たい。

 こういう人を上司に持った部下は、全く浮かばれない。災難に遭ったようなものである。また、こういう人を部下に持った上司も、始末に困るものである。

 包容力のある人、器の大きい人は、心が広いから、異質な人や物事を差別しない。好奇心があるから、どんな人間や物事がやってくるかに興味があり、とにかく積極的にそれを受け入れようとする。

 最初はうまくいかないが、何回か苦心してやっているうちに、対応の仕方を心得てしまうのである。そのぶん、器が大きくなる。

 狭量な人、器の小さい人は、異質な人や物事がやってきた場合には、全く対応できない。最初から、排除しようと感情的になって、理性的に処理できない。どうしようもなくなると隔離して、口もきかず、冷たくあしらう。だから、いつまでも器が大きくならないわけだ。

 人間を解くカギの一つは、自尊心、すなわちプライドである。非行者、万事につけ反抗的な態度の人、不平不満の多い人、他人を悪罵(あくば)してやまない人、大言壮語する人、すべて自尊心からくる。

 自尊心があまりにも本人の資質、能力と懸け離れているのに、それを認めない人は、自尊心が独り歩きするようになる。

 自尊心、プライドとは、メンツ、顔であり、これを害したことで決闘ざたになったり、そこまでいかなくても人間関係がいっぺんに崩れるというようなものである。自尊心に対しては、細心の配慮が必要だ。

 包容力のある器の大きい人は、もちろん自尊心も高い。だが、自分より大きいものを見てしまったがために、自分の自尊心などは高が知れたものと思うようになり、自尊心に引き回されるようなことはしない。

 つまらない人に自尊心を傷つけられても、他の立派な、大勢の人たちに評価されているから、何とも思わないのである。

 包容力のある人、器の大きい人は、素直であるから、異質な人と出会った時に、その人の性質がどのような背景からきたのかをまず理解しようとし、よい素質である場合は積極的に評価して役立てようと考える。

 また、角が立って円満にいかない場合には、どうするかを考える。異質な人がこれまでの人たちの間に交ざれば、摩擦が起きないとは限らない。ドジョウの中にナマズが入れば、必ず何かが起こる。

 器の大きい人は、それを解決できる力を持っている人である。これは、別に人だけとは限らない。異質な物事や、新しい経験とか、情報であっても同じである。

 こういう能力を育てるには、小さいことにこだわらないこと、好奇心があること、差別をしないことが必要だろう。

 受け入れてしまうから、解決しようとして四苦八苦する。人間、苦労すれば知恵が働き、乗り越えようとする。これを重ねていけば、だんだん利口になっていくのではないか。

 当然、自分と異質の人をいかにうまく取り込むかという修練を重ねるのは、器を大きくするのに役立つ。これは、人でなく物事でも同じだから、好奇心を持って、教養を広く積むようにして自己を磨けば、自然に器が大きくなっていく。

 いくら金を出しても買えないのは、教養と知性、品格、すなわち器量である。生涯修行の理由は、ここにもある。

●真の器量人とは人間性が完成した人のこと

 結局のところ、真の器量人とは、知情意といわれる教養や知性、品格などを備えた、人間性が完成した人といえる。

 先に、「日本は学歴だけでは通用しない時代に入った」と述べたが、能力や知識、経験があったとしても十分ではなく、ビジネスや人生に無数にあるハードルを越えるためには、豊かな人間性の完成すらもが求められている。

 高度成長の時代や、そうでなくとも現在のように高度な技術力が内外に売れる時代にあっても、金と権力がどうせ世の中を動かすのだから、人間性の向上、人格の向上などはどうでもよいという考え方には、納得できないのが一般の感情であろう。

 実際、そんな考え方は間違っている。日々の中で、人との出会い、触れ合い、付き合いは、不可避な事態なのである。

 ビジネスマンを取り巻く企業環境も、利益第一主義、機能優先主義から、新たな方向へ転換しようとしている。

 機能優先主義時代は分業と協業によって成り立つから、人間の価値はその面で役に立つ専門に絞られた知識、組織適応能力、協調的な態度などによって測られる。そういう人が仕事のできる人といわれる。

 人間には仕事以外の能力、才能もいろいろあるが、直接仕事に役に立たない部分は、能力としては評価されにくい人格者だとか、繊細な感受性などの精神的価値は、それが仕事の遂行に当たって有益であるという意味においてのみ評価される。

 人間は年を取れば取るほど、人格が錬成されて、円熟してくるはずのものである。ところが、あまりにも機能優先主義で使い捨てにされると、卑しい顔立ちになり、退職した後の晩年は何をしてよいかわからない、ということになる。

 妻に「粗大ゴミ」だとか、「濡(ぬ)れ落ち葉」などといわれて、うるさがられるだけである。

 一方、今後のポスト機能優先主義時代は個人の自己実現、生きがいが最大のキーワードになり、誰もそれをじゃますることができなくなる。人々はパンだけのために働くのではなく、自分が納得した好きな仕事に就く。

 今の学生などは「教えられ症候群」というか、教えられることを強く希望するから、研修の盛んな会社ほど人気が高いといえども、自分の人生時間を充実して過ごす場、あるいは能力を試す場として就職する会社を選んでいる。会社は自己実現の場へと、確実に移行しつつある。

 好きな仕事だったら、誰でも一生懸命働く。その結果、非常に能力も高まる。能力は人格を高める。ビジネスは人間を育て、その精神性を磨き出すための試金石となる。

 企業の側から考えても、人格があり、心のこもったサービスができる人を集めたところが伸びるようになる。心のこもったサービスができる人とは、演技ではなく人柄がそういう人だということ。

 企業にとって、こういう社員を大事にすることが大切だし、こういう好ましい印象を与える人物を新規採用しようと、選別の目を光らせていくべきだろう。

 人を使うにしても、「おまえはここを辞めたら、ほかにゆくところはないんだぞ」というような脅しや、金銭だけのニンジンで人は動かなくなるから、心のこもった指導ができる人、尊敬を受けるに足りる人が上に立つようになる。また、そういう人材のいない企業からは、人も去っていく。

 貧しい時代には、自分が出世するために少々他人を押しのけたり、迷惑をかけることに、人々はある程度寛大であった。だが、これからは自己中心的に動く人は嫌われるようになる。

 人々は快適な職場、よい人間関係の下で働くことを求めるから、そのような環境、雰囲気を作り出す人格の優れた人が指導者になる。これからのポスト機能優先主義時代は、総合価値としての人格、徳性を備えた器量人が求められるようになるのが特徴である。

🟩気力を充実する秘訣

∥自信を持つ∥ 

●気力を鼓舞することで変え得る人生

 自らの肉体に備わる「気」を高めて、気力を奮い起こし、その気力を持続する秘訣(ひけつ)、すなわち気力を練り上げる秘訣について述べていきたい。

 まずは、私たち人間は、「できる」と思えば夢を実現することも、人生を切り開くことも可能な存在だ、という真理を銘記してもらいたい。何より大切なのは、「気」に基づく自らの気力の鼓舞と持続であり、「成し遂げよう。やり遂げるんだ」という意志なのである。

 日本人の平均寿命が女性で85・33歳、男性で78・36歳ともなった長い人生では、「正念場」と呼ばれる人間の真価を問われる場面が、誰(だれ)にも幾度となく訪れるもの。

 この正念場に臨んで、「人生の現実は厳しい。このピンチを切り抜けることは私には無理だなあ」、「私には能力がない。自分は駄目な人間だから…」などと意気消沈して半ばで投げ出したり、断念してしまう人も、世の中には少なくないことだろう。

 しかし、違うのである。実は、「無理」とか「駄目」と意識的に考えてしまうために、次々に現実の障害が目の前に現れてきて、前途を妨げ、ついには危機を突破できずに、頭で予想した通り失敗に終わってしまうのである。

 もしも、そのような弱気な人間が何かのきっかけで一念発起し、「何としてでもこの難関を突破しよう」、「絶対に目標を達成しよう」と強く決心すると、不思議にも進路に立ちふさがっていた障害が消え、思い掛けぬ援助も出現したりして、やがて正念場を乗り切れるのである。

 誰もが強気になって、積極的に考え、気力を鼓舞すること、そして自信と信念を持って行動することによって、人生をよい方向へ進めることが可能となるのである。

 つまり、人間の人生は、自分の心の持ち方次第、気力の出し方次第で、どのようにも変わるということである。

 人間には誰にも、能力があり、可能性がある。ただ、「自分にはとてもできない」と頭で思ってしまうために、自らその能力や可能性を殺してしまうわけだ。

 人生の一場面、一場面を考えてみても、仕事や勉強などに取り組む際に、ダラダラとやった場合よりも、「よし、やるぞ」と積極的に考え、うまく気力を鼓舞した場合のほうが、能率がグンと上がって間違いが減り、要領もちゃんと覚えられたといった体験は、誰にでもあることだろう。

 仕事や勉強以外の場面でも、気力の奮い起こし方次第、精神の張り方次第で、得られる成果が大きく変わってくるのは、当然のこと。スポーツの試合で活躍したいと思う時や、就職のための面接試験を上手にクリアしたい時など、気力がうまく奮い起こせれば、期待以上の成果を上げることも可能である。

●気力を維持し、持続させる源泉は自信

 人生そのものから仕事、勉強、就職、さらに資格の取得、趣味の上達、そして対人関係までの百般にわたって、成功のカギを握っているのは、自分の心の持ち方、気力の出し方だといっても過言ではないだろう。

 「一念天に通ず」と日本の格言にいい、「神は成功せんとて奮闘する者を喜ぶ」、「神は自ら助ける者を助ける」などとヨーロッパの格言にあり、「志ある者は事ついになる」と中国の『後漢書』に記されている。いずれも、前向きに志をしっかり持ち、たゆまず精励すれば、どのような事も成し遂げることができるという意味である。

 誰もが事を成し遂げるためには、まず、どんな障害に遭遇しても、いかにして乗り越えるかを思案することが必要であり、「私の手には余る」と判断する前に、腰を据えて事態を分析し、自分の能力を信じることも必要。

 なぜかというと、「私にはできる」といった前向きな考え方や、「もう一歩前進しよう」といった積極的な考え方を阻害する最大のものは、自信を喪失すること、すなわち自分自身に対して自信が持てなくなることだからだ。

 自信こそが、成し遂げようとする気力の炎を大きくさせ、志や目標、夢や希望を簡単に捨て去ることなく、持続させる大切な源泉の一つなのである。

 「継続は力なり」ともいう通り、いつでも自分の価値や能力を信じて、前進する気持ちと挑戦する精神を持ち続けることが、気力を維持し、持続させることにつながるのである。

 私たち人間は一人残らず、自分自身に対して自信を持つことができる。誰にでも、才能があるからだ。

 その才能は必ずしも、学問に向けられるとは限らない。芸術やスポーツ、経営能力や商才、人を楽しませたりする能力、人助けをしたりする能力といったように、自分に適した方面に隠れた才能は確かにあるはずである。

 人間の才能というものは、否定的な考えのところに現れることはない。常に自信に満ち、積極的に考える人、成し遂げようとする気力にあふれる人にのみ、開花するといえる。

 現時点で、優等生とは目されない学生であったとしても、あるいは劣等感を抱いている社会人であったとしても、自らの好きな点を伸ばすことによって、前途は開かれる。「好きこそ物の上手なれ」。弱点、欠点には目をつぶり、自分の優れている点だけに注目し、それを追求し続ければ、ハンディキャップは障害にはならず、人生は思い通りに進むのである。 

●積極的な考え方をすれば気力が充実する

 そもそも、この世の中に劣等感、すなわちコンプレックスを持たない人間は、誰一人としていないはずである。問題は「自分は劣等だと、ひがむ気持ち」に、いかに対処するかということに尽きる。

 実は、二百近くの発明をなしたアメリカの大発明家トーマス・エジソンを始め、成功者に挙げられる人々の多くは、コンプレックスをバネにして、人生を大きく発展させている。エジソンは正式な学校教育を三カ月しか受けておらず、十二歳で鉄道の新聞売り子となった苦労人であった。

 逆境こそ、人間を成長させる糧である。悪条件こそ、人間を大きく前進させる推進力である。

 誰もがコンプレックスによって苦しむのはやめにして、強い気力と、積極的な考え方をもって事に当たれば、やがて成就しない願いはないのである。

 世の中に、最初から自信満々な人間なども、一人も存在しない。偉人、大人物と評される人であろうと、一つの小さな成功をステップにして、一歩一歩、一段一段とより大きな成功を手にし、それが次第に大きな自信となっていったのである。ステップを上がるごとに、より大きな自信を獲得して、さらに成功を重ねたのである。

 誰もがまず、自分自身に対して自信を持とう。手始めは、大いなる錯覚でもよいだろう。単なる思い込みでもよいだろう。

 「信じる者は救われる」ではないが、「私には能力も才能もある」と自己暗示し、「必ず成し遂げる。きっと成功させる」と、楽観的に考えられる人間になることから始める。それが積極思考、気力の鼓舞と持続への第一歩である。

 私たち人間の心理というものは、真に面白いもの。「必ず成功する」という確信は持てなくても、「頑張れば何とか芽がありそうだ」と少しでも思うことができるならば、いかに苦しい勉強や仕事でも、それなりに元気を出して達成してしまうものである。

 結局のところ、物事を達成し、成功につながる考え方で大切なのは、積極的な考え方、つまりポジティブな思考ということになる。前向きで広い考え方、成功も失敗もすべてプラスにする考え方が、大切なのである。

 仕事でも日常生活でも、何かを進める過程を「努力」と感じるか、「苦労」と感じてしまうかの違いといえよう。努力とは積極的でポジティブな考え方であり、苦労とは消極的でネガティブな考え方である。

 苦労は誰でも避けようとするだろうし、一度した苦労は二度としたいとは考えないものである。人間の長い一生に思いを巡らせると、この感じ方の違いは、大きな成否の差となって表れるはずだ。

 では、積極的な物の考え方、ポジティブな思考をすると、なぜよい結果が得られるのだろうか。

 簡明にいえば、人間の行動の原動力となる気力が充実するために、よい結果が得られるのである。積極的な考え方をすることで、心身に張りが生まれ、はつらつとして事に臨む気力、気根、元気、精神力、心身の張りが生まれるのである。

 人間の内と外には、「気」という神秘的なエネルギーが存在する。私たちが発散している「気」という気体は、「光背」とか「オーラ」とも呼ばれ、目で見ることができる特殊能力者もいる。

 「気」は、人間の生命力の源であり、精神と肉体のバロメーターでもある。人間の能力をフルに生かし、成し遂げようとする気力を鼓舞するためには、この「気」を充実させなくてはならない。

 「気」の充実は、生き生きとした精神と肉体があってこそ可能になる。運を含めて、人間のあらゆる可能性が開かれるか否かは、「気」の強い、弱いに左右されるといっても過言ではない。

 精神と肉体のバランスが悪ければ、「気」が入らない、「気」は働かない。人が飛躍を期する時、「気」が働かなければ事は成就しないのである。自信がなく、半信半疑で行ったことが成功しないのは、「気」が入らないからである。

 積極的な考え方とは、自分の「気」を高める、あるいは「気」を生かすための方策の一つなのだ。

 積極的な考え方のできる人は、自分の運命を他人にゆだねたり、環境のせいにしたりしない。たとえ悪い方向へ進む兆しがあっても、それを前向きに受け止めて成果を収め、時には病さえも乗り切るだろう。積極的な考え方は、体内のホルモンの分泌を促進し、肉体の治癒力を高めるのにも役立つからである。

●一時的な気力より、持続する気力を

 一に、宇宙天地大自然にみなぎる「気」を肉体に充実すること、二に、積極的な考え方を保持すること、三に、成し遂げようとする気力を持続するために努力すること。

 三点を忘れないように心掛けながら、「志ある者は事ついになる」と銘記して前へ前へと前進しさえすれば、そこに立ちふさがるものは姿を消し、未来が開けるはずである。

 このように勧められようと、自分の心の持ち方や生き方を本気で転換させようという人は、少ないかもしれない。夢や希望を持続させれば必ずかなうといわれても、なかなか実行に移さない人も、少なからずいることだろう。

 あるいは、他の書物などに触発されて実行し、「一生懸命、事に当たったが失敗した」、「大変な情熱と熱意で努力したつもりだが、目的は達成されなかった」という人も、中にはいることだろう。

 おそらく、彼や彼女が情熱を傾けたのは事実であろうし、熱中したというのも本当のことであろう。残念な結果に終わったのは、それが持続的なものではなく、一時的なものだったせい、と想像できる。

 彼らは「やってみよう」、「やってやるわ」と、当初は気力を奮い起こしたものの、目の前に障害物や困難が何回か出現すると、あまりにも簡単に投げ出し、あっさりと情熱の炎を消してしまったのではなかろうか。

 実際、成し遂げようとする気力を生むことと、その気力を持続させることでは、どちらがむずかしいか。

 ほとんどの人が、「持続させるほうがむずかしい」と考えるに違いない。四月には気力や、やる気をみなぎらせ、希望に燃えていたはずの新入社員が、五月には飲み屋で会社の愚痴をこぼしているといった光景などを目にするにつけても、気力を持ち続けることは容易でないとわかる。

 私たち人間は本来、積極的に行動する人間、成し遂げようとする気力を有する人になりたいと考えているし、会社の業務を始めとした乗り越えるべき問題を「やさしい」と判断すれば、将来の可能性を大きく予想する。

 反対に、「むずかしい」と感じれば、可能性を小さく予測してしまう。

 その意味でいえば、常に失敗と挫折(ざせつ)ばかりが心の中で大きな比重を占めている人間は、事に臨んで成功イメージを持つことができない。「やればできる」と、楽観的に考えることもむずかしい。

 なかんずく、今まで失敗を繰り返し、自信を失っている人間は、何をするにも「また失態を演じるのではないか」と、否定的に考えて万事、百般に気後れし、無気力状態に陥ってしまうことが多い。ひとたび失った気力を回復するのは、むずかしいことなのである。

 一方、成功を重ねてきた人間ならば、自分に自信を持っているため、何をするにも積極的に、行動的に対処していこうとする。こういう肯定的な捕らえ方ができる人間は、物事を否定的に捕らえ、消極的な姿勢になっている人間よりも、万事、百般、いろいろな方面で成功する確率が高い。

 事に臨んで、気力や元気、集中力をうまく引き出すためには、物事に対して否定的になるのではなく、肯定的に考えるように努めることが、一つの大切な秘訣になる。

 初めて手掛けるプロジェクトであっても、「やればできるだろう」と肯定的に考えることで、積極的に取り組めるようになれるし、成し遂げようとする気力もずっと出やすくなるのである。

 誰もが肯定的な思考、発想ができる人間になりたいならば、どんな小さな事柄でもいいから、かつて成功した体験を自分の心の中で大きくイメージするトレーニングを、毎日毎日、積み重ねていくことだ。

 電気の普及に大成功を収めた先のエジソンのように、大きな成功を経験している必要は、まったくない。期末試験でちょっとした高得点を上げた経験や、マラソンなどのスポーツ大会で全力を出し切った経験、新入社員として初めて交渉を達成した経験、小さな企画を続けて成功させた経験などを、意識的にイメージすればいい。過去の自分の体験の中で、うまくいった事柄を、可能な限り思い出してみるのもいい。

 やがて、自分の成功イメージを脳裏に思い描くことができるようになれば、自然と「僕にもやれそうだ」、「私にもできそうだ」と自信がわくようになってくるはず。

 このような状態は、もう半分、成し遂げようとする気力の張りが出た状態だ、といっても決して不適切な表現ではない。

●小さな成功が大きな成功を呼び込む

 同じ意味で、ビジネスマンや学生などが自信を持ち、肯定的な思考や発想ができる人間になるためには、最初、ささやかでも、ほんの小さくてもいいから、とにかく実際に成功を体験することだ。

 小さな成功を重ねていくと、だんだん当人の意欲、積極性に火がついてくるのである。

 人間は仕事や勉強、あるいは趣味でするゴルフや登山、英会話やパソコンなどを手掛ける時、滑り出しでつまずくと、嫌気が差してしまいがち。一方、最初の段階で、ある程度の成果が出ると、後は調子に乗ってどんどん進んでいく。

 ほんのささいなことでも成功を収めたり、うれしい気持ちにさせられた体験は、その人間の行動を大きく変え得るほどの影響力を有するもの。青少年時代に絵画や作文や水泳で教師からほめられたために気が乗り、一生懸命励んでいるうちに一流の画家や作家、金メダリストになったなどというのが、よく見聞する好例といっていいだろう。

 大の大人でも、一つの仕事をうまくこなして勢いがつくと、全く別分野の仕事もうまくこなせるようになる傾向が、強いものである。分野は何でもかまわない。ともかく大切なのは、最初に、うまくいくことなのである。

 日常の仕事において、自分の得手とすること、やりやすいことから手掛けてみるのも、一案である。パソコンが得意な人なら、朝はOAを使う仕事から入る。ここで、ある程度の仕事をこなしたという実績が、次の仕事へ向かう意欲、自信をわかせ、一日、やり遂げようとする気力の出やすい状態を作ってくれる。

 この自信をつけるために手掛けることは、何も仕事に関係していることに限る必要はない。自分の趣味のことでもいいのである。釣りが得意な人間ならば、月曜日に大事な会議の発表が控えていたなら、前日に海や川に魚釣りにいってくるのもいいだろう。

 また、ここ一番の席で、常に自信を持って発言、行動できる自分をつくるためには、慣れるということも大切。

 ことわざに「習うよりは慣れよ」とある通り、「慣れる」、さらにいえば「習熟する」、「習性(ならいせい)となる」ということが、日常生活のいろいろな場面で重要な働きをしていることを、再認識してもらいたい。

 人前で話す、歌うはもちろん、仕事、スポーツ、家事など、多少なりともテクニックを要するものは、すべて慣れが影響する。本や人の話、講習やテレビなどを通じて理屈はよくわかっていたとしても、体が思うように動かないということがある。頭で覚えても体が覚えなければ、身に着かないのである。

 自らの体で慣れるためにも、成功イメージを描くことは有効である。スポーツ選手がよく行う練習方法で、イメージ・トレーニングというのを利用してみるのも、妙案の一つ。

 イメージ・トレーニングは、自分の理想とするスタイルと状況を想定し、何度も反復する方法で、頭でイメージすると同時に、体も一緒に動かすことが要領である。

 イメージ・トレーニングは、実生活でもかなり応用できるので、参考にしてもらいたい。「授業中に指名されると緊張してうまく話せない」、「会議などの席上で思うようにしゃべれない」というような人たちは、ぜひ取り入れてほしい。注意するのは、頭ではなく、声を出しながら肉体で覚えるという点にある。

 こうして自らの肉体で覚え、自信をつけて、本番でも積極的に行動すれば、あがることも少なくなって成功をつかんでいくものである。反対に、自分に自信のない人は、せっかくのチャンスも逃がしてしまう。

∥目標を持つ∥

●仕事の価値を知れば行動意欲がわく

 さて、何か事を行うのに際しては、積極的な考え方で臨むとともに、今から取り組む課題に対して、気力を奮い起こそうと考えたなら、当の課題がどのくらい重要で、価値のあるものかを知ることも、大事になってくる。

 「書類を作成するなんて、つまらない、地味な仕事だ」と否定的に考えていれば、取り掛かる時も「気」が充実し、成し遂げようとする気力が出るどころではないし、ダラダラと仕事をして、つまらないミスを繰り返したりするだけ。

そもそも、私たち人間の心理というものは、つまらないこと、簡単にできること、やさしい仕事を前にしては、いくら気力を奮い起こしたつもりでも、高まらないのが普通なのである。

 自分の仕事が重要だと認めれば、「今作るこの書類一枚がなければ、会社の仕事は動かない」、「私が少しでもミスをすれば、会社や取引先に迷惑をかけることにもなる」と考えて、自然に積極的になり、やり遂げようとする気力が出てくる。

 すなわち、やりたくない気持ちが強くて、なかなか気力が出てこない状態の時でも、取り組もうとする課題の重要性を認識することで、かなり強い気力の奮い起こしを行ったのと同じことになるのである。

 また、自分が取り組もうとしている課題の全体像を把握し、その結果をある程度予測することも、大切となる。

 私たち人間は、先行きの予測が立たないことについては強い不安を抱くもので、それが行動意欲の減退につながることが多いためである。

 一つの仕事に取り組む場合でも、全体の見通しが立つ条件と見通しが立たない条件とでは、仕事の結果に大きな差が出るもの。

 未経験の仕事をする際には、その仕事を経験した人の話を聞くなり、自分で調べたりして、情報を少しでも多く集め、自分が新たに挑戦する課題の全体の見通しを持つようにすればいい。経験者がおらず、情報がない場合は、自分の過去の体験から類似したケースはなかったかと、思い出してみるのもいい。

 仕事の全体像をイメージできて、どこでどのくらい力を入れたらいいかが予測できてこそ、気力も効果的に鼓舞できるというものだ。

 自分の仕事の全体像をイメージできない例として、「大企業病」という言葉がある。かつての電々公社や国鉄など企業が巨大になりすぎると、社員たちが大きすぎる組織の中で、自分の役割分担を見失ってしまうのが、病気の最大の原因である。

 無論、自分のやるべき業務は上司から指示されてわかってはいても、その仕事が組織の中でどのくらい重要性を持つのか、見当がつかなくなってしまう。

 こうなると人間は受動的になって、与えられたことを与えられた時間以内にこなす以外、興味をなくしてしまう。仕事に創造的な喜びを見いだせず、いわゆるルーチンワークをこなすだけの人間になってしまう。

 そんな無気力な社員ばかりになれば、組織全体の生産効率は目に見えて落ちる。各職場ごとの社員に、気力や気迫や気概がなくなってしまうからである。

 自分の毎日、取り組んでいる業務に何の意義も感じず、自分の達成したことがどの程度、会社や社会の役に立っているのかがわからなくては、仕事に意欲を出して頑張ろうとしても、無理なのは当然だ。

 一方、自分の仕事が必要とされているのだとわかれば、大いに気力も、気迫も、気概もわいてくる。特に中小企業の中に多いが、社員一人ひとりが組織の中での自分の役割をつかみ、「自分がやらなければ」という気持ちで働いている会社は発展する。

 自分の仕事が、確かに役に立っている。自分が製品を作ることで、喜んでくれる人がいる。こうした意識を持てるかどうかは、仕事の張り合いにも大きくかかわってくる。張り合いややりがいは、他人から与えられるのを待っていてもしょうがない。

 どのような仕事に就いていようと、どのような組織に属していようと、要は自分の見方、考え方次第である。

 何もあえて、自ら自分の仕事をつまらなく考える必要はないだろう。自分の会社の製品を喜んで使ってくれているお客の姿を、想像してみる。自分が仕事をしなければ、会社の中で支障をきたしたり、迷惑をかけたりする部署が必ずあることを、考えてみる。

 以上のことをイメージしてみるだけでも、組織の中の一員としての、自分の仕事の重要さを意識できるであろう。

●仕事を楽しみ多いものにするコツ

 自分の役割の重要性、価値を認識しながら仕事に臨めば、誰もが意欲的に、楽しみながら業務を遂行できることだろう。

 私たち人間が労働するということは、本来「楽しい」、「面白い」ことである。体や頭を使う労働を「苦しい」、「つまらない」ものにしているのは、自己意識のなせる業なのだ。

 仕事が楽しいかどうかは、自己意識で仕事をしてしまうか、無意識に仕事をするかで、大きく左右される。

 宇宙天地大自然世界に生かされている人間は、本来、楽しく生きられる配慮を大自然界から与えられているのである。単調な仕事であっても、この他力に身をゆだね、やり遂げようとする気力を鼓舞し、「気」を入れて能率よく働くならば、知恵が身に着くし楽しさもわいてくる。他力を自力として生きるためには、日々の現実から逃避しないことが大切。

 こうして己の職業を天職と確信し、迷わず努力してゆけば、必ず仕事がよくわかるようになってきて、上手になる。上手になれば、「この仕事は自分に適している」と感じるようになり、さらに気力やアイデアも出て熟練の域に至り、仕事はより面白くなってくる。そうなれば、もはやその仕事は苦労ではなくなり、道楽に変わるというものである。

 職業の道楽化、趣味化は、人生の最大幸福であるともいえるだろう。

 「よし、やろう」と決意した仕事が幾多の障害や難関を切り抜けて、見事に完成した時の、あの素晴(すば)らしい楽しさは、誰にも体験があるだろう。ここに、仕事に気力や張りを出し、楽しみ多いものにするコツがあるわけだ。

 「サラリーを得なければならないからやる」、「上司が命令するからやる」という態度で仕事をするのではなく、努力に対する満足感、完成した場合の快感のために物事をやるように、心の持ち方を変えてみることである。

 汗水たらしての艱難(かんなん)辛苦の後に、険しい頂上を極める登山を始めとしたスポーツも、自分の満足のためにやっているからこそ楽しいのである。もしもスポーツが強制的に課せられた労働だったとしたら、必ずしも楽しいものではなくなるだろう。同じ道理が、仕事にも当てはまる。

 喜びとして、あるいは自分の創造力の表現として見ることによって、仕事は楽しみとすることができ、そこから人生と仕事に対するゆとりが生まれてくる。実際にそうしている人々の例も、たくさんある。

 労働と遊びとの相違は心構え一つ、気構え一つにかかっている、ということをよく覚えておいてもらいたい。遊びはやることを楽しむものであり、社会通念としての労働は「しなければならないもの」である。

 人生を豊かにし、ゆとりを持つために、あなたが第一にしなければならないことは、仕事を遊びに変えることである。私の場合は少年の頃から、遊ぶことよりも、学ぶことよりも、働くことのほうが面白かった。

 誰もが会社のために、社会のために働くということは、直ちに自分のためにもなる。懸命に会社の仕事をし、仕事を通じて自己を磨く。そうして、絶えず向上しようと心掛けることが一番。

 気力に満ちた、精力的な活動家といわれる人物を観察してみると、彼や彼女は決して無駄で余計な意識を使わず、明るく活発な「気」を集中させながら、自我意識を捨てて仕事に取り組んでいる。そして、全精力をその日一日の仕事に使い切る。

 これが大切なコツ。中途半端はいけない。手抜きや怠慢は、肉体を一時的に楽にはしても、「気」の流れを妨げ、心にスキを与えることになる。

 「その日一日の仕事に全精力を使い切る」という心掛けの人物は、性格も素直で明るく、健康で賢明で、社会的に成功者が多い。もちろん、彼や彼女の肉体は疲れる。へとへとに疲れ切るだろうが、そういう人の肉体は、一晩ぐっすり寝ると疲労そのものが明日のエネルギーに変換しており、前日楽をして疲労しなかった人よりも元気で、精力的に働けるものである。

 仕事に命を懸けるくらいの覚悟があるならば、物事に取り組む態度というものが、おのずと真剣になる。従って、考え方が一新し、創意工夫ということも、次々に生まれてくる。

 命が生きて働いてくれるからだ。それは、命、すなわち人間の体、肉体が無尽蔵の力と知恵を発揮してくれる、という意味である。

●将来展望から今日一日を考える

 そもそも、人間の体は働きそのものである。仕事や勉強に忠実、勤勉の毎日を積めば、将来の生活の基礎となる自己というものが確立するのである。

 その点で、今日一日を大切にすると同様に、自らの将来のことでも、自分の家庭のことでも、会社の仕事や経営のことでも、先の先を読み取ること、壮大でかつ綿密な先見性を身に着けることも、人間にとって大切となる。

 長い単位としては二十年後、中期では五年から十年後、短期でも一年から二年先までの状態を見詰める。

 二十年先にはどうなっているか、どうすべきかと考える。そのためには十年後にはどうなっていなければならないか。その十年後の自分や家庭や会社の理想の状態を可能にするには、一年後にはどう進展していなければならないか。さらに、そのためには明日、そして今日やるべきことは何かを考える。

 二十年後という長く、大きな展望から、今日、明日やるべきことまでを考えるのである。当然ながら、二十年後の状態というのは、まだボンヤリとしか見渡せないだろう。

 しかし、それを十年後、五年後、一年後といったように細分化してゆくと、今日やるべきことにたどり着く。つまり、今日一日の実行すべきことというのは、一見見えないようであっても、実は二十年後にちゃんとつながっていくのである。

 こういう将来展望という大目標と、今日一日やるべきことという小目標は、人間にとって非常に大切である。人間は目的に向かってこそ、努力をしたり、苦労をしたりできるもので、それこそ雲をつかむような漠然とした状態では、気力や張りの出しようもない。

 だからといって、あまりにも現実離れした高い目標を掲げてしまった場合も、人間はその能力を十分に発揮できないものである。

 目標が適度だった場合には、「よし、やってやろう」と気力が出る。それが大きすぎたり、高すぎたり、漠然としたものでは、気持ちがついていかない。

 成功した人の話を聞いてみると、大目標と小目標の使い分けが実に、うまい人が多いものである。「絶対、起業して社長になろう。会社を大きくしてみせる」などと、十年後、二十年先の大目標はもちろん抱くのであるが、「まずこの目の前にある仕事を成功させるのだ」、「今度の商談は絶対にまとめてみせる」と、ちゃんと目に見えやすい小目標も同時に持ち合わせている。

 誰にでも把握しやすい単純な目標は、人間に力を与える。「もう少し頑張れば達成できそうだ」と思えれば、人間は気持ちが前向きになるのである。

 拙文をお読みのあなた自身も、「何があろうと、これはしなければならない」と没頭し、成功した体験があるはずだが、目標は明確であったのではなかろうか。

 「成功したい」という決心、決心に向かっての成し遂げようとする気力、情熱、想念が人生における成功のカギであるが、目標を明確にすることによって、その気力や情熱が確たるものになるし、目標があってこそ初めて、生きがいも生まれるのである。

生きがいともなり得る大目標についていえば、例えば「ぜひ金持ちになりたい」という願望は、人間誰にもあるはずだし、また誰もが努力もしているだろう。

 しかし、ここから先、アプローチの仕方が重要なのである。

 企業内で出世することによって、達成するのか。事業を自ら起こして、金持ちになるのか。あるいは、プロのスポーツ選手や音楽家、デザイナーなどを目指して、実現しようとするのか。

 方法は多様であり、どれを選択するのかをまず決めることから、スタートしよう。その上で、私の若かりし頃のように実業家を目指すのであれば、何年先に自社所有のビルを持つのか、持つとすれば何階建てにするのか、立地する場所はどこにするのかなどと、できるだけ具体的に構想していくのである。

 「学者になりたい」ということであれば、専門の分野は何か、どの大学で教えるのか、はたまた、世界最先端をいく学者としてノーベル賞を目指すのかといった点まで、明確にすべきである。

 また、目標は一つでなければいけないということではない。それどころか、学校や仕事における目標、家庭生活における目標、さらにはトータルなライフスタイルでの目標と、異なる方面ごとに目標を掲げ、それぞれの達成に向けて積極的に挑戦し、情熱を傾けることが大切だ。

●人生における大きな目標を掲げよ

 人生における目標は、大きければ大きいほどいい。あまりにも現実離れした目標であってはならぬが、自分の能力以上と思われる大きなテーマを目標として、「やってみよう」と決断し、全力で取り組むことが、人生においては真に大切なことなのである。

 逆に、小さすぎる目標を設定した場合、それすら達成できなければ計り知れないほどのダメージを受け、立ち直るのに時間がかかる。

 大きな目標を掲げた場合は当然のことながら、自分の能力との食い違いを埋める努力を続けなくてはならないし、挫折感を味わうことにもなろう。だが、努力と挫折という二つを繰り返してこそ、人間の能力、才能というものは磨かれていくのであり、やがて有卦(うけ)に入る、すなわち幸運に巡り合うのである。

 その上、人間は目標を突破するたびに、自信がついてくるもの。目標を一つ越えるたびに、積極的で、たくましい、気力の達人に変身していくのだ。

 別の言葉でいえば、大きな目標に向かうということは、苦難の連続でもあるわけだが、苦難を突破するたびに信念がより強固になり、自分でも気付かなかった潜在能力が次々と開花し、文字通り奇跡をも起こすことが可能になってくるのである。

 胸に抱く夢の大きさが、その人の将来の大きさを決定する、といってもよい。

 つまり、有名大学への入学、一流会社への入社、ベンチャー企業の設立、弁護士などの資格の取得といった近い将来の目標を設定するとともに、十年後、二十年後を見据えた大きな目標、「人生においてかくありたい」という目標を掲げることが、大切になってくるのだ。

 同じ三千メートルの高さの山を見ても、A太は「大きな山だ」と感じて引き返し、B太は「とにかく登ってみよう」と挑戦する。いうまでもなく、大きな成果や成功をものにすることができるのは、後者のB太のような積極的思考の持ち主である。

 おそらく、現在、自分の置かれている状況や実力からして、「目の前に立ちふさがる障害を突破することは困難である」し、「どう考えても目標を達成するのはむずかしい」と思っている人も、世の中には多いことだろう。

 なぜ消極的思考に捕らわれ、成し遂げようとする気力を練り上げることなく、あっさりと失ってしまうのか。なぜ悲観的に考え、前に進もうとしないのか。

 私たちの目の前に立ちふさがる山や障害の多くは、自分の考え方一つで高くもなるし、低くもなるということについての、認識が浅いからである。積極的思考がいかに大きな力を与えるかということについて、理解が足りないせいである。

 「自分には大きな目標を達成することなど、無理に決まっている」と恐れていては、いい結果は生まれようがない。楽観的、かつ積極的に、「山は登れる。必ず成功する」と確信して取り組むところに、宇宙天地大自然の真善美楽・健幸愛和の法則が働き、創造的で無限の他力の供給を得て、事を成し得るのである。

 この点、成功者と呼ばれる人物は、気力にあふれる並外れた努力家であり、忍耐力、あるいは信念が強かった人たちである。

 一方、何をやっても成功しないという人物は、あまりにもあきらめが早く、「不可能」という言葉に慣れすぎているだけであるといえるだろう。

 ここで認識すべきは、目標を明確にしたら、次は「目標達成に一歩でも近付こう」と真剣な姿勢をとること、我慢強く努力すること、信念を持って行動すること、それが成功へのステップであるということだ。

 しかし、注意しなければならないことがある。確かに、成功するために努力や忍耐力、信念が必要であるが、反面それらのみで成功することはできないのである。

 真剣な姿勢、それは単なる意欲、努力、忍耐力といったものだけではないということだ。それどころか、意志がたとえ弱くても、自信を喪失している人でも、目標をかなえることは可能なのである。

 その成功の原動力は、「どうしても目標を達成させたい」という切羽詰まった気持ちである。「もう後には引けない」と、ぎりぎりまで追い込まれたことによって引き出されるものであり、そのエネルギーを活用した上で、情熱と気力を傾注し、持続することが、目標をかなえるカギなのである。

 それらがあれば、事を成し遂げることはできるし、多くの苦難に耐え、障害を打ち破っていくことが可能なのだ。

 まさに、一歩も引けない絶体絶命の立場にあえて身を置くという、土壇場における決意をした時、すなわち背水の陣を敷いた時、私たち人間は素晴らしいエネルギーを発揮するのである。

●積極的な祈りで願望を実現できる

 自分の描いている目標や夢を達成させるためには、背水の陣を敷いて事に当たるとともに、強く念願し、祈るという方法も有効である。

 「どんな困難があろうとも必ずやれる。やってやる」と、自分の潜在性の無意識、空意識に何かと祈り込み、刻み込んでおくと、時を得てその祈りが実現して現れるということが、実際に起こるのである。

 そもそも、人間の肉体に刻み込まれた記憶ほど、しぶとく、根の深いものはない。いい年をした男性の中にも、思い掛けず高所恐怖症だったり、水を怖がったり、稲妻に出合うと全身の血の気が引いて真っ青になったりする人がある。対面恐怖症の人や赤面恐怖症の人も、潜在性の無意識、空意識に刻み込まれた根深い記憶が、よみがえるのである。

 そういったマイナスの記憶が、肉体内の無意識層、空意識層に刻み込まれ得るならば、人間の願望を込めた積極的な祈りもまた、刻み込むことが可能なわけだ。

 刻み込むだけでなく、「そうありたい」と願うことが「そうなる」という願望の実現もある。

 心に念じた願望がかなうなどと述べても、にわかには信じがたい人もいることだろう。だが、観念という意識は、それだけでは抽象的で実体のない自己満足のようなものであるが、この観念の持ち方いかんでは、人間の一生を左右するほどの力を持っていることもあるのだ。

 毎日毎日、毎年毎年、同じ思いを心の中に持ち続けていると、文字通り身も心も、その思い通りになるものである。その思いを固く観念として維持していれば、観念は自然にその人の人相を形作り、その人の表情を操作し、その人の発する言葉の端々にまで反映されるものである。

 かくして、やがて観念の力が強まり意思の力を上回るようになってくると、徐々にその人の願望が宇宙天地大自然の心に強く刻み込まれていく。

 いったん宇宙の心に刻み込まれたものは、いかなる障害があろうとも、ついには現実のものとなるのである。奇跡に近いようなものであっても、実際に起こるのである。

 このように、人間が念願し、祈ることによって驚くべき力が備わる。一見、無力で抽象的なもののように思われるが、念ずることによって、人間を成功に導く力が流れ込んでくるのである。

 なぜなら、宇宙天地大自然には人間の念願、選択など、人の心の中に描かれたものを受け取り、それを現象の世界に造形する原理があるからである。宇宙の心には、無限の力が潜んでいるのである。

 無限の力を引き出すのも、引き出さないのも自分次第であり、「必ず実現させる」、「きっと夢をかなえる」と念願し、祈り、宇宙の心に強く刻みつければ、いつしか現実のものとなるのである。

 もちろん、小さな願望や夢であればすぐにでもかなえられるが、大きな願望や夢が実現するには、かなりの時間が必要。夢の大小によって、実現する時間の違いはある。

 いずれにせよ、もし宇宙の心のエネルギーが自分のもとにやってこないというのなら、あなたの念願が足りないか、念願の仕方が間違っているかのどちらかだ。

 正しい念願、祈りの仕方について述べれば、一回一分間、少なくとも朝と夜の二回、できれば四、五回、心と体をリラックスさせて、宇宙の心に届くように願望や夢の実現を想念することである。

 これを瞑想(めいそう)と置き換えてもいいが、「ぜひともやってみせる」、「必ず実現させる」と念ずるのである。

 その際、目標達成を図形化してイメージしたり、睡眠の直前に実行すればより効果は大きくなり、実現の時期も早まる。また、瞑想するだけでなく、言葉に出して確認することも大切。

 例えば、「人前でもっと上手にしゃべりたい」とか、「記憶力や創造力をもっと身に着けたい」、「美しくなりたい」、「健康な肉体を作り出したい」といったことなど、自分に切実で他人にいいにくいような願望も、朝の寝床での半意識状態、夜の眠りに入ろうとする直前などを中心に、どんどん記憶させて、よいことばかりを願って暮らせばよい。不思議と願いがかなうのである。

●想像が創造につながる宇宙原理

 重要なのは、積極的な心構えを培い、想念するということである。「できないのではないか」、「私には到底無理だ」というような消極的、否定的な考えを、一切排除することである。

 消極的な考えを捨て、「できる」、「やってやる」と積極的に想念し、宇宙の心によい情報だけを送ることが、願望達成や成功を実現する方法なのである。

 反対に、「自分は駄目だ」、「どうせできやしない」、「病気に負けるのではないか」と失敗を恐れたり、成し遂げようとする気力を失ったり、前途を悲観ばかりしていれば、マイナスの情報も潜在性意識に刻み込まれ、やがて現実の世界に具現化されてしまうことになりかねない。

 極端なことをいうなら、「私は貧乏だ」、「僕は不幸だ」と口に出す人は、貧乏から抜け出せないし、不幸にもなる。ホラ吹きといわれても「私は金持ちになる」、「幸せになる」と公言し、心の中で思いを強くし、それを潜在性意識に刻み続ける人は、金持ちになり、幸福者にもなる。

 心や精神の有り様がいかに大切か、成功するためには積極的な心構えや、気力の持続が必要であると、前述したのもそこに理由がある。

 つまり、宇宙天地大自然の見えざる真善美楽・健幸愛和の法則からすれば、誰にでも洋々たる未来があり、限りない能力が備わっているにもかかわらず、素晴らしい前途を切り開くことを妨げているのは、ほかならぬ自分自身の心の中に原因があるということになる。消極性や恐怖心、弱点やコンプレックスなどを克服し、自己に対する自信を身に着けなければ、成功はあり得ないということである。

 念願、祈り、想念というのは「どうしても願いをかなえたい」という真剣な気持ちと、「絶対にかなえられる」という信念、すなわち、積極的な心構えや気力、精神の張りに満ち、実行する人間において、最大の効果が発揮される。

 一般に、「運がよくない」とこぼしている人間は、潜在性意識の底に焼きつくほどの強力な、統一された願望や希望がないものである。

 一方、「これが自分の第一の人生目標である」と断言できるほどの人間は、その目標は半ば成就されたといっても過言ではない。

 まだ現象世界では実現されていなくても、目に見えない世界においては、着々として実現のための作業が進められているからである。その作業は宇宙の力がやっているのである。

 人間という存在は真なる力を活用して、生命を奮い立たせるような願望を持ち続ければ、自分を思うような人間に改造することができる。

 「人間の理想はこうあるべきだ」と心の中で考えた時、すでにその人は神性を発揮したといえる。想像は積極的、肯定的な一種の自己暗示法であり、想像はそのまま創造につながるのだ。ここに人間の偉大性があることを、誰もが知らなくてはならない。

∥大きな息を吐く∥  

●心身の健康を保つには睡眠が第一

 成し遂げようとする気力を練り上げる秘訣の一つは、夜は早く寝るという正しい睡眠法にある。意外に思う方もおられるかもしれないが、これから解説していけば、明確に理解いただけるはずである。

 ともかく、いざという時に鼓舞することができるように自らの気力を練り、体調を整え、心身の健康を保つためには、夜は早く寝るということに理がある。

 心身が健康であれば、夜の眠りは自然であり、自然な眠りによって健康も促進され、気力、気迫、気概、元気、精神の張りも出るというものである。

 本来、夜は仕事をしないで体を休め、宇宙天地大自然に生かされているという自然の順序に任せて生きれば、誰でも、日が暮れたという宇宙の構造、仕組みからいって、眠気を催すのが当然である。眠気がきたら、その眠気がゆきすぎないうちに、その眠気に乗って眠る。これは、宇宙からのお誘いであると考えなければならない。

 眠りの時間は、生かしてくれるほうの親船である宇宙全体生命の中に融け込めば、一切の精神的な悩みも、肉体的な疲れも、みなこの中でゼロにしてくれるという大変な時間なのである。

 人間が自分の努力で精神的な悩みや苦しみ、つまらない気持ちを転換しようとしても、そう簡単に自分で自分の気分を転換することは不可能。しかし、その時に眠ることができたら、いっぺんに気分は転換する。

 だから、眠れないという人は、一番気の毒である。おなかがすいていれば食べ物がうまいように、眠れない人は昼間、懸命に働くこと、運動をすることを勧めたい。疲れるまで体を使うことをぜひ勧めたい。

 熟睡できないからといって、睡眠薬や寝酒に頼っては、自然な眠りは得られない。習慣化すれば、体にも悪い。要するに、眠りの質が問題なのだ。

 現代社会は残念なことに、不眠症で悩む人が多いようである。そこで、不眠症に悩む人のために、いくつかの不眠症の克服法を紹介しよう。

 食事の時間帯と量に、問題はないだろうか。就寝前に食べたり、食べすぎたりするのは、眠りの妨げになる。食事時間を早くするか、夕食を軽めにして朝食の量を増やす配慮をするように。

 また、カルシウム不足は神経が高ぶりやすくなるので、小魚類を食べるようにする。逆に、あまり空腹でも眠れないので、その時は温かい牛乳を飲むといい。

 牛乳には、神経の興奮を静めるカルシウムがあり、消化、吸収が高いという長所がある。牛乳中に含まれるトリプトファンというアミノ酸が、脳睡眠中枢を刺激して、自然に眠りを誘うという働きもある。

 次には、テレビや刺激的な音楽、読書なども、就寝の二時間前には避けるようにすること。音楽は、静かでゆったりした曲で、心が安らぐなら効果的。

 神経が高ぶり、どうしても眠れない場合は、無理に寝ようとせず起きる。労働が精神労働のほうに片寄っていて、肉体は眠くなく精神だけが疲労していると、眠いようで眠れないという現象が起こることもあるのである。

 この時は、腹式呼吸、丹田呼吸が役立つ。息を腹から出すつもりで、ゆっくり、ゆっくり吐いていると眠れる。静かに瞑想するのも効果的である。

 眠りの大切さがよくわかったら、何を置いても、どんなに忙しくても、夜は眠ることである。一カ月の三十日を幾日、理想的に眠れたかということで、その人の人生の勝負は決まる。その人間の気力や価値や幸福の度合いが決まる。これは、人生にとって最も基本的な重大問題である。

 というのに、サラリーマンの場合は、明日からの仕事を考える精神的重圧のために、日曜日の夜は寝つけないという調査もある。これでは、すっかり疲労が回復して、すがすがしい気分で、気力を奮い起こして仕事に取り組むことはできない。

 そして、日曜が休日であるサラリーマンの一週間の集中度調査によると、火曜日を最高に週末に向けて下がっていき、休みの前日になると少し元気を取り戻すという結果が出ている。体を休めたはずの翌日、月曜がそれほど高くなっていないのは、家庭と会社という環境の変化に、気持ちがついていっていない面もあるだろう。

 ならば、大事な人に会う時のアポイントは、月曜よりも火曜に設定したほうがよいということになる。気力や元気が回復する週末に会う約束をするのもいい。

 では、気力や元気が出ない日にはどうしたらいいのかというと、歩くという簡単なことを実行すればいい。朝や昼休みや仕事中、十五分ほど歩くというのは脳に刺激を与え、全身の細胞を活性化し、気持ちを新鮮にさせるもので、気力の出やすい肉体的環境を作るのに適している。

●昼休みのごろ寝で力の発動を待つ

 昼寝も効果がある。近年、社員に昼寝を勧め、仮眠室を設けている会社があるように、十分程度でも、昼寝には際立ったリフレッシュ効果が認められる。

 会社の昼休み風景でよく目にするところでは、忙しいということで昼食をとりながら、書類に目を通している人がいる。このような人は、気分を一新して効率を高める、せっかくのリフレッシュの機会をわざわざ放棄しているに等しい。貴重な昼休みの時間は、もっと気分転換に活用しなければ損であろう。

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 人間はとかく頭ばかりで物事を考えすぎて、どちらかというと寝ても覚めても、あくせくしているのが現状である。このあくせくは神経の緊張となり、エネルギーの消耗となり、生命力を減退させ、その結果は寿命を縮める。

 反対に、くつろぎの姿からは、緊張が消え、緩和されて、エネルギーが回復するばかりでなく、刻々、全身に見えない世界からの生命力が充実されるのである。

 一説によると、人間の注意力集中の最高限度は二十五分間だという。そうすると、二時間も三時間も続けて仕事をしなければならない場合には、時々、気分を転換し、肉体と精神のゆとりを持つことが必要となってくるだろう。

 新鮮な気持ちで物事を始めれば、普通よりも上手に、時間もかからないでできることは、自明の理である。しかも、このような気分転換に必要な時間は、決して長い時間が必要なわけではなく、わずか五分か十分の時間を必要とするだけである。

 そこで、会社などで昼間疲れた時に、くつろぎの姿で体を投げ出す、いわば、ごろ寝リラックス法といえるものの要領を簡単に説明しておきたい。

 一日に何回でも、気が付いたら、実行すること。必要を感じたら努めて行うようにする。もし職場に適当な施設があれば、昼休みには十分ないし十五分、体を投げ出すこと。慣れれば執務中、椅子にかけたままでも略式には行える。

 昼間疲れた時には、まず水を飲んで自然作用的に肉体機能を活発にし、できれば畳の上にゴロリと横になるのが理想的である。

 サラリーマンなら昼食時の休憩時間に、しっかりと食事を味わった後、仰向けに寝られる場所、例えば会社などの屋上の日の当たるところで、ビニールでも敷いて、ちょっと寝るのがよい。

 そのまま、息と呼吸をつないで、十分間ほどでも深呼吸をすれば、午前中の心と体の疲れ、緊張はみなとれてしまう。疲れをエネルギーに変換して、もう一度働く力とすることができる。

 家庭の主婦ならば、「少し疲れたな」と感じた時など、いつでも仰向けの大の字に体を投げ出し、体の中の圧力を大きな息で吐き出せば、たちどころに活力がよみがえる。心・気は一転し、元気回復するだろう。

 このごろ寝リラックス法は、体を投げ出して、そのまま眠ってもよい。昼食後、二、三十分眠れば、一日が二日の価値になる。

 二十分から三十分くらいの時間の眠りは、睡眠生理学的にいっても体まで眠る深い眠りにはならず、大脳だけを休める睡眠だから、あまり夜の睡眠のじゃまにはならない。しかも、効率よく体の疲れをとることができ、自律神経の乱れを調整していくことができるのである。

 昼寝は、決して罪悪ではない。奇妙なことのように聞こえるかもしれないが、昔から立派な仕事をした人々は、居眠りの名人が多いようである。「昼食後の三十分の昼寝は夜間の三時間の睡眠にも匹敵する」といっている人もいるが、居眠りも気分転換の特効薬といえよう。その上、脳の疲れをとってくれる大切な行為なわけである。

 仕事をしている時は左脳を使うが、寝ている時には右脳の働きが相対的に活発になるもの。ウトウトしている状態などは、レム睡眠ではないのだが、夢と同じようなものを見る。ウトウトすると、右脳より先に左脳が休んでしまうからだ。こうして右脳を使うと、直観、ひらめきが出てくることもある。

 考えあぐねて壁にぶつかった時は、意識的にウトウトして、右脳で発想の転換をするのも一つの方法である。寝た後は、いい企画が浮かびやすいから、もっと多くの企業が仮眠室を設けるべきではないだろうか。

 果報を得んとする者は、まず体を投げ出して寝、自然にわいてくる力の発動を待て、ということである。

 企業に勤める人ばかりでなく、誰もが眠気を催したら、昼間でもそこへゴロリと寝る癖をつけること。十分間、十五分間の眠りでもすっきり頭がさえ、はっきり体が澄んで元気になるから、気力も出る。勉強中でも家事中でも、居眠りするより寝るがよい。体には睡眠以上の妙薬はない。

●呼吸法で過度の緊張は防げる

 昼休みのごろ寝や深呼吸、居眠りで得られるリラックスは、生まれ変わることである。

 その時まで身に着けていた心の垢(あか)を洗い流して、意識や感情のしこりやこだわりをほぐして、吐き出し、生まれた時のままの自然作用、自然感覚、自然機能を心身によみがえらせ、そこから再出発すること。これがリラックスの真意である。

 人間が意識でばかり物を見ると、他力が働いてくれない。他力で生きることを知らない人は、自分の心が思うようにゆかないから、じりじり、いらいらする。

 じりじり、いらいらするということは、意識から感情になってくることで、決して人間の本質から派生するものではない。しかし、そういうことを繰り返すと性格となるから、注意せねばならない。

 じりじり、いらいらして頭に血が上った時には、息を吐くことをぜひ勧めたい。何か失敗して興奮した時にも、息を吐けばよい。

 人間は、何か失敗をすると、必要以上に落ち込むか、気合が空回りして、一種の興奮状態になってしまう。もちろん、どちらの精神状態も次に何かをやろうという時に、障害になってくる。物事を成し遂げようとする気力の高さは、高すぎても低すぎても駄目で、適正レベルにある時が、最も力を発揮できるのである。

 ここ一番という時になって過度の緊張状態に陥った際などは、能力が最大限に発揮される適正レベルにまで、興奮や緊張を下げてやらなければならない。そのための有効な方法が、呼吸法なのである。

 人間誰もが日常的に経験しているが、緊張すると生理的に呼吸が浅くなる。これを解消するために、ほとんど無意識のうちに深呼吸をしているのであり、もっと意図的に行えば、精神の興奮度を調整できるようになってくるのである。

 精神をリラックスさせる代表的な方法として、西洋には自律訓練法があり、東洋には丹田呼吸法があるが、両者とも、深く、ゆっくり呼吸する点で共通している。

 東洋の丹田呼吸法というのは腹式呼吸法の一種で、坐禅の呼吸法の一つ。深く息を吸い込み、止める。少ししてから、ゆっくりと吐き出す。この際、息は胸からでなく腹からの排出であると、素直に錯覚できるようになると理想的。

 排出する時、臍下(せいか)丹田に力がこもると快感を伴う。人体は炭酸ガスが多いところに苦痛を感じるようにできているため、丹田の力で下腹の血液が絞られて心臓にゆき、肺に送られて二酸化炭素を放出すると、一挙にガスが少なくなり、苦痛がなくなって、これが快感につながるのである。

 西洋の自律訓練法は、目を閉じて深呼吸をしながら、「自分は気持ちが落ち着いている」といい聞かせることによって、自分をコントロールしていく方法である。

 いずれの方法も、自律神経の活動が正常になり、過度の緊張がほぐれてくる。呼吸は自律機能なので、放っておいても必要なだけ自然に呼吸するが、他の自律機能と比べて、意識によって大幅に操作できるものでもある。

 空手などの武道で、修行を始める前に正座して呼吸を整えるのも、それによって肉体や精神をコントロールするためである。

 大事な場面では、自分でも気が付かないうちに呼吸に変化が起きている。過度の緊張から呼吸が速く、浅くなり、のどが詰まったような状態になる。この場合、出る息をポリエチレンの袋にとって量ってみると、一分間一リットルにも満たない。入る息も少ないのは当然である。

 極端に浅い呼吸では、出る息、入る息とも少量だから、二酸化炭素の体外排除が少なく、同時に血中酸素も減少する。こうした血液の状態では、脳細胞の働きは低下し、考え方も不健全に陥りやすい。血中酸素の欠乏は、脳細胞にとっては危険でさえある。

 そういう時には、深呼吸をする習慣をつけること。逆に呼吸をゆっくり、深く行うことで、緊張を解いていくのである。

 深呼吸で何回も何回も大きな息を吐いて、心を平らかにすればよい。苦しい時や悲しい時に、大きくため息をすれば、気持ちが楽になる。それは、頭の圧力、胸の圧力、上半身の圧力をみな、呼吸とともに外に吐き出してしまって、心が落ち着くからでもある。

 他力というものは、下半身から上半身に上ってくるものであるから、上半身を空虚にしておかねばならない。息を吐いて、吐いて、吐き抜けば、胸が真空になる。頭が軽くなる。心が落ち着く。

 心を落ち着かせるためには、息を吐いて、体内の圧力をなくせばよいのである。吐いたり、吸ったり自由に息ができないと、気詰まりがするはず。

 息を吐いて、肉体的体調を整え、楽に楽しく生きようではないか。

 ただし、ここ一番という時、肉体的体調が整っていないから気力が出ないというのは、自分に対する甘え以外のなにものでもない。たとえ寝不足だろうが、体調が悪かろうが、やらなければならないことはたくさんある。

 そのような時は、とにかく「自分は今、体調が万全なのだ」と思い込むこと。事実、睡眠時間の長短より、朝の目覚めの時の気持ちの持ち方次第で、体内のエネルギーを高めることが可能である。「調子がよい」と思うことで、脳内活性物質の分泌は盛んになり、生理的にも大きな影響をおよぼすのだ。

∥早起きをする∥ 

●朝の過ごし方が一日を大きく左右する

 その日一日が気力の充実したものになるかどうかは、当日の朝、いかに過ごすかで決まるということも、ぜひ知ってもらいたい。

 ビジネスマンなら大事な商談相手と会うとか、学生なら試験や試合があるといった日には、朝から気を入れすぎてはいけないが、気力の出やすいコンディションを作っておくことは、重要である。

 私たち人間というものは、朝のうちから物事がうまくいかないと、その日一日、調子が悪いように思えてしまい、いざとなって、気力もなかなか出しにくいからだ。

 例えば、朝寝坊したため電車に乗り遅れ、何かの事情で次の電車もスムーズにこなかったりした時、「さあ、やるぞ」という元気もなくなってしまいがちなもの。

 反対に、運よくぎりぎりで電車に間に合い、しかも自分の前の席がすぐに空いて座れたりすると、人間とは不思議なもので、急に気分は肯定的になり、「今日は何をやってもうまくいきそうだな」などと感じて、気力、元気も出やすくなる。

 朝一番の気分や行動は、その日一日を大きく支配する。そこで、「今日は頑張らなければならない」という特別な日は、朝から思い切って、意識して積極的に動いてみるのもよい。精神が活性化して、気力も出やすくなることを請け合う。

 積極的に動くといっても、むずかしいものではない。ちょっと勢いよく、体を動かすだけでいいのである。起き抜けに雨戸やカーテンをサッと、元気よく開ける。駅の階段を駆け足で上ってみる。

 このようないつもと違う意欲的な体の動かし方をするだけで、精神は確実に活性化するだろう。

 また、人間の頭脳は朝起きてから、二、三時間後くらいに活発に働き出すのが一般的だといわれるが、これには個人差もある。「特別な日だから、気力の出やすいコンディションでいよう」と思うなら、起きてから何時間たてば、人の話を聞いたり、書類を見た時に正確に反応するかくらいは、自分で確かめておいたほうがいいだろう。

 会社によっては毎朝のように、朝礼があるところもあり、起き抜けで参加するのと、自分が一番いい状態で参加するのとでは、当然ながら、話を消化する量に大変な差が出てしまう。

 どうしても頭が働かないようなら、朝早く起きてひと運動してから会社に出るとか、夜は絶対に十二時前に寝るなど、自分のライフスタイルを変えていく必要がある。

 すなわち、気力の出やすい体調を維持する方策として、私が万人に勧めたいのは、毎日、早寝早起きを実行することなのである。「早起きは三文の得、長寝は三百の損」という道理は、多くの人が子供の頃から聞かされてきたはず。

 知ってはいても、現代の日本人で早寝早起きを実行、実践している人が、果たしてどれほどいるであろうか。あるいは、まれに早寝早起きをしたとしても、それが嫌々ながら行ったのではあまり意味がないようにも思われる。

 ここが大切な点である。嫌な気持ちで起きるのと、いい気持ちでサッと寝床から離れるのとでは、その心境に天と地ほどの差があるのだ。いい気持ちで、同時に「ありがとうございます」という世の中に対する感謝の気持ちで起きなければ、早起きの意義は半減するといってもいいくらいである。

 なぜなら、いい気持ち、感謝の気持ちで早起きをする時に、その心は宇宙の心、神仏の心に結びつくからである。利己を捨てて利他の気持ちになれれば、宇宙天地大自然的な精神、神仏の精神につながるのである。

 極論すれば、早寝早起きは宇宙的法則にのっとった人間の最も根源的行為で、神様に一歩近付くことでもある。早寝早起きをしていると、心身が宇宙天地大自然のリズムに等しくなり、気力も呼び起こされて、ふだんは表に出ない能力まで、発揮することができる。それこそ、早寝早起きの持つパワーの源なのである。

 早寝早起きをしていると、自然に「幸せだ。ありがたい」という気持ちになり、物事を明るく前向きに考えるようになるのも、そのためだ。積極的な気持ちになると、気力も、元気も、幸運も、ビジネスチャンスも、自然に舞い込んでくるものである。

●前向きに考えられる朝のメリット

 人間の肉体の生理面から考えても、早寝早起きが気力に満ちた、明るく、前向きな気分にしてくれることが納得できる。

 人間の体温は、午後二時頃にピークに達する。反対に、夜中の二時から四時頃に最低になる。体温が低いというのは、いい睡眠をとるためには非常に大切な要素である。そして、最低になった頃から体温は徐々に上昇し始める。

 この体温が上昇するということは、とりもなおさず睡眠と逆、体が覚醒(かくせい)してゆくための条件である。体が生理的に順調に目覚めていくタイミングに合わせて、午前五時頃に起床すれば、心身が気持ちよく目覚めていくのは、当然の理なのである。

 だから、さっぱりと快い早起きは、追い詰められた気持ち、焦燥感、いら立ちなど、心身の病気の原因になる心の傾向をなくすことができる。同時に、人間の頭を柔らかくして、先入観や固定観念などを取り除き、頭の自由自在な働きを可能にするのである。

 それも早朝という時間が、体や心の働き始める一日のリズムに一致した、理想的時間であることを証明しているといえよう。

 禅僧などの黙想が心を自由自在に解き放ち、素晴らしいアイデア、ひらめきを獲得することができることは、よく知られている。そうした坐禅による黙想も、午前三時、四時といった早朝の修行である。この事実も、早寝早起きがいかに自由で、しかも強靭(きょうじん)な心身を作るかを暗示しているといえよう。

 人間の五官や感性を養う上でも、早寝早起き生活が大いに役に立つ。

 発生学的に大脳と最も近い関係にある皮膚感覚を、早朝のフレッシュな空気に触れさせ、刺激を与えると、目、耳、口、鼻といった感覚器官を敏感にし、大脳の感情をつかさどる部分を豊かに発達させ、感覚を磨き、感性を豊かにすることにつながるのだ。

 この点、大脳生理学の専門家によれば、人間が誰でも年を取ると自然に早起きになるのは、肉体的にも精神的にも衰えてきたことから生じる、身体の自己防衛作用の働きによるものだという。

 それならば、若い人たちが朝早く起きることで大脳に少し刺激を与えてやれば、大脳は人間に備わった自然治癒力、自然浄化力をより活性化させることになる。すなわち、生命のリズムもまた、夜は早く寝て、朝は早く起きることで、その活動を活発化させることができるということなのだ。

 さらに、早起き生活で貴重なことの一つは、時間がたっぷりあるから余裕を持てるということで、人間の精神に奥深い落ち着きを与えてくれる効果がある。

 世の中で駄目な人間といわれるのは、その場限りで物を考えたり、行ったりするタイプである。朝ぎりぎりで起きて学校に出掛けたり、会社に出勤したりという行動パターンでは、どうしても先のことを見ていないということにならざるを得ない。

 遅寝遅起きの人間にありがちな失敗というのは、余裕のなさが大きな原因である。精神の落ち着きや先を見る先見性など、持てるわけがないのである。

 早寝早起きをする人間は、その点がまるで違う。優れた企業の経営者などは、事業の先の先まで読み取る重要な時間として、早朝の時間を活用している。

 壮大でかつ綿密な先見性を身に着けるには、真の余裕というものを持つことのできる早朝が最適だからだ。すでに述べた通り、何よりも朝というのは前を見る、前向きに考えるようにできている。

 目覚めて気合よく起きれば、気持ちは昨日という後ろを向くことはない。気力も出て、集中的に前を向くようにできている。だから、早起き生活を持続していれば、おのずから先見力も磨かれてくるのである。

●精神に刺激を与える自己演出を

 最近では、夜型人間から朝型人間へ、生活パターンを切り替える人も少なくない。早めに就寝、起床するのも、習慣になってしまえば苦にならないし、いったん切り替えた人は、決して夜型の生活に戻そうと思わないはずである。

 早寝早起きすることにより、一日にリズムと張りが生まれて気力に満ち、しかも快適である上に、自分の時間が持てるからである。朝の時間は、真に無駄が少ない。同じ一時間であっても深夜の場合は、案外無意味にダラダラと過ごしていることが多いものである。

 この早寝早起きを積み重ねることの効果は、とても大きい。早起きが毎日のこととなれば、朝型人間と夜更かし型人間とでは気力の出方がまるで違うから、何カ月、何年後には、心身面のみならず仕事や学業においても、明らかに大差がつくのである。

 朝型人間ならば毎朝、早く家を出て、すいた電車の中でゆっくりと本を読んだりして会社に着けば、始業までなおたっぷり時間の余裕があるので、一仕事も二仕事もすることができる。普通の仕事には使わず、創造的な思考の時間に当てるのも一案である。

 また、自家用車で通勤している人も、家を一時間早く出ることを習慣として実行したら、その時間帯だと道路もすいているから早く会社に着けるし、電話がいっぱいかかってくる勤務時間中に比べて、勤務時間前は二倍の能率で仕事を進められるものである。

 このように私が早い出勤を勧めるのは、ビジネスマンで会社に遅くくる人は、それだけで失格だからでもある。

 時間や仕事に追われた人間が、気力を鼓舞し、いい仕事をできるはずがない。優良企業のトップなどは、七時半か八時には出社して仕事をしている。「一日は早朝の時間で決まってしまう」と、彼らは考えているからである。

 一般的にいって、ビジネスマン時代に夜型の生活を続け、一日中時間に追われるままの毎日を送っていると、定年を迎えた時に目標や生きがいがなくなり、精神も肉体もなえてしまうといわれている。

 そんな状態を防ぐには、現役時代から時間に対して、常に前向き、積極的に対応する必要がある。朝遅くまで寝ていてぎりぎりに出社すれば、すでに時間に追われていることになる。

 早くきている人間の場合は、心に余裕があるから、気力を鼓舞して仕事を追える。仕事を追っかければ、結果として視野も広くなって、次にやるべきことに気付くものだ。

 反対に、仕事に追っかけられる人間は対処するだけで精いっぱいだから、仕事に対しても必然的に消極的になろう。

 早寝早起きとは、消極的な人を積極的で気力に満ちた人にする好機であり、日中忙しく時間に追われる人を追う人に変える転機の時なのである。「時間がない。忙しい」といっている人間は、案外こういった朝の時間を捨てていないか、ここで改めて、自分の生活態度を見詰め直すとよいだろう。

 夜型の人間で、「朝はどうにも眠くてすっきりしない」というのならば、思い切って朝風呂に入ってみたらどうだろう。朝食をきちんととっていないという人間ならば、早起きして、少々無理してでもしっかり食べるのもよい。また、ラジオ体操程度の運動をしてみるのもいいだろう。

 とにかく、今まで早起きしていなかった人間には、一日のスタートのイメージをいつもの朝と違ったものにして、精神に刺激を与える自己演出を心掛けることを勧めたい。

 ふだんとは違ったスタートを切ると、その日一日をいつもと一味も二味も違った、新鮮な気分で送ることができるようになる。いつも通う駅までの道も、会社までの道も、今までと違って見えるはずである。

 こういう活性化した精神状態の時は、気合も入りやすく、気力も出やすい。寝不足の目をこすりながら、疲れた体を引きずるように通勤、通学していたのでは、せっかく出した気力も、出るべき気力も満足に生かされない。気力を出すためには、心身の準備運動が何より大切なのである。

∥体を動かす∥

●一日の仕事の計画化で気力を鼓舞する

 ビジネスマンでも、学生でも、気力に満ちた一日を送るためには、朝早くスタートすることが何よりである。会社へ十分早く出勤した日と十分遅れて着いた日を比較すると、その日の仕事の能率が違うことは、サラリーマンやOLなら何度も経験ずみであろう。

 俗に「先んずれば人を制す」ともいう。ビジネスの交渉の席に相手よりも早くくるか、遅くくるかで、結果が違ってくることさえある。

 交渉などで、相手に飲まれないように気力を奮い起こすには、約束の時間よりも早く出向くこともよい。不安や劣等感から「会いたくない」という気持ちが強い時でも、相手より先にゆくという積極性は、「この仕事を成し遂げなければならない」という気持ちを押し上げる。

 また、早く出向くという積極的な行動自体が、不安や劣等感、消極的な気持ちを抑えてくれるから、「成し遂げなければならない」気持ちが高まり、気力も出るのである。

 学生なら、大学受験や就職試験などの時に、定刻よりも少し早めにゆくようにするといいだろう。あるいは、ビジネスマンなら、大事な仕事の待ち構えている日は、いつもより早めに出社する。

 特別の日でなくても、会社にゆくことが憂うつに感じられる月曜日などは、ふだんより十五分だけ早く出てみるといい。それだけで気力も出て、憂うつな気分も吹き飛ぶことだろう。

 会社に着いたならば、仕事に対して気力を奮い起こすためには、仕事への着手を早くすることだ。

 昨夜のナイターやサッカーの話に熱中するなど、朝のおしゃべりに長々と時間を費やすといった行為は、やめるべきだろう。無駄口は、エネルギーの消費、空費なのである。

 次には、その日一日のことを計画することも、仕事に前向きに、気力を出して取り組むには大切。つまり、プランとかスケジュールとかいうことが、気力を鼓舞し、仕事の能率を上げるためにきわめて重要なのである。

 プランというのは、仕事全般を長期にわたって見通すものであり、スケジュールというのは、現在の問題、明日とか明後日の仕事をどう処理するかという、毎日毎日の計画である。

 世の中には、「仕事が多すぎる」とこぼす人が多いが、そのような人の多くは、毎日のスケジュールを作ることが下手なのである。日常の仕事の整理もせず、つまらぬ仕事まで抱え込んで、その雑事に押しつぶされているのである。

 スケジュール作りがうまくいかないのは、つい困難な仕事を先に延ばしたいという意識が、人間に働きがちだからでもある。

 もちろん、ほかの簡単な仕事、やりやすい仕事から着手し、それをステップにして困難な仕事に取り掛かるというのなら、気力の出し方の一つである。

 しかし、気を付けたいのは、単に嫌なことを先に延ばしたいという、逃げの気持ちでやってしまうことで、こんな気持ちでやっていたのでは、うまくやれば次への弾みになるはずの仕事も、ただダラダラとこなしているだけで、一向に能率も上がらない。

 私がお勧めしたいのは、その日にやらなければならない仕事を全部リストアップし、それぞれ重要なものから優先順位をつけていく方法。書類の作成は最重要課題なのでA、机の中の整理はE、企画書作りはBなどランクをつけてしまえば、何から取り掛からねばならぬか一目瞭(りょう)然。重要度がわかると、気力の出しどころもわかってくる。

 朝、仕事に取り掛かる前に、その日一日の仕事を書き出して、真っ先にやらなければならない重要な仕事から着手してみてはどうだろうか。

 常に、真っ先に、一番大事なことをやる習慣をつけるようにし、つまらぬことによって妨げられないようにするのだ。真実の成果を得られないような、くだらぬ小事に気を使って、貴重な時間と労力を無駄に費やしてはならない。

 この際、身近なことが常に最も重要なこととは限らない点も、知ってもらいたい。誰にとっても、時間的に近接している事柄が、その瞬間には一番大切なことのように思えるもの。だが、全体を見通して、果たして本当に適当かどうかを決めた上で、実際に仕事を進めてゆく習慣を作るべきである。

●重要な仕事は活力の満ちている時間に

 さらに、私たち人間の一日の生活時間にはリズムがあるものだから、気力を鼓舞して仕事の能率を上げるためには、自分のリズムを活用し、心身両面にわたるエネルギーの上昇と下降のカーブに仕事を合わせることも必要である。

 このエネルギーのカーブは人間によって違うが、午前中は大抵の人がエネルギーが充実し、集中度が高まっている時間である。

 この時間こそ最も挑戦的な、最も創造的な仕事に当てるがいい。重要な契約とか会議のために、精神状態を鋭敏にしておきたいならば、午前中の時間を割り当てれば、大いに効果が認められるはずだ。

 逆に、決まり切った仕事とか重要でない仕事には、エネルギーの充実した時間を割り振らないこと。精神的、肉体的に自分の能率が下降し、気力の水準が次第に落ち込みかかった時には、より受動的な仕事に切り替えればいい。決まり切った仕事をするとか、一休みするのである。

 すなわち、最も活力に満ちている時間に一番重要な仕事を処理し、能率の低下した時間にはそれほど重要でない仕事を片付けるようにするわけだ。

 今の企業社会を見ると、大抵の人は一番気合が乗って、気力や活力に満ちている朝の時間に、手紙の処理、帳簿の照合、昨日の仕事の残りといった、平凡な日常業務にかかり切っていて、本当に大事な、創造的な仕事に取り組む頃には、頭の回転が鈍くなっているのが実情ではないだろうか。

 人間には一日二十四時間の生体リズムがあり、精神的、肉体的効率は毎日、周期的に変化している。一日のうちには、効率の最も高い時と最も低い時があるが、この効率の上昇、下降というものは毎日、だいたい同じ時刻に起こる。

 これが効率の型で、大抵の人は朝食後一時間ぐらいでピークに達し、その後効率は徐々に落ちて、午後四時頃に最低となり、夕食後はわずかに上昇し、また次第に下降するパターンを繰り返している。

 この生体リズムを大いに活用して、仕事に意欲的に取り組んでもらいたいものである。

 また、同じ時間に同じ労力で、より多くの仕事をこなすために、即時処理というよい方法もある。

 即時処理とは、自分が「やろう」と決めたことは何事であれ、ほとんど反射的に、即座に着手するということである。

 この即時処理のちょっとした習慣、技術を身に着けた人は、例外なく、仕事が楽しく、気力や活気が生まれ、効果的にやれるようになる。

 即時処理を基準に判断し、実行できる人は、交渉相手を訪問するのを引き延ばしているうちに、競争相手に注文をさらわれてしまうこともない。今日中に作らなければならない報告書を次の日まで延ばして、上司から叱(しか)られることもない。

 自分が目下「しなければならない」、「しよう」と判断したことは、すぐにその時、その場で片付けてしまうからである。

 もし、一度でやり切れないようなことがあった場合は、再度できる時間を決めておいて、その時間に間違いなく着手すること。

 すぐ着手するということは、事柄を記憶したり、書き留めたり、初めからまたやり直したりする労力と時間を省くだけでなく、一つの事柄を長く心の中に抱いていることからくるストレスを解消するという効果も認められる。

 手紙の返事を書く必要があったら、即座に書く。後で書こうとしたら、もう一度先方の手紙を読み返さなければならない。意思決定をしなければならない場合は、すぐ下す。仕事に役立つアイデアが浮かんだら、すぐ出す。

 当然、事柄によっては、熟慮を要し、時間をかけて考えなければならない問題もあるにしろ、重要度の低い事柄や急を要する事柄は、すぐ迷わず着手するほうが得策である。

 ビジネスマンに限らず誰もが、今できることを後に延ばすな、今日できることを明日に延ばすな、ということを生活に生かすことである。

 「今すぐ」は気力の鼓舞につながり、物事を成し遂げるが、「いつか」、「いずれ」、「明日」、「次の週」、「後で」などいう考え方は嫌気につながり、失敗をもたらす場合が多い、ということを銘記してほしい。

●すぐ行動する習慣を身に着けよう

 毎日の会社の仕事に気力を出して、能率的に遂行するに当たっては、即時処理の実行で無駄を省くと同時に、リズミカルに行うことも大切になる。

 熟練した大工、左官、庭師、土工などの仕事ぶりを見ていると、仕事の上手な人ほど体がリズミカルに動いていることに気が付くだろう。頭脳的な仕事をする場合の心身のリズムも、これと同じ理屈である。

 能率の悪い人は、何か一事を始めても完全にやり終えないうちに、中途半端なところでほかのものに手を出したりして、仕事に少しもリズムが見られない。

 そういう人は、ある時間、決して無駄で余計な意識を使わず、一つの仕事だけに熱中するようにすれば、おのずとリズムが生まれてきて、気力が出るから能率が上がるものである。

 といっても、やたらに根を詰めて仕事をするように、勧めているのではない。むずかしい仕事を一気に片付けようとするのでは、息が続かなくなるから、途中でペースを調節しながら気力を一新し、能率をよくする工夫をしなければならない。

 それには、三時間仕事に集中したら、十分間だけ仕事に変化をつけるという方法もある。仕事に変化をつけるとは、何も休むことではない。気分転換に役立つようなほかの仕事をやるのである。適当に気分を変えながら仕事をしていれば、成し遂げようとする気力や思考力がスランプに陥るようなことはない。

 そのほかにも、会社において気力を鼓舞しながら仕事をする上で、実行可能な工夫がいろいろある。

 例えば、頭脳を明敏にしたり、日常業務でない特殊な問題に注意を集中するために、短時間自分一人になって考えたいと思うのだったら、静かな喫茶店を利用するのもよい。座席のすいている時間を見計らって電車に乗り、環状線を二、三回回ってみるのもよい。

 天気のよい日だったら、会社の屋上も考える場所になるだろうし、あまり人が混んでいない公園のベンチ、美術館、博物館も、まとまった自分の時間を持ち、新鮮な気持ちで落ち着いて物を考えるのに適している。

 このように工夫はいろいろあるが、ビジネスマンが物事を成し遂げるための要点は、すぐ行動する習慣を身に着けること、精神が自分を動かすのを待っていないで、自ら精神を動かす工夫を試みることに尽きる。

 「仕事が嫌だなあ」などと考えないで、まずその仕事に飛ぶ込み、体で専念してやってみればいい。あれこれ考える前に、思いっ切り自分の体を動かすことが、気力の鼓舞や持続につながる。最初に一歩を踏み出す。そうして初めて状況は動く。

 ほんのちょっとした行動を起こすだけで、状況は大きく変わり、仕事、あるいは勉強に集中するきっかけを作ることになる。机に着くだけでいい。書類をペラペラとめくるだけでもいい。鉛筆を手に持って、ノートに何でもいいから書いてみるだけでもいい。

 とにかく、行動することが大切なのである。書類を眺めたりしているうちに、次第に「やはり今のうちにやっておいたほうがいいかな」という気持ちも生まれてくる。そこで「よし」と気力を奮い起こせばよい。

●動作を素早くすれば心も興奮する

 すぐ行動する習慣を自分のものにし、ここ一番という時に気力を鼓舞し、その成し遂げようとする気力を持続させるエネルギーを持つためには、ふだんからスポーツなどで体を動かす習慣を持つことを勧めたい。

 日本の優秀なビジネスマンも、体を動かすことで気力を鼓舞し、持続させているようだ。経営のトップにある社長、第一線のビジネスマンや現場を統括する管理職たちは、それぞれ「毎朝のジョギングの後に朝風呂に入って、心身をリフレッシュさせてから出社する」、「毎朝五時に起床して近くの公園を散歩してから、ラジオ体操をやる」などと、雑誌やテレビで独自の体を動かす健康法を語っている。

 これらの運動は、健康管理の一つの方法であるとともに、自分の気力の鼓舞と維持のためのものでもあるはずだ。体を動かすことで、精神も興奮する。「仕事をしなければならない」という積極的な気持ちが刺激され、「怠けたい」、「仕事をしたくない」というマイナスの気持ちを上回る。そこで、今日一日の仕事へ向かう気力や、元気が生まれてくるというわけである。

 気力を鼓舞する方法の一つとして体を動かすのに、時間や場所にもこだわる必要はない。仕事や勉強をしている最中、「能率が落ちてきたな」、「ちょっとダレてきたな」と自覚したら、その場で椅子(いす)から立って、背伸びや屈伸運動をしてもいい。床に手をついて腕立て伏せをしてもいい。

 運動の種類は何でもいいのである。要は、体を少し動かすことで、心に活を入れればいいのだ。

 仕事が順調にいかない時や、いらいらして手につかない時には、会社の屋上へ出てみたり、トイレに入って、ゴルフのスイングや野球の素振りのまねをしてみるのもよい。会社の階段を駆け足で上り下りしてみるのもいいだろう。

 これらだけでも、気分が爽快となり、「もう少し頑張ってみよう」と、全身に気力がよみがえってくるものである。

 ただし、長々と体を動かす必要はない。あまりに激しい運動を長く続けると、体のほうが疲れてしまい、気力を出そうにも体がついてこないという結果になりかねない。気力が出たと感じたら、すぐに仕事や勉強に戻ることである。

 自分の気力を鼓舞するには、ただ体を動かすだけでも効果があるが、仕事中にキビキビと素早い動作をするようにすれば、心のエンジンも始動する。

 ダラダラと緩慢な動作で仕事をしていたなら、気力も元気も起きないはずである。一方、キビキビと素早い動作で仕事をしてみると、不思議に気力や元気が出てきたという体験は誰もがあることだろう。

 緩慢で鈍い動作では、体に興奮が起きてこないから、精神も興奮しない。動作を素早くすると、自分の体にすぐに興奮が起こり、精神にも興奮が伝わる。体のエネルギーが心のエネルギーに変わり、気力が出てくるというわけだ。

 そこで、仕事に気乗りがしない場合には、書類をめくるスピード、文字を書くスピード、何でもいいから自分の動作を早くしてみることを勧めたい。怖い上司に飲まれたくなかったら、呼ばれた際には「ハイ」と返事して素早く立つ。それだけのことで、仕事や上司に対して積極的に立ち向かっていけるものである。

 気力を奮い起こしたいと考えたら、自分の肉体の一部に強い力を入れてみるのもいい。心の緊張や興奮が、体のどこか一部に力をこめる形となって現れるのと同様、体のどこか一部の緊張は、心の緊張や興奮となって現れるものである。それによって、心の中のやらなければならない気持ちが刺激され、高まってくるわけだ。

 応用するのは仕事や勉強に飽きがきて、能率が悪くなった時などである。男性ならば、ベルトを締め直したり、ネクタイを強く締め直してみるといいだろう。

 首や腹に力が入るわけだが、真に簡単なことで気力も出て、能率は元に戻ってくるもの。何気ない体の緊張でも、心のエネルギーを一気に高め、気力や元気を呼び起こす。

 私が特に勧めたいのは、下腹に力をこめること。最近の男性が弱々しくなった理由の一つは、腹に力を入れる腹式呼吸ではなく、胸で息を吸う胸式呼吸をするようになったことにあり、腹に力が入らないと、元気も出てこないし、いかにも弱そうに見えるものだ。

 逆に、腹に力をこめることで、元気が出てきて、大胆で、何事にも動じない男になれるのである。

∥刺激を与える∥

●あくびで頭の働きに活を入れる

 さて、仕事に飽きた場合に、力をこめると効果を発揮する下腹について説明してきたわけだが、気力や元気を取り戻したいと思ったら、あくびをすることもぜひ勧めてみたいことの一つである。

 あくびは、体内の疲れを「気」に変えて、体外に放出する自然作用だから、大いに奨励すべきものである。

 あくびの原因が前夜の睡眠不足では怠け者の象徴となるが、気分転換、心機一転の機会ごとに、着想が新しく、新しくと進んでゆくのがよい。そうすれば、意識は前向きで気力も、元気も、やる気も出る。

 事務仕事の多いビジネスマンやOLは人工的に、時々、あくびや伸びをする癖をつけておくと、習慣的に、条件反射運動的に、疲れがたまると、すぐに出るようになる。努めて、このような自然機能が発動するような体勢、体調にしておくことだ。

 俳誌『ホトトギス』の主宰者であった俳人の高浜虚子は、「五十ばかりあくびをすると一句浮かぶ」という特技を持っていた、と伝えられているところ。

 誰もが「頭の働きに活を入れよう」と思ったなら、体の筋肉を引き伸ばすことが一番なのであり、人間が無意識に実行している典型的な例が、あくびや伸びなのである。

 筋肉が引き伸ばされた時、その中にある感覚器の筋紡錘からは、しきりに信号が出て大脳へ伝えられる。大脳は感覚器から網様体経由でくる信号が多いほどよく働き、意識は高まって、頭ははっきりするようにできている。

 あくびも、上あごと下あごの間に張っていて、物を噛(か)むのに必要な咬筋という筋肉を強く引き伸ばすものであることを思えば、俳人の特技ももっともな話だ。

 あくびは「血液の中の炭酸ガスを追い出すための深呼吸」だと説いている書物が圧倒的だが、あくびは「頭をはっきりさせるための運動の一つ」でもあるのである。

 今まで眠っていた猫が目を覚まして、行動を起こそうという間際には、決まってあくびをし、ついでに背伸びをしている。我々人間も、これから起き出そうという際には、伸びをしたり、あくびをする。

 ともに筋肉を伸ばすことによって、頭をはっきりさせる効果があることは、説明した通りである。

 長い会議に出席したり、退屈な講演や授業を聞かされると、あくびが出そうになるもの。このあくびが、頭をはっきりさせて、何とか目を覚ましていようという、無意識の努力の現れだとしたら、周囲も腹を立てたりはできなくなる。

 あくびは自然の覚醒剤。やりたい時には、いつでも堂々とやりたいものである。エチケットに反することになるのは、いかにも残念だ。その点、咬筋の収縮を繰り返しても、同じような効果があるので、ガムを噛むのもいいだろう。

●自分の体を刺激して元気を出す

 また、座りっ放しで仕事をしている人にとっては、体の伸びを取り入れた簡単な運動が気分の転換、気力の鼓舞に大いに役立つだろう。

 椅子に腰掛けるたびに、腕を精いっぱい伸ばし、深呼吸をする。十分か十五分おきに、きちんと椅子に座り直して、肩を回し、体をリラックスさせる。三十分おきに、椅子の背にもたれて、十分に体を反らせる。電話を手元におかず、少し離しておく。当然ながら、電話のたびに手を思い切り伸ばさなければならないので、腕の運動になる。立ち上がるたびに、前かがみになって、足先をつかむようにするなどだ。

 それぞれ本当に簡単な運動ながら、これらを習慣的に実行すれば、緊張を解きほぐし、気力を奮い起こす上できわめて効果的である。

 とりわけ、仕事に飽きた時、気力や元気を呼び起こすために自分の体を刺激する方法で、最も手っ取り早いのは、自分の体をたたいてみることだ。

 芸者がお座敷に出る時、しばしば帯を締め直してポンポンとたたくのは、自分の体を刺激して「気」を引き締めているのであるし、大相撲の力士が自分の出番がくる前に、直接、ほおや太ももをたたいている姿もよく見掛けるところだろう。

 この体をたたいて自分の気力や元気を出したり、人から出してもらったりするのは、一般の人もよく経験していることである。失意のどん底にいるような人間には、先輩や友人などが背中や肩をたたいて「しっかりしろよ」と励まし、元気づけする光景はよく目にするはずだ。

 背中や肩をドンとたたかれた場合、それだけで気合が入り、人間は意外に気力を奮い起こすものである。

 このように、私たち人間は無意識のうちにも、体をたたいたり、たたかれたりして気力を奮い起こしているわけだが、ここ一番の気力、精神力が欲しい時には、これを応用して意識的にたたいてみるといい。仕事や勉強の能率が落ちてきたら、肩や腕をたたくなどしてみることで、能率を持続できるはずである。

 冷たい水をかぶるという行為も、肉体に強い刺激を与えて気力を鼓舞する方法の一つである。体をたたくのは肩などどこか一部に限定されるが、冷たい水ならば、体全身が刺激されることになる。特に冬などは刺激がいっそう強烈なものになるから、体をたたくよりも効果は大きいだろう。

 しかし、当然のことながら、冷たい水をかぶったり、シャワーを浴びるというのは、風呂(ふろ)場や井戸などのあるところに限られてくるから、会社で仕事をしなければならないビジネスマンには、職場の洗面所にゆき、冷たい水で顔や手を洗うことを勧めてみたい。

 仕事にダレてきた時などは、この方法で考え方が積極的なものとなり、思考の行き詰まりを破ったり、なえかけた気分を発奮し直したりできるというものだ。

 この冷たい水とは反対に、熱いお湯で顔や手を洗ったり、熱い風呂につかって体を興奮させ、気力を呼び戻す方法も考えられる。

 以上、成し遂げようとする気力を練り、鼓舞し、持続させるためのさまざまなやり方、手段について、述べてみた。

 要は、自分に刺激を与えることで、精神の緊張状態を瞬間的に高めることが大事なのである。例えていえば、ジャンプをして低いところから高いところへ跳び移るように、気力の水準を素早く上げるわけだ。

 ただし、いくら気力を出そうと試みても、嫌気のほうが圧倒的に強い場合は、大して効果がない。

 こうした時には、やらなければという気持ちの水準を引き上げて、きっかけ刺激が効果のある状態にまで、持ち込むことが必要となってくる。

 やろうという気持ちとやりたくない気持ちが四対六、あるいは五分五分の状態になれば、後はきっかけ刺激一つで、一挙に六対四、七対三の状態に持っていくことが可能で、今までとは見違えるほどの気力や集中力が出てくるのである。

 きっかけ刺激によって、精神の緊張を瞬間的に高めてやると、その勢いで気力や集中力も急上昇していくわけだ。

 ところが、残念なことに、人間の気力や集中力というものは、いつまでも続くものではない。疲労などによって、水準が次第に落ち、やがてまた、気力と嫌気が五分五分に近くなってきて、仕事や勉強の能率も、当然のことながら落ちてくる。そうなったら再び、「やらなければいけない」という気持ちに刺激を与えることが、必要になってくる。

 人間が行動を起こす前だけでなく、行動中、作業中にも自分にうまく刺激を与え、気力や集中力、元気を復活させてやることも大切なわけだ。この途中のきっかけ刺激がうまくいけば、長時間の仕事、勉強にも精力的に取り組むことができる。

 また、気力というものは、自分で出すばかりでなく、人から出してもらうという方法もある。昔の軍隊で精神を鍛えるためと称した体罰や、スポーツのしごき、特訓を思い浮かべると、自分が失敗した時の他人の罰が怖くて精神が緊張し、「やらなければいけない」という気持ちが高まることも、一概に否定はできない。

 一般的な例を挙げれば、職場の雰囲気がたるんできた時、上司が大声で一喝すると、全員ピリッとして、仕事に身を入れるようになったりする。部下たちからすれば、上司からやろうとする気力を出してもらったわけだ。

 このように人から気力を鼓舞してもらうのも、決して悪いことではないにしろ、あまりに他人にばかり頼っているのも問題である。常に他人に依存していると、一喝してくれたり、叱ってくれる人間がいなければ、肝心な時に、気力や意欲、元気や集中力を出せないということになりかねない。

 よく指摘されているように、日本人は集団で行動しないと不安になる傾向が強いが、気力を鼓舞することばかりは、他人に頼っていたり、他人と同じことをしているだけでは、なかなかうまくいかないのである。

 なぜなら、どんな気力の出し方が効果が高いかということは、人によって個人差があるのだ。太郎にとっては、効果の高い気力鼓舞法でも、次郎にとってはそうでないということも、決して珍しくはないのである。

 人間が重要な仕事に取り組む時、好敵手打倒の闘志を弾みに気力が出るという人もいれば、成功した時の充実感を想像することで気力の出る人もいるだろう。

 どんな方法がいい悪いの問題ではなく、それぞれの人に適した方法があるということである。

 つまり、自分が気力を出すには、人のまねをしているだけでは駄目だということで、やはり、最初は試行錯誤しながらも、自分にとって一番効果の高い方法を探していくしかないだろう。

●気力を鼓舞するタイミングがある

 事に当たっての、自分に適した気力の出し方があるとともに、その気力を鼓舞する適当な好機、タイミングというものもある。

 スポーツの監督などは、試合中、それまでの練習で選手たちが得た力を十二分に発揮させる気力の出させ方に習熟しており、とりわけ活を入れたり、気合を入れる間合いをはかるのがうまいものであるが、この気力の鼓舞のタイミングが早すぎると、かえって自軍の選手たちの気力や集中力、闘争心が中断され、意欲に水を差すようなことになったり、監督自らに反発を感じさせるようなことになりかねない。

 逆に、タイミングが遅すぎれば、選手たちもすっかり無気力になり、試合の流れも、もう取り返しがつかない不利な展開にまでいってしまったりする。

 この点、名監督というものは、選手たちの動きや表情を見て、その心理をはかり、いつ、どんなタイミングで発奮させればいいのか、よく心得ているものである。

 ともかく、せっかく気力を鼓舞しても、その呼び起こし方によっては、効果が全く生きてこないことがある。気力は、ただめくらめっぽう鼓舞すればいいというものではない。

 タイミングについて考えてみると、気力の鼓舞というのは、瞬間的な起爆剤である。気力の鼓舞、きっかけ刺激によって起こる気力や興奮、集中力は、そうそう長く続くものではない。その効果が持続するのは、うまくいって二、三時間といったところであろう。

 そこで、気力の鼓舞は普通、今から事を始める直前や、ここからが正念場だという直前に行うのが、最も効果的ということになる。

 一例を挙げれば、午後から重要な仕事が待ち構えているという日に、朝から「さあ、やるしかない」と、いくら入れ込んでも、その気力や集中力が、そのまま午後まで持続することはなかなかないはず。

 むしろ、あまりに早くから意気込んでしまうと、肝心な時になって疲れてしまい、力を発揮できなくなってしまうのが世の常だ。

 これから何か大きな商談をしたり、人前で話したりするという時は、もちろん直前に気力を奮い起こせばいいわけだが、気力の鼓舞が必要になってくるのは、こうした直前ばかりとは限らない。

 すでに述べた通り、ある程度継続して行う仕事などの場合は、途中で鼓舞し直す必要が出てくる。この途中で気力を鼓舞するタイミングは、一般に「気力がなくなってきたな」、「何となくダレてきたな」と自分で感じられる時だが、事務仕事をしている場合など、能率が落ちてきたことになかなか気付かず、そのまま惰性で続けてしまうことが、往々にしてあるもの。

 自分ではわかりにくい、気力を入れ直すタイミングを知る一つのコツは、仕事のちょっとした区切り目を活用することである。仕事中に電話がかかってきて、作業が一時中断したような時や、書類を作成していて、一枚目を終わって二枚目に取り掛かるような時が、この区切り目に当たる。

 このような、今まで集中してきたことから一瞬、意識が離れるような際、再び作業に戻る前に軽く気力を鼓舞すると、次の仕事が順調に運ぶものである。

 その方法は、自分の体を手で軽くたたいたり、洗面所へいって冷たい水で顔や手を洗うなどの物理的刺激でもいい。仕事に集中している周囲の人を見回して、自分の心に活を入れるという心理的刺激でもかまわない。

 もちろん、この軽い気力の鼓舞は、何時間に一度というようなことを決めずに、一つの仕事を続ける間、思い立ったら、何度行ってもいい。

●肉体の充実が気力、元気の根源である

 ここまで、「成し遂げよう」、「やり遂げよう」とする気力を鼓舞するための、さまざまなアイデアを述べてきた。

 実際の仕事や勉強の場などで、それぞれ自分に合った方法を取り入れてもらいたいものであるが、人間はいくら気力を出そうとしても、肉体的条件が整っていなければ、意思だけではどうにもならなぬことも忘れないでもらいたい。

 「歯が痛い」、「目が悪い」、「頭痛がする」ような状態では、どうしても気力は半減してしまう。それほど、肉体と精神は密接に結びついているのである。

 体調の悪い人に「身を入れて仕事をしろ」などといっても、それはもう仕事というよりも、難行苦行のようなものだろう。何はともあれ、体の不調は治してしまう以外にないし、病気でなくても、日常から自分の体調のことはよく知って、肉体を十分に整えておく必要がある。

 どういう状態の時に心身がすっきりして、仕事や勉強に打ち込めるかをつかんでおくことも、気力を奮い起こす上で大切なのだ。

 悪い例を挙げれば、食事に関して「腹も身の内」という言葉があるように、「早飯も芸の内」とばかりに、状況も考えずにただ御飯を詰め込むという人は、自分の体調のことを何も考えていない。

 満腹状態というのは、生理的欲求が満たされて、精神の活動が鈍くなっている状態でもあり、とても仕事に向かう瞬発力など生まれてこない。では空腹がよいかというと、これまた本能的に食餌(しょくじ)行動の欲求が起こり、集中力は出てこない。

 生理学的には、満腹時から空腹時に移る程よいおなかのすき具合の時に、思考活動が高まることになっているから、食事は腹八分目くらいにとどめておかないと、大事な仕事をしくじることにもなりかねない。

 そこで、食事の際には、適量の食べ物をよく噛んで食べることが大切。よく噛めば、おのずと腹八分目の限度がわかってくる。

 多くの人は、百グラムの食べ物を食べる時に、十だけ咀嚼(そしゃく)し、十の唾液しか出さずに、ガツガツと食べてしまう。これが五十グラムの食べ物であっても、五十の咀嚼と唾液を加えて完全な食べ方をすれば、すべてが完全燃焼して、素晴らしいエネルギーに変化するのである。

 腹八分、バランスのとれた物を少しずつ食べることである。淡白に味をつけた小食をよく噛めば、まことにそのものの味が出る。人生の味も腹八分の心構えを、平素身に着けることだ。

 「食べ物がおいしいから」といって、たくさん胃の中に詰め込めば、胃はいっぱいになって胃液すら分泌できにくくなってしまう。相当長い時間をかけないと消化しないのに、次の食事時間がくれば、また食べてしまうから結局、胃が重いとか、もたれるということになるのは当たり前なわけである。

 胃というものは、食べ物を消化するだけではなくて、生きていく上の意識に非常に大きな働きを持たされているから、胃がもたれ、気分がすぐれないなどということは、みな心の受ける悪影響、自己意識となるのである。

 一方、よく噛んで食べれば、腹いっぱい食物を押し込まずとも、少なめの量で栄養分が必要なだけ吸収されるものであるし、そのほうが胃に負担にならず無駄もないし、力も出るものである。

🟩脳の健康と手足運動

∥脳は手を養い、足は脳を養う∥

●ボケを防ぐには歩くことが不可欠

 ボケのような症状はある程度生理的なもので、年を取るとともに必然的に現れてくると考えることもできる。しかし、日常生活の中にわずかな工夫を加えることで、脳の老化の進行を遅らせられるのも、事実だ。

 脳の老化を抑えるには、脳に脂質や糖、フィブリノゲンという血液を凝固させる成分の一つである蛋白質が必要以上にない、よい血液を循環させることが、重要な要素となる。そのために特に注意したいのは、過食と動物性脂肪、塩分のとりすぎ。そして、適度な運動を心掛けることも忘れてはならぬ。

 長い間、肥満や運動不足の状態にあると、悪玉コレステロールや中性脂肪などの脂質が血液中に多く残るようになり、やがて、この脂質が血管壁に付着していく。これにフィブリノゲンの作用も加わって、血管を硬化させるようになる。このフィブリノゲンの血液を固まらせる力が大きくなりすぎると、血管を硬化させるだけでなく、血の塊である血栓を作って、脳梗塞の原因となり、ひいては、ボケを起こすことにもなるのである。

 怖いフィブリノゲンの力を低下させるには、全身の筋肉の三分の二が集まっている腰から下の下半身、すなわち足を積極的に使って、ある程度強い運動をすることが必要となる。

 足腰に強い力がかかる運動により、全身の血流が促進される。また、少し強めの運動をすると、フィブリノゲンを溶かす作用も高まるから、血栓ができにくくなり、ボケ防止に大変役立つというわけである。

 足の衰えを防ぐためにも、速足歩きの実行をお勧めしたい。私たち人間は普通、一分間に七十~八十歩の速度で歩いているが、速足歩きとは百歩前後にスピードを上げることである。時間は、一日に二十分から三十分程度でけっこう。 この体を支える足を使って歩くことによって、血液の循環がよくなり、血圧も調整されるばかりか、脳の働きも活性化する。

 歩く時には足の筋肉が働いているので、その中にある感覚器の筋紡錘からは、しきりに信号が出て大脳へ伝えられる。大脳は感覚器から網様体経由でくる信号が多いほどよく働き、意識は高まって、頭ははっきりするようにできているのだ。

 人間の若さは大脳に集約されて表れ、足が衰えると長生きできないといわれるのも、足の筋肉から大脳へゆく信号が減り、弱くなるためである。

 手の運動をつかさどる脳の分野があるように、足の運動をつかさどる働きも、位置と占める割合こそ違うが大脳にはある。この大脳にある足の運動を担当する領域と互いに連動し合って、歩くのに使われる筋肉は、特に歩行筋と呼ばれており、おしりの筋肉である大臀(だいでん)筋、大腿四頭(だいたいしとう)筋、下腿(かたい)の腓腹(ひふく)筋やヒラメ筋などである。

 これらの歩行筋だけで全身の筋肉の半分以上を占めているのだから、気づいていないかもしれないが、歩くという単純な運動を続けるだけで、大脳ばかりか、体の多くの筋肉を鍛えることができるのである。

●足の筋肉の衰えが脳の衰えにつながる

 言い換えれば、足の筋肉が大脳を養っており、筋肉の衰えが大脳の衰えに直接つながるということだ。 足は、それが今どうなっているかという信号や情報を多量に、かつ盛んに大脳に送り続けている。

 つまり、足は末端から大脳へという求心性の制御機能を多く持っているのである。対して、手は大脳から末端へ指令が出る遠心性の制御機能を多く持っている。

 そのために、脳は手を養い、足は脳を養っているといわれたりするのだ。 足や胴体に多い求心性に優れた筋肉には、遅筋線維が多く、物を投げたり、つかんだり、けったりする時に主に使われる遠心性に優れた筋肉には、速筋線維が多くある。速筋線維、すなわち相性筋線維は、年齢とともに委縮して大きな力は出せなくなるが、遅筋線維、すなわち緊張筋線維のほうは、速足歩き程度の運動をしていれば委縮することはない。

 そして、この遅筋線維を衰えさせないことが、脳のために重要なのである。というのも、遅筋線維は、立ち上がることや歩くことが減ると、筋線維の数を減らしてしまうからである。すると、脳の働きを活発にさせる働きが弱くなってしまう。

 このような足と脳の関係があるので、足が衰えると長生きができなくなるといわれるのだ。 不断の歩行により、大地に足を印することは、脳に微妙な刺激を与え、脳の疲労をとり、脳を健全にすることにも役立つことを忘れないでほしい。

 頭をはっきりさせるばかりか、歩くことの刺激によって、人体の横隔膜の下にある肝臓、胃、腸、脾(ひ)臓、すい臓、腎臓、膀胱、それに女性ならば子宮などの臓器において、停滞している機能が適度にほどけて、働きが活発になる。

 同時に、横隔膜の上位にある心臓も肺も、機能的に血液の循環をよくし、血液への酸素の供給が盛んになるため、当然、意識はすっきり、気分はさわやかになってくるのである。血液の流れが速くなるので、管にたまった汚れを掃除する。血管が膨張して、若返る。しかも、刺激が強すぎることもない。

 歩くことは、基本的に無害なトレーニングであり、運動なのである。この点、運動生理学者も、トレーニングによって体を鍛えられるだけでなく、精神的なストレスも軽減できると保証している。

 紀元前四世紀の昔、医学の祖といわれるヒポクラテスが「人間の体は、使うことで開発され、使わないことで弱くなる」といっている通り、人間の肉体はよくできたもので、外界から刺激や緊張などのストレスがかかると、これをはね返そうと働き、体を鍛える。トレーニングの原点はここにある。

 運動によって、脳の中に天然の鎮痛剤であるエンドルフィンという物質が分泌される。モルヒネの数百倍とされる効き目があり、不安の痛みを鈍らせ、ストレスの影響を緩和するといわれている。

 ところが、ジョギングなどの強い運動をすると、攻撃性の強い酸素分子で、万病の元になる活性酸素が体内に発生するために、健康に有害な面もあるといわれる。歩くといったゆるやかな運動の場合は、脳内ホルモンが出て活性酸素の害を中和してくれる。その意味でも、歩く運動は適しているのだ。

●頭も足も使わないと委縮するもの

 走るより軽い歩行でもストレスを軽減できるし、さらに、歩くことによって下半身の筋肉の運動がなされて、腸の蠕動(ぜんどう)運動も順調になる。便秘というものは、腸の蠕動運動が鈍るために起きる現象である。

 このように、歩くという単純な運動でも、脳をも含めての内臓諸器官を調整し、強化することになるのである。このことは、とりもなおさず、一切の病苦に対する最良の防衛力を強化する手段となる。

 脳卒中のリハビリテーションの権威は、中高年時代に運動を続けていた人は、脳卒中で倒れた場合でも、その機能回復がスポーツゼロ族に比べ、はるかに早いと述べている。

 歩きが減量とか、体重維持に効果があることも実証されているところで、いろいろな機関の最近の医学的研究によると、一般社会人が健康状態を保つには、一日に三十分以上歩く必要があるという。一日の歩数の多い人ほど、心電図異常の発現が少ないとか、動脈硬化を助長する高脂血状態が改善されるという発表も見られる。

 速足歩きなどを行うと、血液中の余分な脂質が燃焼し、善玉コレステロールも増えるから、動脈硬化が防止される。その結果、脳へよい血液が多量に循環されることになる。

 すなわち、歩くことは、脂肪を燃やすための非常に優れた運動なのである。成人病の大きな原因が肥満、つまり体に脂肪をためすぎてしまう点にあることは、一般によく知られていることだろう。成人病世代である中高年には、過激な運動は向かない。脂肪を燃やすための、できるだけゆるやかな運動が適しているのである。その運動の筆頭が歩くことなのだ。

 やはり、私たちの体は頭と同様、上手に使うことが、その健康維持に大切。頭でも足でも使わないと、だんだん委縮する。機械化、自動化、省力化が進むにつれて、人間の体力は当然落ちていく。「現代人の直立能力があやしくなってきた」、と指摘する医学関係者もいる。下半身に力のない人は、概して感情や圧力を起こしやすく、ヒステリー的である。

 なるべく下半身を鍛えるためにも、二本足で歩くという人間の自然な、根源的な行為を大切に心掛けたいものである。

 毎日の通勤、通学の際、一駅前で下車して歩く、買い物の時いつもより遠くの店へゆくなど、意識的に工夫をしたり、特別な運動プログラムを組んで、あなたも一日三十分以上、ないし一日一万歩を目指して努力してはいかがだろうか。

 一番よい歩き方は、ブラブラ歩きではなく、姿勢をよくして大きく手を振って、サッサと大股(おおまた)に歩くことである。気構えを正しくして歩む。心で歩まず、肉体で歩む。腹と腰で調子をとって、悠々と歩むがいい。

 できることなら、舗装した歩道でなく、地面から大地の磁気を受け得るような土のにおいのする道がいい。

 そして、昔から「早起きは三文の得」といわれているように、朝の散歩は人間にとって理想的である。何より空気は澄んでいるし、よい空気により、寝ているうちに始末のできなかった過剰の血糖を調整し、余計なものを代謝して、血液の酸性を除くことにもなる。

 だから、誰もが日常、なるべく歩くことを心掛けたいもの。私たち人間は足で立っている動物だから、体が大切ならば足の運動は欠かさずやるべきである。

●歩き以外の下半身鍛錬法について

 散歩、速足歩きなどが最もよい運動であるが、またゴルフもよろしい。景色のよいところで、清澄な空気のもとでの運動は足を動かすから、下半身の主たる運動だけでなく上半身、腕の運動にもつながる。その他、エアロビックダンス、縄跳び、水泳、体操などもよいだろう。

 さらに、サイクリングもよい。自転車による足の筋肉を動かす効用として、一分間に五十回転ペダルをこぐ間に、石油缶一缶くらいの血液が、血管や心臓を洗い流して、動脈硬化、心臓の疾患の予防に役立ち、新陳代謝が活発になるという。

 しかも、ペダルの位置によって動く筋肉が異なり、一つの筋肉が動くたびに、脳への刺激が届くから、両足でこぐ間に膨大な量の刺激となって、老化防止にもつながる。

 片足立ちも、脳の老化防止に実行を勧めたい運動である。左右どちらの足でもかまわないから、片足立ちになり、目を閉じて、バランスを保って立ち続ける。手は力を入れず下げておく。一分ぐらいたったら、または、ふらついてバランスを崩し、浮いていた足を地面に着けてしまったら一回とし、五回行えばよい。

 この片足立ちを行うと、足の筋肉はふだん行っている運動や動作と違う動きに戸惑いを感じ、筋肉が伸び縮みを感じる器官の筋紡錘や、腱(けん)が引っ張られていることを感じる器官の腱紡錘を通じて、より複雑に入り組んだ情報を脳へ送る。すると、脳は新しい事態に困惑し、懸命にその動作に対応しようと模索する。

 その結果、脳が活発に働くようになり、脳内での糖の代謝も高進する。また、休止していた脳の中の毛細血管の血液循環も高進するため、脳の働きが若返ることになるのである。

∥脳の働きを高める手指の訓練∥ 

●運動には無理をしない心掛けが必要

 注意してもらいたいことは、この運動というものは、自分の体に適する程度に加減すること。

 例えば、中年すぎの女性で、連日三十分以上歩くと下半身に疲れが残って、気分がすっきりせず、体調が悪くなるという人が少なくないようだが、こういう人は三十分歩行では運動が過度だと考えてほしい。

 よく歩いた日に限って眠れない人は、歩きが体を興奮させるとも考えられる。逆に、歩けばよく眠れるというのであれば、適度の疲れが眠りを誘っているといえよう。

 このような眠りに対する影響なども、運動の程よさのわかりやすい目安になるのである。

 すなわち、運動は過度ではいけない。快い疲労の程度ならよいが、過労ということは、運動の目的をはずれることで、かえって体力を減じ、いろいろな器官を損なうことにもなる。

 特に高齢者では、ちょっとした運動でも、体に影響することがある。高齢者が朝起き抜けに散歩するなら、甘い物でも口に入れてから出掛けるか、食後にしたほうがより安全である。体操をするなら、体をできるだけゆっくり動かすこと。関節の痛みを我慢してまで動かすことは感心できない。寒い冬に急激な運動をすると、思わぬ事故が起きることがあるので、慎重に行うことも必要である。

 中年以後の、いわゆる健康維持、それが寿命を延ばすという日常姿勢であって、適度の運動は若返りになるトレーニングでもあり、いたずらに寿命を延ばすだけでなく、老境には老境にある人々のやるという新しい意欲も起こり、やる仕事も当然に起こる。

 要は、人間の正しい生き方は、肉体的に鍛えること。それが精神につながり、精神の安定を得る道。

 誰もが、無理をしない程度に運動をすることを心掛けたいものである。体を動かすということは健康と長寿のためには不可欠であるから、百歳人などはみなそろって仕事好きである。仕事好きは運動好きでもある。

 高齢者で全身の運動ができなければ、足を動かすだけでもよい。

 簡単にできる足の健康法を紹介すると、まず仰向けに体を投げ出し、両足を三十センチぐらいの台に乗せ、足首を内側、外側と交互に二十回ほどひねると効果がある。慣れるにつれて、四、五十回続けると、疲労回復はもとより、全身機能も若返ってくる。これは、足の薔薇(ばら)静脈を鍛錬する運動である。

 体力の衰えを防ぐには、足裏の土踏まず中央の上側にあるツボを、指先で押したり、もんだりするのもよい。ツボは足の親指の根元にある、ふくらみのすぐ後ろ側だが、ここは昔から神気の湧くところ、生命の躍動する場所として、「湧泉」と呼ばれてきた。「押せば命の泉湧く」というわけである。指圧に際しては、痛いが気持ちいいという程度の力で、呼吸のリズムに合わせて行うようにすればいい。

 最後に高齢者に注意しておきたいのは、年を取ると平衡感覚が鈍るということである。一番危ないのが階段で転ぶこと。これも上る時は転んでも前に手を着くからいいのだが、下りる時が危ない。もしお宅が二階家で階段に手すりがなかったら、ぜひつけてほしい。要するに、転ばぬ先のつえを考えねばならないということだ。

●脳の働きを高める手や指の訓練

 人間の足に続いては、手を鍛錬して頭の働きを維持する方法を述べよう。

 体の中で、生かされているという自然の中に深々と根差しているものは腹から腰、それから生殖器官、そして両脚、両足であるのに対して、人間の手は生きるという面に、生きるための働きをしている。

 手は自由自在に独立しているかのごとく、さまざまなことをなすことができる。生きるという自力を発揮する上で、手というものがどのくらい進歩してきたかを考えれば、人間はまだまだ、現在くらいの働きで満足していることはできないだろう。

 かの哲学者カントは人間の手を称して「脳の可視部分」といったが、大脳の半分以上が手を動かすための役割をつかさどっているともいう。足の運動をつかさどる脳の分野があるように、手の運動をつかさどる働きも、位置と占める割合こそ違うが大脳にはあるわけだ。この大脳にある手の指の運動を担当する領域は、足の運動野の十倍以上の広さを占めており、互いに連動し合って、複雑な動作をも可能にしているのである。

 そこで、頭のボケを防ぐために、誰もが簡単に自分でできることとして、互いに連動し合っている手のひらを鍛錬するのも、一つの効果的な方法となる。

 お寺の和尚が念仏を唱える時に、数珠を手のひらでもむ。それはお経をありがたくするということだが、手のひらを鍛錬してボケを防ぐということが、その中にちゃんと入っているのだ。

 中国の気功術の手始めも、両手の手のひらをこすり合わす。そろりそろりと手のひらを離すと、両手のくぼみの間に「気」が通う。これが気功の第一課だといわれている。

 両指先を動かす末端運動もボケの予防になる。なぜなら、血液の循環は心臓の鼓動による力ばかりでなく、血管、ことに毛細管の末端にある動脈系と静脈系を結びつけるグローミーというものの働きが、同時にその原動力となっているが、末端の運動はその血液循環をよくするからである。

 よく、中国では長寿法の一つとして、クルミを両手に始終持って常に動かすという。これなども結局、手、指先を動かすのがいいということである。使えば使うほどよいのが手と頭と足である。

 では、脳の働きを活発にする指の効果的な動かし方を、いくつか紹介することにしよう。

 まずは、考えながら指や手を使うこと。手足の筋肉を長期間動かさないと筋力が衰えてくると同様に、脳も使わないでいると老化が進み、ボケにつながる恐れがあるが、脳の場合は頭の中で考えを巡らせるだけでは、ほとんど効果がない。大切なのは、考えながら手を使うことなのだ。

 つまり、ある方向に手を動かしたり、細かく働かしたりすれば、大脳の運動野の領域が働いて、脳力の向上につながる。また、手順のある作業を行ったり、順番をつけて手を動かしたりすると、大脳の運動連合野と呼ばれる領域が働いて、脳力の向上につながるというわけだ。

 この点で、代表的な手作業は料理である。目的とする料理を頭の中に描いて、包丁で素材を刻んだり、ハシでかき混ぜたり、米を研いだりして、手を創造的に動かすからだ。

 碁や将棋、マージャン、テレビゲームなどでも、同様のことがいえる。こちらは一手ごと、場面ごとに、次にはどういう局面になるかを絶えず考えながら、手を使って対処するからだ。そのほか、日記や手紙、メモなども、考えながら字を書く創造的な手作業ということができる。

 次は、ふだん使わない指を使うこと。人間が日常、字を書いたり、ハシを使う時、小指や薬指はほとんど使わないため、大脳の運動野や運動連合野などへの刺激も、不完全なものとなっている。そこで、小指で電話のダイヤルを回したり、薬指で電卓のボタンを押したりする習慣をつけると、大脳を十分働かせることにつながる。

 さらに、なるべく利き腕でない手を使うこと。一方の手ばかり多用していると、その手を支配する側の脳しか刺激されない。左右の脳を生き生きと働かせるためには、両手使いを実践することである。例えば、右利きの人ならばボタンを左手でかけたり、食事のハシやナイフを左手で持って食べたりするのもよいだろう。

 最後は、指運動。まず、両腕を真っすぐ伸ばして、床と水平になるまで持ち上げ、その位置で指と指ができるだけ離れるように思い切り開いたり、しっかり握ったりする。回数は一日五十~百回。続いて、手を頭の上に上げて、手首を外向き、内向きに回す。手首を外向きにねじる回外運動と、内向きにねじる回内運動を、続けて二十~三十回行うこと。

 足と同様に、自らの手で脳を養うこともできることを忘れないでもらいたい。

🟧全国で新たに4万667人新型コロナ感染 前週より2927人減る

 新型コロナウイルスの国内感染者は4日午後7時30分の時点で、4万667人が確認されました。前週の火曜日(9月27日)より2927人減りました。死者は90人でした。

 この日、新規感染者数が最も多かったのは東京都の4310人。東京都に続いて新規感染者数が多かったのは大阪府の3271人で、次いで北海道の2808人、神奈川県の2606人、愛知県の2411人、埼玉県の2158人でした。

 また、新型コロナウイルスへの感染が確認された人で、人工呼吸器や体外式膜型人工肺(ECMO<エクモ>)をつけたり集中治療室などで治療を受けたりしている重症者は、4日時点で167人となっています。重症者の数は3日と比べて5人増えました。

 10月2日に行われた自主検査を除くPCR検査などの数は、速報値で1万7886件でした。

 一方、厚生労働省は4日、大阪府内で新たに3271人が新型コロナウイルスに感染していることを確認したと発表しました。これで大阪府内の感染者の累計は210万4992人となりました。

 また、6人の死亡が発表され、府内で感染して亡くなった人は合わせて6462人となりました。

 重症者は28人となっています。

 2022年10月4日(火)

2022/10/04

🟧東京都で新たに4310人新型コロナ感染 7日連続で1週間前を下回る

 東京都は4日、新型コロナウイルスの感染者を新たに4310人確認したと発表しました。前週の火曜日より937人減り、7日連続で1週間前を下回りました。60~90歳代の男女8人の死亡も発表されました。

 4日までの1週間の感染状況をみると、感染者は1日当たり3950・9人で、前週(6521・6人)の60・6%でした。

 4日に発表された新規感染者数を年代別でみると、最多は40歳代の773人で、20歳代が689人、30歳代が688人、50歳代が583人と続きました。65歳以上は350人でした。

 病床使用率は25・7%。「人工呼吸器か体外式膜型人工肺(ECMO<エクモ>)使用」とする都基準の重症者数は、前日より4人減って10人でした。

 2022年10月4日(火)

🟧AGC、新型コロナワクチンの原料を生産へ 国内での一貫生産体制が可能に

 ガラスを始めとする素材メーカーのAGCは、薬の受託生産も手掛けて世界中の製薬会社から注文を受けており、新型コロナウイルスワクチンで用いる「メッセンジャーRNA(mRNA)」と呼ぶ原料を国内で生産する体制を整えます。日本では第一三共などが国産ワクチンの開発に動いており、医薬品メーカーに提供します。ワクチンは経済安全保障の観点から自国内で開発・製造する動きが進んでおり、主要原料の量産で国内での一貫生産体制が前進します。

 AGCは横浜市の拠点に新たな製造設備を設け、2025年にも年間で数百万回から数千万回の接種回数分に相当するワクチン原料のmRNAを量産できる体制を整えます。投資額は他の医薬原料を含む数百億円を検討しています。

 mRNA技術は足元の新型コロナワクチン向けにとどまらず、幅広い応用が期待されています。AGCはmRNAなど幅広いワクチン原料を国内製造できる体制とし、未知の世界的流行(パンデミック)に備えることを想定しています。

 新型コロナでは、日本はこれまでワクチンを海外調達に頼っており、感染拡大初期に接種で遅れた経緯があります。国も国産ワクチンの供給体制構築を後押ししており、原料安定供給の体制を整えれば、今後新たな感染症対策などで迅速に対応しやすくなります。

 mRNAは細胞の中でタンパク質を組み立てるための遺伝物質で、mRNA技術を使ったワクチンは人の細胞に働き掛け、ウイルスのタンパク質をつくらせることで免疫を得る仕組みです。新型コロナ向けとしてアメリカのファイザーやアメリカのモデルナが世界で初めて実用化しました。

 新型コロナ向けのmRNAワクチンを巡っては、国内勢では第一三共などが開発を進めているものの、現状は新型コロナワクチンの国産開発はできていません。

 経済産業省はmRNAワクチン製造を支援し、対象として9月末にAGCやタカラバイオのほか、富士フイルムや第一三共など計5社を採択しました。タカラバイオは1月、滋賀県草津市の工場で新薬開発のスタートアップ企業などからmRNAワクチン原料の受託製造を始めました。現状は最大1200万回分をつくれる能力があり、今年度内に2~3倍に増やします。

 アメリカの調査会社のBCCリサーチによると、ワクチンなどmRNAを使った医薬品の2026年の市場規模は2021年比2倍強の1000億ドル(約14兆5000億円)になる見通しです。ワクチンだけでなくがん治療薬などにも応用され、世界的に需要が高まるとみられています。

 2022年10月4日(火)

🟧国内6例目の「サル痘」確認 最近の海外渡航歴ない東京都の30歳代男性

 東京都は4日、天然痘に似た感染症「サル痘」の感染者が都内で新たに1人確認されたと発表しました。日本での感染確認はこれで6例目となります。

 サル痘への感染が確認されたのは都内に住む30歳代の男性です。

 都によりますと、男性は発疹やリンパ節のはれがあり、9月29日に医療機関を受診し、同日に都が検査した結果、感染が確認されました。

 現在医療機関に入院していて、状態は安定しているということです。

 男性は最近の海外への渡航歴はなく、都は感染経路の確認を進めています。現時点で周囲への感染の広がりは確認されていないといいます。

 2022年10月4日(火)

🟪新型コロナ、沖縄県が独自で注意喚起へ 流行時に「拡大準備情報」を発出 

 沖縄県は19日、新型コロナウイルス感染症の流行が疑われる場合、県独自で「新型コロナ感染拡大準備情報」を発出すると発表しました。新型コロナについては、過去の感染データの蓄積が乏しいことなどから、国がインフルエンザのような注意報や警報の発令基準を設けていない一方、重症化する高齢者...