2022/10/04

🟩笑ってリラックス

∥笑い、そして、ほほ笑み∥ 

●人間の笑いから湧き出るエネルギー

 編集子がいくら、「宇宙天地大自然の原則に従って、疲れたら休み、早く寝る生活によって、宇宙に生かされ生きる楽しさを体覚できれば、毎日が実に楽しいものである」と述べても、「それは特殊な、解脱したような境地にすぎない。自分にとって、人生は苦だ。生きがいも見付からない」という方には、試しに「アッハッハ」と笑ってみることをぜひお勧めしたい。

 宇宙天地大自然の創造の神は、美しいもの、優しいもの、本当のものを見れば、楽しくてならないように人間を創った。楽しくなかろうと、誰もが「アッハッハ」と笑ってみれば、腹の底から息が全部、吐き出せる。何となくすっきりとし、気分爽快で愉快になるはず。

 笑えば胸の内圧が下がり、肩も垂れ、上半身がリラックスすると同時に、七福神の布袋(ほてい)和尚のように下腹が突き出て、ヘソが天井を向き、腰がぐっと締まるという効果が、おのずから発揮されるのである。

 反対に、泣けば肩に力が入り、腹や腰は虚脱する。試しに、すすり泣きをまねてみれば、息を吸い込むばかりで、果ては胸苦しくなり、妙に寂しく、悲しくなるはず。

 なるほど、笑いは「百楽の王」。仏教でも「和顔施(わがんせ)」といって、何もなくとも笑顔が人に功徳を与えると説いている。笑いは人生の妙薬である。

 人間の感情には喜び、怒り、悲しみ、楽しみ、驚き、さらに憎悪や恍惚(こうこつ)などいくつかの種類があるが、このうち最も望ましいものは、当然ながら喜びと楽しみであり、そのポジティブな感情の主な表現が、この百楽の王で、人生の妙薬たる笑いの表情なのだ。

 事新しく奨励するまでもないかもしれない。私たち人間は人生の中で笑いを求め、他人にも笑顔を向け、他人と笑いを共有しようとしているはずだ。感情を表すあらゆる表情の中で、笑いや、ほほ笑みは最も頻度の高いものといえよう。

 人間誰もが、安心感を得て、喜と楽の感情の中で生きられる時、幸せを感じる。そういう時には、自然と笑いがこぼれ出るもの。

 しかし、普通の人の現実の生活の中では、なかなかそうもいかず、面白くないことや、悲しいこと、もめ事が尽きず、どちらかといえば、ネガティブな感情に捕らわれることが多いのが、現実かもしれない。

 ポジティブな感情のほうは、えてして長続きせず、ネガティブな感情に支配される時間のほうが、長いことだろう。

 だからこそ、人間が心身ともに健康に生きていくためには、消極的な状態に落ち込んだ時に、いかにして積極的な感情を注ぐことができるかが、真に重要となる。幸い、笑いがその役目を果たしてくれる。

 一般に、「泣きたい時、しんどい時にこそ、笑いを忘れてはいけない」といわれるのは、なぜか。笑ってしまえば、へばりついていた何か重たいものが落ちてしまって、本来の自己が現れ、エネルギーも湧いて出てくるからこそであろう。

 笑いというのは、人間が平衡状態を崩した時に、それを元に戻そうとするエネルギーなわけだ。

●本来的に備わった能力を活用しよう

 私たち人間というのは本来、自己の肉体内部に、心身のバランスをとって生きていこうとする力を宇宙天地大自然から与えられており、外界の毒素に対しても一定の抵抗力を内発させる免疫機能を与えられている。

 この内発的な抵抗力によって、言い換えれば内発的な自然治癒力を持つことによって、外界に適応できているわけである。

 その内発的な治癒力が崩れた時、私たちは病気になる。薬を必要とし、医者の世話になる。従来の西洋医学の研究は、病気になった人を治癒するために、いろいろな新薬を開発し、さまざまな治癒技術を開発してきた。東洋医学と異なり、人間が内発的な治癒力として蓄えている自然の能力を活用することに、熱心であったとはいえない。

 笑いも、人間に本来的に備わった内発的な能力、内発的なエネルギーなのである。誰もが、素晴らしい能力の活用をもっと積極的に、考えなければいけない。

 「笑ったら必ず救われる。病気も治る」というのは、無理な注文である。ここで私がいいたいのは、笑いがポジティブな感情を喚起する、という利点を持つことである。

 なぜ笑いがポジティブな感情を引き出してくれるのかについては、先にもいったように、笑うという行為は息を吐く行為であるから、心身の緊張を解いてくれることは、誰もが経験的にわかっていることだろう。

 人間が心身のバランスをとって健康、健全に生きていくための、自然の仕掛けとして湧出(ゆうしゅつ)してくるエネルギー、それが笑いではないかと思われるのである。

 だから、人間は笑いのエネルギーを活用し、肉体生理を活性化することによって、体で精神に方向がつけられる。体位から心のゆがみを是正できる。

 人間誰もが常に、楽に、楽しく生きよう。泣くも人生、笑って暮らすも人生。悲観するも人生、楽観して暮らすも人生。悄然(しょうぜん)とするも人生、泰然として暮らすも人生。

 くよくよしないで、何かあったら笑い飛ばして「カンラカラカラ」で過ごすがいい。

 この笑いに関連した生理的反応としては、自律神経系のうち副交感神経に由来するものが優位となることが多い。例えば、笑いの後では心拍と血圧は減少するか、他の情動と比べると低い状態になり、唾液や涙の分泌が生じやすくなる。

 また、この笑いというものは、ポジティブな感情を引き出すものであるから、人間のやる気を奮い立たせるきっかけとなり、刺激ともなる。

 まず、笑うことで不要な重苦しい緊張も解かれ、気分は明るい方向に進んでいく。この明るい気持ちが、「仕事も勉強をやりたくない」というマイナスの気持ちを抑え、「何とかやってみよう」という、やる気を呼ぶのである。

 わけても、瞬間的に大声を出して笑うならば、自分をやる気にさせるのに一層、効果的だ。

 この意味で、会社や家庭や学校の周囲を見回してみれば、大声で快活に笑う人物には仕事や勉強などの能率もよい人が多い、ということに気付くであろう。

 私たち人間とは不思議なもので、笑う習慣が身に着くと、自分が楽しい気分になれ、笑いたくなるような現象に敏感になってくるもの。進んで笑うことで、やる気を出して仕事や勉強に取り組めるのである。

 誰もが笑い上戸を見習って、憂うつな気分、落ち込んだ気分で物事に身が入らない時には、居直ってでもいいから、腹の底から「アッハッハ」、「ワッハッハ」と大笑いしてみたらよいだろう。

 楽ちん人生、気楽人生の妙は、心を天に預けて、笑って暮らすことと覚えたりだ。

 笑って太れ。笑っていれば、ひとりでに幸せが転げ込んでくる。笑いのあるところは、雰囲気も明るい。人の常として、笑いがあるところには、楽しいことがあるのではないかと気が引かれる。その人物に関心が向き、人も寄ってくることになる。笑いの誘引作用といえよう。

●ほほ笑みという微笑がもたらすゆとり

 もう一つ、楽に、楽しく、気楽に毎日を生きるために私が特に勧めたいのは、笑いというほどの大笑いではなく、ほほ笑みという、いわゆる微笑である。人間にとっては、ほほ笑み人生が最善。大笑いや高笑いまでいくと、楽しさがこぼれてしまうのが気掛かりとなるからだ。

 もともと、人間の赤ん坊が生まれて、最初から持っている表情は泣きの表情であり、その次に現れる表情はうれしそうな笑い、ないしは、ほほ笑みである。

 意味をなす言葉を発することのできない人間の子供や、そもそも言葉を持たない動物の子供が、母親に自分の状態を伝えることは重要である。自分の状態の最も大まかな分類は快、不快であり、子供は母親に快につながる行動を多くしてもらい、不快につながる行動を減らしてもらわなくてはならない。

 このような目的のために、快い場合はほほ笑みを、不快の場合は泣く行動をとるように、人間の赤ん坊が進化しているのは当然といえる。

 人間が喜んだ時に出る笑いは、このような原初的なほほ笑み行動に由来しているものだと考えられる。この赤ん坊の快信号の表情は、子供時代の遊びの笑いや、大人になった時の融和の笑いに、簡単に転化できる性質の表情である。

 そして、この人間のほほ笑みとは、楽しい体の感覚や、五官のほころびから作られる、天来自然のものである。そのほほ笑みの中には、すべての苦労も争いもみな融け込んで浄化されるから、人は一生涯、くつろぎと安らぎの生活態度で過ごせる。

 なぜなら、怒ったり、泣いたりするネガティブな感情生活には危険が多いが、ほほ笑みで暮らす人というのは、体に落ち着きがあるだけに、一切を眼耳鼻舌身の五官意識で選択し、善処してくれるから、真に安全なのである。

 体に落ち着きがあり、心にゆとりがあれば、喜怒哀楽を上手に表現し、セーブすることができる。感情というものは、人間の体や性格に微妙に影響を与えるものだ。プラスの感情とマイナスの感情をコントロールすることが、幸せにつながる。

 ほほ笑ましい、楽しい、喜ばしい、気分がいい、やる気が出るというプラスの状態は、感情の問題であると同時に、ホルモン分泌もかかわっている。

 大脳基底核、大脳新皮質の前頭葉、側頭葉、大脳辺縁系に分布するドーパミンが、前向きな快感をもたらす。ドーパミンが分泌することで、意欲的な精神状態を作り、プラスの方向に作用する。

 人間は通常、ホルモンをコントロールすることはできないが、精神の力で感情をコントロールすることは可能である。ドーパミンがプラスのホルモンであれば、当然マイナスのホルモンも存在する。恐怖のホルモンといわれるアドレナリン、怒りのホルモンといわれるノルアドレナリンである。逃避や不満の感情が高まった時は、必ずこれらのホルモンが分泌されている。

 怒りをほほ笑みに変え、マイナスのホルモンを分泌させないことも、幸せな人生を過ごすための秘訣の一つである。宇宙天地大自然の真理に生かされて、生きていることを喜び、楽しく感じ、そう努めることが、人生をより充実させるのである。

∥和顔愛語の勧め∥ 

●リラックスから充実する「気」の生命力

 問題は、日常生活でいかに落ち着き、リラックスして、ほほ笑みで暮らせるかにある。リラックスの上手な人は、神経を無理に使わなくても臨機応変に、事に当たって的確に対応ができ、処置がとれるものである。

 現代人は意識過剰で、常に神経を緊張させ、酷使して生活している。ほほ笑み、くつろぎ、リラックス、あるいは気楽などというものを忘れているようであるが、この何でもないようなことが、人生にとって、真に大きな意味を持っている。

 人間はとかく頭ばかりで物事を考えすぎて、どちらかというと寝ても覚めても、あくせくしているのが現状である。このあくせくは神経の緊張となり、エネルギーの消耗となり、生命力を減退させ、その結果は寿命を縮める。

 反対に、くつろぎの姿からは余計な緊張が消え、緩和されて、エネルギーが回復するばかりではなく、刻々、全身に見えない世界からの、「気」という生命力が充実されるのである。

 気楽というのも、読んで字のごとく「気」が楽なこと、「気」を楽しむことで、楽しんでやることには緊張も生じないから、何でも身に着く。端から見ていても、ゆったりしていて、わざとらしさがない。やるふりや見せ掛け、ごますりなどの恥ずかしいことはしない。

 気楽、気まま、くつろぎによる緊張緩和は、そのまま家庭も、職場も、学校も、世の中も、世界の全体までも、人間関係を和やかな、安らいだものにする。すると、人間の表情も和らいで、安らぎ、明るく、ほほ笑みも表れるのであって、この微笑はそのまま、全身の細胞の一つひとつにも表れるのである。

 このように、くつろぎという、ただこの一事が、内は全身の細胞から外は全世界までも、和やかなくつろぎに導く。さらに、全身の緊張が解けてくると、肉体全体の働きは活発になり、神経も精神も正常に働くから、考えや判断も明確になってくる。

 くつろぎこそ、ほほ笑みこそは、自然であり、自然こそは真理である。

 かの道元禅師も、曹洞宗の根本聖典である「正法眼蔵」の中で「和顔愛語」を説き、穏やかな表情と温かみのある言葉の大切さを強調している。

 道元禅師のいう和顔愛語こそ、現代の混濁した人間関係と、すさんだ心を矯正する上に、最も望まれることであろう。現代人には品位を備えた言葉とともに、和顔という、ほほ笑みも必要なのである。

 言い換えれば、人間というものは、その心が顔の表情に出てくるものであるから、顔を軽んじてはいけないということになる。

 いつも苦り切った顔付きをしている人などは、できれば自分の表情を変えるために、和やかなほほ笑みや、明るい笑顔を習慣的に訓練してみるとよいだろう。これは整形手術などをするのではなく、ただ鏡を見て毎日練習するだけでよいし、ほほ笑む練習をやるだけでよい。

 従って、経費も税金もかからないし、おまけに心身の健康状態がよくなり、家庭内がパッと明るくなり、夫婦や子供の生活まで一変するはずである。

 私たち人間の中に、本来的に備わった自然力としての笑いの能力も、開発されないことには顕在化することがないと銘記して、ぜひ試してもらいたいものだ。

●息を吐くだけでも心を落ち着けられる

 「人間は笑う動物である」というのは、紛れもない事実である。だが、「人間は笑うことのできる唯一の生物だ」というわけでもない、と説く学者もいる。

 実際、知能に優れたチンパンジーやゴリラを観察すると、遊び顔をして仲間同士遊ぶし、くすぐられたりすると口を開け、「アハハ」と声を立てて笑うという。

 喜怒哀楽の四大感性の中で、最も表出しやすいのは怒りの感情のようだ。これは多くの動物が表現できるが、笑いに近い表情をとれる動物は、社会性に富んだものたちだ。笑いが表出できるのは、精神活動の発達の証拠でもある。

 すなわち、笑いの感情を示すことができるのは、高等動物の証明ということであり、その笑いの感情を人間は持っているのであるから、実に素晴らしいことである。

 怒りの感情は人間にもあるが、広く動物にも見られるわけであるから、怒ったからといって自慢できるものではない。笑いは人間が自慢できる、優れて人間的な能力といわなければなるまい。

 動物も当然、さまざまな感情を全身で表現するといっても、この人間の笑顔や、ちょっとしたほほ笑みとともに交わす一言には、はるかに及ばない。

 また、言葉による挨拶(あいさつ)はもちろん大切だが、たとえ言葉は通じなくても、心のこもったほほ笑みによって、人間同士の温かい気持ちや感謝を伝え、心を通わせることができる。笑顔は人間関係の潤滑油だ、と考えられる。

 動物はいうまでもなく、植物にも人間の心が通じ、言葉もある程度は通ずるのも事実。ただ植物には、動物に見られる表情というものがないから、通じたかどうかがこちら側によくわからない、という不便さが残る。

 しかし、人間はありがたいことに、豊かな言語と表情を持っている。これを使わず、まるで無表情に押し黙っていたり、「男は三年片頬(ほお)」といって、「男はめったなことで笑うな。三年に一回、片頬で笑うぐらいでよい」などと教えるのでは、いたずらに宝の持ち腐れを奨励しているようなものである。

 最近、海外でいわれているのは、「笑いは内側からのジョギングである」ということであり、笑いやユーモアのストレス対抗策としての効用が、特に注目されるようになったらしい。

 ユーモアのセンスを持つことは、職場で有効なリーダーシップを発揮するのにも役立つとされる。それは、職場でのストレスを減少させ、従業員に管理者の関心を理解させ、従業員のやる気を高めるという点で有益であるが、ユーモアは短く、会話的で、控えめで、謙虚なものがよい。不適切なユーモアは逆効果であるようだ。

 このようにユーモラスな状況を作る能力が求められていても、とりわけ日本人男性には、「おかしくもないのに笑えるか」というような厳格主義に取りつかれている人物が、今日でも少なくない。

 このような石部金吉は、企業や官庁、学校の管理職には結構おられようが、それでも不愉快な会議をしたり、部下や生徒に説教を垂れた後の眉間(みけん)にシワの寄った顔を鏡に映して、ニヤリと苦笑するくらいの余裕はほしいところだ。

 次に、ほほ笑みたくない時でも、「フーッ」と強く息を吐くだけで、ほほ笑んだり、笑った時と同じ調子が出ることも知っておいていいだろう。

 大事の時、「心を落ち着けろ」といっても、急に落ち着くものではないだろう。が、ただ「フーッ」と息を吐き、本来のリラックス状態を取り戻せばよい。

 このリラックスとは、生まれ変わることである。その時点まで身に着けていた心の垢(あか)を洗い流し、意識や感情のしこりやこだわりをほぐして、吐き出し、生まれ出た時のままの自然作用、自然感覚、自然機能をよみがえらせ、そこから再出発すること。これがリラックスの真意である。

 ジリジリ、イライラして頭に血が上った時にも、息を吐くこと。何回も何回も大きな息を吐いて、心を安らかに、平らかにすればよい。苦しい時や悲しい時にも、大きくため息をすれば、気持ちが楽になる。

 頭の圧力、胸の圧力、上半身の圧力がみな、呼吸とともに外に吐き出されてしまって、心が落ち着くからである。

 息を吐いて、吐いて、吐き抜けば、胸が真空になる。頭が軽くなる。心が落ち着く。心を落ち着かせようとするには、息を吐いて、吐いて、体内の圧力をなくせばよいのである。吐いたり、吸ったり自由に息ができないと、気詰まりがする。

 息を吐いて、常に楽に楽しく生きようではないか。

●笑いは人間にとって欠かせないもの

 ここまで、笑ったり、息を吐いたりすれば楽しくなれる肉体生理などを述べてきたが、人間の笑いについて考えた場合、人によって、よく笑う人、笑わない人という程度の差はあるにしろ、誰でもが笑う能力を持って生まれ出てくるのは、紛れもない事実。

 その素晴らしい天与の能力が、後において開発されて十分に顕在化するか、何らかの障害によって潜在化したままであるかの違いは付きまとうが、基本的には人間は誰でもが一人ひとり、笑いの能力を持っているということを確認しておきたい。

 遺伝子という言葉を使うならば、笑いの能力は人類のDNAの中に刷り込まれているとも考えられる。人類が長い歴史を通じて進化を遂げてきた中で、笑いの能力は生存していくのに必要だからこそ、今に残り続けてきたわけであろう。人間が生き物として生き続けていく限り、笑いの能力も生き続けることだろう。

 盲人の行動を研究したところでは、先天的な盲人にも、笑いやほほ笑みが普通の者と同じように観察されることが、見いだされている。先天的な盲人には、他者の表情を視覚的に模倣することはできないから、人間の笑いやほほ笑みが本能的な行動であることを示唆している。

 もし、人間が本能的な行動たる笑うことを忘れ、笑いの能力が開発されず、そのうちに退化するようなことが起こったとしたら、その時はもはや人間が人間でなくなる時を意味するのではないか。

 私たち人間が生きていくのに、なぜ笑いが必要なのか。

 一つには、個人が生きていくためには、心身ともに元気で過ごすこと、健康に毎日が暮らせるということが何よりも大事で、そのために笑いが欠かせないのである。

 私たちの祖先は、経験上の知恵から、笑いが健康によいということを知ってはいたが、医学的に立証することはできなかった。最近になって、精神的にも肉体的にも、笑うことが医学的な見地からして大切であるということが、証明されつつある。

 大いに笑うと、免疫担当細胞として働くNK細胞が増えるという知見も、その成果のうちの一つである。

もう一つには、人間は共同生活を営んでこそ生きていけるわけで、その共同生活を営む上で、笑いが欠かせないということである。

 夫婦関係であれ、親子関係であれ、他人との接触や交渉に当たっても、互いの関係を親和的に取り結ぼうとすれば、笑いが必要となる。人間関係には、大なり小なり緊張が付きまとうのは宿命であり、そうした緊張を緩和させる仕掛けがないことには、共同生活を円滑に営むことはできない。

 人間の歴史を振り返れば、緊張を解くのに暴力が使われ、今もなお世界各地で、暴力が緊張解決の手段として使われているが、暴力の延長上にあるのは、共同生活の破壊である。笑いには、緊張を解決できるだけの力はないとしても、緩和する働きはある。

 日常生活の中での個人と個人の話し合いでも、笑みを浮かべたり、相づちを打ったり、時には声を出して笑い合ったりして会話が進む。

 笑いの表情が全くない話し合いの場合、命令的か、けんかをしているか、いずれにしろ緊張をはらんだ関係ということになろう。協調としての笑いが交ざってこそ、円滑な人間関係が取り結ばれる。

 結局、人間にははじめから笑いの能力が与えられており、これなくしては、人間が人間として生きていくことはできないであろうと考えられるのである。笑いやほほ笑みなど、何でもないようなこが、私たちの人生にとって、まことに大きな意味を持っているわけだ。

🟩下半身の健康情報

∥下半身の出物が発する健康情報(1)∥

∥大便をチェックする∥

●腸の働きと選択力の妙について

 人体の下半身からの出物として最初に取り上げるのは、腸からの大便という固形物、すなわちウンコである。

 この大切な排泄物の出具合が悪くて、朝からやれ下痢だ、便秘だと、腹を抱えてうずくまったり、苦しんでいたのではいただけない。人間が健康を手に入れるには、やはり内臓の正常な働きが必要なわけである。

 そこで、腸の仕組みについて、まず探ってみよう。

 人間の体は、腸の上に位置する臍を中心にして、下半分が宇宙世界からくる他力と通じるところ、上半分が生きているという自力の働くところである。

 その臍のある腹は、柔らかいもので、骨も何にもないようなものに思えるだろう。が、この腹を中心に存在する細胞の働きは、実に見事なものである。あらゆるものを感じ取り、想像し、判断をするという力が、腹の細胞の一つひとつに見事に備わっている。

 目に見えないものがこの腹によって感じ取られると、その力が五官に送られ、五官の素晴らしい働きとなる。

 同時に、腹というものは、「気」そのものを力として蓄えておく場所でもある。その中心はといえば腸である。腸は生理的な器官であるが、感覚意識、精神的能力もあるから、その本来の働きは二つの使命、機能を持っているといえるのである。

 この腸は非常に吸収力の強いところであって、食べ物を吸収することが専門であるが、空意識から入ってくる「気」を蓄えて肉体の力とする中心である場合には、非常に大きな働きをするものである。

 そういう人間の腹の働きは、驚くべき力を持っている。機能をなしている。例えば、内臓器官の胃や腸はもとより有能、有効のものである上、胃をとってしまっても腸を食道につないでおけば、やがて腸は胃の働きをするほど大変な力を持っている。

 胃は胃液を分泌して消化をするのに対して、腸は消化と吸収を同時にするといってよいほど、最終的である。胃は食べ物を消化してもまだ形を残しているが、腸はその形の中から吸収する。後は残滓(ざんし)ばかりだが、吸収という力において、腸は素晴らしい働きを持っている。便に元の姿で出てきても、内容物は腸で吸収されているから、その力は強いものである。

 まずい物を食べて吐くというのは、腸の力によって、胃が吐き出すのである。こうした微妙な、不思議な感覚と働きは、空意識から入ってくる「気」の働きである。

 そして、腸の感覚の強さ、選択力の強さにも驚くべきものがある。目・耳・鼻・舌・皮膚の五官だけが感覚器官ではない。この腸の微妙な、不思議な働きは、胃にはできない。

 腸の感覚というものは非常に微妙なものであり、機能もまた優れた力を持っている。また、生理作用、精神作用、意識作用といったものの選択力、識別力などに至る場合は、素晴らしい人間の機能、働きとなるのである。

 私たちの気力はいったいどこから出るものかといえば、胃に食べ物のあるうちは、気力は出ない。胃が空になって腸に力が蓄えられる時に、腸から気力が出るのである。

●人間の「気」の中心は下腹にあり

 腹と腰というものは、生まれてから死ぬまで肉体の底力となり魂となって、一生働き続けるものである。

 すなわち、腹と腰の細胞というものが生命の基礎、根本となって、人の一生をコントロールする中心、基盤となるのである。年を取ればそこは円熟し、頑固性なるものがあれば、穏やかになるなどという調節ができる。

 人間の精神的、意識的調整というようなものも腹がやり、腰がやる。そこに空意識器官(生殖機能)が存在するから、肉体全身の調節、調和が下腹でできるということになり、魂の存在するところとなるゆえんである。

 空意識から入ってくる「気」は、腸で一応、止められる。下腹部、下半身の腹、腰という他力と無意識の力が上半身に作用する時、自力の力が働きというものになり、自力がさまざまに働き出すのである。

 腸の吸収力、働きというものは若い時から十分に活達にさせ、働きを十分にさせておけば、一生涯を通じて気も若く、あらゆる問題に働く。

 知るべきことは、人間の体の「気」の中心は臍下丹田、下腹部、つまり腰にあり、腸にあり、下腹にあるということである。

 生命の元なる中心、中核は、腸であり、もう一つは宇宙の空意識器官という生殖器官である。腸を中心とする吸収力は、食べ物のような生理的なものや、あるいは精神的、意識的なものを蓄積したり確かめたりして、その力を生きるという人間の中心とする。空意識器官の生殖器官は、ここから生命が到来するという事実がある。

 無意識の世界が上半身に上って意識のある世界に流通する時には、意識的なものは五官で見る。無意識的なものは、臍下丹田、下腹部で見る、行う、感ずるのである。

 この肉体の下半身から自然にエネルギーが湧き上がってくるような気合の人は、疲れるなどということはない。倦怠を覚えるとか、飽きるとかいうようなこともない。当然、何らの障害を外部から受けることもなく、スムーズに人生を送ることができる。

 こういう人間になれば、腸が活発に働くだけでなく胃も丈夫だから、頭脳も明敏になり、体全体がバランスよく、すべてが当たり前に働くような人になる。

 続いて、生理学的に腸の仕組みを探っていこう。

 最近の生理学の教えるところによると、人間の小腸という消化器官は、取り出せば、七~八メートルにもなるという、とんでもなく長い管状の臓器である。自分の腹に手を当ててみても信じられないほどだろうが、通常、体の中では、およそ三メートルほどの長さに縮んで収まっている。

 なぜそんなに長いかといえば、人間が生きていくためには、胃で消化された食物から栄養やエネルギーを摂取、吸収しなければならないからである。

 しかも、小腸の内側は、絨毛(じゅうもう)の表面をまた絨毛でおおうという、無数の絨毛で埋め尽くされた構造で、必死に表面積を稼いでいる。その表面積は、何とテニスコート二面分に相当するという。さらに、一本の絨毛は約五千個の栄養吸収細胞からできており、小腸全体で千五百億個と推定される。驚くべきは、人体の機能、働きの素晴らしさである。

 こうした構造を持つ消化管である小腸は、胃から、かゆ状となって送り込まれた食物を、改めて消化したり、栄養を吸収し、大腸へ送り出す重要な役割を持つ。

 詳しくいうと、胃のほうから十二指腸、空腸、回腸に、小腸は大きく分けられる。それぞれが消化酵素を多量に含んだ腸液を分泌し、あるいは膵臓(すいえき)からの膵液、胆嚢(たんのう)からの胆汁も一緒に合わせて、最終的には、かゆ状食物から栄養を取り入れていくのである。

●栄養を吸収する小腸、便を形作る大腸

 かゆ状の食物が栄養のほとんどを吸収され、小腸を後にするのは、食後四~六時間といわれている。身ぐるみはがされた残滓、液状のカスとなって、大腸に到達する。

 盲腸から始まる大腸は、時計回りに上行結腸、横行結腸、下行結腸、S状結腸、そして直腸に区別できる。

 この大腸の大きな役割は、先の液状のカスから水分と電解質を吸収し、固形物、すなわちウンコを作ることである。

 ウンコは、下行結腸からS状結腸にとどまる。その後、ある一定の量にウンコが達した場合や、胃に食物が入った刺激で起こる大きな蠕動(ぜんどう)運動があると、ウンコは直腸に送られる。この時の圧力を自律神経が察知して大脳に伝えると、便意を催すという仕組みだ。

 この間、およそ二十四時間から七十二時間。口にした食物がようやく、腸の末端の肛門(こうもん)から出てくるのである。

 このようにして、我々日本人は、一日に平均で百五十グラムから二百グラムほどのウンコを出すのである。一日当たり百五十グラムとして、八十年間生きれば、単純計算で五トン近くの排出となる。

 では、出てきた我々人間のウンコは、なぜ一様に臭いのであろうか。実はみな、腸に住む細菌のせいである。

 特別な環境で出生、飼育された無菌動物のウンコは、栄養を吸収された食べ物の残りカスだけだから、臭くない。一方、我々のするウンコは普通、三分の一から二分の一が腸内細菌ともいわれており、特有のにおいは腸内細菌の分泌物が原因なのである。言い換えれば、人間のウンコは細菌のウンコによって臭い、ともいえるのである。

 ところで、人間は誰でも、一生に一度だけ臭くない通じをする。生まれて一番最初にするウンコが、それである。

 胎内で、母親の免疫系に守られている胎児は、いわば無菌状態で、腸にも細菌がいない。そのため、赤ちゃんが胎内でためていて、生まれてすぐするウンコは、臭くないのである。しかし、生まれた翌日のウンコには、すでに大腸菌を始め、腸球菌や乳酸桿菌(かんきん)など、一グラム当たり一千億個の菌が見られるのである。

●便という体からの情報は役に立つ

 先に、日本人の一日のウンコの量は平均で、百五十グラムから二百グラムと述べたが、アメリカ人はせいぜい百五十グラムである。

 これは、日本人のほうが植物繊維を含む食べ物を多くとっているからなのだ。人間の腸は、植物繊維を分解する酵素を持っていない。だから、植物繊維はそのままカスとして出てくるのである。「便秘気味の人は野菜を食べよ」といわれるのは、繊維質が残ったほうが便がかさばって出やすくなるからなのだ。

 よって、便秘も日本人よりアメリカ人のほうが多いのである。植物繊維を多くとっているアフリカ原住民には、一日に七百五十グラムもの便をする種族がいるとのこと。

 比較ついでに、日本人とアメリカ人の一物はどちらが臭いかというと、ずばり答えはアメリカ人である。

 一般の日本人の食事は、低蛋白、低脂肪、高炭水化物、高食塩、高繊維。欧米人はその逆で、高蛋白、高脂肪、低炭水化物、低繊維。ウンコのにおいで特に臭いインドールや硫化水素は、みな蛋白質のアミノ酸が細菌によって代謝されてできるのである。また、植物繊維には、腸内のビフィズス菌などの善玉菌を増やし、同時に悪玉菌が繁殖する前に排泄をうながすという働きも期待できる。加えて、ウンコの量を増すということは、薄めるということでもあるから、蛋白を多く摂取するアメリカ人のほうが一物が濃い。すなわち臭いといえるだろう。

 しかし、最近は日本人の食生活も急速に欧米化しているから、排泄物もどんどん臭くなっているはずである。

 もう一つ比較すると、動物はみんな排泄行為をするのに、お尻(しり)をふくのは人間だけである。が、動物も人間も、消化器官の仕組みはたいして変わらない。

 コロコロとした丸いウンコができるウサギは、腸が長いために、水分を絞りとってしまうのである。我々人間も、便秘をすると固くてコロコロした一物が出るのは、徹底的に大腸で水分を絞りとられた結果のようである。

 さて、体内で不要になって排泄された大便も、実は、体外に出た後も役に立つ存在なのである。今、世の中はリサイクル・ブームであるが、ウンコも負けてはいない。自然農法やウンコを飼料にした豚や牛の飼育が見直されているし、リンやビタミンB12を大量に含む資源としても注目されている。

 リサイクルの極端な例は、先のウサギのコプロファジー(食糞症)である。ウサギは一日一回、普通の便とは違うコプロファジー用の便をするが、それを食べられないようにしてしまうと、衰弱して死んでしまう。ウサギは草や木の葉を一度体内のバクテリアで発酵させ、出てきたウンコを食べることで、不可欠な蛋白質やビタミンを補っているようだ。

 人間の場合はそういう極端なリサイクルは無理にしても、体からの黄金の出物は健康の指標として役に立つのである。

 ウンコはいわば食べ物の残滓であり、カスであるが、二十四~七十二時間にわたる自分の体の情報、とりわけ胃腸のメカニズムがはっきりと現れる。

 体からのメッセージの解読法を心得ておくのは、誰にとっても決して無駄にはならないはずである。

 基本となる正常便の量は、一日に百~二百五十グラム。形は太めのバナナ状で、色は黄褐色が理想的だ。水洗便所の水に浮けば、もういうことはない。一日にちょっと茶色いバナナ二、三本も出ていれば、内臓はたいそう健康である証拠。

 平均百五十~二百グラムといわれる便の組成は、約七十五パーセントが水分、残り二十五パーセントが固形成分であり、意外なことに便の大部分は水分なのである。

∥下半身の出物が発する健康情報(2)∥

∥便秘と下痢をチェックする∥ 

●厄介な下痢が起こるメカニズム

 健康の証(あかし)の正常便に対して、誰もが経験したことがある便のトラブルは、便秘と下痢であろう。

 二つの厄介な症状は、大腸の機能が正常に働かなくなった時に起こる。食べ物の栄養の約九割を吸収してしまう小腸に、トラブルはほとんど見当たらないといわれ、問題が生じるのは残りカスをウンコにして排泄する大腸なのである。

 まず、いわゆる下痢の原因は、大腸が水と酸・アルカリ・塩類の電解質を正しく吸収できないことによる。正常な便は七十五パーセント程度の水分を含んでいるが、この割合がさらに高くなると泥状になったり、液状になったりするのである。水分を大量に含んだままでは、便は固まらないという単純な理屈だ。

 しかしながら、下痢に至る過程は、主に二つが挙げられる。

 一つは、ストレスなどが原因で、腸の蠕動運動が激しくなり、水分を吸収し切れないまま内容物が直腸に向かってしまうもの。試験の前になると決まって、トイレにゆきたくなったなどという経験がある人も、多いことだろう。

 二つ目は、膵臓疾患などで、腸粘膜からの水分吸収が妨げられた時に起こるもの。二日酔いの下痢もこれに当たり、アルコールの作用によって、膵液の分泌が後退し、脂肪が分解されずに大腸へ送られるために、水分の吸収が妨げられるのである。

 牛乳を飲むと下痢をしてしまう人も、多いだろう。これは乳糖不耐症と呼ばれ、日本人では五人に一人の割合で存在する。牛乳に含まれる乳糖は、小腸で分泌されるラクターゼという消化酵素によって分解され、吸収される。乳糖不耐症の人は、このラクターゼが少ないため、乳糖は大腸で細菌によって分解される。この時に作られた乳酸や炭酸ガスが、腸を刺激して、腹痛や下痢を引き起こしてしまう。

 ともあれ、アルコールや牛乳によるものはじきに治ってしまうが、下痢をともなった腹痛が起こったら食中毒、左下腹部が痛み、頻繁に下痢をする場合は急性大腸炎の疑いがあるので、注意をうながしておきたい。専門医の診断を仰ぐのが賢明である。

 また、激しい下痢などのため脱水症になったら、常識にこだわらず大いに水を飲むことを勧めたい。体の水分が尿になって排出されるのは健康な生理的現象であるが、この下痢をしたり、吐いたりというのは、脱水作用といって非生理的なものであるといわれる。ことに子供の体には水分の予備が少ないから、十回ぐらい下痢をすると脱水症状を起こしてしまうことが多い。下痢の時には、余計に水を飲ませるべきである。

●便秘を極度に気にする必要はない

 一方の便秘の原因を探ろう。例えば、消化のいいものばかりを食べて、繊維が足りない場合、材料不足のためになかなか便にならない。排泄まで時間がかかるのである。それでも、腸は水分をとれるだけとろうと律義に働く。結局、水分のないカチカチウンコになってしまうのである。

 トイレにゆくのを我慢して、便意を無視し続けることも原因。おおげさにいうと、しまいには便意の感覚がマヒする。せっかくウンコの元が直腸まで到達しても、便意が起こらなければ、ウンコはそのまま滞ってしまうわけである。

 この便秘には、個人差がある。仮に二日、三日出なくても、便が硬くなく、不快感がなければ正常といえる。私の場合も、昔から三、四日に一回の通じを習慣にしてきたが、全く不都合を感じないし、ずっと内臓の健全と体の健康を維持し続けている。

 河野十全氏が主宰していた日本百歳会が、平成五年に新百歳人になった四百六十五人を対象に実施したアンケート調査で、便通についての有効回答を見ると、「毎日」が百八十六人、「一日置き」が七十一人、「二、三日に一回」が二十七人。「便秘がち」の人も九十八人いた。

 高齢になるにつれて、食事の量も運動の量も減り、従って排便の回数も少なくなるのは当然としても、若い頃からずいぶん間遠な百歳人もいた。一般に、排便は毎日、一定の時間にあったほうがいいようにいわれるが、それは望ましい形であって、必ずしもそうでなくてもいいようである。

 女性の中には、一週間くらいウンコが出なくても平気な人さえいる。それでも本人が苦痛でないならば、便秘とはいえない。少ししか食べなければ、内容物は少ないわけだから、なかなか出ないということもあるのだ。

 極端な例を挙げれば、宇宙食のような無駄を省いた食べ物を食べると、便の量は二分の一から四分の一に減るという。

 俗に、便秘を長く続けると、糞便が腐敗して毒素が吸収されるというようなことがいわれるが、必ずしもそうではないようである。

 むしろ、便秘をすると体に悪いとか、おなかに汚いものがたまっているという気持ちそのものが、精神に悪影響を与え、さらに便秘が続くということもある。

 皮膚などは精神の影響を大きく受けるから、便秘はいけない、便秘で毒素が体に回ると肌が汚くなるなどと気にすること自体が、肌を悪くしていて、不健康でザラザラした皮膚の感じを与えるようにも思われる。

 事実、誰にとっても、快便というのは気持ちのよいものであるし、体の汚いものが一気に出ていったような気分がする。しかし、便秘気味でも、極度に気にするのはかえって体を不健康にしたり、社会生活、対人関係に悪い影響を与え、いろいろなことがうまくゆかない原因になったりすることは、よく覚えていただきたい。

●便の色と形で内臓の機能障害を知る

 世の中で、こういった便秘の悩みを持つ人は、男性より女性に多いようである。女性は生殖のために子宮と卵巣という器官を抱えているが、けっこう重さがある上に、生理時には多少膨張したりするので、隣り合った腸の蠕動運動を圧迫して便秘につながるのである。

 男性の精子を作るための生殖器官は、性器周辺にコンパクトにまとまっているのに対して、女性の生殖器官は形も大きく、メカニズムも複雑になっている。従って、腸に影響があるのも致し方ないことかもしれない。生理的には、ホルモンバランスも影響してくることなのである。

 ただ、医師たちは女性たちの便秘に対して、心理的な理由もあると指摘している。特に、働く女性に多い「独特な羞恥(しゅうち)心」だというのだ。朝、ろくに朝食もとらずに家を出る。朝食をとったとしても、トイレの時間をゆっくりと確保できない。実際、何よりも化粧を優先させる女性が多いのである。

 仕事場では、便意を催しても、会社のトイレでは嫌なのである。男性から見たら不可解なことかもしれないが、「ウンチしている」というのは同性にも悟られたくないのだという。我慢していると、そのうち便意が消える。そんなことを繰り返しているうちに、習慣性の便秘になることも少なくないというわけだ。

 習慣性の便秘はともかくとして、一般の人の便秘の主要原因は、結局、水分の吸収異常であった。このトラブルを防ぎ、大腸の機能を正しく保つには、食物繊維と乳酸菌が不可欠である。

 食事で野菜や海草を多くとるように心掛け、広く出回っているヤクルト菌、ビフィズス菌などの乳酸菌を含む飲料やヨーグルトも利用したらよいだろう。乳酸菌は乳酸や酢酸を作り出し、腸内を酸性に保つ。この酸性の刺激が腸の蠕動運動を盛んにし、感染予防にも一役買う。

 大腸の調子が整えば、立派な便が規則正しく出る。踏ん張れる。快調な毎日を送れるのである。

 さて、下痢や便秘のほかにも、自分の体からの黄金の出物は、その色や形で胃腸のメカニズムの異常を知らせてくれる。自分の便を見れば、病気を発見できる場合もあるのだ。

 ふだんの正常便と違う白っぽい便が出たら、肝臓や胆嚢などの異常によって、胆汁が腸に送られなくなったことを意味する。要するに無着色のウンコだ。

 次に、脂肪分をとりすぎれば、すっぱいにおいのベタベタした便になるし、白いブツブツがあり、しかもプカプカ浮くウンコが出たら、脂肪便である。これは、膵臓から分泌され脂肪を分解する膵液の不足によるもので、特に高カロリー食を好む美食家は用心が必要。

 ほかに、肉眼で見る便の色で注意したいのが、血の混ざった便。これには二種類あって、一つは真っ赤な血便。これは肛門に近いところの出血によるもので、粘液便なら直腸ガン、それ以外なら痔(じ)の疑いがある。

 もう一つは、同じ出血でも黒い便が出る場合。こちらは胃や小腸、大腸が出血し、それが腸管を通過するうちに酸化して黒色になるというパターンである。その他、黒い便は、肉食を好む人にも多いという。

 形で注意したいのは、大腸ガンで腸狭窄(きょうさく)を起こせば、便が細くなること。

 いきなり病院に担ぎ込まれる前に、毎日自分の目で、便からのメッセージを読み取る能力を養っておくのが、内臓へのいたわりというものである。

∥下半身の出物が発する健康情報(3)∥

∥オナラをチェックする∥ 

●放屁の効用で健康長寿が可能

 大便と同じ肛門からの出物に、オナラ、いわゆる放屁(ほうひ)がある。ことわざに「屁(へ)ひとつは薬千服に向こう」というが、オナラは健康に効果があるという意味であり、私がいう全身呼吸を行えば面白いように出るものである。

 そもそも、屁と長息とは相関関係にある。大きな深い全身呼吸をすれば、誰でも、体内の細胞や血液中の悪ガスが放屁となるのは、生理の原則である。私たち人間の体は、それほど見事にいらないものは捨て去る力を持っている。

 「百日の説法、屁一つ」などといって軽蔑し、「オナラをしては失礼だ」などという常識が災いして、意識をもってこれを止めてばかりいると、放屁という肉体本来の自然作用の恩恵にあずかれなくなる。

 現代人のように食事をとりすぎると、体内に不消化物が残って、不完全燃焼のために栄養にもならず、かえって濃厚なガスを発生するのが道理。体内にたまった有毒ガスを放出するオナラの効用は、もっと大きく認められてよい。

 日本人は屁を隠すが、外国人は生理現象として割り切り、人前でも平気でやりまくるともいう。屁は下品ではない。

 糞尿屁は自然作用で、正常人には当然なのである。論より証拠、真の長命者に聞くがよい。屁をよく出さないと健康長寿は保証しがたい。老人で屁をたくさんする人は、必ず長命である。

 アクビも居眠りもみな、自然作用の現れである。体の調子が兆候に現れたら注意が肝要。居眠りは睡眠不足、アクビは無理か倦怠かの原因、理由を知る機会になる。放屁にも、正常体からのと異常体からのものがあり、数と音と臭気とで調子とその内容がわかる。

 ある研究によれば、健康な人が一日にオナラをする量は二百~三千七百CC、回数にして八~二十回だというから、誰もが知らず知らずのうちに、オナラをしていることもありそうである。

 オナラの正体は、胃腸内にあるガス。正常な胃腸には、空腹時で百~百五十CCのガスが常に存在している。ガスが増えてくると、一部は腸管の毛細血管から吸収されるが、残りはオナラやゲップとして、体外に排出される。

 その腸内ガスは、どうして発生するのか。原因は二つで、一つは口からの空気の飲み込み、もう一つは小腸で消化されなかった食物が大腸で発酵、腐敗するためである。

 腸内ガスの主な成分は、窒素、水素、炭酸ガス、メタン、酸素などであり、そのうち最も多いのは窒素で、口から空気を飲み込んでしまうために増える。一般的には、腸内ガスの二十三~八十パーセントが、口から飲み込んで下まで通ってきてしまった窒素、すなわち空気なのである。

 食事を急いで食べたり、丸飲みにしたりすると、一緒に空気も飲み込んでしまいがち。炭酸飲料のかぶ飲みも同様だ。また、精神的な影響も強く、人によってはショックや興奮、怒りを覚えた時に、空気を飲み込んでしまう。

 窒素に次いでは、炭酸ガスが五~二十九パーセントといったあたりである。面白いのは、メタンと水素が含まれているから、オナラが燃えること。腸の手術をしようとして電気メスを使ったら、その火花がオナラに引火して爆発、手術する前に腸の一部をすっ飛ばした例が、いくつも報告されている。ただし、自分のオナラが燃える人は、三人に一人くらいしかいない。遺伝と生活環境の関係で、メタンを作らない家系、逆に大量に作る家系と、さまざまなためである。

●オナラの臭い時は体調に留意せよ

 さて、オナラの元になる食物は繊維質だ。小腸には繊維質を消化する酵素がないため、繊維質は大腸で腸内細菌によって発酵し、分解される。その際に、炭酸ガス、メタン、水素、酸素が発生する。

 といっても、繊維質によるガスと空気の飲み込みによる窒素は無臭で、このままならば、オナラは臭くも何ともない。臭くなるのは、ガス成分の一パーセントにもならないアンモニアや硫化水素、インドール、スカトール、揮発性アミン、揮発性脂肪酸などのガスが含まれている場合である。これら悪臭ガスは、蛋白質を分解する嫌気性菌や、大腸菌などの腐敗菌によって生み出されている。

 つまり、オナラというものは、人間だけでは作り出せないわけで、腸内細菌の仕業があずかっているのである。

 人間の腸内、特に大腸から直腸にかけてには、約百種類、百兆個の細菌が住み、常に増殖しているのであり、糞便の約三分の一から二分の一は細菌の固まりともいわれる。

 腸内細菌が住みついているメリットは、飼い主である人間にはほとんどない。せっかく消化液によって吸収しやすくした糖質、脂肪、蛋白質などを、勝手に分解してしまう。その過程では有害物質もできるが、ガスも生まれる。このガス成分の集まりがオナラというわけなのだ。だから、彼らがいなければ、オナラは出ない。

 何せ百種類もの菌が寄ってたかってガスを作るのだから、人間によって成分も違えば、においも異なる。また、同じ人間であっても、食べ物によって変化するなどということは、十分に経験済みのことであろう。

 とりわけ、胃腸の弱い人、あるいは体調を崩している人は、オナラが臭くなりやすい。蛋白質が小腸で消化されず、そのまま大腸に回り、そこで分解される際に腐敗し、アンモニアや硫化水素など臭い成分が発生するからである。

 オナラを減らすには、食事をよく噛んで、ゆっくりと食べ、一気に飲み込んだり、がぶ飲みは避けること。精神的な安定と肉体的な健康を保つために、規則正しい睡眠と休息をとることが大切である。

 しかしながら、オナラが出るのは健康な証拠として、むしろ歓迎すべきである。臭いオナラが出た場合だけは、消化不良を起こしている可能性が強いので、注意すること。

 スカンクまがいのすかしっぺをする人は、ガンになりやすい。体調不良か、食べすぎか、宿便か、運動不足か、いずれにしても血液がひどく濁り、酸性の強い証拠には違いない。

 放屁をどんどんやればガンにかからないし、自然作用に任せていれば、見事に面白いほどガスはできる。それだけ血液が浄化され、大腸でガス化されているということである。

 このガスをたくさん発生させて、この際オナラにして放出してしまわないと、何百CCものガスをしまっておいたのではたまらない。調子が悪くなってしまうから、このガスを出たとこ勝負で外部に出してしまわねばならない。

●自由自在に出すには全身呼吸に限る

 人前をはばかるエチケットの心配なら、トイレで思う存分やればいい。屁こそ健康の基。屁とも思わず、ひり出すがよい。ガンにかかりたくないのなら、うんと放屁することが最善。

 ちなみに、もしオナラを我慢したらどこへゆくだろうか。腸から血液へゆき、尿中に出る。窒素や水素は肺や皮膚から出る。当然、においはない。いくら我慢しても、幽門括約筋というガードのため、胃に出てしまうことはない。

 ともあれ、屁をこらえると腹が痛くなるのが常である。屁はとにかく、悪ガス、メタンガスのようなものに変わりはない。こんなスモッグを体内に温存していては体によくないことは、どんな素人にも否定できまい。

 昔、浜口雄幸首相が東京駅で右翼の凶弾に倒れ、手術の結果、ガス一発が出ぬために命を終わった話は有名である。まさに、百日の療養より屁一つが実際に勝敗を決する例であった。

 人間の腸の運動は、手術などで、周りの臓器が安静を必要とする時、あまり激しくないほうがよいわけである。腸は多くの臓器とさまざまな促進、抑制の反射を持っているが、例えば膀胱や腹膜との間にも、このような反射がある。

 虫垂炎などで腸を手術した時は、腸の運動は起こらなくなる。ところが、手術がうまくいって、感染も腹膜炎もないことがわかると、腹膜と結腸を結ぶ抑制反射などがなくなってきて、腸は徐々に運動を始める。

 すると、大腸が動き出し、これとともに、オナラが出たりする。腸の手術の時、オナラが出たといって皆が喜ぶのは、順調に回復している証拠だからである。

 日常、この放屁を自由自在にするためには、全身呼吸をするに限る。精神が落ち着かない時に、全身呼吸をして放屁をすれば、必ず心身ともにしゃんとして、商談が成功するという体験者もいるくらい、空気の呼吸とガスの放出のご利益は多大である。

 ヨガの秘伝のうちで、空腹を直すのに空気を胃に吸い込む方法がある。空気の中には「気」、プラナがある。呼吸を肺で行わず大腸で行え。口で吸って屁に出せ。古来、真人はかかとで息をするといったのは、こういうことである。

 人間の生理は、新陳代謝の連続である。呼吸の役割は、新鮮な酸素および宇宙の「気」を自由自在に受け入れて、それと引き替えに老廃物を確実に放出することにある。呼吸作用は同時に、血液の浄化作用をもつかさどる。

 私は、上からの呼吸と、下への排気ガスをもっと奨励したい。全身呼吸という、上下両半身を一貫、連係して、全身全霊をもって徹底的に行う呼吸法では、排便、排ガスも見事に調整され、肉体内部は完全に生理作用化されて、健全体となる。

 そこで、毎日何回でも、体の力を抜いて、大きく息を吐き、伸び、アクビをして、自然作用、自然機能の回復をはかろう。体の圧力をゼロにすれば、面白いほど放屁ができ、一日が二日に使えるだろう。

 また、もっと水をたくさん飲めば、ガスは自然に分解されて、放屁一発とともに体の圧力が雲散霧消することも、付け加えておきたい。

 屁は生理的現象である。本来、屁には何の悪気もないばかりか、人間の生理の違和を浄化して下された神の恩顧である。

 屁は恥ずかしいものではない。神が身代わりとなって、人間生理のスモッグをすり替えて下されたものである。

 屁よ、よくぞ、お出まし下された。屁よありがとう。もう一発、屁よお出まし下さい。屁よありがとう、だ。 

 体の調子がよいと、思わず冗談も出る。ユーモアも出る。顔もほころび、心が温かく、愛も情も豊かになるので、自然と人格も高まってくる。

∥下半身の出物が発する健康情報(4)∥

∥小便を分析する∥ 

●血液中の老廃物や水分が尿に変わる

 人間が排泄することは、上から入れれば下へ出るのが天の理、糞尿屁という出物は生理自然にほかならない。健康長寿のためには、便と屁に続く小便、いわゆるオシッコの快調にも、常日頃から留意したいものである。

 自分の両手を握ってほしい。目の前の片方のこぶしが、ほぼ片方の腎臓(じんぞう)のサイズである。形はソラマメ状で、一つの腎臓の重さはおよそ百二十グラム。この小さな双子の臓器が、せっせと尿を作り出しているのである。

 腎臓には、体の中で最も太い大動脈から、絶えず血液が流れ込んでいる。その血液量は一日に約一・五トンと、すごい量であるが、糸球体と呼ばれる毛細血管の網でろ過され、血中の老廃物や水分が尿に姿を変えるのである。

 このオシッコを作る器官であり、人体の浄水器である腎臓が、血液の中から老廃物と水分をこし出したものを、原尿という。

 もちろん、いきなりこれが排出される尿になるわけではない。尿細管で何度も何度も吸収され、本当に役に立たないものだけが、尿として尿管に送られるのである。

 原尿が再吸収され、尿として排泄される量は、原尿の約百分の一、一日に一・五リットルほどで、牛乳パック一・五本と、かなりの量だ。これを一日五、六回に分けて排出する。だから、一回のオシッコの量は、二百五十~三百ミリリットルほどとなる。

 詳しくいうと、尿として排泄される一日の量は、男女で少し違いがある。成人男性では一・五~一・八リットル、女性では一・四~一・六リットルとされるが、〇・五~二リットル程度の枠内なら正常といえる。

 こうした人間の尿の量は、脳下垂体から分泌される抗利尿ホルモンによって調節されている。抗利尿ホルモンの分泌が増えると、尿細管からの水分の再吸収が高まり、尿の量が減る。逆に、分泌が減った場合は、尿量が増える。誰もが夏場に汗をかくと、尿の量が減って色が濃くなるのは、ホルモンの分泌が増加して、固形成分の比率が高まるためである。

 ところで、腎臓でおよそ五秒ごとに、タラリタラリとこし出された尿は、尿管を通じて膀胱(ぼうこう)に送られる。尿管は直径四~七ミリ、長さ二十八~三十センチ。筋層で圧力をかけられているため、粘膜がしわしわになっている。

 つまり、尿の流れる穴は真円ではなく、きんちゃくみたいで、尿の通るすき間は細く、薄いから、内臓中にできた結石が引っ掛かりやすい。とはいえど、尿の量が増えれば、その勢いできんちゃくは内側から広げられ、結石は流れやすくなる。よく「結石はビールを飲んで流してしまえ」というのは、真実なのである。

 この尿管の先が膀胱である。オシッコを一定期間ためておく貯水池たる膀胱は、尿のたまっていない時の形は三角形で、立体的にいうと逆さまの杯の形をした筋肉でできた袋であるが、まさにゴムの袋に例えられる。ゴムやポリエチレンがなかった時代には、氷のうといえば、薄くて丈夫な牛の膀胱を使ったそうである。人間のも同じで、空っぽの状態では壁の厚さが十五ミリだけれど、ぱんぱんにため込むと、その厚さ三ミリになるという素晴らしい膨張率を有しているから、最大容量四百五十~五百ミリリットルと、牛乳パック半分のけっこう重たいオシッコが入ることになる。

●健康な尿が出てくる人体メカニズム

 実際には、こんなにたまることはめったにない。尿が二百五十~三百ミリリットルくらいになると、尿意を感じて排尿が始まるからだ。

 一説によると、膀胱の最大容量の五分の四までは尿意は催さず、最後の五分の一がたまっていく時に感じるもので、最後の五分の一がたまる時間は、三十分から一時間ぐらいという短時間なのだという。

 尿が出る仕組みを説明すると、膀胱の内圧が高まって、膀胱壁の受容器を刺激し、受容器は脳に信号を送るから、脳は尿意を発動する。

 この尿意を感じた脳から指令があると、同じ脳にある抑制中枢を刺激して、抑制を取り外しにかかる。ふだん尿道口が閉まって、尿が飛び出さないようにできているのは、この抑制中枢があるお陰である。

 で、この抑制がとれると、膀胱の出口、つまり尿道とのつながり部分にある、伸縮自在の尿道括約筋などがゆるむ。次いで、抑制中枢の近くにある排尿中枢が奮い起こされ、その刺激で膀胱それ自身の筋肉収縮が始まり、そこで尿が尿道という通路から外に飛び出す、という二段階システムになっているわけだ。

 膀胱から飛び出してゆく一回当たり、二百五十~三百ミリリットルという量は、五、六回繰り返せば一日分のオシッコを排出できるという、ためるによし、出すによしのちょうどいい量なのである。

 実は、尿意にこたえて括約筋をゆるめ、膀胱を収縮させる排尿システムは、膀胱が満タンにならなくとも働いてしまう。人間の脳というのは心理的な変化に左右されやすいところだから、何かで興奮したり、緊張したりした場合にも、抑制中枢がマヒするか、排尿中枢が強く刺激されすぎる。そのため、膀胱には尿が少ししかたまっていないのに、試験前などになると尿意を催してトイレにゆきたくなったり、驚いて思わず漏らしてしまうということにもなるわけだ。

 また、てんかんや一時的なショックなどで、意識を喪失した場合も、抑制中枢がマヒして同様の尿漏れが起こる。

 これに対して、ビールやコーヒーなどを飲むと尿が近くなるというのは、水やカフェインが腎臓を刺激して利尿作用を起こすためで、先の場合とはメカニズムが違う。

 とにかく、脳の抑制中枢というのは、特に人間で発達した部位であり、下等動物になるに従って働きが弱くなる。動物では、犬や猫などのペットで発達している。場所的にも、性欲、物欲を抑える部位の近くにあって、かなり高度な機能であることがわかる。

●排尿にまつわるトラブルは女性に多い

 そして、この抑制中枢は、感情の影響を受けやすいところでもある。一般的に、男性よりも女性のほうが感情に敏感だといわれているように、感情が激して抑制中枢がマヒし、その結果尿失禁という不如意を起こすことは、女性に多いということになる。

 この点、腹圧性尿失禁で病院を訪れる女性患者も、最近は増えているという。腹圧、つまりセキやクシャミをした時、笑った時などに、おなかに圧力がかかって、膀胱が圧迫され、尿が漏れてしまう病気である。漏れる尿の量はさまざま。

 普通、尿道にもオシッコの漏れを止める筋肉があって、外尿道括約筋という。これは男性で発達し、排尿を中断することもできるが、女性にはないので、その代用を肛門括約筋や骨盤底筋群がしている。加えて、男性の尿道が十六~二十センチで、屈曲しているのに対して、女性の尿道は四~五センチと短く、ストレートという構造的な面から、元来女性のほうが漏れやすい形態になっているのである。

 そこへ加齢、出産が加わると、先の代用筋にゆるみが出て、膀胱と尿道の位置関係に狂いが生じてくる。平たくいえば、尿道がおなかのほうへ持ち上がっていたのが、年がかさみ、子供を産むうちに次第に下がっていき、ついには真っすぐ下方に垂れ下がってしまうのである。こうして一直線に流れ落ちてしまう尿失禁を止めるには、相当に強力な括約筋が必要というわけだ。

 また、失禁を呈するようになったと訴えるのは、肥満女性に目立つ。肥満の人というのは食っちゃ寝タイプが多いので、下腹部には脂肪がたまるばかりで、筋肉が発達しなくなり、尿道を締める力が弱まるからである。

 従って、治療はこれを強制してやればよいわけで、尿道を腹壁のほうへ持ち上げる手術は簡単、確実で、効果も抜群だという。

 それにしても、どうして男性よりも女性のほうが、オシッコが漏れやすく、途中で止められないか、人類学的に推理してみよう。

 元来、男には攻撃本能があり、狩猟に出掛けたり、敵からの攻撃も防がなければならない。とすると、排尿を長時間我慢するとか、排尿しても敵が現れるとすぐ中断して、攻撃体勢に素早く移れるということは、自己防衛につながる。だから、長い年月の間に、人類の男は防衛的見地から、こうした機能を獲得していったのではないだろうか。対して、女は攻撃の必要性もなかったので、こんなものを発達させなくてもよかったのではないだろうか。

 しかしながら、しばらく前から、アメリカのキャリアウーマンたちの間に、インフリークェント・ボイダーと称する女性が激増して問題になっている。たまにしかトイレにゆかないものだから、膀胱炎を患う人たちである。彼女たちの膀胱はたいてい伸び切って、倍ぐらいにふくれ上がっているそうだ。以前はバスガイドやスチュワーデス、タクシー運転手などの職業病として知られていたものだが、それがどんどん広がったわけである。

●正常人の出立ての尿はにおわない

 さて、話を進めてきた尿は一般に、「臭い、汚い、不潔」などと嫌われているものではあるが、故事をひもといてみると、案外に愛好されてきていることがわかる。

 中国では、尿で顔や手足を洗った古代部族がいたと、「三国志」に書かれている。秦の始皇帝が若返りのために、処女のオシッコの風呂(ふろ)に入っていたという逸話も、まことしやかに伝わっている。

 インドでは、古くから自分のオシッコを飲む民間治療法があったという。この尿療法の教えは、ヒンズー教の教本に百七項目にわたって記されており、現代でもヨガの聖者は自分のオシッコを飲むといわれている。

 日本でも、沖縄には古くから、自分のオシッコを飲む尿療法があったという。

 尿という小水はその昔、健康飲料として飲まれたこともあったし、化粧水であったこともあるという不思議な液体なのである。現代社会においても、尿健康療法を実践する人たちがおり、体の故障個所の痛みがとれるなどの効用があるという。

 しかし、現代医学の最先端をいく科学者たちは、尿は飲めるとしながらも、一様にその積極的効能は認めない。いわく、確かに微量ホルモンは含まれているが、飲むと腸でアミノ酸に分解されてしまって、意味がない。あまりにも微量すぎて、有効量を得るためには、何十リットルも飲まなければいけない。生体の自然の摂理に反する。

 この人間の小水を現代医学で説明するなら、先に述べた通り血液中の老廃物となる。私たち人間は飲食物を摂取するが、その必要なものを化学変化させて肉体にとり入れ、血液に乗せて全身に運ぶ。そして、不必要になってきたものは、腎臓でろ過して排泄する。尿は腎臓でできた老廃物、というわけであった。

 ちなみに、人間の肉体の中でエネルギーになる物質には、糖質と脂質、蛋白質の三つがあるが、これらの燃えカスは捨てなくてはいけない。糖質と脂質が燃えると、主として水と炭酸ガスになり、炭酸ガスは息を吐くたびに肺から外に出ていく。蛋白質の燃えカスは、尿素、クレアチン、尿酸などになって血液中に溶け、腎臓でろ過されて排泄される。これが尿の主な成分というわけである。

 そのほかに、尿にはナトリウムやカリウムなどの電解質も含まれている。人間の体液の組成は海水と同じで、この組成の濃度を一定にする役目をしているのも腎臓なのであり、体内に余分な電解質があれば排出するし、足らなくなれば水分だけを出すなどして調節しているためである。

 結局、ここに挙げた以外の成分が最終的な尿に含まれている場合は、体に何らかの異常が認められるわけだ。

 ともかく、尿が血液の老廃物、体液の不要品といっても、健康な人から出たものなら、不潔きわまりないというわけではない。

 見方によっては、細菌に感染していない正常な人の尿は、血液よりきれいといえるかもしれない。腎臓で繰り返し、ろ過され、排出されてくる液体であるからだ。

 心理的な嫌悪感はつきまとうにしろ、ジャングルで遭難したとか、海で漂流したとかして、きれいな飲料水ない場合は、海水や汚水よりオシッコのほうが絶対に安全といえるだろう。

 一般に、尿は臭いと思われているが、それも大きな事実誤認。正常な人の出来立てのホヤホヤは、ほとんどにおわない。尿に多く含まれている尿素が体外に出た後、それに取りついた細菌によって分解され、アンモニアが発生してはじめてにおい出すのである。

∥下半身の出物が発する健康情報(5)∥

∥小便をチェックする∥ 

●心身の健康度がわかる臨床検査の花形

 さらに、人間の体からの出物である尿の中に混じっているホルモンは、実は貴重品であり、ミラクルパワーの源泉でもある。

 そもそも、人体の多くのホルモンは、血管を通って目標とする器官や細胞に運ばれ、その細胞に働き掛けたり、逆に働きを抑えたりする。これらのホルモンの一部は、血管の中を巡っているうちに、肝臓や腎臓で化学変化を起こす。これを代謝というのだが、この代謝物が尿中に出されるわけであり、そのほとんどは本来の働きを失っているといえど、少しは活性のあるものも排泄されている。

 最近の医療分野においては、測定機器の技術進歩によって、ごく微量の物質も簡単に測定できるようになっており、ほとんどの病気の状態が、検尿で判定できるようになってきている。精神病の患者でも、副腎髄質から分泌されるカテコールアミンといわれる物質の量の増減で、早期に発見できる可能性があるといわれている。ガンにしても、腫瘍(しゅよう)マーカーといわれるポリアミンを測定することで、ある種のガンの早期発見や、抗ガン剤の効き具合がわかるようになってきている。

 今や、尿は臨床検査の花形なのである。人間の精神状態も、生化学的に見れば、脳での神経伝達物質の化学反応でしかない。排泄されてくる微量ホルモンや、その代謝産物を調べることで、人間の心のバランスが正常か否かもわかるということになる。

 ガンの治療では、患者当人の尿からガンウィルスの抗原を見いだし、ワクチンを作ろうという研究、実践が進められているそうだ。

 このように、体からの出物のミラクルパワーが解明でき、その生体での働きもわかってくれば、尿から人間に必要な物質を抽出し、薬品を作ろうとする試みが当然出てくる。実際、男性ホルモンや女性ホルモンの一部は、尿から取り出され、薬として販売されている。

 例えば、よく四つ子、五つ子が誕生して、世間をにぎわす原因となる排卵誘発剤は、女性の尿から抽出されたホルモン剤である。脳卒中や血栓症に使われるウロキナーゼという薬も、尿から抽出される薬としてよく知られているものだ。

 このほかにも、オシッコにはまだまだ未知の生理活性物質が数多く含まれているそうである。生体に対する有効物質を見つけるための宝の山かもしれない。

●尿の量や色やにおいで変調を察知する

 本人は健康だと信じているのに、いつの間にか病気にむしばまれ、気づいた時にはもう手遅れとならないために、朝晩の自分の体からの小水という、貴重な出物を観察することをぜひ勧めたい。

 尿は毎日姿を変え、自らの体の調子を告げているものであり、非常に役に立つ健康のバロメーターなのである。特に、腎臓、尿道関係の病気は、素人にも判断しやすいものである。

 もし異常があったら、病院にいって精密検査を受けてほしいもの。確かに、血尿、尿蛋白などでも、一過性のものもあり、尿の異常がすべて病気というわけではないものの、本当の病気だったら、早期発見できるのである。

 まず、健康な人の尿量は、普通、男性で一・五~一・八リットル、多くても二リットル、女性で一・四~一・六リットルであるが、一日の量はどうであろうか。

 一般に、一日の尿量が〇・四~〇・五リットル以下を乏尿、二・五リットル以上では多尿となる。ビールなどのアルコールを飲まないのに、五リットルも十リットルも出る場合は、尿崩症などの疾患が疑われる。

 また、多量の水分を飲まないのに、異常に尿量が多かったら、慢性腎不全の初期か、糖尿病の可能性もあり。反対に、尿量が異常に少ないのも病気の一種で、急性腎炎の中期やネフローゼ症候群の初期、慢性腎炎や腎硬化症の末期、急性腎不全の可能性ありだ。

 次に、オシッコの回数は普通、日中が五、六回といったところであるが、異常に回数が多いことはないだろうか。尿の量があまり出ないのに、回数が増えるのは、膀胱炎の疑いがあるし、初老の人だと前立腺肥大症やガンの可能性もある。

 放尿する時に痛みがある場合は、尿結石などの膀胱、尿道などの排泄路の病気である。排尿の後に不快感がある時は、腎盂(じんう)炎、膀胱炎、膀胱の腫瘍の疑いがある。夜遊びの覚えがある人で、放尿した時に痛みがあったり、下着に膿(うみ)が付いていたら、梅毒、淋病(りんびょう)、クラミジアなどの性病に感染されている恐れがある。

 尿の色も、大切なチェック項目。膀胱から出てくるオシッコは普通、いわゆる麦わら色をしている。古くなった赤血球が壊れてできた黄色い色素や、使われた蛋白質が分解されてできた黄色い色素が混じっているからだ。これらの色素のできる量は、だいたい決まっている。

 だから、水分を多くとって、排尿の回数や量が増えると、色素は薄められ、ほとんど透明な尿になる。ところが、風邪などで熱を出してやたらに汗をかくと、当然ながら尿の量が減るから、相対的に色は濃くなる。同時に、蛋白質の分解による色素の量も増えるから、オシッコは黄色くなる。

 風邪でもないのに、麦わら色か透明に近い通常色から、血が混じったワインレッド色になっていることはないだろうか。激しい運動をして赤くなったり、食べた物で色が変化することもあるが、そうでないと腎臓ガン、膀胱ガン、尿結石かもしれない。この血尿は、腎炎、膀胱の炎症で出ることもある。

 オシッコが白く濁っているのも、要注意。疲れていても濁るし、リン酸塩やマグネシウム塩などが析出して白濁することもあるが、腎臓、尿管、膀胱、尿道が感染して炎症を起こしていたり、ガンの疑いもある。

 さらに、モコモコした泡が立ち、なかなか消えないということがあったら、オシッコに蛋白が出ている証拠である。ネフローゼ症候群や腎炎などで、蛋白が混入するとよく泡立ち、なかなか消えない。肝臓病の場合は、黄色い泡が立ち、長く残る。

 オシッコに変なにおいがしたり、異常に臭くないかも、チェック項目の一つである。食べ物によっても、オシッコのにおいが変わるが、糖尿病だと甘く、果実のような芳香が漂ってくる。

 お酒の飲みすぎでもにおうし、魚の腐ったようなにおいがすれば、細菌に感染している疑いがある。ビタミンB1 などの栄養剤を服用すると、ニンニクのにおいがするが、これは気にすることはない。

●呼吸と睡眠が快調な排泄に役立つ

 ちなみに、男性の場合、オシッコの飛び方を観察すると、性器の勃起(ぼっき)力がわかる。年を取ると、膀胱や尿道の筋肉が硬くなって勢いがなくなる。特に、男性はそうなのである。

 そこで、年配の男性はどうしたら快通ができるかというと、丹田呼吸で不必要な物を捨てるということをやるとよい。両足の親指に力を入れて、つま先立って小用を便ずると、おのずから丹田に力が入るので、快小便ができる。これは、前立腺肥大を克服する非常にうまい方法でもある。

 ここでも、人間は絶えず行っている呼吸の意味の重要性を、改めて認識する必要があるわけだ。

 呼吸とともに、男女両方に勧めたい尿の快通法は、十分に眠ることである。誰もが一日使ったら、夜は肉体を疲れさせないように、軽く食事をとり、風呂に入り、肉体を温め、血液の循環をよくして、湯冷めしないうちに寝るがよい。

 早く寝て、十分に眠ることを毎日の習慣にしている人は、よく眠るだけで肉体の神経が完全に働くから、体内の老廃物をそれぞれの場から体の外へ排出してくれるものである。 例えば、脳の疲労物質を体内から取り除くには、睡眠をとるしかない。人間の大脳の正常な働きを担っているのは、グルタミン酸を分解したガンマアミノ酪酸だとされている。人間が活動を続けると、次第にこのガンマアミノ酪酸が分解され、ガンマハイドロオキシ酸とアンモニアに分解されるのである。

 徹夜で仕事をしていて、頭がボーッとなり、集中力を失っていくのは、ガンマハイドロオキシ酸が脳に蓄積されるためである。

 この老廃物を取り除くには、睡眠をとるしかないわけである。ほかに、特効薬はない。睡眠をとってはじめて、脳の疲労を回復、ひいては再びコンピューターに負けない能力を取り戻すことができるのである。

 寝ている間に、私たち人間の肉体は、ガンマハイドロオキシ酸を始めとした体内の老廃物を、呼吸からも、皮膚からも、気体として発散してしまうし、また尿にして排出する。朝の目覚めの時の尿には、色がついているのもこのためである。

 どんな健康な者でも、睡眠中に作られる小水には色がついていて当たり前。寝ている間に、自然の働きが、そうした素晴らしい浄化をしてくれるからである。神経を使いすぎた場合にも、尿に色がつく。病気で熱が出た時にも、色は違うものである。

 尿の色の具合で体の状態がわかるほどに、人間の体というものはうまくできている。これを自分で毎日観察していれば、内臓の健康状態がよくわかるはずである。

 人間の体の機能は、素晴らしい値打ちを持っているものである。そして、生かされているという条件の上に、成り立っている生命が人間である。体の器官、機能は、実に巧妙に働くようにできている。

 この働きをいかに故障なく運行せしめるかということが、生きていく面のすべてにかかってくるのである。

 生きていくことは、難しいことではない。眠りと呼吸を真理的に行い、暑さ、寒さに順応してゆきさえすれば、年を取ってもその働きが弱るということはない。

 ところで、睡眠中の子供の寝小便がなかなか治らぬ時には、寝る前にタップリ水を飲ませるとよい。パラドキシカルな方法のようだが、水を飲むことによって身体機能が調和するから、自然に夜尿症も治ってしまうものである。

∥下半身の出物が発する健康情報(6)∥

∥精液をチェックする∥ 

●男性の聖なる出物の扱いは慎重に

 下半身からの出物として、男性の性器から出る精液について簡単に触れ、男女の性生活の望ましいあり方を述べておこう。

 最近、医学分野で人間の精子の保存が注目を浴びているが、精子は西洋梨(なし)状の頭と、長い糸状の尾を持ち、長さは約六十ミクロン、すなわち千分の六十ミリである。この精子を多数含む精液について、男性一人の生涯の生産量は決まっているなどというのは、根拠のない俗説であり、単純にいえば、精液を多く使う人ほど生産され、あまり使わない人は生産量も少ないことになる。

 しかし、あまり酷使しては生産が追いつかない。私の考えは、性器を神聖に扱い、精液という出物の使用をほどほどに慎めということである。

 なぜなら、古来、臍下丹田という腹の底に、微妙、不思議な魂が潜んでいるようにいわれてきたが、その丹田の下にあって、生命の元になる力、悟りの力、力と知恵の原因になる「気」を絶えず発動している実体こそ、性器だからである。

 現代人はこの事実に気づかず、性生活を粗末にしている。性器は命の根源、精神の発動器官だから、性を軽率にする人は性格が乱れ、運命に恵まれることがない。

 性器は、生命を新しく産み出す生殖器官であるほかに、さらに大切なことは、人間の生命を一生涯維持する力を、宇宙から与えられている根本器官ということなのである。

 この性器の内部というものは、絶えず収縮運動を続けている。心臓などと違い、その運動を我々の意識で知ることはできないが、これは生命の自然活動であり、実は生殖作用というものも、本来はこの自然作用、自然運動からなってくるものなのである。

 性器は聖器であり、聖機、生機である。人間の一生涯にわたり、常に宇宙から生気を吸入し、生命の根源として働いていることは、意識によって捕らえることのできない厳然たる事実である。

 そういう生殖器官から作り出される言い知れぬ神秘な力は、目にも見えず、意識にも上らぬ本能的なものであるから、肉体の根本摂理や五官の力で調節しないと人間の心情に支配されては、ゆきすぎることが多いものである。

 その調節が正しく行われている時、人間は働けば働くほど、いくらでも働く力が出るもの。この生命の根本たる性器から作り出される力は、肉体の自然運動的鍛錬によって無限の力となるのである。

 それは生殖細胞というものが本来、実に強いものであるからである。生殖細胞は、宇宙の生命と全く変わらぬ性格を持ち、働きをし、絶えず宇宙の生命と同じように存在しているのである。

 今日のような化学的影響を受けぬ限り、突然変異などは起こりにくい。地球上に争いがなく、また人為的変化のない限りは、人間の生殖細胞はいつも正しく、きれいに存在し得るものである。

 ところが、現代人はさまざまな自然破壊を行ってきたし、今や、人間が作った突然変異誘起物質は六千種類以上にも上っているという。その結果、男性の生殖器官は最も代謝の活発な細胞を含んでいて有害物質の影響を受けやすいために、精子の数が減り、不妊症になるなど、子孫への影響は計り知れない。それが今、真剣に憂慮されるところである。

 性器を、「せがれ」だの「息子」だのというが、とんでもない。一生涯の親元である。毎日、毎時、宇宙からここを通して生命のくる大関門なのである。

●性器こそ人間生命の根源である

 男性に限らず、女性の生殖器も生命の制作所である。構造や機能は巧妙至極なもので、人の体は宇宙の神が何億年、何十億年もかかって創っただけに、実にうまくできているものである。

 巧妙、微妙な機械だけに、取り扱いが粗雑だと悪い子ができて親を悩まし、苦しめる。まじめな和合と仲のよい夫婦生活こそ肝要である。

 具体的にいうと、意識的に性欲を起こすと妄想の人となって煩悩という、悩みや煩いに捕らわれて性欲のとりこになってしまう。

 性の本義は、人間が宇宙生命の一分身として、しかも宇宙のすべての性能を与えられて、万物の最後に最高位をもって無限の発展を遂げてゆく使命をいうのであるから、この性を人間性の中心として、性の自重と、性器の尊重を心掛けねばならぬのである。

 元来、私たち人間も、宇宙によって創られた単純細胞の集団であった。それが分化に分化を重ね、今に見る素晴らしい肉体組織を形成してきた。人類の歴史は考古学的には約三、四百万年としても、その前に動物としての歴史が長く、生物としての源はさらに深い。

 その発展の経過の中で、くしくも人間となってきた万物と違う細胞の存在が偶然であるにもせよ、何億年の長い間、必然、偶然に宇宙の目的を目的として向上、発展をしてきた人間の歴史の上で、存在の中で、その繰り返しの中心をなしてきたものは、この生殖細胞の遺伝子の働きなのである。

 どうすれば、その遺伝子の形を整えることができるか。子供を宇宙の目的としての人間の理想像者とするには、完全な形を、その親が形の上で整えておかねばならない。

 悪ふざけをして、性の享楽などにうち興じている親があるとすれば、たくさんの生殖細胞の中から、つまらぬやからが飛び込む。

 一度に三~四億もの精子が、自分の育つことのできる神の宮に向かって飛び込んでいく時に、乱暴者が飛び込むか、ならず者が飛び込むか、反対に、賢明で落ち着いた、すでに神に選ばれたような素晴らしい種が選ばれて、そこに迎えられるかという境目である。落ち着いて神の導きを受けねば、そうしたよき種子を自然に選んでもらうことはできないということは想像できよう。

 性生活においては静かに、静かに形のごとく、儀式のごとく、人間の意識などを用いるものではない。ここでは、男女間の技巧などというようなばかばかしいことも行われるべきではない。

 この厳かな神わたりの儀式というものは、本当の神の子、仏の種を、三~四億という数の中から選び出す唯一の機会なのである。

 性とは生殖のためのみのものではない。快楽にふけるためのものでもない。性とは人間を鍛錬するために設けられた道場であり、教材であり、人間を改造し高めるためのものでなくてはならない。また、性は男女の真愛の上に立脚した、人間の厳かな営みでなければならない。

 改めて強調しておくが、生殖器は生殖もつかさどるが、生命の根本、中心に相当する器官。神聖にして犯すべからざるところ。生命根源の機能をつかさどる大切な器官なのである。

🟩上半身の健康情報

∥上半身の出物が発する健康情報(1)∥

∥自分の顔をチェックする∥ 

●自分の顔を見れば病気がわかる

 人相、容貌がその人の性格や経歴との一致率が高いことは、すでに述べてきたことであるが、この人間の顔というものはその人の健康状態を判断する場合にも、非常に役立つものである。

 外形的な目鼻立ちのほか、表情、顔色、黒目、白目、唇、皮膚の状態など、まことに多くを教えてくれる。精神状態をよく教えてくれるのも顔で、とりわけ表情と目の状態が多くを語る。

 医者の臨床診断や健康診断に際しても、顔はきわめて有力な情報源となる。患者の顔を見て病気を判断するのは、西洋医学で「視診」、東洋医学で「望診」といって、東西両医学がともに行っていること。顔から病気を見て取ろうとするのは、ごく日常的な診察法の一つなわけだ。

 名医といわれる人なら、顔を見ただけで、患者の病気と、その症状をピタリと見抜くという。

 昔の名医には、糸脈で診断できる人がいたそうだ。いくら名医でも、腕に糸を巻いて、その先を隣の部屋で持っただけで病気の診断をすることは、眉唾物である。しかし、十数年間も臨床検査を行って病人の顔を見ているうちに、いつの間にか顔の変化を見ただけで診断がつくようになったという名医は、実際に存在する。

 人間の顔には、健康状態を示すシグナルが表れており、経験を積み重ねた医者はそれを的確に読み取り、病気の状態を認知できるようになるためである。

 治療の方法は違うが、西洋医学であろうと、東洋医学であろうと、これは同じであり、名医といわれるほどの医師は同じ能力を備えているはずだ。

 西洋医学の診察法の一つである視診は、体付き、動作、顔などから、患者の健康状態を判断する診察法。視診は、患者が診察室に入ってきた瞬間から始まり、動作が緩慢ではないか、一方に片寄った歩き方をしていないか、前かがみになって歩いていないかなどを見る。

 例えば、動きがぎこちなく、ゆっくりしていると、パーキンソン病の可能性があり、一方に片寄った歩き方をしていると、脳卒中や小脳の異常などが疑われる。歩き方が緩慢で、前かがみになっている時には、うつ病、筋力の低下、パーキンソン病、内耳疾患などが疑われるようだ。

 わけても、内科では主に、患者の顔の色を重要視する。青白いか、紅潮しているか、黄だんがあるか、紫はんがあるかなどである。そのほか、顔では髪の毛の状態、目、唇、舌、歯肉なども、注意して視診される。

 もちろん、西洋医学の診察では、視診とともに、問診、触診、打診、聴診も行って、身体的検査や、脈拍・体温などの生命力データのチェックに加え、血液や尿の検査により循環、排泄(はいせつ)機能などを調べて、総合的に病気を判断する。

●顔で病気を予測する東洋医学

 西洋医学に対し、東洋医学の漢方は、検査機器の少なかった古代中国で確立された医療である。そのため、西洋医学とは異なり、診察は患者の顔や体の状態を見たり、聞いたりすることだけで判断される。

 基本となるのは望、聞、問、切の四診といわれる方法で、西洋医学の視診に相当するのは、この四診の中の望診に当たり、陰陽、虚実、表裏、寒熱の基準によって判断する。人間の体力の充実度については、虚、実という尺度で表され、体力があり、病気に対する抵抗力がある状態を実証とし、その逆の体力のない状態を虚証と見なす。

 人間の健康状態を、どの時点で問題があるとするかについても、東洋医学は西洋医学と大きく異なっている。病気というのは本来、顔を見ただけで病名がわかったり、検査で異常値が出たりした状態になってからではもう手遅れだとして、病気になる前に前兆を予測し、対策を講ずることが大切と考えるのである。東洋医学は西洋医学と比べて、病気にならないようにすることを特に重要視するわけだ。

 望診で注意するのは、西洋医学と同様、自律神経などの神経が多く表面に表れている顔と手。顔では輪郭、顔色、髪の毛、眉毛、目、耳、鼻、口などの状態を詳しくチェックする。

 そのほかには、姿勢、声、呼吸の仕方などにも注意を払い、それぞれ実証か虚証かを判断していく。例を挙げれば、顔色は青白いのが虚で、赤みがあるのが実、口はつい開いてしまうのが虚で、締まっているのが実といった具合である。

 その際、人間の顔は艶や張りがあり、赤みを帯びた状態が一般的には良好とされているが、東洋医学では、それのみを重要視するわけではない。

 健康を長いサイクルで判断し、天寿を全うできることを最大の目標としているため、顔の色艶がよく、脂ぎっていて、活力にあふれた状態は実証とされ、問題も抱えていると見られる。バイタリティーがあり、元気すぎるほどの人は、四、五十代で疲れてしまい、途中で高血圧症などの病気になりやすく、突然死んでしまうことも多いからだ。

 反対に、顔色が青白く、弱々しい人は虚証とされるが、世間で考えられるほど問題があるとは見なされない。体が弱い人は、体力がなくて無理をしないので、逆に長生きをすることが多いからである。

 東洋医学では、実証と虚証の中間の状態が、最もいいとされている。

 また、東洋医学には昔から平田氏帯という研究があり、これは顔の部分の変化によって、疾患を診断する方法である。

 この要点を略記してみると、男性ホルモンの過剰な人は頭がはげてくるし、婦人に子宮の疾患があると、前額に局限してニキビができることがある。便秘症の人は、鼻の付近に湿しんができる。

 観相術で見ても額は生まれつきの相というが、この部分が赤くテカテカ光っていれば、糖尿病である。

顔の中央は中年相で、このあたりがどす黒くなったり、頬にチョウ型の染みができたりしている人は、肝臓障害である。

 下顎のあたりが貧弱で、吹き出物ができていれば、胃腸障害、唇に水疱(すいほう)が生じて、治らない時は心臓が悪い、といった具合である。

●目の色や声に表れる「気」を診る

 かくのごとく、顔から病気を認知する方法が確立されているのは、人相が病気とつながりがあるからこそである。

 観相のほうから調べてみても、下顎は晩年の相を表し、下顎が発達し、円満な人は長寿であるとされている。漢方医のほうでも、下顎の貧弱な人は胃腸が弱く、短命であると考えている。

 言い換えれば、下顎がよく発達し、胃腸が丈夫な人はいわゆる福相で、「胃腸の丈夫な人に病なし」の格言の通りである。

 昔から「エビス、ダイコク、福の神」という言葉があるが、いつもニコニコしている人は、おおむね長生きである。私たちの周囲を見回しても、七十歳以上生き永らえている健康な人は、福相が多いはずである。

 つまり、楽しく、愉快な生活を送っているから、自然と人相まで福々しい顔になったものと思われる。

 これに反し、怒りっぽい人に胃潰瘍(いかいよう)が多かったり、ヒステリーの女性が神経系統の病気にかかりやすいのも、そのためである。

 その点、もしも既婚者が改めてお嫁さんをもらうなら、オカメの面のような下膨れをした、ニコニコしている娘さんを選ぶのもよいだろう。

 ともあれ、東洋医学でも、西洋医学でも、その診察に際しては、患者の顔や体から病気を判断するとともに、顔や体に表れる精神力をも判断しようとするものである。目に見えないエネルギーというか、生命力、東洋医学では「気」という概念で表現されているものである。

 同じ病気でも、患者の顔から「気」が出ている場合と出ていない場合とでは、大きく違う。「気」が出ていると、顔に生気が戻り、表情が明るくなって、病気は次第に治っていくのである。

 東洋医学では、「気」は目の色や、話す声に表れるとされている。目の動きが活発で、輝き、声に張りがある状態が、「気」が充実した状態である。

 実は、望診で一番むずかしいのは、この「気」を診ること、患者のエネルギー、生命力を見抜くことなのだ。

 ここまでの説明で、医者の視診、望診という顔から認知する病気判断の必要性がわかったことと思う。また、こうした面接や問診の場合は、じっくりと聞くという医者側の姿勢が、患者の苦しみや病像を知る上で、基本的に大切なのである。

 だが、最近の西洋医学においては、検査データばかりを見て、患者の顔をしっかりと見ない医者が少なくない。病棟回診の医者が「お変わりないですね」と、おざなりに声を掛けるだけで、サッといってしまうだけでは、患者の心にも不満が残ってしまうというものだ。

●自分の顔を鏡に映し、よく点検

 一般家庭における健康管理の問題についても、同じ傾向が見られる。昔の家庭では、母親たちが家族の顔色、表情に注意し、健康点検に役立たせたものだが、最近の母親は世情の慌ただしさの影響を受けてか、家族の顔をあまり注意しない兆候があるのは残念だ。

 また、テレビの影響のためか、夫婦でさえも、お互いの顔をちゃんと見る機会が少なくなり、お互いの健康状態のチェックがなされない傾向が強い。

 一般に、日本では健康管理の仕事を、医師や保健婦といった医療の専門家たちの仕事と割り切り、あなた任せの風潮が強い。

 この点、西欧諸国の人たちのように、健康は人生の幸福と考え、ヘルスケアは自分自身でやる仕事で、自分で手に負えない場合に専門家の指導を受ける生活態度を、私たちは学ぶ必要がある。

 少なくとも、毎朝一分間でよいから、自分の顔を鏡に映し、顔色、顔の表情、目、鼻、口の状態を点検してほしい。

 コンピューター会社に勤めるOLのA子さんは、毎朝自分の顔の点検を続けていたお陰で、ある朝白目が何となく黄色っぽいのに気づいた。約一カ月残業が続き、疲れがたまり気味で体もだるい。会社の健康管理室を訪ねたところ、急性の肝臓炎と診断され、緊急入院をした。幸い早期発見のため、約一カ月の入院で回復できた。

 大阪にある大学のB教授は、ある朝、目尻の上に米粒大の腫瘤(しゅりゅう)があるのに気づいた。早速、大学の付属病院の友人に診察してもらったところ、血液中のコレステロールが異常に高く、黄色腫と呼ばれる脂肪の塊ができたことが判明し、約二カ月間の厳しい食事療法でやっと高脂血症状態から脱出し、黄色腫をなくすことができたのである。

 誰もが毎朝、自分の顔を鏡に映し、数分間の点検を心掛けよう。睡眠不足や二日酔いの時は、何ともさえない顔が鏡に映る。

 こんな場合は健康の危険信号で、必ずそこには健康を損ねる原因が潜んでいる。早く、その原因を取り除き、その回復に努めてもらいたい。

 また、このようにして、その朝、その時、その日の人間の表情や、血色、気分、健康状態について考えてみると、それはよいにつけ、悪いにつけ、そのままが天の印でないものは一つもないことに気づくであろう。

 寝不足をすると、すぐ翌日の疲れとなり、顔の表情にも活気がなくなるというような一事にも、人間を生かしてくれている宇宙天地大自然の営みに反した印が、すぐその翌朝の表情に出ることを知る。

 従って、人間の今日、ただいまの表情に、私たちは天の印を見ると同時に、その人がどれだけ天の営みにのっとっているかどうかも、その表情からうかがい知ることができるのである。

 人間の一生涯は、片時も天の営みから離れてはならず、人間は何よりも、その営みに従うことを心しなくてはならない。

 だから、人間が生涯にわたって、その時々に応じての美を満喫したければ、常に天の営みにのっとって最高度の健康を保持するがよい。十分睡眠が足りて、心の平らかな健康そのもののような朝は、気分がよいのみか、自己の顔にほれぼれするような頼もしさを感じるだろう。

 顔の美の根源は睡眠にあり、健康にある。肉体にある。体の中から本質的に美が発動してくれば、心は健となり幸となる。血色はよくなり喜色がみなぎり、能力が出る。健が賢に通じ、康が幸となるということがよくわかる。

∥上半身の出物が発する健康情報(2)∥

∥耳をチェックする∥ 

●耳垢は汗腺の分泌物などからなる

 人間の目や鼻が前頭部にあるのに対して、側頭部にあるものといえば二つの耳である。この耳は、外耳、中耳、内耳の三つに分けられている。

 俗に「福耳の人はお金が授かる」といわれるが、この場合の福耳というのは、耳の中で最も外側にある耳介を指している。先の鼻の重要性を認識していない人が多いように、「耳ごとき」と思われる人も多いことだろうが、耳は他人には意外に目立つ個所であるし、自己の肉体内部に対しても調節、調和作用をしている大事なところだけに、おろそかにはできない。

 実は、耳の働きというものは、目以上に人間の肉体作用、精神作用に大きな役割を果たしているのである。世間の人は、その耳の働きをあまり知らないし、気がつかないようだ。

 人によって耳介の大きさが違うとともに、形もさまざまである中で、一般には、耳介が大きく、耳輪の渦も深いのがよしとされている。確かに、耳介というのは聴覚器の外へ向けられた集音器で、すべてのものの音はここで捕らえられ、耳の奥へと伝えられていくのであるから、大きかったりするほうが集音能力は優れていると思われるだろうが、現実に、耳介の大小によって、聴力が影響を受けるということはほとんどない。

 この耳介は、全体には軟骨が基盤をなし、下部の女性がイヤリングをつける一帯だけは軟骨がなくて軟らかく、下方に垂れ下がっているので耳たぶという。

 耳介の前方下部には、耳珠という小さな高まりがあり、その後方の陰に外耳孔がある。この外耳孔から鼓膜までの道を外耳道といい、外耳道と耳介を合わせて、外耳と呼んでいるのである。

 外耳道は成人でほぼ二・五センチの長さで、軽くS状に曲がっている。お陰で、外からのぞいただけでは鼓膜は見えない。これを見るためには、耳介を後ろ上方に引っ張り上げなければならない。

 さて、外耳道には柔らかい毛があり、耳道腺という汗腺の一種が開いている。耳からの出物である耳垢は、この汗腺からの分泌物と、表面の皮膚のはげたのが混じったものなのである。

 耳垢は体質的に、たまりやすい人と、そうでない人がいて、たまりやすい人は耳道腺からの分泌が活発な人に多く、中にはそれがすぎて、耳の中がいつもぬれた感じの人がいる。この種の、いわゆる猫耳は西欧人に多いようだ。

 外耳と内側にある中耳を境する鼓膜は、〇・一ミリの薄い膜でほぼ長円形をなし、その長径は一センチ弱である。この面はよく見ると、中央部がラッパ状にへこみ、臍の形をしているので、臍と呼ぶ。この部分の内側には、ツチ骨の柄が接し、ここから音の振動が内部に伝わる仕掛けになっている。

 鼓膜は薄く、外側からこれらの骨の形が透けて見える。それでも、膜の中には神経や血管が走っていて、耳垢をとる時など、誤って触れると激しい痛みを覚えることは、誰もが経験済みのことであろう。

 そのように耳の鼓膜はとても敏感で、表面をわずか百億分の一センチ動かす振動でも捕らえることができるという。そして、鼓膜の振動圧は、鼓膜のすぐ裏側にあるツチ骨など三つの耳小骨で、何と二十二倍の圧力に増幅される。

●中耳炎は咽頭や喉頭の炎症から起きる

 その三つの耳小骨に囲まれた空間が中耳で、鼓室と、ここと咽頭(いんとう)をつなぐ耳管とからなっている。いずれも表面は粘膜でおおわれ、中は咽頭から流入してきた空気で満たされている。

 鼓室の内側は、ツチ骨、キヌタ骨、アブミ骨という三つの耳小骨が互いに、関節をもって連なり、前記の鼓膜の臍から伝えられた音を増幅しながら、ツチからキヌタ、アブミ骨の順で、内耳へ送られていく。

 中耳炎は、この骨を取り巻く粘膜の炎症で、悪化すると音の伝達がうまくいかなくなり、難聴からやがて失聴に至ることもある。中耳は耳管によって咽頭と通じているため、咽頭や喉頭(こうとう)の炎症から起きる場合が多い。

 内耳は中耳のさらに内側にあって、硬い骨に囲まれ、小部屋の中に、蝸牛(かぎゅう)管、三半規管、前庭などが収められている。いずれも複雑な形をしているので、この一帯を骨迷路といい、この内側の粘膜を膜迷路と呼んでいる。

 このうち、カタツムリの形をした蝸牛管の中には、一種のリンパ液が満たされていて、ここまでやってきた音はリンパ液に波を起こし、その波紋がそこにいっぱい生えている繊毛(有毛神経)を動かし、その信号が聴神経を経て脳に伝達されるという仕組みになっているのである。

 一方、三半規管には前庭神経の一部がきて、体の平衡感覚をコントロールする働きをする。幼い子が車や船に酔うのは、この三半規管が未発達のため。耳は音の情報を得る感覚器官であると同時に、人間の直立姿勢の保持、つまり体の平衡を保つ平衡器官なのである。

 三半規管が発達していない乳児の場合も、音の情報を得る聴覚は発達しており、だいたい毎秒十六サイクルから三万サイクルの範囲の音まで聞こえる。だが、六十歳になると一万サイクル前後にまで落ちてしまう。人間は老いてくると、耳が遠くなるのである。

 耳で聞こえなくなると、鼻や口で聞こうとして、つい口を開ける。ポカンと口を開けた顔は、何ともだらしなく、締まりなく見えるものだ。

 現代の文明人たちは、テレビを見る、ラジオを聞く。無用な雑言にも似たくだらない音で、やたらと耳を煩わす。

 「聴、甚だしければ即ち耳聡ならず」と「韓非子」にあるが、無理に不必要な音で耳を刺激したり、耳がそれを聞こうとして焦ると、耳がだんだん本来的な働きを失い、いうことをきかなくなる。〃不感症〃というやつになってしまうから心すべきだ。

 それにしても、人間の耳というものは、まこと巧妙にできているものと、つくづく思うことがある。

 電車のような大きな騒音が聞こえるところにいても、慣れれば、ちっとも耳障りにならなくなるから不思議である。

 ちゃんと耳が調節、ろ過して、体に無益な刺激を与えないような機能が働く。一般には知られていない耳のもう一つ大事な働きは、肉体の内部、内臓の器官に対して、素晴らしい調節、調和作用をしていることなのである。

 さらに、耳から無意識につながってでき上がる勘というものは、肉体の深部にまで到達する。例えば、犬がぐっすり寝こんでいるようでも、耳だけはちゃんとアンテナを張っていて、ちょっとした物音にも敏感に動く。目は閉じていても、耳や鼻は外のほう、つまり生かされているという世界に向けて開いている。

●耳を澄ますと奥深い世界に通ずる

 この耳は聞くだけでなく、耳で見ることもできる。目は確かに事実を誤りなく見るが、それはあくまで表面的な状態だけで、内容を見ることのできるものは耳である。人を本当に見ることができるのは、耳なのである。耳は、目で見た印象と合わせて、物事の本質を間違いなく感覚することができる。

 結局、耳も目も、外界のものを捕らえるという点で、同じような働きをしているようであるが、本質的に違うものである。

 目は平面的であるから、表面的で浅いところを広く見る性質を持っている。耳は深いところにあるから、力というものを把握することができる。目に見えない世界を把握できる力を持っているから、耳を澄ますと奥深い世界に通ずることができる。耳で落ち着くということができる。だから、耳がしゃんとしていると、目がキョロキョロするようなことはなくなるわけだ。

 この力を活用すれば、難行苦行をするまでもなく、人間性を成就することができる。真に健康、賢明になり、病気もせず心に悩みを持つこともない。難病、業病を治すこともできるのである。

 目に見える物や、耳に聞こえる音はまず潜在性意識の中に入る。目と口は現象界に直接し、直面して頭脳に記憶させるし、耳と鼻は目に見えぬ世界のものを捕らえて体内に入れる。

 鼻で嗅げないものや、目に見えない物や、耳に聞こえないものは、一種の光となって無意識の中に入っていく。

 人間は目に見える物、音として聞こえるものだけが、ものだと思っている。けれども、それ以外に、それ以上に素晴らしいものがあるということを知らない。こうした力が無意識に入っていくと、下のほうの空意識から入ってくるものと、二つの力が合流して、大変な能力を生み出すのである。

 こういう力は誰にでもある。平等に生かされている世界に生きている人間の、素晴らしい能力である。しかし、このことを知る人がない。この力が肉体のあらゆる器官、機能に重要な力を与え、大きな能力を発揮させる力であることを人は気づかない。

 つまり、見えない物、聞こえないものが、この空の世界に、空の形で存在している。それを体で受け取り、我が力とする方法ができたならば、その人は達人になれる。

 耳は音を音波として聞き、目は光を吸収して万物を見る。同時に、耳や目からいろいろな物事を発動し、発揮していく力を持っている。人間の行う芸術、科学もそうした働きによるものである。

 耳や目はものを吸収するが、それが目に見える陽の面に働く時と、目に見えない陰の面に働く時とがある。目は光を捕らえ、光の中で陽の面に働き、耳は目に見えない世界のものを音として受け取るわけである。

 古来、「耳を信じて目を疑う」とか、「耳に入り心に著(つ)く」といって、耳から聞いた学問、知識などが、よく身につくもの。

 賢い人のことを聡明(そうめい)といい、耳ヘンである。聡明といえば、精神が立派で、物事の判断力が確かな人だ。その元はといえば、耳が優れていて、もののよしあしを判断する機能が、十二分に働くということである。

 徳をもって人に分かつ、これを聖という。財をもって人に分かつ、これを賢という。人に恵む時、徳を人に分けてやるのが一番尊い。それが聖。財産を分けてやる賢はその次。こう荘子もちゃんと教えている。

 聖という字にも、耳が付いている。やはり、最高の人間たるには、耳が正しくないといけない。そのあたりは、昔の人も心得て、字を作ったものだと感服するばかりである。

∥上半身の出物が発する健康情報(3)∥

∥目の疲れをチェックする∥ 

●目から出る涙は酸素と栄養の供給源

 本人は健康だと信じているのに、いつの間にか病気にむしばまれ、気付いた時にはもう手遅れとならないために、毎日、自分の体からの貴重な出物を観察することをぜひ勧めたい。

 いろいろな出物は毎日姿を変え、体の調子をはっきり告げているものであり、非常に役に立つ健康のバロメーターで、素人にも判断しやすい健康の指標なのである。

 もし色や形、量、におい、音などに異常が発見されたら、病院にいって精密検査を受けてほしい。確かに、一過性の違和もあり、出物の異常がすべて病気というわけではないものの、本当の病気だったら、早期発見できる場合もあるのだ。

 いきなり病院に担ぎ込まれる前に、体からのメッセージを自分の目で読み取る能力を養っておくのが、内臓をはじめとした心身へのいたわりというもので、誰にとっても決して無駄にはならないはずである。

 メッセージの解読法とともに、肉体各部の異常な出物を正常な出物に変える対処法や、日常生活において根本的に肉体を調整、浄化する健康法をお伝えしていく。この健康法も、誰にも有効で、大いに活用できるものである。

 現代の日本人の肉体の中で、最も酷使されているものの一つに、両の目が挙げられるだろう。

 もとより、宇宙には音が存在するから人間の耳が作られたように、光があるから人間に目が与えられたのであるが、目の網膜には光に反応する視細胞が一億三千七百万個もあり、そのうちの一億三千万個で明暗を感じ、七百万個が色彩を感じているという精巧な器官なのである。だからこそ、目の視覚機能は、最も多くの外界の情報を瞬時に判別、認識する。

 この目からの出物、腫れ物といえば、涙、目やに、ものもらいが考えられる。

 最初の涙に関して、感極まって涙を流す動物は人間だけだといわれているが、実をいうと、我々人間は別に悲しくなくても、常に、一定の量の涙を出し続けているのである。人前で泣くものではないと教育されて成人した男性でもだ。

 それは涙の基礎分泌と呼ばれている。この涙の分泌が一瞬でも止まれば、角膜が乾燥してしまうため、我々は目を開けていられなくなる。

 角膜というのは、眼球の黒目の部分をおおう透明な膜で、直径はほぼ一センチである。角膜の外側はいわゆる白目で、表面は透明な結膜、その下には強膜という白色、不透明の丈夫な膜がある。鏡をのぞいて、自分の目をよく見ると、その表面には細かな血管が張り巡らされていることに気づく。目が疲れてくると、血管が充血して目立つようになるのは、目に酸素と栄養をたくさん送り込むための反応なのである。

 この張り巡らされた血管は、白目が角膜に接するところで途切れてしまう。よくできたもので、角膜の中に入り込む血管は一本もない。透明な角膜に血管が入り込んでいては、視界のじゃまになってしまうからである。

 しかしながら、角膜を構成しているのは生きた細胞であるから、酸素と栄養の補給を欠かすことはできない。そこで、血液の代わりに使われるのが、まばたきの刺激で基礎分泌される涙というわけなのである。

 意外に感じるかもしれないが、毛も、皮膚も、表面の部分は、新陳代謝を終えて死んだ細胞である。人間は、体を死んだ細胞でおおうことによって、水分の蒸発を防いでいる。生きた細胞は空気に触れると、すぐに乾燥してしまうからだ。

 この点、角膜のように生きた細胞が直接大気にさらされているのは、人体では珍しいケースなのだ。それが乾燥せずにいられるのも、涙が常に目の表面をおおっているお陰なのである。

 目をおおっている涙の量は、きわめて少量だ。およそ七マイクロリットル、千分の七ミリリットルという量である。

 涙は目の表面に、ごく薄い層となって、延び広がっている。本当に薄い層であるが、細かく見るといくつかの層に分かれている。外側から油層、漿液(しょうえき)層、ムチン層と呼ばれる三つの層だ。この三層が正常に機能して、はじめて涙としての役割を果たしているのである。

 最外層の油層は、脂肪分に富んだ液体だ。これが涙全体をおおっているために、涙は普通の液体よりもはるかに蒸発しにくい。油層はまつげの生え際に一列に並ぶ、マイボーム腺(せん)と呼ばれる器官で作られる。皮膚の脂腺が詰まってニキビができるように、マイボーム腺が詰まるとまぶたが赤くはれる。これが目の出物、腫れ物、いわゆる、ものもらいである。

 油層の内側の漿液層が、涙の本体。ここに、酸素や目に必要な栄養などの成分が含まれ、目の健康を保つのである。主に、上まぶたの裏の耳側にある涙腺で作られている。

 その内側、眼球の表面と接しているのが、ムチン層。ムチンは粘着性の高い蛋白(たんぱく)質で、涙が目の表面に安定してくっつきやすいようにする。外部から侵入した異物や細菌を目の外へ出し、まぶたの動きをなめらかにするという働きもする。このムチンは、白目の表面にあるゴブレット細胞で作られている。朝起きた時に、目の隅などに目やにがついていることがあるが、これがムチンである。

 このように三層をなす涙は、目を正常に機能させるために欠かせない液体なのである。

●目を酷使すると生理的機能を痛める

 その涙が、人間の感情の高まりと一緒に、大量に分泌されるのはなぜだろうか。この疑問に対する明確な医学的解答はいまだ得られていないが、感情的涙についての仮説で有力なのは、人間がストレスを受けている時に体内に発散した有害物質を取り除く働きがあるというものである。この感情的涙には、刺激で出る涙より高い濃度の蛋白質が含まれているそうだ。

 また、目から出る感情的涙というのは、ボディーランゲージの一種であることも確かだ。悲しさと涙とが条件反射的に結びつけられていく過程は、新生児を観察するとよくわかる。

 多くの人は悲しいから涙が出るのだと思っているが、「涙が出るから悲しい」のも側面的真理であって、心の悲しみは体ごと表現されるものである。

 そのような人の動きをよく見る力を養うと、人柄がわかり、性格もつかめるようになる。これも目の働きである。

 眼光紙背に徹するほどに鍛えられれば、相手の運命や将来性まで、五官(五感)意識で直観することもできるようになるものであるし、そういう達人の目はゆったりしている。なぜなら、古人が「胸中正しければ、眸子(ぼうし)明らかなり」と喝破しているように、体が正常であれば目もゆったりしているものなのだ。

 残念なことに、たいがいの現代人の目は落ち着きがなく、視点が定まらないでキョロキョロしている。物事に対する鑑定も、全く当てにならないものである。

 言い古された言葉であっても、「目は心の窓」というのは千古不易の真理である。自己意識の強い人は、内面を映す目が濁って妄想が渦を巻いている。

 一方、五官意識でスッキリと生きている人の目は、まるで新生児や乳幼児のように、自ら澄んで美しく、青空のようにすがすがしい。

 実は、そのような目をした新生児の五官のうち、真っ先に働くのは口と鼻である。目や耳は少し遅れるものだ。

 目という器官は、もともと物を映すようにできているから、教えなくとも自然に見ることができる。意識的に見るように教え込まれなくても、天地万物のほうから新生児の目に飛び込んでくるわけである。

 つまり、目は与えられれば何でも見る。目からは、自然の心が入ってくる。恐ろしい害毒も飛び込んでくる。刺激の強い、つまらないテレビの画像も、子供の目に飛び込んでくる。こうした映像が、すべて先入観念となって肉体に蓄積され、人間の一生を支配するのである。

 子供のうちから、やたらに目や耳を使うと、人間性の根本が狂ってしまう。

 ビジュアルに教え込むことはやさしいから、人はやたらに視覚教育を尊重するが、そのために自己意識や誤った先入観を子供に詰め込むことになる。その害毒の大きさは、テレビについてだけ考えてもよくわかることだ。テレビの見すぎは、子供の精神に「心」という錆(さび)をこびりつかせるばかりでなく、目の生理的機能をも痛めてしまうものである。

●心の窓たる目の疲労の治し方

 子供に限らず、現代人は目を酷使しすぎる。用のない時は目を閉じていたほうがよい。 目を自己意識で酷使していると、疲労のために頭痛がしたり、吐き気やめまいを生じることもある。

 とりわけ、人間の目の疲れで最近多いのがドライアイで、涙が少ないために目が疲れる一種の現代病である。先に述べたように、その涙は泣く時に出る涙とは全く別で、目が正常に働くための最低限必要な潤いとしてのものであり、この基礎分泌の涙が少ないと、ドライアイと診断される。

 では、涙が少なくて目の表面が乾くとどうなるのか。角膜の表面には、きわめて細かい凸凹が誰にでもある。凸凹は、本来なら涙によっておおわれ、なだらかな曲線になっているのであるが、涙が不足するとそのまま露出し、表面組織がはがれてしまう。

 そこに光が乱反射してまぶしさを感じ、視神経を疲れやすくしてしまうのである。特に、一日中コンピューターに向かって仕事をしている人、つまりVDT作業をしている人は要注意。じっと画面を見つめる作業なので、まばたきの回数が減る。通常の涙はまばたきの刺激によって出るものだから、その回数が減れば自然に涙の量も減って、ドライアイになりやすいわけだ。

 対策としては、涙に近い成分の目薬を頻繁にさし、目を休めることしか手立てはない。ことに目を酷使する作業をする時には、一時間を一クールとして、その中に必ず十分くらいの休憩をすること。

 その時に、遠くの緑を見るといいとか、星を数えるといいとかいうけれども、一生懸命見ようとするのはかえってよくない。ボーッとするとか、同僚とおしゃべりをするとか、少しでも寝るとか、とにかくあまり物を見ないことが、目にとっては必要なことである。何より血行をよくすることも大切だから、首や腕を回したり、社内をうろつくのもいい。目のためには、見るな、そして動けである。

 もちろん、ドライアイの人の仕事休みの時は別にして、ふだんから遠い地平線を凝視したり、強くまばたきを繰り返したりするのは、疲れ目に効果がある。ヨガの古い文献によると、トラータカと称する一点を凝視する方法は、視神経を強め、眼疾を治癒させる効果があるという。

 また、光が目の保健に役立つことは生理学的な事実で、漠然と遠くの一点を見つめたり、天上に輝く日や星を注視することは、肺が清浄な空気によって元気づけられることと、同じような効果を持つことになる。日の出や日没の時の、まぶしくない太陽を注視するのは、スーリーヤディヤーナと呼ばれるヨガの保健法でもある。

 しかし、日中のまばゆく、強い太陽光線では、逆に目に炎症を起こす恐れがあるから、みだりに注視することは好ましくない。

 目が疲れたなと思ったら、まぶたを閉じて親指の腹で軽く摩擦をするのもよい。目の体操としては、首をしゃんと伸ばして、自分の鼻先を注視する方法や、上目使いに眉間(みけん)を見つめる運動がある。顔を動かさず、視線だけを左右の肩先に移動させると、眼球をコントロールしている筋肉の鍛錬になる。

 そして、目の疲れに何よりいいのは、十分に寝て目を休めること。誰もが夜の眠りに入る前に、空の世界に目を遊ばせ、目に見えないものを見るようなつもりで寝ると、肉体に蓄えられた「気」の作用で自然に精神が統一され、宇宙大自然と一体の境地に到達できるものである。もちろん、目の疲れも回復する。目薬よりも寝薬なのである。

∥上半身の出物が発する健康情報(4)∥

∥鼻をチェックする∥ 

●イビキは眠りや健康を損なうことがある

 人間の目の下にある鼻は、顔の中心、中核である。この鼻や口から発せられる出物の一種に、イビキがある。眠っている時に呼吸とともに出るイビキの音ほど、本人平気、はた迷惑という図式がはっきりしている現象も珍しいのではないか。

 対処法として、よく「姿勢を変えてやれば止まる」といわれるが、そうとも限らない場合もある。

 口を開けて寝ると舌が下がるため、口から喉(のど)への通路が狭くなる。その上、鼻腔(びこう)と口との境界にある、口蓋垂(こうがいすい)や軟口蓋と呼ばれる部分がゆるんでいると、ここが振動する。それがイビキになるのであるが、体が疲れている時ほど、そのあたりの筋肉のゆるみが激しく、イビキもひどくなるのが道理。

 一見、安眠の印のようにも見えてしまうイビキが、本人の眠りや健康を損なうこともあるし、病気の症状として出ることもあるから、注意をうながしておきたい。

 その病気の代表が、夜中に息が止まる睡眠時呼吸障害という特殊な病気である。睡眠時無呼吸症候群ともいい、起きている時は正常に呼吸しているのに、眠ると十秒から二分ぐらい、繰り返し呼吸が途切れる病気である。

 睡眠中の無呼吸は、健康な人でもよく見られるが、十秒以上の無呼吸状態が一時間の睡眠に五回以上ある時、この病気と診断される。

 脂肪が沈着するなど気道をふさぐ原因があって起きたりするもので、圧倒的に男性に多く、年を取るに従って増える。女性も閉経後に見られるので、性ホルモンが関係しているらしいといわれている。

 こういう病気の人たちは、睡眠時間をたっぷりとっているのに、昼間に眠気を感じる場合が多い。呼吸が再開する時は、覚醒(かくせい)時と同じ脳波が現れるので、無意識のうちに、夜中に何度も目が覚めているわけだ。酸素不足から、日中、頭の重さを訴える人も多く、高血圧や不整脈、赤血球の数の増加、心臓肥大など、さまざまな合併症も起こしやすい。これらが、睡眠中の突然死の原因の一部になっている可能性が指摘されている。

 睡眠時無呼吸症候群の人でなくても、イビキをかく人は周りへの迷惑を気にするだろうから、イビキ対策を述べよう。

 一番いいのは、鼻や喉に異常がないか、耳鼻咽喉科で診てもらうこと。扁桃(へんとう)がはれていれば、切除することもある。鼻づまりなら、治したほうがいいだろう。

 ただ、重症でなければ、生活面の工夫である程度は改善できる。太った人は、日頃から減量を心掛ける。お酒を飲む人は、飲酒をなるべく控える。アルコールというものは、喉の筋肉をゆるめ、イビキをかきやすくするからだ。

 鼻の粘膜が乾燥して荒れると、イビキをかきやすくなるので、部屋の湿度を保つことも必要。仰向けに寝ると、喉が狭められるので、横向きに寝るのもよい。枕(まくら)の下に本などを置いて、傾斜を作るのも効果があるそうである。

●鼻はホコリを排出する浄化機能も持つ

 さて、人間の鼻は顔の中核で、大切な顔面を引き立てる美の象徴でもあるとともに、人間の生死も、宇宙大自然との交渉も、鼻から始まって鼻に終わるといえよう。鼻は人間が死ぬ時には、一番最後まで残る。呼吸が止まれば、鼻の存在も終わる。鼻は最初で最後である。

 この鼻というのは、人間の腹部における臍(へそ)と同じように、五官の要になる大切な器官である。

 そして、鼻は宇宙からの「気」を受信し、発信するアンテナでもあるが、それは外部環境に対しての広がりを意味するだけではなく、肉体内部のあらゆる器官にも四通八達しているものである。

 鼻は五官の中央にあって、鋭敏な感覚力を持っている。五官と潜在性意識、無意識と空意識を一貫して、すべての感覚を調整し、神経を上手に制御したりする。

 こういうと、鼻といえば嗅覚(きゅうかく)をつかさどるだけが役目と思っている人がほとんどに違いないから、意外な機能にびっくりすることだろう。

 人間の鼻は、においを嗅(か)ぐだけではない。生きる上では、鼻腔の上部の粘膜上皮に約五百万個ある嗅細胞でにおいを嗅ぐ器官とされているが、生かされの世界では、鼻が素晴らしい感覚の中心となっているのである。わからぬものが、わかるという力さえもある。

 これは鼻とか、臍とか、生殖器官という神秘的なところに、空意識、無意識という意識できない大きな力が潜んでおり、発揮できるからなのである。

 一般的に知られているところでは、感覚器官としての鼻には、嗅覚機能のほかにも、呼吸作用を効率よく行うための役割がある。まず、冷たい空気がそのまま肺に入るとよくないので、鼻甲介の血管の収縮によって、空気を吸い込んだ瞬間に三十度くらいまでに温度を上げる暖房の機能、加温機能がある。

 その次は加湿機能で、鼻の中の粘膜は水分が九十五パーセント前後あり、入ってきた乾燥した空気に湿り気を与え、喉などの粘膜を保護するわけだ。

 また、鼻腔内の数百万本も生えている繊毛によって、外から侵入するホコリを体外へ排出する浄化機能という役目も果たしている。

 人間の鼻は、霊妙な五官作用の働きのシンボルといえよう。

●頭脳の疲労素も排出する鼻水

 鼻の感覚機能が訓練されて高まると、においのあるものだけを嗅ぎつけるだけでなく、目に見えない世界にあって、まだ香りになってこないものまで嗅ぎつける能力を持つようになる。

 例えば、夜、眠っている時は目と口は現象世界と交通遮断をしているが、耳と鼻とは、生かされているという世界において、開けっ放しになっている。

 といって、無用、不要なことは聞きもしないし、嗅ぎつけもしないが、泥棒が入ったり火事のような時には、その不審な物音に気づく。異常を察知した時には、耳と鼻が協力をして、かすかなものでも聞きつけ、嗅ぎつけるのである。

 最近は、人の鼻も耳もマヒしているから、そういう微妙な問題に対処する力がない。社会の雑音の多い生活の中にいるから、必要な音さえ聞こえないのである。

 この鼻に力を入れると腹も締まるし、全身も、「気」も、心も締まってくる。鼻から下の顎(あご)まで軽く力を入れると、魂が落ち着くものである。

 さらに、鼻に「気」を集中して物事を考えると、無心のうちに真相が解けるものである。精神集中も、鼻に「気」を集めることが要領である。坐禅の時にも、鼻を中心に静寂、空寂になれる秘訣があり、人生のポイントがある。

 鼻は空気だけではなく、宇宙の生気、「気」というものを吸い込み、吐き出している。

 「気」とは、エネルギーとか、単なる働きではない。生命である。この宇宙生命という「気」の存在、働きは万物万象のすべてに現れているが、その「気」を吸収するところも、発揮するところも、頭部では鼻が主なのである。

 だから、「気」が生じ、力がある時、鼻が何かと感じる。しっかりした鼻からは、着想や名案が出てくる。

 人間は五官の中で、鼻というものをすっかり忘れている。目と耳と口があって、その中央に位する鼻のアンテナが、まるっきり遊んでいる。無視されているのである。人間の体には、まだ忘れられている大切なものがある。

 鼻のよい人、完全な人は、頭脳にも関係がある。そこで、鼻腔の呼吸で頭脳を内部から冷やすこともできる。大きな徹底呼吸をしたならば、鼻からの空気で、頭脳を養うこともできる。

 頭脳の排泄物などは、鼻に下ってくる。鼻には、頭脳の疲労素を鼻水という出物に変えて、排出する機能があるわけである。ヨガでは、鼻の浄化によって頭脳が爽快となり、視神経が強くなるという。

 これも巧妙に仕組まれた自然作用の一つだが、自己意識がのさばってこの自然作用を妨げると、鼻づまりや蓄膿(ちくのう)症にかかることになる。

 また、唾液や胃液が気化されて熱に変わった時も、鼻が詰まったり、詰まり加減になったりする。鼻は「気」神経の集まるところだから、鼻にさしたる故障がない時でも、鼻づまりで困ることがあるし、体に水分が不足したり、エネルギーの燃焼や気化に異常があると、すぐ鼻に現れる。

 簡単なことながら、意外な原因で意外なところに現象が起こるものである。その影響もまた無視できない。

 そこで、変わった健康法として、毎朝の洗面の時、冷たい水を手にすくって、鼻に七十回から百回ぐらいかけるのを習慣にすると、真冬でも風邪を引くことがない。少々の鼻づまりなども、てきめんに治ってしまうから妙である。

 朝の洗面の時に、鼻から薄い塩水を吸い込むことも、鼻の健康法としては抜群の効果がある。

 鼻づまりを治すもう一つの方法は、昔から言い伝えられてきた頭寒足熱で、足を温めることである。足は鼻ばかりではなく、目とも関連があって、フクロウの足を折ると瞳孔(どうこう)の周囲の光彩に傷が現れるというデータもある。目の悪い人は、多くの場合、足も弱い例が多いことを付け加えておこう。

∥上半身の出物が発する健康情報(5)∥

∥口からの出物をチェックする∥ 

●口などから出るゲップ、クシャミ、セキ

 耳の次は、人間の口からの出物についてである。いうまでもなく、人間の口は、消化器官の一部であり、声帯と一連の発声器官でもあり、その周りには表情筋を張り巡らした表現器官でもある。もちろん、呼吸器系統にも属している。

 この口から発する言葉を主にして、私たちは互いの意思を伝え合っている。実は、そういう人間の言葉というものの根源は音(おん)である。その音の発生を追求すると、宇宙大自然の中に逆上ることになる。音も光も宇宙エネルギーの具現だが、それを感覚で受け止めた肉体が体の中で「気」に変え、自己のエネルギーに変換する力は素晴らしいものである。

 人間が生かされている下半身の無意識、空意識が、上半身の潜在性意識、五官意識に通じてくる時に、肉体の働きとして音というものが発生する。すなわち、音は無意識、空意識という他力から発生して、上半身のほうへ上がってくる途中で、潜在性意識の中を通ってくると、さまざまな編集、組み合わせができて、言葉というものとなって、五官意識から発動するのである。

 音が言葉になる。音が声になる。音声、声が言葉になる。音が歌になる。思えばなかなかに面白い肉体の仕組みである。

 上半身にある口から言葉を上手に発する人は、その言葉の根が空意識、無意識という下半身、下腹にある。無意識層のよくできている人、発達している人の言葉は整然として、内容が立派である。

 本当によい声を出そうとするならば、下腹の無意識、空意識という世界を鍛錬して、腰と腹に力を持ちながら、上半身は空虚にして楽に声を発する、歌を歌うようにすべきである。上半身で力んで、努力して一生懸命歌おうとすれば、かえって楽に声が出ない。色も艶(つや)も味もない歌になってしまう。

 人間の声も、もっと美しく微妙に、立派に出す工夫が必要である。そのためには、呼吸作用を上手にしなければならないし、「気」が浮ついている時には、大きな腹式呼吸をして舌を落ち着かせることである。

 さて、口からの出物の話に移って、まずは胃から口を通って発せられるゲップについてだ。ゲップというと、何となく上からのオナラという感じがすることだろう。しかし、両方の成分を比べてみると、ゲップはほとんど大気と同じで、窒素、酸素、炭酸ガスからなる。オナラとは大違いなのである。

 人間は話したり、歌ったり、食べたり、飲んだり、タバコを吸ったりと口を開閉するたびに、空気を飲み込んでしまっている。普通の場合、食道に比べて胃の内部のほうが少し内圧が高いのだが、食道括約筋によってふたをされているので、逆流しない。ところが、空気がたまりすぎたり、ビールとかコーラの炭酸ガスが入りすぎたりすると、「あんまりじゃないか」と胃が苦しがって、放出してしまう。それがゲップというわけである。

 人によっての違いはほとんどないけれど、その時、胃の中のにおいを持ってくる。欧米ではオナラよりもゲップのほうが失礼になるというのは、食物のにおいを感じさせることが一因であろう。

 ゲップと同様に、口や鼻から音をともなって出てくるものに、クシャミとセキがある。冬には、両方に悩まされる人も多いが、前者のクシャミは、鼻粘膜に異物が付いたり、刺激が加わった時に、これを飛ばそうとする運動である。後者のセキは、気管粘膜の異物や刺激を除こうとする運動である。

 このように、出口は違うのだが、ものすごい速さの呼気を作るという点では、ほぼ同じ動作なのだ。

 もう少し詳しくいうと、クシャミは、呼吸中枢のすぐ近くにあると思われるクシャミの中枢の指令によって起こる。思い切り吸い込んだ息を、鼻腔を目掛けて吐き出す。この時、当然、口にも息が押し寄せるから、もし口を開いたりすると、ツバキまで飛び散ってしまうわけである。

 一方、セキの場合は、セキの中枢の指令で出る。こちらの指令には、「声門と鼻腔を閉じておけ」という内容が入っている。息の吐き出し方はクシャミと同じで、息の流れが声門にぶつかった途端、声門が開かれるということになる。

 声門は意思で開閉できるから、空セキなどという芸当ができるが、鼻腔はいうことを聞いてくれないので、空クシャミはできない。

 普通の呼吸と比べてみると、クシャミやセキでは、吐く息のパワーが全く違う。普通の呼吸に使う筋肉は、横隔膜が主で、外肋間(ろっかん)筋と内肋間筋が肋骨を広げたり、狭めたりというアシストをしている。

 これがクシャミやセキとなると、がらりと態度を変えてしまうのである。まず、使う筋肉では、補助呼吸筋と呼ばれ腹壁周辺の筋肉七種以上が助っ人する。場合によっては、足腰の筋肉まで使うという物々しさなのである。クシャミをしたら腰を痛めた、などという人がいる理由が納得できるだろう。

 深く息を吸った後、これらの筋肉が力任せに収縮して、肺は猛烈に圧迫される。その結果、吐き出される呼気のスピードは、秒速二百~三百メートルという亜音速なのである。

●アクビは大いに奨励すべきもの

 口から出るものの一つとして、アクビという吐息、深呼吸もある。人間なら誰もが、長い会議に出席したり、退屈な講演や授業を聞かされると、アクビが出そうになるもので、、一般には「眠い」、「疲労」、「退屈」と、ろくなイメージがないことだろう。

 人間工学の立場から、単調労働とアクビの関係について研究した大学教授もおられる。工場の組み立てラインや検査ラインに働いている人たちを観察したところ、仕事開始から三十分くらいは変化がないが、三十分すぎる頃から注意力が落ちてきて、能率が落ち始める。そこで何とかカバーしようとして、姿勢を変えたり、隣の人と短いおしゃべりをして、気持ちをしっかりとさせている。

 ところが、開始六十分頃になると、もう、そんな努力ができなくなって、姿勢も動かなくなり、アクビが出始めるという。新幹線の運転手のデータをとった時も、六十分でアクビが出てしまったという。

 その結果からわかったのは、人間が大きな変化のない仕事を続ける場合の限界は六十分とみられることだ。つまり、「これ以上続けても、大脳生理学からいって効率はよくない」とサインしているのが、アクビだというわけだ。

 六十分やってアクビが出た時は、二十分休憩というのが理想で、これでほとんど能率が回復する。少なくとも、十分は休憩したほうがいいようだ。

 一方、「アクビは深呼吸の一種であって、特別な意味はない」という医学関係者もいる。

 それによると、疲れた時だけでなく、緊張が続いてもアクビが出そうになる。緊張した時も、「息を詰めた」状態なので、血液に酸素の借りができる。あまりに借りると「返せ」といわれるのはどこでも同じで、それがアクビというわけである。しかも、このアクビという深呼吸の後は、しばらく無呼吸状態になるので、派手なアクションのわりに返済額は大したことがないというのである。

 授業や会議中にアクビが出そうになったら、何回かに分けて大きめの深呼吸をすれば同じことだが、緊張すべき時が終わったら、なるべく派手なアクションをすれば、リラックス効果があるそうだ。

 編集子にいわせれば、アクビは体内の悪疲、悪ガス、圧力の放出法である。アクビは疲れを「気」に変えて、体外に放出する自然作用だから、大いに奨励すべきものである。

 誰もが仕事に飽きたら、アクビをせよ。これが前夜の睡眠不足が原因では怠け者の象徴となるが、気分転換、心機一転の機会ごとに、着想が新しく、新しくと進んでゆくのがよい。そうすれば、意識は前向きで元気が出る。

 こうするために、お茶を飲んだり、タバコを吸ったりするが、一番簡単で無害有効なのは、伸びとアクビである。単調労働に従事している人や、事務仕事の多い人は人工的に、時々、伸びやアクビをする癖をつけておくと、習慣的に、条件反射運動的に、疲れがたまると、すぐに伸びやアクビが出るようになる。努めて、このような自然機能が発動するような体勢、体調にしておくことである。

●筋肉を伸ばせば頭がはっきりする

 俳人高浜虚子は、「五十ばかりアクビをすると一句浮かぶ」という特技を持っていたそうである。

 頭の働きに活を入れようと思ったら、筋肉を引き伸ばすことが一番なのであるが、人間が無意識に実行している典型的な例が、アクビなのである。

 筋肉が引き伸ばされた時、その中にある感覚器の筋紡錘からは、しきりに信号が出て大脳へ伝達される。大脳は感覚器から網様体経由でくる信号が多いほどよく働き、意識は高まって、頭ははっきりするようにできている。

 アクビも、咬筋(こうきん)といって、上顎と下顎の間に張っており、食べ物を噛(か)むのに必要な筋肉を強く引き伸ばすものであることを思えば、俳人の特技ももっともな話だ。

 アクビは「血液の中の炭酸ガスを追い出すための深呼吸」だと説いている書物が圧倒的だが、アクビは「頭をはっきりさせるための運動の一つ」でもあるのである。

 それでも納得いかないという方にも、わかってもらえるような例を挙げる。

 今まで眠っていた猫が目を覚まして、行動を起こそうという間際には、決まってアクビをし、続けて背伸びをしている。我々も、これから起き出そうという際には、伸びをしたり、アクビをする。

 ともに筋肉を伸ばすことによって、頭をはっきりさせる効果があることは、ご承知の通りである。

 退屈な講演や授業を聞かされた時のアクビが、頭をはっきりさせて、何とか目を覚ましていようという、無意識の努力の現れだとしたら、ただ「行儀が悪い」としかりつけたり、腹を立てたりはできなくなる。

 アクビは自然の覚醒剤。したい時には、いつでも堂々とやりたいものである。先のゲップや放屁と同様、エチケットに反することになるのは、いかにも残念だが。

 ついでながら、咬筋の収縮を繰り返しても、同じような効果があるので、ガムを噛むのは結構なこと。アメリカの野球選手は、例外なくガムを噛みながらプレーしている。

 同じ意味で、パソコンやワープロに向かう際には、立ったままで仕事をするのもいいだろう。人間が立っている時も、意識には上らないけれども、百くらいの筋肉が働いているから、腰掛けて筋肉をダラッとさせている時より、頭はずっとさえるはずである。

 だから、学校の朝礼において、「気をつけ」と不動の姿勢をとらせての訓示は、休みの姿勢で聞くより効果的なのだ。疲れて電車に乗っても、立ったままではなかなか眠れない。それが腰掛けると眠ってしまうのも、同じような理由によるのである。

 では、腰掛けるのと座るのとは、どちらが頭の働きをよくするかというと、太股(ふともも)の筋肉がより強く引き伸ばされるようになる座り方だろう。説明してきた通り、筋紡錘からの信号は、筋肉が引き伸ばされた時に、しきりに出るものだからである。

 また、座りっ放しで仕事をしている人にとっては、体の伸びを取り入れた簡単な運動が気分転換に大いに役立つだろう。

 椅子(いす)に腰掛けるたびに、腕を精いっぱい伸ばし、深呼吸をする。十分か十五分おきに、きちんと椅子に座り直して、肩を回し、体をリラックスさせる。三十分おきに、椅子の背にもたれて、十分に体を反らせる。電話を手元におかず、少し離しておく。当然ながら、電話のたびに手を思い切り伸ばさなければならないので、腕の運動になる。立ち上がるたびに、前かがみになって、足先をつかむようにするなどだ。

 それぞれ本当に簡単な運動ながら、これらを習慣的に実行すれば、緊張を解きほぐし、やる気を呼び起こす上できわめて効果的である。

∥上半身の出物が発する健康情報(6)∥

∥シャックリをチェックする∥ 

●シャックリは横隔膜のケイレン信号

 人間の口から発せられる音の出物の一種に、シャックリがあることも忘れてはならない。シャックリの医学上の名は、吃逆(きつぎゃく)という。

 そのメカニズムを一口で解明すれば、横隔膜のケイレンである。人体の横隔膜は、呼吸中枢からの指令によって上下動し、呼吸のための重要な筋肉となっているもの。これが、何らかの拍子にケイレンを起こすわけだ。

 横隔膜はオワンを伏せたような形をしている。呼吸中枢から「息を吸え」という命令が下ると、横隔膜の筋肉が収縮して、横隔膜は平らになる。そのぶんだけ胸腔が広くなるから、胸腔内の内圧がより陰圧になる。そこで、胸腔に収まっている肺がふくらむ。ふくらんだぶんだけ、空気は声門を通って肺に流れ込んでくる。

 そのような仕組みで、我々はふだん呼吸しているわけだが、横隔膜が何かの原因でケイレンを起こすと、空気の出し入れと声門の開閉がうまく合致しないで、めちゃくちゃになる。そのために、例の「ヒック」という音が出るのである。

 そのケイレンを起こす原因について説明しよう。横隔膜は、呼吸中枢→横隔神経→横隔膜→迷走神経→呼吸中枢と結ぶループによって支配されており、このループのどこかに刺激が与えられると、シャックリが起こると考えられているのである。すなわち、頭部、咽頭部、胸部、腹部などに何かトラブルが起こると、シャックリが出るというわけで、食べすぎ、飲みすぎはその代表的な原因である。

 俗に「シャックリが三回続くと命が危ない」というが、シャックリが続いただけでは、死ぬことはない。世の中には、四億回以上もシャックリをし続けて、ギネスブックに出ている人もいるそうだ。

 しかし、「出たら止めたい」というのが人情で、世の中には、実にいろいろなシャックリの止め方が流布している。いわく、「驚かす」、「水を飲む」、「紙袋の中で呼吸する」、「舌を引っ張る」、「眼球を手で押す」、「クシャミをする」、「柿のヘタを煎(せん)じて飲む」。

 それらは本当に効き目があるのかといえば、それなりに理由はあって、単なるおまじないとはいえない。なぜなら、呼吸中枢を安定させてやる方法であったり、横隔神経や迷走神経をブロックしてしまって、シャックリ情報が呼吸中枢や横隔膜まで行き着かないようにしてやろうという方法だからだ。

●肺と心臓の働きを促す横隔膜

 さて、ここで私が強調しておきたいのは、何かの原因でシャックリというトラブルを起こす横隔膜が、呼吸作用による肺のガス交換と同時に、心臓を助けて血液循環にも重要な役割を果たしていることである。

 横隔膜という膜は、人間の上半身と下半身の境目にあって、あたかも波に漂うクラゲのように動きながら、肺の活動をうながして呼吸の出入りをつかさどり、しかも血液循環という重要な仕事に参加している。だから、無意識の呼吸でも丹田にまで行き届く呼吸を行っている人の場合は、横隔膜を活性化しており、血液循環を活発にし、体細胞の新陳代謝を健全に営ませているのである。

 そこで、横隔膜を中心とした腹筋の運動が、健康増進に大変な効果を発揮することになる。

 昔から、「腹のしっかりした人間は病気をしない」といわれた。腹とは腹筋のことである。腹筋の力強い運動は、横隔膜の動きに連係しており、呼吸を深く力強いものにしてくれる。いわゆる精神、気力の充実も、この腹の力によって達成できる。

 腹を訓練するにはジョギングやマラソンもいいが、心臓や肉体の負担が大きく、病人やお年寄りには無理である。寝床の中で仰臥(ぎょうが)したままで、私の開発した真呼吸、腹式全身の呼吸を行うのが一番よい。

 一日のうち何回でも、体を投げ出して全身の力を抜き、意識を放下して大きな息を吐き出し、吐いて吐いて吐き抜けば、次には思い切り腹いっぱい吸い込むことになる。全身で吸い込み、そして全身で吐き続ける。こうして、腹筋は鍛えられ、横隔膜は力強く活動する。

 呼吸法のポイントは、上半身と下半身の境目を作っている横隔膜の運動を力強く行うことである。これによって、腹腔内の内臓諸器官から静脈血を心臓に効率的に送り、同時に冠血流も活発にするので、心筋および内臓全体の収縮強化にも役立つ。

 横隔膜の活発な収縮運動にともない、内臓全体の収縮運動が行われるので、自然に腹が鍛えられることになるのである。

 これは、横隔膜という呼吸筋の自在な働きが、内臓諸器官の健全な活動を保障し、併せて精神の充実にも寄与しているからである。

 ところで、横隔膜というのは、少し変わった筋肉集団である。その位置は、すでに述べたように胸腹両腔を横に隔てる境界をなしており、絶えず上下に移動運動を繰り返している。固定した境界膜ではなく、クラゲが漂うように上下に波打ちながら移動する境界筋、といったほうが適切である。

 この横隔膜は収縮と弛緩(しかん)の上下運動を繰り返して、胸腹両腔に減圧、加圧のダブルプレーを行い、両腔内臓に巧妙至極なマッサージを施して、血流をうながし、活性化をうながしているのも特徴の一つだ。

 横隔膜が、呼吸作用によってこのように巧妙至極な働きをしていることを知れば、私たちの健康や生命の維持の保障人の役割を、果たしてくれていることに気づくであろう。

 横隔膜が第二の心臓として働いていることも、詳しく説明しておこう。横隔膜の収縮上下運動は、もっぱら静脈血ポンプの役割も担っているのである。

 いうまでもなく、血液循環系においてダイナミックな仕事を絶えず繰り返しているのは心臓である。それは、肺動脈および大動脈へのポンプとしての役割で、肺に対しては静脈血を、全身の動脈へは動脈血を送るポンプである。

 この心臓の働きで最も重要なことは、栄養分と酸素を多く含んだ血液を全身の体細胞に送り届けることである。

 だが、心臓自体は、体細胞が使い古した血液を、栄養分と酸素を多く含んだ血液に再生することはできない。とはいえ、使用済みの血液をその都度捨て去るほど、人間の肉体はぜいたくにはできていない。そこで再生産が必要である。そのためには血中の不足物を補い、不要物を捨てた新鮮な血液を再生産し、絶えず全身から静脈血が集められ、心臓へ送り返されなくてはならないのである。

 そういう全身の静脈血をかき集め、心臓へ送り届ける重要な仕事を助けているのが、横隔膜である。その収縮上下運動は、もっぱら静脈血ポンプの役割を果たしている。つまり、横隔膜は第二の心臓として働いているのである。

 だから、横隔膜の活動が鈍いと、心臓も十分にその機能を果たすことはできないのである。横隔膜の働きは、直ちに心臓の働きとなるからである。

 この点、腹を使った腹式呼吸をすると、横隔膜を上下して内臓諸器官をマッサージすることになるばかりか、意識的な呼吸によって大脳の前頭葉を使い、脳幹で発動される本能的な雑念は制御されることになる。エネルギーは上昇し、ますます精神がさえわたるのである。

 ここで、内臓と脳との関係についても触れておくと、人間は内臓が衰えると、脳の働きが鈍ってくる。脳が内臓を支配していることは、誰でも知っていることだが、内臓も脳を支配していることは、あまり知られていない。精神的なストレスですぐ胃炎になったり、胃炎がひどくなると気がふさいだり、とっぴな行動をとったりするようになるのは、脳と腹が密接な関係にあるからである。

 実は、腹の中に脳の兄弟ともいえる神経節、つまりリトルブレインと称する小さな塊があり、それが人間の気力や体力に影響を与えているのである。

私たちは一般的に、脳だけが考えることを行う器官だと思っている。しかし実際は、脳とすべての器官を使って考えているのである。頭脳明敏であるためには、心身ともに健康でなくてはならない。どこかに痛いところや悪いところがあれば、名案も浮かんでこない。特に、内臓機能の衰えは、気力、体力だけでなく、思考をゆがめやすいので、注意しなければならない。

 内臓を鍛えるには、内臓機能の中枢である小さな脳、リトルブレインを強化することが大切だ。ここを鍛えれば、頭も体も心もすっきりする。

 このリトルブレインは、臍(せい)下丹田、臍の下にあるから、ぜひ毎日の日課の一つとして、腹式全身呼吸法によって鍛え、その能力をさらに高めることをお勧めする。

🟩全身の健康情報

∥全身の出物が発する健康情報(1)∥

∥汗をチェックする∥ 

●人間の出す汗は二種類に分けられる

 私たち人間の肉体全体からの出物によって知る健康情報や、関連した健康法を述べていきたい。全身からの出物というと、まず汗が思い浮かぶところ。

 私たち人間は主として、食物と飲み水によって水分を補給しており、出てゆくほうの大部分は尿として出ると考えがちであろう。本当のところ、かなりの量の水分が息とともに、また皮膚などの表面から、気がつかないうちに蒸発して失われているのである。皮膚からの水分蒸発で誰もが気づくのは、暑い季節や運動した時に分泌される汗だ。

 一般的にいって、人間が汗を出すこと、発汗には、二つの大きな役目がある。一つは水分を出し、これが体表面で蒸発する時に体から奪う気化熱を利用して、体温を下げる自然作用である。

 実は、人間の体温は、非常に狭い範囲の変化しかしない。健康な時の体温が摂氏三十六・五度とすると、絶対温度では三百九・五度に当たり、これが一日にプラスマイナス〇・五度の変動をするだけだ。体温のサーモスタットは、非常に厳密にできているといってもよいだろう。

 つまり、体温がこの設定温度より少し上がると、汗腺から汗を出したり、全身の皮膚の血管が拡張して赤い顔になったりするし、設定温度より下がると震えによって熱を産生したり、毛が立つことで熱の放散を防ぐようになっている。

 もう一つの発汗の役目は、人間の体臭を形成するいろいろな要素の主なものとして、性的意義を持つことだろう。

 汗を出す汗腺には二つの種類があり、一つをエクリン腺といい、もう一つをアポクリン腺という。エクリン腺は体の表面の全体をおおっており、人間では二百万~四百万個くらいあるが、このうち本当に汗を出すのを能動汗腺といい、百五十万個くらい。

 一方、アポクリン腺というのは、毛と関係ある腺といわれるもので、毛の付け根の部分から出ている。この腺は、人間の場合には体温と関係なく働き、腋(わき)の下、乳首の周り、外陰部、肛門の周囲などに分布している。

 汗をかくのは人間だけではないことは、競走馬がレース終了後に、首のあたりにどっと汗をかいていることでもわかる。しかし、それも高等な哺乳(ほにゅう)動物のみで、犬や猫はほとんど汗をかかない。犬などは浅速(せんそく)呼吸といって、暑い時には口を開け、舌を出して、舌の表面からの水分の蒸発によって体温を下げている。「いかにも暑くて、苦しい」といった感じで人間は受け止めてしまうが、犬自身は特に苦しいわけではない。

 動物の汗腺としては、体表面にはアポクリン腺しかなく、馬の汗もアポクリン腺から出ている。猫なども含めた高等な哺乳動物では、エクリン腺は足の裏にのみある。猫に汗をかかない薬を与えると、木に登ることができない。動物の手のひらや足の裏の汗腺は、体温を下げることとは関係なく、物を握ったり、木に登ったりする時すべらないようにするためにあるのだ。ゴリラやヒヒなどは、体の表面にアポクリン腺とエクリン腺が混在している。

 では、人間の場合、アポクリン腺は何をしているのだろう。人間のアポクリン腺は、思春期にならないと分泌を始めない。このうち特に重要なのは、脇の下にある腺。これは油状の汗を出すが、その中にはアンドロステロンという男性ホルモンの一種が含まれている。女性の場合には、ほとんどアンドロステロンを含まないが、男性では十八歳から四十五歳くらいまでの間は、かなり大量のアンドロステロンを含んでいるのである。

 アンドロステロンは尿にも含まれる。動物の場合、これは性ホルモンの役割を果たしているが、人間の場合も体臭として性的意義を持つということである。

 確かに、人間のアポクリン腺の役割は動物ほどはっきりしていないにしろ、体臭が私たちの人間関係、社会生活に大きな役割を担っていることは間違いのないところである。

 また、においが性の刺激に関係することも事実ではないかと思われる。その証拠に、世界中の有名な香水の最も重要な原料は、動物の尿や便、肉の持つ性的なにおいの成分なのである

●発汗は老廃物の排泄機能も持つ

 再び、人間の体温を調節するための汗の話に移る。汗が蒸発する時に体から奪う気化熱によって、体重七十キロの人が百CCの汗を出すと、体温は摂氏一度下がる計算になる。

 そうすると、単純にいえば、外気温が四十度のところにいる同体重の人が、体温を三十七度にまで下げるには、三百CCの水を汗で失うことが必要になる。

 このような発汗による体温調節は体表面のエクリン腺が行うが、手足の裏からの発汗は外界の温度と関係ない。例えば、三十五度の部屋に入っていると、自然に胸部や額に汗が出てくるが、手のひらには全く汗が出ない。一方、適度な室温で暗算をさせると、数分で手のひらから汗が出るが、額からは汗が出ない。

 このように皮膚を熱すると起こる発汗は温熱性発汗、精神的努力によって起こる発汗は精神性発汗といわれている。文字通り手に汗を握る精神性発汗を利用しているものに、うそ発見器がある。

 以上に説明したように、人間の汗腺はその種類によっても、存在する場所によっても、役目が異なるのである。

 さて、汗腺は血液の成分をろ過、浄化しているのであるが、ふだんは血漿(けっしょう)成分のうち必要なものはもう一度吸収して、汗の中に出さないようにしている。

 しかし、汗が多く出るようになると、食塩の再吸収が追いつかなくなるので、それが漏れ出してくる。血漿中の塩分は〇・九パーセントくらいであるのに対して、汗では〇・六五~一パーセントくらいになる。

 こうなると当然、発汗は食塩の喪失をともなうことになる。発汗の結果、食塩を大量に失うことは人体にとって好ましくないから、喪失を補う必要が生じる。

 それはともかく、冷や汗は別として、汗をかくのはよいことである。余分な水分や老廃物を体外に排出させることで、腎臓は活性化し、疲労は回復、少しの風邪なら飛んでいく。

 この際、発汗の第三の大きな役目を見直してもらいたいものである。

 近頃の人間は、汗をかかなくなった。しばらく前の子供は背中や首筋に、たくさんのアセモを出していたものなのに、最近の子供はそうでもないらしい。エアコンや扇風機など冷房設備の普及によるものだろう。

 なるほどクーラーは快適で、真夏の候でも暑さ知らずで過ごす人もあることだろうが、それによる弊害のあることも知りたい。人間、尿が出なければ大騒ぎする。汗をかかないことも、人間の生理にとっては一大事である。

 夏の季節に、体を適当な暑さで鍛えるということは、人間生理にとって大切なことなのである。特にカドミウム、PCB、水銀、農薬、添加物などによる食品汚染が問題とされている昨今、これらの有害物質を全く取り入れないということは不可能に近いことである。そこで、摂取した有害物質を排除する方法を研究する必要がある。

 幸いなことに、人間は自動的に有害物質を体外に排泄する機能を完備している。それが汗腺である。自然の中を歩いて汗を出すことである。働いて汗を出すことである。真夏に自然に汗を出すことである。

 この汗が、有害物質を道連れにしてくれるのである。何とあする一方となる。

 最近、アトピー性皮膚炎を始め、昔はなかったような得体の知れない病気が続発していることが、このような文化の発達と無関係でないとしたら、文化とは人間にとって何なのか、という疑問を投げかけたくもなるのである。

●積極的な歩きで汗をかいて体力回復

 有害物質を排泄してくれる汗の効用を活用した健康法の一つとして、朝などに、歩くことをお勧めしたい。

 最近、アトピー性皮膚炎を始め、昔はなかったような得体の知れない病気が続発していることが、このような文化の発達と無関係でないとしたら、文化とは人間にとって何なのか、という疑問を投げかけたくもなるのである。

 歩くといっても、最近の人たちは何しろ運動不足だから、大きく手を振って汗をかくくらいに、せっせと歩かなければ駄目なものである。 人間の体というものは、使わなければそれだけ衰えていく。あまり大切にしすぎても、かえって体のためにならない。  

 いろいろな機関の最近の医学的研究によると、一般社会人が健康状態を維持するには、一日に三十分以上歩く必要があるという。一日の歩数の多い人ほど、心電図異常の発現が少ないとか、動脈硬化を助長する高脂血状態が改善されるという発表も見られる。

 加えて、体を支える足を使って歩くのは、脳の働きも活性化する。歩くことによって、血液の循環はよくなり、血圧も調節され、その上、脳の働きもよくなるのである。

 手の運動をつかさどる脳の分野があるように、足の運動をつかさどる働きも、位置と占める割合こそ違うが大脳にはある。この大脳にある足の運動を担当する領域と互いに連動し合って、歩くのに使われる筋肉は、特に歩行筋と呼ばれており、お尻の筋肉である大臀(だいでん)筋、大腿四頭(だいたいしとう)筋、下腿(かたい)の腓腹(ひふく)筋やヒラメ筋などである。  

 これらの歩行筋だけで全身の筋肉の半分以上を占めているのだから、気づいていないかもしれないが、歩くという単純な運動を続けるだけで、大脳ばかりか、体の多くの筋肉を鍛えることができるのである。

 同時に、腹筋と背筋を強くするのに、歩くことは効果的だ。また、歩くことの刺激によって、人体の横隔膜の下にある肝臓、胃、腸、脾(ひ)臓、膵臓、膀胱、それに女性ならば子宮などの臓器において、停滞している機能が適度にほどけて、働きが活発になる。

 すると、横隔膜の上位にある心臓も肺も、機能的に血液の循環をよくし、血液への酸素の供給が盛んになるため、当然、意識はすっきり、気分はさわやかになってくるのである。血液の流れが速くなるので、管にたまった汚れを掃除する。血管が膨張して、若返る。しかも、刺激が強すぎることもない。

 歩くことは、基本的に無害なトレーニングであり、運動なのである。この点、運動生理学者も、トレーニングによって体を鍛えられるだけでなく、精神的なストレスも軽減できると保証している。

 さらに、歩くことによって下半身の筋肉の運動がなされて、腸の蠕動運動も順調になる。便秘というものは、腸の蠕動運動が鈍るために起きる現象である。

 やはり、私たちの体は頭と同様、上手に使うことが、その健康維持に大切なのである。頭でも足でも使わないと、だんだん委縮する。機械化、自動化、省力化が進むにつれて、人間の体力は当然落ちていく。下半身に力のない人は、概して感情や圧力を起こしやすく、ヒステリー的である。

 なるべく下半身を鍛えるためにも、二本足で歩いて汗をかくという人間の自然な、根源的な行為を大切に心掛けたいものである。毎日の通勤、通学の際、一駅前で下車して歩く、買い物の時いつもより遠くの店へゆくなど、意識的に工夫をしたり、特別な運動プログラムを組むなどして、あなたも一日三十分以上、ないし一日一万歩を目指して努力してはいかがだろうか。

 人間が歩くことは、決して高度な技術や装備が必要なわけではない。難しさがあるとすれば、実行するやる気一つ、意志一つである。

∥全身の出物が発する健康情報(2)∥

∥皮膚の垢をチェックする(1)∥ 

●皮膚の垢は角質化した細胞のカス

 汗とともに、人間の全身の皮膚から出るものに、垢という出物がある。皮膚から垢が出る仕組みから説明していこう。

 まず、人間の体の表面をおおう厚さ約二ミリの皮膚は、表皮と真皮の二つの層に分かれている。二層中の内層の真皮は、弾性繊維に富む結合組織からなる。表皮のほうは、外層にある厚さ〇・二ミリくらいの薄い膜で、この表皮はさらに四つの層に分けられる。

 その一番底、基底層では、新しい細胞が絶えず作られている。この細胞は次々と上の層に向かって押し出される。その過程で、細胞は次第に角質化しながら圧縮され、平たくなっていく。そして、完全に角質化するとともに、細胞核を失って死ぬ。表面の角質層は、角質化した細胞が約十四層積み重なってできたもので、厚さ〇・〇二ミリくらいだ。

 この角質層の最も大きな役割は、体内の水分の蒸発を防ぎ、その量を一定に保つということ。体内の組織には、七十パーセントの水分が含まれているのに対し、角質層には二十パーセントしか含まれていない。乾いた皮膚の表面を持つことで、水分の蒸散や浸入に対する防御としているのである。

 一方、表皮の基底細胞は、休みなく細胞を分裂させて、新しく角質化した細胞をどんどん送り込む。下から押されて、古い角質は体表に近い部分からどんどんはがれていく。

 最も古い角質のカスが、体の皮膚の垢というわけなのである。この人間の皮膚というものは、呼吸運動を行って体温も調節している。

 だから、人間は脳で温度を感ずるだけではなく、体の表面にも温度を感ずるところがあるのだ。暖かさを感ずる点を温点、冷たさを感ずる点を冷点といい、それぞれの点に温度を感ずる細胞があるのである。

 この温点の細胞たる温細胞は、摂氏四十度くらいの温度で最もよく興奮して、暑さを脳に伝達する。これより低い温度では反応が弱くなり、二十五度くらいでは全く反応しなくなる。反対に、温度をもっと上げてゆくと、今度は細胞が傷害されてしまい、この反応が現れない。

 これに対し、冷点の細胞たる冷細胞のほうは、二十度くらいで一番興奮するが、これ以上温度を高くすると興奮が弱くなり、三十五度くらいでは全く反応しなくなる。ところが、四十五度以上になると冷細胞が突然興奮する。つまり、私たちは熱いものに触れると一瞬、熱いのか冷たいのかわからないということがよくあるが、これは冷細胞も興奮するからである。

 こうしたシステムによる体温調節ばかりではなく、皮膚は水分を始めとして熱、ごみ、病原菌、乾燥、紫外線など有害なものを遮断する最前線の防衛網でもあるし、さらに大気中から酸素や窒素も吸収している。

 皮膚から大自然の「気」を吸収したりして、栄養を蓄えることもできる。栄養というよりも、空気の中にあるものを蓄えておくことはできるわけである。

 こうして、人間は細胞組織の中に蓄えをしておけば、食べる物が少なくても結構丈夫に、元気よく生きることができる。

 食べ物のみが栄養、あるいはエネルギーの元ではない。この大自然の中から、空気の中から、細胞が吸収するような力を作ればいいのである。

●皮膚感覚が有するさまざまな能力

 細胞が吸収して皮膚から発散する「気」は、体温の調整をするとともに、感覚の元になる。心以上のもの、意識以上の感覚がこれである。肉体の内部だけが働きをなしているのではなく、皮膚は皮膚なりに、直接、感覚を感ずる資格を与えられている。

 皮膚の感覚は、どういうことにいい影響をおよぼすかというと、まず、血液の循環が挙げられる。また、先に述べたように、皮膚の表面から直接、空気の中にあるものの栄養を吸収しているわけである。

 皮膚の下には、目に見えない神経というものが充満し、漂っている。これは一つの薄い層となって、体全体のありとあらゆるところに存在しているのである。人間の皮膚の下には、そうした「気」神経という、目に見えない層があるのだ。

 そこで、皮膚が傷を受けたりしても、すぐにその「気」が働いて、回復、再生してくれる。だから、ほうっておきさえすれば、すぐに元通りになる動きが始まる。動きが始まって働きになって、だいたい痛さ、つらさをなくする働きを作る。

 こうした感覚を持つ皮膚の大きな役割は、肉体的生命を内と外に隔離すると同時に、内と外を交流させることにある。つまり、皮膚は自己と非自己を分けて、排除したり、受け入れたりする器官なのである。

 皮膚には、頭部に七つ、下半身に二つないし三つの穴がある。この穴も皮膚の一部として、外界との交流を行う大切な役割を果たしている。一般に五感といわれる皮膚感覚、視覚、聴覚、味覚、嗅覚は、皮膚が有する特殊な能力である。私は、この五感を外部の感覚を感じる器官という意味で、五官と表現することにしている。

 皮膚はもともと、脳と同じ外胚葉と呼ばれる部分から分化したもので、さまざまな能力を持ち合わせている。特に皮膚表面に開かれた穴の周辺は、外部と内部との交流をつかさどる感覚受容器官がびっしり集まっている。人間が感じることのできる外部からのすべての刺激は、この五官を通じて伝わるのである。

 私たちは、感覚というものは自己の内部から発生するものだ、と考えがちである。だが、感覚というのは、皮膚を越え、伝わってくる外部からの刺激であり、皮膚を通して感じる外の世界なのである。外界とは自己を映す鏡であり、言い換えれば自分自身ということになる。人間は内と外をつなぐ感覚器官によって、自己を認識するのである。

 人間の感覚は磨けば磨くほど光るものである。それは、自分を鍛え、知ることにもつながる。現代に生きる人は、もっと感覚を重視しなければならない。

 ちなみに、皮膚が外界との交流を行う大切な役割を果たしていることは、体に触れられないで育った子供が情緒障害になることでもわかる。

 触覚に関する実験で、赤ちゃんの猿に決して他の猿が触れないようにすると、赤ちゃん猿は感情的にも、行動的にも異常になる。成長しても、自閉症のように他の猿と付き合うことを好まず、一匹でじっとしているようになる。

人間の場合も、母親や他の人が抱いたり、触ったりのスキンシップをしないで育てた子は、情緒障害を起こすといわれているのである。

∥全身の出物が発する健康情報(3)∥

∥皮膚の垢をチェックする(2)∥ 

●入浴で肌を清潔にして若さを保とう

 人間の皮膚というものは、体温の調節器官であり、有害なものを遮断する最前線の防衛網である上、大気中から酸素や窒素、「気」も吸収し、さらに外部と通ずる感覚受容器官でもあった。

 従って、皮膚を清潔にして、それらの機能を促進するため、毎日入浴することをぜひ勧めたい。加えて、身近な入浴は、全身の組織を柔らかくし、体液をアルカリ性に変える作用もするし、精神と肉体の若さを保つ効用も認められる。

 人間が若さを保つためには、感情や肉体の圧力が大敵であり、圧力のある人は心臓に負担がかかり、血圧が高くなり、体にガスができるからガンの原因にもなるのであるが、風呂にのんびり入って疲れをとるのが、その解消法として好ましいのである。

 ほかにも、息を吐く、水を飲む、体を投げ出して休むなど、生かされているという形になれば、圧力は解消するものである。

 特に年寄りは、毎日風呂に入るのがよいだろう。入浴好きの人は長命である。体を休ませ、温める。そして、肌の清潔を保つことにもなる。

 寒冷の地方の人は、冬など入浴を面倒がったりするが、それはよろしくない。温暖の地方に長寿者が多いのは、単に気候のためばかりではなく、入浴の度数が多いということも大きな原因になっている。

 ぬるめの湯で、みぞおちのあたりまで下半身をよく温めると、上寒下温の効き目もある。

 昔の人は「頭寒足熱」などといって、頭は涼しく、足は温かくすることを健康法としてきた。下半身は生かされているという、人間の根本を養う大事な部分であるから、ここを鍛えて血の巡りをよくするために、腰から下は冷えないようにする用心が大切なことを、体験的に知っていたのである。

 年配の者は絶対、腰と足を冷やしてはいけない。「暖かいな」と思っても、足は何か履いていなくてはいけない。そういう習慣をつけておくべきである。

 この足腰を温かくしておく点で、入浴の効は実に大きいし、若さを保つ効果も顕著。血行がよくなり、神経が調整されるからである。

 人間の体の健康というものは、細胞そのものだけでなしに、体内を循環する血液のよしあしにも影響されるものである。血液の循環作用が本当に正常になされていれば、病気にはならない。同時に、細胞自身がしっかりとありさえすれば、人間の体は盤石なもので、そこに健康が成り立ってくるものである。

 年寄りの血管が古びていても、それを長く使えるようにするには、まず、第一には心臓に負担をかけないこと。第二には精神に負担をかけないこと。人間は我慢、忍耐、努力ということをよくやるけれども、これも血液や血液の循環に対しては、よくないことなのである。実際、血液に負担がかかっていても、血管や血液自体にはそれほど圧迫を感じずに循環がなされているから、これが本人にはわからないのである。

 人間の血管というものは、寒さに対して非常に弱く、暑さにはそれほど影響を受けないものであるから、風呂に入るということで、血液の循環というものは、まさによくなるわけである。

●心身の疲れがとれる正しい入浴法

 年寄りばかりでなく若い人たちにとっても、毎日の入浴が体に果たす役割は大きい。心に果たす役割も大きい。

 昼間の仕事中、勉強中というのは、大抵の人が筋肉も、精神も緊張させている。夜の入浴は、その心身の緊張を解いて、体を温め、休息の態勢を整える。一方、朝のシャワーは、まだ始動していない頭と全身を目覚めさせ、やる気を呼び込んで、出陣の態勢にする。

 ここで重要なのは、入浴の仕方一つで体は楽にもなるし、逆のことにもなるということだ。正しい入浴は夜の疲れをとり、朝の活力を起こさせるが、入浴でかえってだるくなったり、寝つけなくなることもあるので要注意。

 入浴が楽になるか苦になるか、その分かれ目となるのは、お湯の温度と入浴の時間である。

 例えば、熱いお湯にざっとつかる、江戸の銭湯のような入浴では、熱いという刺激が交感神経の緊張をうながし、神経を鎮静するどころか、かえって興奮が呼び起こされる。これでは一日の疲れをとって眠りに入ろうとする人には、まるで向いていないということになる。

 安らぐための入浴であれば、皮膚との温度差の少ない三十七度前後のお湯に、ゆったりと長めにつかるのが望ましい。この温度だと、ストレス解消などをつかさどる、副交感神経に作用してくれるからだ。ただし、肉体疲労時にぬるいお湯に長くつかりすぎると、かえって疲れやだるさが引き出されるので、適度に引き上げること。

 夜の入浴と反対に、朝の入浴の場合は、四十度以上のやや高温のお湯にざっとつかり、交感神経を刺激するとよいだろう。眠気は飛び、体もしゃんと緊張して、活動しやすくなるはず。

 逆に、朝からぬるい湯にのんびりとつかっているのでは、副交感神経の出番となり、ストレスがなくなるのはいいが、仕事や勉強に取り組むやる気までも失せてしまうので、注意を要する。

●上寒下温効果が認められる半身浴

 温度と時間に左右されるといえども、本来、入浴が頭の働きを高めることは、アルキメデスの原理がお風呂で発見されたことでもわかる。人間の発生という観点から考えると、脳は皮膚が変形したものであり、皮膚のほうは脳の薄い膜ともいえる。この薄い脳から内臓や脳へ神経が通っていて、皮膚の刺激が脳へと伝わっていくのである。

 この皮膚刺激をもっと効果的に行う入浴法として、熱い湯に入っている最中に、体に冷たい水をかけるという方法もある。

 赤ちゃんが仮死状態で生まれた時、熱い湯と冷たい湯に交互に入れると、薄い脳の膜である皮膚が刺激されて産声を上げることがある。

 皮膚表面を温めたり、冷やしたりの繰り返しは、体全身を刺激することになるから、毛細血管や自律神経、感覚神経を通して脳に刺激を伝えるのである。そして、冷たい水をかけるということは、生体防衛反応を働かせて、脳を活性化させるのだ。

 次に、日常の入浴は全身浴であるが、上寒下温の効果がある半身浴を実行してみるのもいいだろう。半身浴とは、下半身だけを温める入浴法のことである。先にも述べた通り、足や腰など、体はとかく下半身だけが冷えてしまいがちだが、頭寒足熱でじっくりと温まることによって、万病の元である冷えを取り去ろうという入浴法だ。

 一言で半身浴といっても、やり方は何通りかある。裸になって、ぬるいお湯にみぞおちから下を長い時間、のんびりとつける方法。また、上半身は肌着を着込んで、腰から下だけを温める腰湯と呼ばれるもの。薬湯に腰から下だけつかる方法もある。

 共通しているのは、下半身をじっくりと温め、肌に汗をたっぷりかくことで老廃物を排出し、疲労、倦怠感、だるさを取り去り、肩凝り、腰痛をいやし、血圧を安定させと、いいことずくめであることだ。何度か試してみて、自分の体質に合った温度、入浴法を選んでみたらいいだろう。

 そのほか、風呂に入る際は、体全体を健康にするために、体を洗う時など、亀の子だわしかヘチマのような、少し質の強い物で皮膚を刺激すると、皮膚から本当の艶が出る。皮膚は外界と内界との境界にあるものだから、皮膚が強くなると、本当の肉体の血色というものが輝くように出てくるのである。

 人間の体というものは、縦横に均整のとれたものであるから、あまり太りすぎている人は、養分を節するか、運動をする。亀の子だわしで、湯に入る時も、起きる時も、裸になってよくこすり、摩擦していると艶が出る。常に生き生きとして、皮膚呼吸をするから、血色がよい。

 入浴に際して注意してほしいことは、飽食、大食して風呂に入ることは禁物で、食事をしてすぐに入浴することも、健康にとってはマイナスになるということである。

●頭のフケは皮膚の垢と同じもの

 全身の皮膚の一部に、頭の皮膚がある。皮膚の細胞が角質化し、表皮からはがれたカスが垢だったのに対して、頭の皮膚の場合はフケと呼ばれている。垢とフケは同じものなのだ。

 清潔指向が強い現在の日本では、たくさんのフケがある人を探すのは難しいはずであるが、実は意外に、フケに関して悩んでいる人は多い。フケは少しでも目立つもので、肩にパラパラといった程度でも、印象に影響するのである。

 単純に、頭を洗えばフケは出なくなるというものではない。フケ性の人は、洗っても洗っても、フケがどんどん出てきて止まらないということもある。このような場合は、異常なフケが出ていることが多い。頭の出物にも、正常なものと異常なものがあるわけだ。

 皮膚の垢と比較してフケが目立つのは、頭皮にはたくさんの皮脂腺があって、そこから分泌されている脂肪がフケ同士をくっつけてしまうからであり、大きなフケが出て困っている人は、皮脂が多すぎるのかもしれない。

 逆に、頭皮の皮脂が少なすぎても、フケに悩まされることになる。乾燥した細かいものが出るのである。

 いずれの場合にしろ、脂っぽいのか、乾燥しているのか、自分の頭皮の状態を調べて、それに合わせたシャンプーやリンスを活用すれば、正常なフケは抑えることができるだろう。

 問題は異常なフケであり、いわゆるフケ性の人の頭皮では、何らかの原因で新陳代謝のスピードが速くなり、その結果として角質層がどんどん作り出され、それが大量のフケになる。いくら頭を清潔にしても、そのままの状態では逃れる方法はない。

 新陳代謝を速める原因は、さまざまな刺激である。紫外線や微生物、傷、あるいは精神的ショックやストレスも刺激となる。また、毛髪や頭皮に付着した汚れや微生物による刺激も、フケの大きな要因なのである。

 頭を清潔に保つことと同時に、ストレスのない安定した生活を送ることが必要なのである。

∥全身の出物が発する健康情報(4)∥

∥体の凝りをチェックする∥ 

●内臓の悲鳴が体の凝りに現れる

 さて、心のストレスが頭皮の異常なフケになって現れるように、人間の内臓のストレスが皮膚などいろいろなところに、出物、腫れ物となって姿を現すこともある。

 朝、起きて鏡に向かったら、何だかまぶたがはれぼったい。これは、単なるものもらいのこともあるが、場合によっては心臓病や腎臓病の可能性もある。目ではほかに、白目に黄色っぽい症状がある場合は、黄疸(おうだん)が疑われる内臓疾患である。

 口から強い口臭が出ていたら胃腸病や肝臓病、舌が鮮明な赤だったり、深い赤だったら肝臓病や糖尿病、舌苔(ぜったい)が黄色かったら消化機能の低下が考えられる。

 肌にしみやそばかすが増えた場合は、肝臓や腎臓の機能低下。肌の見た目はきれいだが、かゆい場合は、糖尿病や肝臓病。爪(つめ)が丸みを帯びた太鼓バチ状になっていたら、心臓の異常。半月が消えたら、肝硬変。それらに注意したいし、手のひらを見て親指、小指の付け根の赤みが強い際は肝炎、肝硬変が疑われる。

 このように、私たちの体は、内臓の悲鳴、内臓疾患の兆候を移す鏡である。もちろん、今、挙げた症状が、内臓以外の他の原因によるものだということもある。だが、ちょっとした異変が起きたら、それを見逃さないことが大切なのであり、迷わず病院にいって診察を受けることをお勧めする。

 人間の体の凝りというものも、体の内部から発せられる出物情報の一つに挙げてよいと思う。

 現代人の体はみな凝っている。疲れ切っている。四十歳くらいまでは無理もきくが、内臓の悲鳴が首や肩や背中の凝りとなって現れている場合もあるから、この無理が人生の後半になって、成人病として一度に現れかねないのである。

 そこで、人体の首の凝りについて、その影響と解消法を述べておく。

 この人間にとって重大な急所である首について、平素、世間では案外なおざりにしているが、実は、人間が生きてゆくためにも、意識的働きの上にも首筋は大きな役目をしている。喜怒哀楽、緊張弛緩などに首筋の働きは大きい。

 人体において首ほど前後、左右、上下、自由自在に曲がるところはなく、馬や牛やイノシシなどと比較して、同じ脊椎(せきつい)動物の中でも霊長類や鳥類などは、天地創造神に、大いに感謝しなければならない。

 人間の首が、自由に動くのは、首の両脇の筋肉が強いからで、その上、どんなショックでも緩和してくれている。といっても、自動車の追突とか、断崖からの転落などのように、受け切れないショックを受けた場合には、致命傷となるのもやむを得ないこと。

 首筋の左右には、大動脈があり、強力な筋肉が重い頭を支えているので強く堅そうであるが、実は意外に弱いところである。人間の急所中の急所は、心臓と首である。

 例えば、首筋が柔らかく自由に働かぬと、唾液ホルモンの分泌に影響が起こる。口が渇く。特に首の病気というものはなくとも、首の不調からくる人間性の低下は意外に大きいものがある。

 首筋が凝ると頭は重く、何か圧迫感を常に受ける。肩凝りの人は、首筋から和らげることが肝心である。頭の重い人、目のかすむ人など多くはここに起因する。首筋が凝るのは、「俺が俺が」という自我意識の強い人に多い。絶えず我意、我執が強く胸内圧が高いから肩に力が入り、自然と首が凝るようになるのだ。

 胃が悪くても首筋が凝る。背中が疲れると首筋が凝る。首筋を凝らせないように、いたわりながら日数をかけて気長に、根気よく、柔らかく、軽くもみほぐすならば、ムチウチ症などもいつか治る。この時、精神が安定しないと、もんでも治らない。

 首筋は微妙な急所であり、細胞も神経も血管も、繊細にして巧妙に働いているところだから、ちょっと寝違えただけでも、ひどく不自由をするもの。寝ていて首筋の張るのは、脳と内臓に欠陥のある証拠、寝違いは、機械的な違和からきたものである。

 一日に何回でも、気がついた時に、フッと息を吐き、胸圧を抜き肩の力を落とすと、首に詰まっていた力が抜けてくつろげる。首筋を和らげるには力はいらぬ。むしろ、力を抜くこと。そのためには、下半身に力を入れること。それは呼吸法のコツでもある。

 もみほぐして首を和らげる場合には、指圧をするほど強く圧してはいけない。肩や、背中の疲れが首にくる。首に響く筋肉を、その線でほぐすのがよい。

 また、右か左かが、凝りすぎている時、悪いほうを一度に治そうとせず、反対側をまず和らげることを忘れてはならない。

 後頭部や前顔部、喉、胸などのもみほぐしも柔らかく、ゆっくり時間をかけてやること。頭を指圧する時も乱暴に扱ってはならない。コメカミも首につながるツボである。

 首の手入れは軽くてよいから自分でできる。入浴後に欠かさずやるとなおよい。慢性肩凝り症は、首筋を和らげることを繰り返せば、いつの間にか自然にいえる。

 誰もが割合に気づかぬところに、首筋をはじめ身体各部の凝りという健康上の大問題がある。体の凝りや疲れをとることこそ大切。 

∥全身の出物が発する健康情報(5)∥

∥唾液の分泌をチェックする∥ 

●全身を養う唾液は万能ホルモンである

 人間の口から分泌される出物の一種に、唾液(だえき)というものがある。この唾液は、肉体全身を養うためにきわめて重要な役割を持っている。効用を挙げれば、その多彩さ、万能さに驚く人も多いだろう。

 唾液について本当に知る人は少ないが、これが実は生命の源泉である。肉体の第一関門に存在して、万能力を発揮している。その働きによって、健康が保障され、老化も防げる。唾液こそは、すべてに作用する万能ホルモンなのである。

 気化も、消化も、殺菌もすべて行う。味も、においも何もかも取捨選択する。犬の嗅覚の鋭さも、牛が粗食しながら、あれほど大量の乳を出すのも、みな唾液の効である。

 消化作用というものも、胃や腸だけで行われるものではない。口の中でよく噛んで食べ、固形物を液化すれば、その大半は霊妙な唾液の働きで気化され、気化熱というエネルギーになり、体の細胞が直接に栄養を吸収してしまうものである。

 胃腸で消化された後のカスは宿便となって体内に残るが、気化されてしまうとわずかなガスが残るだけだし、そのガスも朝の目覚めの放屁一発で消え去り、肉体はいつでもすがすがしく新陳代謝されている。

 だから、よく噛むことは、それだけ唾液が豊富に分泌され、神秘的な効用を引き出すということで、それは消化を助けるばかりでなく、唾液中に含まれるさまざまなホルモンが全身の健康維持に大いに役立つ。

 その上、よく噛んで食べれば、唾液の作用で物の本当の味わいがわかるものである。

 味覚を起こす物質は水に溶けて、はじめて舌にある味細胞を刺激するものであり、唾液が重要な役割を果たしているわけだ。緊張したり、不愉快なことがあって唾液が出ない時は、「砂を噛むような」と形容される通り、食べた物に味が感じられない。

 また、唾液には食物を消化、気化するための酵素のほかに、パロチンというホルモンが含まれている。唾液腺ホルモンが耳下腺から唾液とともに導管内に分泌され、再び導管中から吸収されて自由に移行することが発見され、後にその有効成分がパロチンと命名されたのである。

 このパロチンは、骨や歯の石灰化を促進させ、血中カルシウム量を低下させるなどの作用で知られている。これが欠乏すると、変形性関節症などをうながすことにもなるのである。加えて、パロチンには老化を防ぐだけでなく、若返りにも大きな効果があることが、カルシウム代謝による実験データからも証明されている。

 次に、おなじみのウナギを始め、強精食品には特有のネバネバがあるが、そのムチンという蛋白質は、唾液にも含まれている。

 驚くのは、口の中に入ってくる物の種類に応じて、唾液はたちどころに、その有機成分の組成が変わってしまうということ。例えば、酸性食品の場合、唾液の分泌量は四倍になり、アルカリ性の有機成分がうんと増えて、うまく中和作用が働くといった具合である。

 腹を立てると胃に悪いといわれるのも、唾液の有機成分がアチドージスに傾き、食べ物の消化が悪くなるからである。自己意識や心の状態によって唾液を変化させることは、好ましくない。五官の自然作用によって、自然のうちに変化に対応させれば、その機能を十分に生かすことができる。

 そして、日本人の成人は牛乳不耐症、乳糖不耐症といって、ヨーロッパ人などに比べると、腸内の乳糖を分解するラクターゼという酵素が非常に少ないといわれるが、牛乳を飲む時には、あわてて飲み込んだりせず、じっくり噛むようなつもりで唾液の分泌をうながせば、下痢をしないですむものである。でんぷん質を消化するのも、唾液の働きなのだ。

 夜の眠りの中では、口の中の唾液も乾きがちのものだが、それは分泌作用を止めているからではなく、内分泌腺ホルモンとして肉体組織に働きかけているからである。

●唾液の分泌が減った時は生命の危機

 ここで忘れてならぬのは、虫歯を防ぐ唾液の効果である。砂糖の取りすぎなどから、小学校の低学年で虫歯罹患(りかん)率が九十とも九十五パーセントともいわれる通りで、現代人は不幸なことに、肉体の門戸で行われる歯と唾液との絶妙な交響楽が耳に入らない。それをすっかり忘れてしまっている。

 虫歯の原因となる砂糖は甘くても酸性食品であるから、体液を酸性にするといわれているが、もう一つ、大切な唾液の根を枯らしてしまうことに、気づいている人は少ない。

 砂糖を取りすぎると、早く老化してしまうのも、そのためである。扁桃腺が乾くと唾液の分泌が鈍るし、砂糖の摂取量に比例して、唾液の量は低下するのだ。

 食べ物をよく噛むということは、唾液の効果で虫歯を防ぐばかりか、肉体の五官作用を盛んにし、生理のみならず、精神衛生に資するところきわめて大である。

 ところで、食物を味わうために、唾液が重要であることは誰もが知っているだろうが、この唾液は食べ物を味わう時ばかりに出るものではない。

 においを嗅ぐ時も、唾液の作用によって、においの味を味わうことができる。犬や牛を見ても、唾液は消化作用として機能しているばかりでなく、においを嗅ぐ、何かを探す、ということにも役立っていることがわかる。

 つまり、唾液は生命をよりよく維持していくためにも、重大な役割を果たしているわけだ。人間も唾液が出なくなったり、少なくなったりした場合は、「生命力が乏しくなった、注意せよ」、と危険信号が出されている時なのだ。口中に随時分泌されている適量の唾液に負うところは、実に大きいのである

 逆上る平成二年には、農水省の食品総合研究所が、人間の唾液に、動脈硬化や老人性痴ほう症の原因物質として注目されている過酸化脂質や、細胞や遺伝子を傷つける活性酸素の発生を防ぐ効果があることを突き止めた。

 唾液は、消化や殺菌の働きのほかに、生命保存の著しい効果を持っていることが、生理学的にも証明されたわけである。

 ネズミの唾液には、酸化を防ぐ主役の尿酸がない。ネズミが二~三年、人間が八十年という寿命の差には、唾液の成分が関係しているかもしれないという。

 人間の場合も、唾液の分泌量は老人になると低下する。だから、老化防止には過食を避け、よく噛んで唾液を多く出し、唾液ホルモンという若返りの妙薬を活用すべきなのである。唾液の中にも、長命の秘密が潜んでいるからこそ、よく噛むことを勧めるのである。

 その他、唾液の成分として、各種のビタミンや制ガン作用のあるペルオキシダーゼもかなり含まれているから、よく噛むことにより、ガンの予防にもなる。

 加えて、年を取るに従い血圧が高くなりがちなものだが、唾液の中には血圧を下げる物質が、自然に増えてくるようになる。無論、低血圧の場合には、その逆の作用が働く。

 このように、神秘的な働きを持つ唾液には、一般に考えられている以外に、多くの効用が明らかになっている。これも自然の巧妙な摂理といえよう。

 肉体のホルモンの中で、唾液ほど重要なものはない。実際に、唾液は万病薬、老衰の予防薬なのである。

 食事の時に百回ずつ噛んで食べたら、神経痛やリウマチまで治ってしまったという、アメリカの臨床例もある。これなども、唾液の働きが単なる消化作用だけにとどまらぬことを、生化学的に証明している話であるといえよう。

 次に、「寝る子は育つ」といわれるように、眠っている間は唾液が成長ホルモンとして働くことも、生化学的に証明されている。

 新生児というものは、唾液がありあまっているから、ヨダレを流している。生命力にあふれる幼児の時代も、唾液の分泌は盛んである。生命の核ともいうべき細胞を、日々新たに製造しなければならない時期には、唾液はおのずから濃厚に、豊富になってくるのである。これも、肉体自然の摂理なのである。

 成人するにつれて、次第に唾液の出方が少なくなるのは、肉体的な成長が止まったためというよりも、むしろ、自然作用の発生を自己意識が邪魔をして、唾液腺を枯らすなどしている場合が多いものである。

∥全身の出物が発する健康情報(6)∥

∥「気」の発動をチェックする∥ 

●肉体は「気」の吸収体であり、放射体

 もう一つ、唾液には重要な働きがある。それは空の世界からくる「気」の働きを助けるものだが、そのことを知る人は少ない。

 口を働かせること。五官の一つである口を十分に働かせて、口を通して宇宙の「気」を受けることである。「気」の中から作られるエネルギーによって、唾液から唾液ホルモンが作られる。それが肉体細胞の収縮運動を助けるのである。

 肉体というものは、自覚のいかんを問わず、無限宇宙とつながることのできる唯一無上の存在なのであるから、口の働かせ方をおろそかにしてはならない。

 人生は、エネルギーの消耗と補給の連係プレーである。補給のために、すぐ食べ物を問題にするが、食べ物からエネルギーを得るだけでは、それほど効率はよくない。口など五官を通して宇宙エネルギー、宇宙の「気」を吸収する。これが最も効果的な補給法である。食べ物を味わい、消化、吸収するためにも、肉体が健全、賢明な宇宙性を備えていなければならない。

 ここまで、頭のフケから下半身の糞尿屁まで、人間の肉体の出物、腫れ物が発するメッセージの解読法をお伝えしてきた。最後に、肉体が発する出物の一種に「気」があることも、告げておかなくてはならない。

 人間の肉体は、起きている時も寝ている時も、肺呼吸や皮膚呼吸で宇宙の「気」を吸収している一方で、肉体そのものから宇宙性の「気」を出している。それは、「気」という目に見えない触手であり、霊的波長のようなものでもあり、悟り、勘、ひらめき、あるいは気力、元気であったりもする。

 私たち人間の肉体は、宇宙の「気」の吸収体であると同時に、放射体であるというわけだ。

 そして、この「気」というものは、天地宇宙に遍満するもので、万物の生命の根源。人間の肉体も、そのまま小宇宙、小天地であり、宇宙天地大自然と同じ「気」によって支配されている。

 だからこそ、「気」というものは、人間の心身の健康ばかりでなく、すべての営みにかかわっているのである。

 病気とは、読んで字のごとく「気」が病んでいることにほかならない。「気」が弱っていれば、肉体も弱っていることになる。悲しみや怒りが肉体の内にたまると「気」を弱め、精神や肉体に悪影響をおよぼすのである。

 十七万六千余の種類があるという人間の病気、そのほとんどは生命の根源である「気」が不順、不調だったり、宇宙大自然の「気」を受けることを知らないために、肉体までてきめんにむしばまれ、衰弱してしまう結果起こるのである。

 なぜなら、人間は宇宙空間を満たす「気」によって生かされているのであり、人間の体の中の諸器官は、すべて「気」によって働かされている。この「気」から作られる自然のエネルギーは、肉体を驚くほど充実させるものである。

 宇宙の「気」は、肉体が正常な機能の営みを続けるために欠かせないものなのに、その「気」を養うことを知らず、気力の乏しい人には、生命の根源である元気が湧いてこない。とどのつまり、肉体までむしばまれることにもなる。

 病は「気」からが科学であることは、現代心身医学の新しい脳神経やホルモン生理学の理論によって立証されている。肉体を信じ、肉体を主として生きれば、肉体が精神を調節し「気」を統御するから、自然に病気にかからなくなるし、自然治癒力も高められるのである。

 しかしながら、病気かどうかを決めるのは、本当は肉体なのに、人間は自己意識や心で勝手気ままな想像をして、まさに病は「気」からのことわざの通り、自分で病気を作り出してしまうものである。

 例えば、昔からよく経験するところでは、心労が重なると大病を招きやすいこと、受験生が風邪を引きやすいこと、憎しみなどが心筋梗塞(こうそく)に陥りやすくすること、抑うつ状態はガンの進行を速めること、孤独な人間は早く死ぬことなどがある。

●「気」は生命を持続させるエネルギー

 病は「気」から、つまり「気」の持ち方によって、人間は肉体の病気や、心疾という精神の病気にかかる。逆に、気性が明るいといった体質、楽しい気質を作るように心掛けることが、体を丈夫にし、病気から守るための有力な武器となることは論を待たない。

 「嫌だなあ、今日は気分が悪いなあ」と思うと、その思いによって体の調子は悪くなり、仕事の能率も低下する。このように、物を嫌うということが病気の原因となることがある。物は者であっても同じことである。

 最近は、医学でも、心理作用が病気を作ったり、病気の回復や治療によい影響を与える例をいくつも挙げている。

 健康と長寿のカギは、私たちの日常の何でもない生活の中に潜んでいる。「私は病気だ」と常々いっている人は、その言葉で病気が招き寄せられ、その人の体に巣づくようにもなる。

 人間が病気になるのは、宇宙の「気」が充実されないために生命活動が不調になることであるが、その原因には、病原菌も、肉体の欠陥も、心の悩みもある。不安や不満、憎悪や嫉妬(しっと)といったものに捕らわれ続けると、心の影響を受けやすい自律神経やホルモンは正常な働きができなくなる。結果的には、体の恒常性が失われ、神経性の病気になる。それがさらに重なれば、確実に肉体の病気としかいえない状態にまで落ち込んでしまう。

 これを防ぐには、疲れたら休むというエネルギーの転換法を実行することだ。

 疲れたら休んで生命の「気」を養い、体の中の圧力を除くことがよい。肉体の圧力は、それがたとえ微弱なものであっても、度重なって加えられることによりたまると、機能障害や病気の原因になる。

 圧力は、なるべく小さいうちに取り除かなければならない。吐息をつくとか、アクビをするとか、放屁をするとか、背筋を伸ばすとか、これらもすべて肉体が自然に行う圧力の解消作用である。この肉体にはおのずから、自然のリズム、原則があり、こうしないといけないという規則があるから、それを活用して病気を防ぐのである。

 それが可能なのは、人間の肉体というものが、「気」エネルギーを出せば出すほど、使えば使うほど多く出るようになる、汲(く)めども尽きぬ泉であるからこそである。

 この点、「気」エネルギーの再生産力の持ち主、いわゆるエネルギッシュな活動家は、決して無駄で余計な意識や感情を使うことなく、明るい「気」を振りまきながら仕事に取り組んでいる人である。昼間は、精力的に自分の持てるエネルギーを使い切る。もちろん仕事で疲労するが、そういう活動家は一晩ぐっすり寝ると、疲労そのものを翌日のエネルギーに変換できるのである。

 誰もが「気」を入れ替え、気力を充実させるために、夜はできるだけ早く寝て、「気」を養うことに努めよう。せっかくの休日に遊びほうけ、疲れ果てて病気を招くなどは愚の骨頂と知るべきである。

 睡眠は単なる休養ではない。夜、眠っている間に、人間を生かし働かせている宇宙と一体となり、宇宙エネルギーを肉体エネルギーにも、精神エネルギーにも変換している。疲労そのものがエネルギーに変わり、肉体バッテリーは充電し、明日の活力となる。

 編集子のいう「気」という宇宙エネルギーが、肉体バッテリーに蓄積される場所は、腹の底にある。この腹の底の層に蓄えられた「気」は、宇宙エネルギーそのものであるから、大いに活用できるわけだ。

 下半身の他力層の喚起によって、肉体一色の生かされの生命エネルギーを吸収して、「気」を常に充満させておくことが大切。人間心という意識で肉体を酷使する生活ではなく、眠りによって体に「気」を充実させ、肉体の自然作用、自然感覚の高揚を目指さねばならないことを強調しておこう。

🟧国内の新型コロナ感染者、新たに1万4809人確認 3カ月ぶり2万人下回る

 新型コロナウイルスの国内感染者は3日午後7時30分現在、新たに1万4809人が確認されました。前週の同じ曜日(9月26日)より2万8826人少なくなりました。新規感染者が2万人を下回るのは7月4日以来、約3カ月ぶり。死者は全国で66人でした。

 都道府県別で新たな感染者が最も多かったのは東京都の1673人。次いで神奈川県の1265人、大阪府の925人、広島県の850人、北海道の835人、茨城県の692人でした。

 また、新型コロナウイルスへの感染が確認された人で人工呼吸器か体外式膜型人工肺(ECMO<エクモ>)をつけたり集中治療室などで治療を受けたりしている重症者は、3日時点で162人となっています。

 厚生労働省によりますと、9月29日に行われた自主検査を除くPCR検査などの数は、速報値で5万2897件でした。

 一方、厚生労働省は3日、大阪府内で新たに925人が新型コロナウイルスに感染していることを確認したと発表しました。これで大阪府内の感染者の累計は210万1721人となりました。

 また、9人の死亡が発表され、府内で感染して亡くなった人は、合わせて6456人となりました。

 重症者は27人となっています。

 2022年10月3日(月)

2022/10/03

🟧東京都で1673人が新型コロナに感染 1000人台は6月27日以来

 東京都は3日、都内で新たに1673人が新型コロナウイルスに感染していることを確認したと発表しました。

 1000人台となったのは今年6月27日以来。1週間前の月曜日より4643人減り、6日連続で1週間前を下回りました。直近1週間の平均新規感染者は4085人で、前週から35%減りました。 

 新規感染者は20歳未満が最も多くなっており、416人と全体の25%になっています。20歳代が321人、40歳代が297人と続き、65歳以上は87人です。

 また、人工呼吸器か体外式膜型人工肺(ECMO<エクモ>)を使っている重症の患者は2日より1人増えて、14人でした。

 一方、感染が確認された60歳代から100歳以上までの男女11人が死亡しました。

 2022年10月3日(月)

🟧女性3人のコロナワクチン接種装い委託料詐取か 警視庁が医師を再逮捕

 東京都北区のクリニックの院長が新型コロナウイルスのワクチンを接種したように装い、自治体から委託料をだまし取ったなどとして逮捕された事件で、警視庁は院長が愛知県の女性3人にも接種したように装って、自治体から委託料をだまし取ったとして再逮捕しました。

 東京都北区の「王子北口内科クリニック」の院長で医師の船木威徳容疑者(51)は、札幌市の母子3人に新型コロナウイルスのワクチンを接種したように装い、市から業務委託料をだまし取ったとして9月、逮捕・起訴されました。

 その後の警視庁の調べで、院長が昨年9月、愛知県稲沢市に住む母親と娘2人の3人にもワクチンを接種したように装って、うその予診票を作成し、市から計約1万4000円の業務委託料をだまし取り、同市経由で国のワクチン接種記録システムに虚偽の情報を入力させた疑いがあるとして、3日、詐欺と公電磁的記録不正作出・同供用の疑いで再逮捕しました。

 母親の求めに応じて院長が接種を装っていたとみられるということです。警視庁によると、院長と40歳代の母親は数年前に投資セミナーで知り合い、いずれもワクチン接種に反対の立場でした。母親は「人体に悪影響を及ぼすと思った。(受けたことにしないと)不利益が生じると考えた」と話しています。

 調べに対し院長は「今、話すことはありません」と供述しているということです。

 この事件では、院長が警視庁の調べに対し「ワクチンは危険だと思い、接種を希望する人に生理食塩水を打ったこともある」という趣旨の供述をしていて、警視庁は院長の評判が知人などを通じて広がり、依頼を受けて接種偽装を繰り返していた可能性があるとみて調べています。クリニックでは約230人に接種した記録があるといいます。

 2022年10月3日(月)

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